夫婦で花を愛でていると、和宮がふと歌を口ずさんだ。  
 
 
「宮は歌がお上手ですね」  
 
 
家茂が感嘆したように言う。  
彼ももちろん教養として歌の知識はあるが、妻のそれはさすが都人というべきか、情緒とはかなさを含んだ素晴らしい歌だった。  
 
 
「教わった方が素晴らしかったのです」  
「どなたに教わったのですか?」  
「熾仁さんという方です」  
 
 
言葉少なに和宮は返した。  
 
 
「そうですか…そのように美しい歌をお授けになるなんて、きっと素晴らしい方だったのでしょうね」  
 
 
その家茂の言葉に、和宮は曖昧に微笑むだけだった。  
 
 
翌日。  
 
 
天璋院への用向きが済んだあと、一目でも妻に会いたくて和宮の御殿に向かった家茂を待っていたのは、観行院だった。  
 
 
和宮は庭の方にいるらしく、いまお呼びして参りますと言って女官の一人が出ていった。  
やむをえず観行院と対面せざるを得なくなった家茂は、会話のきっかけになればと思い何の気無しに昨日和宮から聞いた名前を口に出したのである。  
 
「京には素晴らしい歌のご指南役がいらっしゃるのですね。熾仁殿とおっしゃるとか…わたしもあやかりたいものです」  
 
 
観行院の眉がぴくりと動いた。  
 
 
「それは宮さんが仰せになったのですか」  
「ええ、昨日…」  
 
 
そう言葉を返した途端、突然観行院がわっと地面に臥して泣き出した。  
 
 
「おかわいそうな宮さん…!やはり、やはり熾仁親王のことが忘れられないのや」  
「え?」  
 
 
思わず聞き返す家茂に、観行院はきっとするどい視線を向けた。  
 
 
「宮さんにはご幼少のころより許婚がおられました。それが熾仁親王です。  
帝のご信頼も厚いご立派な方で宮さんは大層お慕いしておられました。  
熾仁親王はお歌の名手で、宮さんにもよく教えられておったのです。  
 
 
関東に下ることが決まったときの、宮さんのお歎きと言ったら…!今思い出しても涙が出る。  
なにより、熾仁親王とお別れになるのが辛いご様子でした。  
それはそうでしょう。他の方に嫁ぐなど夢にも思っていなかったでしょうから。しかも武蔵の国など…!」  
 
後半の言葉は耳に入ってなかった。  
ただひたすら、昨日熾仁の名前を出したときの和宮の様子が思い出される。  
 
 
どこか遠くを見ているような、はかない微笑み。  
 
 
彼女に許婚がいたことは知っていた。老中たちがその話を無理矢理なかったことにして降嫁を実現させたことも。  
しかし、そこまで心を許した間柄だったとは思っていなかった。  
彼女の心の奥に初めて入り込むことが出来たのは自分だと自負していたのに。ただの驕りだったのか。  
 
 
「上さん」  
 
 
愛しい声に、はっと気付く。見ると、妻がうれしそうに部屋に入って来た。  
 
 
「上さん、お待たせして申し訳ありませんでした」  
 
 
―――そのうれしそうな顔も、自分だけのものだと思っていた。  
しかし、違った。熾仁にも見せていたのだ…―――  
 
 
「……上さん?どうされたのです?」  
 
 
ぼうっとしていたらしい。心配そうに和宮がこちらを見上げていた。  
 
 
「お疲れなのですか?」  
「いえ…大丈夫です。しかしそろそろ表に戻らなくては」  
「もう行ってしまわれるのですね…」  
 
 
和宮が寂しそうにつぶやく。いつもならその姿に愛しさが溢れて苦しくなるほどなのに、今は胸の中がもやもやしていた。  
 
 
「では、失礼」  
 
 
どこかそっけなくそう言って去っていく夫を、和宮は訝しげに見つめていた。  
 
 
お渡りが、ない。  
 
 
この七日、将軍の御台所へのお渡りが一度もなかった。  
お渡りが許されない歴代将軍の月命日以外は、ほとんど毎日と言っていいほど御台の元で夜を過ごしていたあの将軍が。  
そればかりか、昼間に御台の元を訪れることもまったくなかった。こんなことは和宮が嫁いでから初めてのことだ。  
 
 
初めは、政務がお忙しいのであろうと和宮は思っていた。  
しかし八日、九日と時が過ぎ、さらには家茂が天璋院の元へは挨拶伺いに顔を出していると聞き、初めて不安になった。  
天璋院の元へ行っているということは、大奥に足を向けられないほど忙しいわけではないということだ。  
なぜ、こちらにいらっしゃらないのであろう?  
 
