「公方さま…」  
 
通り掛かった部屋から漏れ聞こえた小さな声に思わず足を止めた。  
か弱く小さな声なれど優しく暖かいそれは、間違いなく天璋院のものだ。  
これまで長く想い慕ってきたあの方のお声を家茂が違うことなどありえるはずもない。  
侍女の誰かと自分の話でもしているのだろうか、それにしてはこんなところで…  
その部屋は天璋院の部屋からは余程遠く、日当たりはよいがごく小さな座敷であった。  
自分のことを話題にされておられるなら、お声を掛けるべきか掛けずにおくべきか…  
このような場所でお話されているということはやはり内密なお話なのかもしれぬ…  
そう思い、知らぬ振りで立ち去ろうと思ったが、自分に関する内密な話と言うものはやはり気になるもので、理性に反して足がその場から動かずにいた。  
どうしたものかと思っていると、襖の向こうでまた小さな声がした。  
 
「…公方さま…」  
 
その声は、いつも掛けてくださる優しいそれよりも格段と慈愛に満ち溢れているようで、どきりと胸が高鳴った。  
それにしても会話をしている様子が一向に感じられない。もしも天璋院がひとりで自分の名前を呟いているのだとしたら…  
あまりに都合のいい想像だとは思いながらも、家茂は少しの期待をしつつ、中を伺うようにそっと襖をわずかに開いた。  
 
中を覗き見ると、そこには柔らかな光の差し込む縁側の近くに座り、首だけを庭を向けてひとり佇んでいる天璋院の  
姿があった。  
夕焼けに近い刻限の温かい陽射しに照らされた横顔は、少し愁いを帯びているかのようでその美しさをいっそう引き立てていた。  
どのくらいの間だろう、声を掛けることもできぬまま見とれてしまっていた。  
遠くを見ていた瞳が長い睫毛に縁取られた瞼によってゆっくりと隠される。綺麗な弧を描く眦から、ぽろりと涙が生まれると、丸い頬を滑って落ちていった。  
果実のように丸く紅い唇が微かに動く。  
消え入りそうに小さな呟き。  
「うえさま…」  
そこでようやく家茂は気付いた。  
天璋院の言っていた「公方さま」とは、自分のことではなく亡き先代様、つまりは天璋院の夫であった家定公のことだということに。  
考えてみればごく当たり前なことだ。ただ自分が一方的に懸想しているだけのことであって、天璋院が自分の名前を呟く理由などどこにもありはしない。  
それでも落胆してしまう気持ちと同時に、ちり、と胸が痛む。  
(まだそんなにも、あの方のことを想っていらっしゃるのですね…)  
僅かに震える肩は普段の気丈な様子からは想像もつかないほどなだらかで小さい。  
(その肩をわたくしが支えて差し上げたい…)  
家茂はそう切に願わざるをえなかった。  
「母上さま」  
廊下で居住まいを正して、そっと声をかける。  
中からの少し慌てたような「…っ、はい」という返事を確認して、大きく襖を開けた。  
 
