今から1年ほど前の、帝から東へ下る命を受け   
 たあの日に始まった絶望と悲しみの日々から、  
ようやく少しだけ心が軽くなったような気がい  
たします。  
その日から、涙することあれど、笑うことなど  
ございませんでした。  
日本国のために、身を切られるような思いで熾  
 仁さんを諦め、臣下である武家に嫁ぎ、見知  
らぬ東に下ることを、己の運命を捨てる覚悟で  
受け入れました。  
そこにはこの先の希望や夢を見出すことはござ  
いません、増してや見知らぬ野蛮な東の荒武者代官に嫁ぐことに、  
心ときめくことなどありま  
しょうや。  
 
ただただ、帝の命に従い、この国のため、という己の身を呈した使命感のみを心の支えとし、  
中山道を下ってまいりました。  
日本国のためという崇高な使命感と都人として  
の誇りを心の支えとしておりましても、  
気持のどこかで、夫となる見ず知らずの代官に  
たいする不安を消すことはできずにおりました  
。野蛮で荒々しいと聞く東国武士への恐怖と  
不安が常に心のどこかにございました。  
御所の暮らしとは全く風情を異にする江戸城内  
の全てに、この先の暮らし向きに対する漠然と  
した不安の波に襲われましたが、  
いよいよ代官との対面の時を迎え、高まる不安  
を抑えることは出来ませんでした。絶望に苛ま  
れた悲しみはは熾仁さんとのお別れで充分、身  
分の低い野蛮な野武士が夫となる悲しみや屈辱  
にこれ以上は耐えらまい、何も考えずに対峙す  
る、ということを心に決めました。  
 
そうはいえ、蛇とも鬼とも言われる野蛮な代官  
に相対する瞬間に走る緊張と恐怖は口では言い  
表せないほどで顔を上げられませんでしたが…。  
落ちついた張りのあるお声が耳に届き、しかし  
長旅への労りのお言葉の口調がとても柔らかく  
優しく、驚きのあまり思わず顔を上げた視線の  
向こうに見たものは、眉涼やかで堂々とした、  
気品のあるお姿、鬼や蛇を覚悟していた私はい  
っぺんに体の力が抜けてしまうようでした。  
まっすぐに私に向けられたその方のお優しい眼  
差しが眩しすぎ、思わずうつむいて、ろくろく  
言葉も買わせず初めての対面を終えました。こ  
の方のお声、お姿、お言葉に触れた瞬間から、  
臣下である武家に屈すまいという、自分の心の  
拠り所としていた宮家の誇りに反して、この方  
を意識する自分に戸惑い、複雑で悶々とした  
日々が過ぎて行きました。そしてその戸惑いを  
抱えたまま、婚儀の日を迎えました。  
 
盛装の  
あの方のお姿が、あまりにりりしく、初めてお目  
にかかった時よりも一層光り輝いておいででし  
た。お言葉をかけられ、視線を向けられるのが  
恥ずかしく、そして恐ろしく、ただ前を見てい  
るだけの私でした。婚儀の夜、白絹の夜着でひ  
れ伏したまま、その方をお迎えしたのは、その  
日まで抱えていた戸惑いが頂点に達した瞬間で  
もありました。ついに二人きりとなり、どのよ  
うに対峙してよいものか、心臓の高鳴りが聞こ  
えてしまうのではないかというほど緊張が走り、  
あの方の視線やお言葉に耐えられるのか、そし  
て、私のことを気に入ってくださるのか、そん  
なことを思う自分は、この方をとても意識して  
いるのだ、惹かれているのだ、とはっきりわか  
りました。  
 
それだけに、自分でどうしてよいのか、この方  
とどのように言葉を交わしてよいのかわからず、  
不安と緊張と恥ずかしさのあまり、ただうつむ  
いてその時が過ぎるのを待つしかございません  
でした。ふと、その時あの方の手がそっと延び  
私の手に重なりましたが、私は恥ずかしさと戸  
惑い、驚きで、思わずその手から逃げてしまい  
ました。寝所の横にふすま一枚隔てて、6人も  
のお付人が控えていたこと抵抗を感じていまし  
た。 あの方が嫌で受け入れなかったわけでは  
ございません。そしてそれを口にすら出来ない  
ほど、緊張しておりました。私が拒絶したこと  
で、あの方は苦渋と失望の表情を浮かべられ、  
それ以上私に手をお出しになることはございま  
せんでした。  
 