 
朝、仏間で顔を合わせても何も言わず去ってしまう。  
さりとて、こちらから声をかけるわけにもいかない。  
女人から殿方に声をかけるなど、そんな、はしたない。  
 
嫁いで以来、これほど家茂と会話をしないのは初めてで、和宮は鬱々としていた。  
思い出すのは、家茂の笑顔。優しいぬくもり。  
涙がにじんできた。もう自分のことなどどうでもよくなったのであろうか。気に入りの妾でも出来たのであろうか。  
こんな、気位ばかり高い自分よりよほど可愛いげのあるおなごが。  
 
 
「宮さん…」  
 
 
観行院がそっと御簾内に入って来た。  
和宮はとっさに袖で顔を隠したが、涙で濡れた頬を観行院は見逃さなかった。  
 
 
「宮さん、すみませぬ。お渡りがないのは、もしやあれが原因かも」  
「おたあさん…?」  
 
 
観行院は娘に、十日前家茂と話したことを伝えた。熾仁のこと、別れの際の和宮の涙のこと。  
 
 
和宮は驚きに目を見開いた。  
 
 
「おたあさん!どうしてそないなことおっしゃったの!」  
「ほんとにすみませぬ。まさか、こんなことになるとは思っていなかったものですから」  
 
 
実際、娘の涙を見て観行院は後悔していた。  
家茂に熾仁のことを話したのは、いつもながらの嫌味の延長のつもりで…  
本当は、娘の様子を見ていれば、熾仁は彼女の中ですでに思い出になっていること、  
そして夫をどれだけ思っているか、十分わかっていたはずなのに。  
 
 
その翌朝。  
 
 
仏間からいつものように家茂が立ち去ろうとすると、和宮が小さな声で呼び止めた。  
 
 
「上さん…」  
 
 
家茂は驚いて立ち止まってしまった。  
彼女がこのような大勢の前で自分から声をかけるなど、ほとんどないことだからだ。  
 
 
「京より美味しいお菓子が届きました。あとでお部屋で一緒にいただきませんか?」  
 
 
真っ赤になりながら和宮はそうつぶやいた。  
これには天璋院や本寿院を始め、その場にいた全員が驚いた。  
天璋院ならともかく、内親王としての誇りが着物を纏って歩いているような和宮がこのような申し出をするとは!  
 
 
「え、あ、はい…ぜひ」  
 
 
あまりの事態に、ここ数日間のわだかまりも忘れて家茂は答えていた。  
 
 
 
 
「もしや熾仁さんのことを気にされているのですか」  
 
 
突然そう切り出されて、家茂はむせそうになった。  
ここは、和宮の部屋。朝の約束通り、二人きりで茶菓子を味わっていた。  
しかし家茂は相変わらず和宮の顔を見ることができなかった。  
それは、このもやもやを和宮に知られたくなかったから。  
己のふがいない姿を愛しい人に見られたくなかったからだ。  
それなのに、いきなりこう言われたのだからむせるのも当然である。  
 
「わたくしは確かに熾仁さんが好きでした。  
父帝亡き後心細い思いをしていたわたくし達母子によくしてくださった。憧れだったのです」  
 
 
そこでふっ、と和宮は息を吐いた。  
 
 
「お別れするときは辛かった。泣きました。それも本当です…けれど!」  
 
 
涙で潤んだ瞳で和宮は家茂を見つめた。  
 
 
「今ではよき京の思い出の一つとなっております。だって、だってわたくしは…」  
 
 
頬を染めながらも、和宮は言葉を紡いだ。  
 
 
「貴方をお慕いしておりますもの…」  
「宮!」  
 
 
たまらず家茂は妻を抱きしめた。  
 
 
「ふがいないわたしを許してください。熾仁殿が憎かったのです。わたしの知らない貴女を知っている熾仁殿が。」  
「では…では本当に熾仁さんのことが原因やったのですね?お妾さんができたのではあらしゃいませんね?」  
「な………!ち、違います!!」  
「よかった…」  
 
 
泣き崩れる妻を見て、自分がどれだけ彼女を不安にさせていたのかを思い知り、家茂はいたたまれなくなった。  
涙を唇で拭い、何度も何度もくちづける。  
昼間にこのような行いをすることを普段は嫌がる和宮だったが、今はされるがままだった。  
 
 
「不安にさせてすみません…お許しいただけないかもしれないが…  
愛しているのです、宮。貴女だけを」  
 
 
その言葉に、和宮はうれしそうに微笑む。  
 
 
「わたくしも…」  
 
 
若い夫婦の影は、再び一つになった。  
 
 
 
 
END  
 

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