「どうしたのですか?いきなり…」  
驚いている様子の天璋院に涙の跡はない。きっと急いで拭ったのだろう、かわりに目元が少し朱くなっていた。  
「宮さまのところへ向かう途中に通り掛かりましたところ、襖の隙間から母上のお姿が見えましたもので」  
先程見たことは伏せて、偶然なのだと装った。  
「こんなところで、何をしておいでだったのですか?」  
そう尋ねると、天璋院は少し思案するように目線を走らせると、静かに笑った。  
「上さまは和宮さまとはいかがお過ごしなのですか?少しはお慣れになられましたでしょうか?」  
「…はい…当初はわだかまりというか、双方に戸惑いなどもありましたが、近頃は宮さまもだいぶ笑顔を見せていただけるようになりました」  
「そうですか、それはようございました」  
にっこりと微笑む天璋院に、家茂は意図がわからず戸惑うばかりだ。  
「ここは、亡き上さまとの思い出の場所なのです。上さまの生前のご評判はご存知ですよね?」  
「はい…い、いえ!」  
素直に返事をしてしまい、慌てて言い噤む。家定公のご評判といえばあまり良いものではないことが殆どであるからだ。  
「よいのです。御しようもないうつけ、そうお聞きなのでしょう?」  
夫への悪評だというのに、天璋院はからからと笑いながらどこか楽しそうだ。  
先代家定の噂ともつかぬ評判は遠く紀州でも十分過ぎるほど耳に入って来た。  
初めての謁見のときは、そんな噂が頭から離れず、緊張を倍のものにしたことを覚えている。  
しかし、幾度かお顔を拝見するうちに、家茂には家定ががただのうつけには思えなくなっていた。  
ほんの一瞬見せた鋭い眼光、あれが本来の家定だとしたら…  
常々思っていた家定に対する疑問を家茂は正直に天璋院にぶつけた。  
すると天璋院は少し目を丸くし、そしてゆっくりと微笑んだ。  
「そうですか…やはり上さまはご聡明でいらっしゃいますね」  
「やはり、と申しますと」  
「わたくしも疑問に感じたのです。そしていつしか見せてくださった上さまの素顔は、噂とは正反対でいらっしゃいました」  
天璋院は縁側の向こうに広がる空を眺めた。  
「聡く、賢い、そして優しいお方でした。  
わたくしが薩摩から輿入れしたのは義父の命でしたから、お子を作る気はないと言われたときはそれは哀しかったものです。  
でも、少しづつ歩み寄れたときは本当に嬉しゅうございました。  
必要としていただけたときは、天にも上るような気持ちでした」  
愛おしそうな表情で語る天璋院を、家茂は複雑な心境で見守る。  
胸が、嫉妬で張り裂けそうになる、でもそんな表情の天璋院を綺麗だと思ったのも確かだった。  
 
「わたくしの幼い頃の夢、笑わずに聞いていただけますか?」  
「もちろんです」  
「日本一の男の妻になること」  
「母上は夢を叶えられたのですね」  
そう言うと、天璋院はうれしそうに笑った。  
胸が痛む。私とて頼りないかもしれないが権威の上では日本一の男だというのに。  
私がもう少し早く生まれていれば、母上のお相手は私であったのだろうか。  
そうすれば、母上は私を慕ってくれたのだろうか。  
時を恨んでも仕方がないと知りつつも、そう思う気持ちを止めることができない。  
今とて、少し腕を伸ばせば触れることのできる場所にいる。  
無防備なその肩を抱き寄せて包み込んでしまいたい。  
白くすんなりとした小さな手に触れてみたい。  
そして出来ることならその滑らかな頬に触れ、甘美な誘惑を振り撒く愛い唇を吸ってしまいたい。  
今までとて幾度その誘惑に堪えたことかしれない。  
意識してしまうともう止まらない。  
天璋院の小さな動き全てが家茂をくらくらとさせた。  
「上さま…?」  
天璋院の怪訝そうな問い掛けに、家茂ははっと気を戻した。  
「申し訳ございません、母上があまりにお幸せそうな顔をなさるので、なんだかうらやましゅうなってしまいました」  
「なにをおっしゃいます、あなたさまもこれからお作りになればよいのです。宮さまと。あなたさまなら直ぐにでも出来ましょう」  
天璋院の言葉が家茂の胸に突き刺さる。  
一生隠し通さなければならない想いとわかっていながらも、お慕いしているお方に別の誰かとの幸福を願われる。こんなに酷なことがあるだろうか。  
「亡き上さまは生前こう言っておられました。『家族を守りたい』と。  
あなたさまと家定さまは義理とはいえど父と子、あなたさまにお輿入れされた宮さまも上さまとわたくしの家族にございます。  
わたくしは上さまの願いを叶えたいのです」  
 