「…お疲れのご様子、今宵はゆるりとお休みく  
ださいませ、宮様」と寂しそうに微笑まれ、そ  
のままお休みになられました。  
 
あの方のお優しさに胸が痛み、意に反して拒絶  
してしまった自分に、泣きたいような気持で、  
私も床につきました。このような状態では、も  
うどうして良いかわかりません、悶々とした気  
持で翌朝を迎え、仏間でのご対面もただ黙って  
お辞儀するより他、ございませんでした。おた  
あさんや庭田らは、身分の違いをわきまえ、都  
人の誇りを失わず、たとえ将軍であっても臣下  
には変わらず。江戸方とは親しく交わらず毅然  
とするように、常々言い聞かされておりました  
ので、私が素っ気無く相対する様子を、満足そ  
うにご覧になっておいででした。しかし私の心  
の中は、面差し優しくりんとしてご立派で気品  
のあるあの方を、殿方として意識し、どのよう  
に応じたらよいのか、ましてや夜のお渡りのと  
きに、言葉を交わすなどと、自分にそのような  
勇気があるのか、想像するだけで、胸の鼓動が  
高鳴り、しかし婚儀を終えて夫婦となったにも  
かかわらず、いつまでこの膠着状態が続くのか、  
悶々とした時間に苦しむのでした。  
 
そんな状態が2晩続き、3日目の昼中に、天璋  
院が訪ねて来て、懐にいれて寝所に持ち刀物を  
出せと申す。刃物…。全く身に憶えなくとても  
驚いた。私が寝所で上様をお待ちする間に髪を直す為の手鏡のことか。しかし。。寝所でのあれ  
これがつまびらか伝わっていく、いったい江戸  
方の大奥とは、いかなるところなのか、呆れる  
ばかりであった。  
 
江戸城大奥の将軍の寝所で起こることは、すべ  
て外から確認されている、ということなのか…。  
 
呆然としていると、突然、天璋院が「刃物を見  
せよ」と私の懐に掴みかかった。もみ合いにな  
り、手鏡が、するりと落ちた。自分の気持の中を大人達に覗かれたようで、そして気持を知っ  
てほしい方にはうまく伝えられず…もう泣きた  
い気分であった。  
 
その晩、再びお渡りとのこと、もうこれ以上、  
悶々とした気持を続けることに疲れていた、今  
日こそはうつむいているだけではなく、もし愛  
の囁きがあれば何とかして応えたい、  
 
ちいさな決意を込めて、寝所に向った。暗い寝  
所ではなくて、満月の月明かりで髪を直そうと、  
渡り廊下で立ち止まり手鏡を取り出した。今日  
こそは。。。手鏡の中の自分に言い聞かせ鈴の廊  
下を進み、寝所のふすまをくぐると、今日はあ  
の方のお付きが誰もいない。ふと前方に目をや  
り、あの方の姿を認め、私は心臓が止まるかと  
思うほど驚き、再び緊張が走る。 そして…。   
 
公武合体の道具としてだけではなく、妻として  
幸せにしたいというお言葉に、これでもう、こ  
の方とどうやって気持を通じ合わせようか、悩  
まなくてもいいのだ、という安堵感と解放感か  
ら、涙が出そうになり、気持が解き放たれてい  
くのを実感した。その先に起こったことは、全  
て初めてのことで、教えられていた以上の痛み  
もあったけれど、お付きも誰もいない、私とこ  
の方だけしかいない安心感から、全て従いお任  
せした。それでも恥ずかしさは拭い去れず顔を  
覆うより他なかったが、その時でも、痛みはな  
いか、辛くはないか、とお優しくいたわって下  
さり、とても守られているような気持がした。  
そして昨日もおとといもこの方を受け入れなか  
った罪悪感にも似た気持からも解放されて、満  
たされた気持ちでまどろみながら眠りに落ちた。  
 
 
翌朝はとても穏やかな気持で、仏間の公方様と  
共に、代々徳川将軍の御仏に手を合わせること  
が出来た。 昨夜の痛みと鮮血はまだ少し残っ  
ているが、それがこの方から刻まれた愛の証の  
ようだ、と葵のご紋を羽織る背中を見つめなが 
ら思った。 たった一晩だけで、この方の妻に  
なった、徳川の人間になった、という実感はま  
だない。ただ、気持が通じ合ったことで温かな  
気持をかみ締めている。 降嫁の命を受け嘆き  
悲しんだ日からずっと忘れていたような気持だ。  
この方となら、日本国のために共に尽くして手  
を取り合っていけそうだ。  
 
東の国へ涙と共に落ちて行く来し方であったが、  
その先にこの方がお待ちだったとは。人の道は  
生きてみなければ分からぬこと。御所にいたと  
きの自分から少しだけ強くなった気がしている。  
 
 

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