「宮さん、宮さん。どうなさったのです?」
御簾の内に閉じこもり出てこない和宮に、御簾の外側で女官一同は困惑していた。
「どこかお体の具合でも?」
心底心配そうな母の声に胸は痛むが、いまはとても出ていけそうにない。
この、泣き腫らした顔では。
和宮は、そっと、ある一枚の紙切れを取り出した。
朝方、年の近い若い女官たち数人と庭の紅葉を愛でていたときのことだ。
突然強い風が吹き、幾枚かの落ち葉とともにこの紙きれが廊下に運ばれてきた。
「まあ、お江戸というのは落ち葉まで図々しい。宮さんの前で!」
ぶつぶつ文句を言いながら一人の女官が落ち葉を手で払い、この紙切れを拾った。
「なんでございましょ?」
そこは若い娘、好奇心を隠せぬ様子で紙を開き始めたので、はしたない真似は止せと声を出そうと思ったのだが…
彼女の表情を見て言葉を止めた。
「ど、どうなすったの藤子さん?」
思わず別の女官が声をかけるほど、彼女の様子はおかしかった。
眉間にしわを寄せて紙に書かれた文面を読み進めていたかと思うと、顔色が蒼くなったり赤くなったり。
そして、きょとんとしている和宮と目が合うと、おもいっきり顔を逸らした。
「な、なんでもありません!ただの紙切れですわ。
ええ、なにも文など書かれておりませんでした。何も!」
そんな、一目で嘘とわかる嘘をつかんでも…とその場にいた全員が心の中で突っ込んだのは言うまでもない。
「一体なんですの藤子さん。宮さんの前で嘘はあきませんわ。お見せくださいな。」
つと一人の女官が近寄り紙切れを奪った。
藤子が騒ぐのを宥めながら読み進めるうちに…彼女の顔色も藤子と同じような変遷をたどった。
そしてやっぱり、和宮から顔を逸らした。
「一体何ごとや。わたくしの顔に何かついておるか。その紙は何なんや。お見せ。」
渋る二人から半ば強引に紙切れを奪い、読み進める。
そのうちに、血の気が引いてくるのを感じた。
下々の者が読んで楽しむ紙物が、風に乗って大奥までやってきたのであろうか。
そこにはおもしろおかしくこう書かれていた。
「公方様の新しい御台さまは、やんごとなきご身分なれど、体つきは貧弱で、幼女と見紛うほどである。
それに比べ以前より親しんでおられたご側室は、匂いたつ色気とはこのことかというほどの魅力をたたえた方で、公方様もご執心である…」
世界が、色を亡くした気がた。
御簾の外が騒がしくなった。
そして、誰よりも愛しくて、誰よりも憎らしい方の声が聞こえてきた。
「宮!具合がお悪いというのは本当ですか。薬師を呼びますからここをお開けください」
「いやです!上さんとだけはお会いしとうない!放っておいてください!」
しばし絶句した家茂であったが、その声に涙が混じっていることに気がついたのであろう。
「二人だけにしてくれ」と女官たちに告げた。
初めは応じようとしなかった女官たちも、常にない強い調子で将軍に命じられれば従うしかなく、渋々下がっていった。
女官たちが全員下がったのを確認すると、失礼、と声をかけて御簾の中に入った。
まさか無断で入ってくるとは思わなかったのであろう、泣き腫らした目を隠すこともせず和宮は叫んだ。
「ぶ…無礼な!将軍であれば何をしてもよろしいのですか。それが江戸流というものですか」
「こうでもしないと会ってくださらないでしょう。
なぜ泣いていらっしゃるのです?貴女が泣いているとわたしも辛い。」
本当に辛そうな表情をしている夫を見て、和宮はますます悲しくなった。
「ご側室のところに行かれればよろしいやろ…」
「は…?側室…?何をおっしゃっているのです。
わたしの妻は今までもこれからも貴女ただ一人です。
貴女が一番ご存知のはずでしょう」
家茂の大真面目な返答に、和宮の忍耐が切れた。
例の紙切れを家茂に投げ付けながら、泣き叫ぶ。
「わたくしを謀るのもいい加減になさって!
帝に気を遣って黙っていらっしゃったのかもしれませんが、いままでわたくしに偽りを言い続けていたなんてあまりのなさりよう!!」
初めて契りを交わした夜、妻として幸せにするとおっしゃったのは嘘だったのか。
嬉しかったのに。
道具として生きるより他はないと諦めた自分を、大切にするとおっしゃってくださって、何より嬉しかったのに。
こんなに。こんなに。
「こんなにお慕いしてますのに…」
茫然と妻の言葉を聞いていた家茂は、つと投げ付けられた紙に目を落とした。
下世話な内容に眉を寄せつつも、最後まで目を通して息を吐いた。
「宮。誤解です。これはわたしのことではありません。」
「この上まだ偽りを申されるのですか!?
公方さまと呼ばれる方が貴方以外におられますか」
「いらっしゃるのです。ほら、ここをみてご覧なさい。」
家茂の指し示す部分を嫌々読みすすめ…和宮は目を見開いた。
そこには、この話が書かれたと思われる暦と日付が記されていた。
しかしその暦は…四年も前のものだったのである。
「どうして…?」
「これは、亡き家定公の御世に書かれたものなのですよ」
苦笑しながら家茂は説明した。
「つまりここに書かれている御台所とは母上のことなのです。
まあ、どちらにせよ無礼極まりないことですが…
家定公には志賀の方という母上よりも年上の側室がおられたのですよ。
きっとそのことを書いたものでしょう。」
「しかし…しかしほんまに天璋院さんのことやろか?信じられません。
たしかに細身の方ではあるけれど、こないな言われようされるほどではないでしょう」
正直にそう言うと、声を上げて家茂は笑った。
「こういう下々の読み物は、おもしろおかしくするために事を大きく書くのですよ。
けれどそれを責めてはなりません。彼らの数少ない楽しみなのですから。」
そう言うと和宮の手を引き、抱き寄せた。
「宮…わたしをお疑いになったのか?」
その悲しそうな声が、和宮の胸を衝いた。
そうだ、彼を疑った。誠実な彼の愛を疑ったのだ。
枯れたと思った涙がまた頬を流れる。
「ご、ごめんなさい。わたくし…怖かったのです。
だってわたくし…本当にひ弱ですし。
上さんに喜んでいただけるような体でないこと、自分でわかっておりますから。」
「馬鹿なことを…」
和宮の頬を優しく拭い、彼女の瞳を見つめながら言った。
「貴女がわたしにとって至上の女人なのです。
貴女に触れるとき、わたしがどれほどの喜びを感じているか…
どうしてわかってくださらないのですか」
そう言って唇を合わせる。始めは優しく、徐々に激しく、妻の唇を愛撫した。
力の抜けた彼女の体を再び強く抱きしめながら、耳元で囁いた。
「今宵渡ります。わたしがどれだけ貴女に恋焦がれているか、お伝えします」
びくんと体を震わせながら、和宮はそっとうなづいた。
その夜は本当に激しかった。
いつもであれば、和宮の体を気遣い一度で終わらす家茂であったが、その日は何度も何度も和宮を求めた。
和宮は朦朧とした意識の中で彼に揺すられながら、それでも微笑んでいた。
嬉しかった。自分に溺れる家茂が。彼の想いが。
きっと明日自分の腰は立たないだろうけれど、ずっとずっと彼を受け入れていたい…
そう願いながら、和宮は気を飛ばした。
END