天璋院は膝を心持ち縁側のほうへ向けると、真っ直ぐに空を仰ぎ見た。  
そして微笑む。まるでそこに愛しいものが居るかのように。  
もしかしたらそこに本物の家定公が居るのではないか、そう思わせるほどに綺麗に。  
しかしほんの少しの愁いを滲ませながら。  
家茂はそんな天璋院をただただ見つめる。  
その美しさに声も掛けられぬまま、それでもどうかこちらを向いてくださいと願う。  
家茂が彼女に声を掛けるには『母上』と呼ばねばならない。  
しかし、本当は母上などと一度足りとて思ったことはない。  
それでも母上と呼んでいるのは、そう呼べば嬉しそうにしてくださるからだ。  
だから自分はそれ以外の呼び方を持たない。  
けれど今はどうしても『母上』とは呼びたくない気分だった。  
『母上』と呼んでいるかぎり、その手を取ることはかなわない。  
今だってこんなにも、その衣紋から覗く透き通るような首筋に吸い付いてしまいたいと懸想しているのに。  
純粋な想いはすぐに乱暴な欲望へとすりかわる。  
それほどまでにこの人を欲して居るかと思うと、情けないような複雑な気分に立たされた。  
このまま引き寄せて、この腕に抱き込んでしまったら、この方はどんな顔をなさるのだろうか?  
そのまま頬を撫でて、そっと唇を吸い、裾を分け入ってきっと柔らかくすべすべとした太股をさすって…  
そうしたら少女のように恥じらうのだろうか、それとも熱い息を漏らし身を震わせる…?  
ふらふらと、無意識に手が延びそうになる。  
匂い立つように誘惑を振り撒くそのうなじにもう少しでたどり着く。そうしたらあとはもう…  
 
「…えさま、上さま?」  
 
怪訝そうなその声に驚いて家茂ははっと意識を取り戻した。  
見ると天璋院が心配そうにこちらを伺っている。  
急に自分がなにをしようとしていたのか我に返り、血の気が引くかのように寒気立った。  
どうやら未遂で済んだようだ。  
そんな様子を見てか、天璋院はなおも心配そうに顔を覗きこんでくる。  
「どこか体調でも優れぬのですか?」  
今までにない顔の近さに、思わず家茂は後退りした。  
「い、いえっ何でもないのですっ」  
「しかし、先程からぼうっとされたり、今もお顔が朱うございます。念のため医者でも…」  
「いえっ、ほんとうに何でもないのです。お心づかい有難うございます」  
気取られないようにと、懸命に平静を装う。  
天璋院はしばらく納得がいかないようだったが、どうにか医者を呼ぶことは諦めてくれたようだった。  
「それにしても、宮さまのところへ向かう途中だったとお伺いしましたが、お時間はよろしいのですか?」  
「よいのです。母上ともゆっくりお話したいと思っておりましたので」  
そう言うと天璋院は少し眉を潜めた。  
「上さま?母などではなく、宮さまのことを第一に考えてあげてくださいませ。宮さまもきっとお寂しゅうしておられることと存じます」  
またもズキリと胸が痛む。  
(私がなにより優先したいのは、他の誰でもなく目の前の貴方だというのに…)  
それでもそれが彼女の望みなら、それで笑ってくださるのならば、家茂は笑ってそれに従うのだ。  
「早く、宮さまのもとへ行って差し上げてください。きっと心配されておられますでしょうから」  
微笑み促す母に  
「はい」  
と精一杯の笑みで返事をすると、家茂は席を立った。  
襖を閉めるぎりぎりまで、愛しい方から目を離さぬままに。  
 
 
そうして廊下に戻ったものの、行くにも戻るにも足が進まない。  
(さて、これをどうしたものか…)  
熱の集まり、頭を擡げた下半身をどうすることもできず、途方に暮れる家茂であった。  
 

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