昼間だというのに、人払いのされた辺りはしんと静まり返っていた。
障子を開ける音や衣擦れの音が、いつになく耳に大きく聞こえる。
「お呼びにございますか、上様」
「おお、待っておったぞ。さぁ、早う近う寄れ」
嬉しそうな表情を浮かべた家定が、自らの向かいを目で示した。
「いかがなさったのです?」
火鉢の前に座した篤姫は、何かを企んでいそうな家定の含み笑いに首を傾げる。
「そちに見せたいものがあってな」
「私に…?」
後ろ手に何かを隠し愉しげな家定を前に、何が飛び出すやらと篤姫が身構える。
それー、と弾んだ声と共に差し出されたのは、小振りな盆である。
「っ……え?」
目を閉じかけていた篤姫は、その上に載せられたものをキョトンと見詰めた。
緑の耳と赤い目を持った白兎の愛らしさに、あっという間に口許が綻ぶ。
「夫婦の兎にございますね」
「鼠と違って、相撲が好きかどうかは知らぬがな。どうじゃ、良く出来ておろう?」
「はい! 可愛らしゅうございます、とっても」
こくんと頷いた篤姫は、満足そうな顔で盆を持つ家定の手が赤くなっているのに気がついた。
「もしや、上様がお作りに?」
「そうだが」
「まぁ、風邪でもお召しになられたら…」
慌てて盆を取り上げて家定の手に触れると、案の定冷え切っている。
「せっかく積もったのじゃ、雪遊びをしないでどうする」
「いけません。こんなに冷たくなって…本当にお体に障ります」
「つまらぬのう、そちまで堅いことを言う」
夫の体を案じる篤姫に、火鉢に手を翳しながら、家定は落胆した様子で肩を落とす。
「喜ぶと思うたのに、小言を言うか、そちは」
「お気持ちは嬉しゅうございます、もちろん! ですが…」
上様が心配で、と顔を曇らせる篤姫と、拗ねた表情をした家定。
目を合わせると、互いの表情にやがてどちらも堪えきれずに相好を崩した。
「上様には敵いませぬ」
それはこっちの科白じゃ、と言い返す家定の笑い声を聞きながら、篤姫は
僅かに体の大きな方の兎のの片耳を、指先で軽く突いた。
「――溶けてきたか」
「折角作って下さったのに」
「構わぬ、いずれは溶けてなくなるのだ」
「でも…」
篤姫が火鉢から遠ざけようとした盆を、家定が手を伸ばして引き寄せる。
火鉢からの熱も手伝って、二つの真白い胴体が徐々に半透明になっていく。
少しずつ広がっていく水溜りに、家定がおもむろに指を浸した。
「羨ましいではないか」
「え……?」
その寂し気な響きに顔を上げた篤姫は、家定の眼差しに浮かんだ憂いに息を詰めた。
「こうして溶けて、――共に消えてなくなる」
「上様」
「寂しくはなかろう」
家定の指先から落ちた一滴が、盆の中で小さな波紋を作った。
「私が…っ」
それ以上聞きたくないと、篤姫は家定に膝行り寄って首を振る。
絞りだすように、言葉を吐き出す。
「私がお傍におります…!」
畳についた片手が、微かに震えた。
「ずっとお傍に」
「ずっと、のう」
「嫌だと仰っても離れませぬ」
駄々を捏ねる子どものようじゃと、家定は苦笑いを浮かべて篤姫の頬を撫でた。
「……そうか、離れぬか」
頷く篤姫の体を引き寄せて、離れぬか、と家定は確かめるようにもう一度呟く。
家定の背にしがみつくように腕を回して、篤姫は何度も頷いた。
これ以上は声が詰まりそうで、熱くなる目元を家定の胸に額をつけて隠す。
「こうしておると、温かいのう」
――そちが居れば火鉢など要らぬな
笑って言う震えた声を誤魔化すように、篤姫を抱く腕が強くなる。
盆の中にできた小さな池が、じわりと大きくなった。
寄り添い合う夫婦の兎が、ゆっくりと静かに溶けていく。