明治に入り、天障院篤姫が亡くなる時に上様が迎えに来る話です
明治十六年十一月、天障院篤姫は重い病に臥せっていた。
眠りから目覚め、周りを見渡した。どうやら今はみな寝静まっている頃合らしい。
かつての御台所も、今はひっそりと、ただ一人で質素な部屋で死を待っている。
篤姫は天井を見上げ、今までの自身の生涯を思い返した。
薩摩での、幼馴染や家族との暖かな日々。薩摩を離れた日のこと。
徳川に輿入れした日、そして家定と出会った日のこと。
いや、あれは“出会った”というより“出くわした”という感じであった。
彼女は思い出してうっすらと微笑みを浮かべる。
彼女は幕末の大奥を統制し、江戸城の無血開城に至る際には薩摩に嘆願し、徳川の救済に尽力してきた。
倒幕後、衰退した徳川の家政を切り回し、十六代を継ぐ事になろう家達の養育につくしてきた。
家定の遺言通り、ただひたすらに“徳川という家族”を守り続けてきた。故郷薩摩と敵対しようとも。
胸元に手を入れ、巾着袋を取り出す。
巾着からは生まれた時に斉彬から授かったボロボロのお守りと、黒く輝き続ける一つの碁石が出てきた。
お守りを左手に握り締め、右手で碁石を掲げた。
この二つの存在が今まで自身を支えてきた。
父の「信じる道をいけ」という言葉と、今は亡き家定公の妻という証が、徳川の妻という証が自身を支えてきた。
篤姫の頬に一筋の涙が伝う。
―…徳川宗家をお継ぎになる家達様も無事にイギリス留学から帰国し、立派に勉学に励んでおられる。
徳川は安泰じゃろう。もう私が居なくとも、徳川は続いていくじゃろう。
黒い碁石を眺めかすかに微笑むと、篤姫は瞳を閉じた。
しばらくすると頬になにかが触れた。
誰かに撫でられている。優しい男の手だ。
―・・・家達様が見舞いに来てくれたのであろうか?
篤姫は重い瞼を開ける。
月明かりがぼんやりとその人物を照らす。
鶯色の羽織を纏った男の輪郭が浮かび上がった。
「御台」
篤姫は呆然と月が照らし出す人物を見上げていた。
「久しぶりじゃのう」
「あ・・・・」
早く、早く、早く返事をしなければ。
早く返事をしなければ、目の前の幸せな夢が消えてしまうかもしれない。
しかし、体中が震えて震えて仕方なく、篤姫は声を発することが出来なかった。
「これはまたしわくちゃになったものじゃー。やはりそちは面白い顔をしておる。そんな所も含め愛しく思っているがのぅ」
一日も忘れたことのない声。片時も忘れたことのない眼差しが自分を見つめている。
焦がれて焦がれてどうしようもなかった存在が、自分の頬を撫でている。体中から湧き上がる様々な感情に篤姫は押しつぶされてしまいそうだった。ただ、感情の塊が涙となって瞳から零れ落ちた。
「これ泣くな。まったくー、相も変わらず赤子の如き御台じゃなあ」
ケタケタと笑う家定と対象に、篤姫はただひたすら顔をくしゃくしゃにし涙を流し続けた。
涙は次から次へと零れ落ち、頬を撫でる家定の指を濡らしていく。相変わらず体中が感情の波に圧迫され、言葉を発することができない。
「そちがいないとつまらぬ。面白くないのじゃ。困ったものじゃ」
家定は微笑みを浮かべ、篤姫の手を取り涙を流す妻に静かに囁きかける。
「わたくしも・・・わたくしも貴方様がいらっしゃらないと、切のうて切のうて、辛うございますっ・・・」
やっと絞りだした言葉を告げる。
「まっこと、わしらはよく似た夫婦じゃのぅ」
「はい・・・。」
いつの日か同じようなやり取りをしたことを二人は思い出した。
涙に濡れた瞳で、まっすぐな視線を向けてくる妻に家定は微笑を深くし、見つめ返した。
「よく、徳川を守ってくれたの。もう十分じゃ。さすが我が御台じゃ。あっぱれじゃ」
「うえさまっ・・・うえさまっ・・・」
家定の言葉に篤姫はハッとした。あぁ、やっと、やっと夫が迎いに来てくれたのだ。
「何か褒美をやろう。何がよい?遠慮なく言え」
篤姫は身体を起こし、家定の手を取り凛とした眼差しを向けた。
―・・・そういえばさっきから、身体が軽い。昨日まで身を起こすのも辛かったのに。そうか、自分はもう・・・。
「上様、この篤子ただ一つの願いがございます」
「なんじゃ」
「上様の、上様のおそばに居とうございます。これからはずっと、わたくしを上様のおそばに置いてください。
もう二度と離れ離れは嫌でございます。ずっとおそばにっ・・・」
言葉途中で家定の引き寄せられ、腕に閉じ込められた。
「うむ、その願い、しかと聞き入れたぞ」
二十五年間焦がれて焦がれて仕方なかった男が強く強く抱きしめてくる。まるであの最後の夜のように。
でもあの時とは違う。これからはもう離れることはない。家定が死んだ時、
枯れ果てたかと思った涙がとめどなく流れ落ち続ける。篤姫は幸せの絶頂にいた。
「泣くな泣くな。面白い顔が余計面白くなるぞ」
「・・・相変わらず意地がお悪くいらっしゃるのですね」
「共に参ろう、御台」
「・・・・っはい!」
二人は固く抱きしめあった。もう二度と離れ離れはごめんだ。
色を無くした世界など、もうごめんだった。
翌朝、徳川家の女中が安らかな微笑を浮かべ、永遠の眠りについた天障院を見つけた。
天障院の遺体の傍らには黒と白の碁石が一つずつ置かれていた。
慶喜と家達を始め、そのほか徳川に縁ある者たちが、
敬意と感服を抱きこの偉大な女性のために涙を流した。
この女性無くして徳川宗家を守ることは出来なかった。
天障院篤姫は東京都台東区上野の寛永寺に愛する夫・家定の墓と並べて埋葬された。
「よかった、ちゃんと隣同士のお墓ですね」
「そうじゃのう。今まで一人で寂しかったのじゃぞ」
「まぁ、上様ったら」
「御台、長い間臥せっておって腹がすいたじゃろう」
「はい、もうお腹がすいてすいて仕方ありませぬ」
「よし、かすていらを作ってやろう!薩摩の芋を練りこんだやつを」
「それは嬉しゅうございます。それからお餅と、お煎餅も食べとうございます」
「ははは、まったく食いしん坊の御台様じゃなぁ。よいよい、焼いてやろう。食べ終わったら五つ並べをするぞ」
「はい!」
「今度こそ負けはせぬぞ」
「そういうお言葉は、もう少し、いやもっともっと強くなってから言われたほうが・・・」
「なにを〜〜〜」
「上様、早うかすてぃらを作ってください。お腹が空いて死んでしまいそうです」
「御台よ、そちはもう死んでおるぞ」
「あら」
極楽浄土では、二人の楽しげな笑い声がいつまでも鳴り響いていた。
終わり