「御台はどうした?」
家定はぐるりと仏間を見渡して、首を傾げた。
「ご気分が優れぬと仰せで―」
「まことか」
「はい。お食事も、あまり喉を通らぬご様子」
「…どうせ食べ過ぎか何かでございましょう」
ぼそっと本寿院が呟く嫌味に、仏間の雰囲気が一気にどんよりとする中、
家定はそんな事など目にも耳にも入っていない様子で、仏に手を合わせた。
やがて勢い良くぐるりと向き直ると、
「水菓子を用意しておけ。後で御台の見舞いに行く」
「上様ッ」
思わず、といった本寿院の金切り声にも、家定はどこか心ここに在らずだ。
「…儂の所為か」
「は?」
訝しげに息子を見る本寿院の前を、家定はぼんやりとしたまま通り過ぎて行く。
「…毎夜、ちと励み過ぎたかのう…」
ぽかん、と口を半開きにした面々を残して、家定はすたすたと仏間を後にした。
仏間が、かつてないほどの恐慌の場になったのは、その直後であった。
★
臥せっている篤姫の部屋の前で、幾島はほうと溜息を吐いた。
「お疲れなのでございますね…」
ここの所の頻繁なお渡りに、将軍継嗣の説得のいい機会だと毎度発破をかけてきたが、
篤姫は誠実な人柄だ。幾島の期待に応えようと、頑張り過ぎたに違いない。
「私としたことが…」
もう一度深い溜息を吐いた時、しゅるしゅるという衣擦れの音が聞こえて来た。
顔を上げると、そこに現れたのは瀧山だった。
「瀧山殿?」
「そう、険のあるお顔をなさいますな」
思わず顔に手をやる幾島の耳元に、瀧山はそっと小声で続ける。
「御台様のお加減は」
「それが、大丈夫の一点張りで…病ではないから安心せよと」
「病ではない…」
幾島の言葉を繰り返して、瀧山は何事か納得したように頷いた。
「実は、今朝から奥の中では、御台様がご懐妊なのではとの憶測が飛び交っております」
「ご、ご懐妊!?」
素っ頓狂な声が出そうになるのを辛うじて抑えて、幾島は小さく叫んだ。
「なれど…」
「思い当たる節はございませんか」
「思い当たること」
息を飲んで、幾島は瀧山を見た。
『お子は作らぬそうじゃ』と寂しげに言っていたのが嘘のように、
今となっては夫婦の仲は深まる一方である。
頻繁のお渡り、嬉しげに家定との会話を語る篤姫、欠伸を噛み殺す姿、目の下の隈、
今朝など、食事の際には吐き気を堪えるような仕草も見せていた…
よく考えれば、何もかもが「思い当たる節」ばかりである。
「なんということ…この幾島、一生の不覚にございます…!!」
「何が不覚なのじゃ?」
二人の横に突如、ぬっと家定の顔が現れて、幾島と瀧山は度肝を抜かれた。
慌ててひれ伏す横で、障子の向こうを見やる家定は、果物が盛られた籠を手にしている。
「御台は中か」
「は…」
「入るぞ」
あまりのことに、らしくもなく狼狽する幾島と瀧山を他所に、
すぱーんと音を立てて勢い良く障子が開けられた。
★
床から身を起こした篤姫の傍らに、家定は腰を下ろしていた。
「具合はどうじゃ?」
「ご心配をおかけしました…大事ございません」
頭を下げ、篤姫は申し訳なさそうに続ける。
「こうしておみ足を運んで頂いて…」
「気にするでない。そもそも儂の所為であろう?」
そう言って、家定は篤姫の頬をそろりと撫でる。
「ぁっ…」
「しかし、そちもそちじゃ。
あれだけ毎夜悦ばれては、儂とて、な」
「だって…上様があまりにお上手で…」
「つい夢中になったか」
「もう、上様」
手を取り合って、甘えるような目をする篤姫と、満足げに微笑む家定。
ぅえへん!
ごっほん!
部屋の隅で、幾島と瀧山が仲良く咳払いを始めた。
その方らも居れと言われて控えていたのに、気がつけば居てはいけない雰囲気である。
意を決したように、幾島が顔を上げた。
「恐れながら、お訊ねしたき事が―」
「おおそうじゃ、その方らも試してみぬか」
「上様、それは良いお考えにございます」
「一方聞いて沙汰するな、じゃ」
「はあ?」
二の句が継げない幾島らを尻目に、異常に盛り上がる将軍夫婦。
「今度の新作は何でございます?」
「おお、よく聞いてくれた御台!」
「次のカスティラは抹茶味じゃ!」
★
幾島と瀧山は、がっくりと肩を落として同時に溜息を吐いた。
「まさか、上様手作りの…」
「カスティラの食べ過ぎだったなんて…」
二つ目の溜息も、ぴたりと揃う。
「このまま、有耶無耶にしておいた方が」
「良うございましょうね」
二人は顔を見合わせて、しっかりと肯きあった。
「珍しく意見が合いましたな」
「そういうこともございましょう」
「ですが、本寿院様は黙っておられますまい」
「そこを何とかするのが、総取締りの私の役目にございます」
それぞれが、それぞれの厄介な思いに顔をしかめている今、
奥の御台所の自室で交わされている会話など、才女達は知る由もないのであった。
★
そうじゃ小豆をあしらってはどうかのー?
まあそれは、さぞや美味しゅうございましょうー!
幾島と瀧山の弱弱しい足音が遠ざかるのを聞くや、家定と篤姫は顔を見合わせた。
「まさかこうも上手く行くとはのう」
「はい。いささか拍子抜けにございます」
「いや御台、やはり油断はならぬぞ。あの方らは賢しい女子じゃ」
「幾島に関しては、その手強さ、身に染みて存じております。…なれど、」
ただならぬ笑みを口許に浮かべる家定に、篤姫は良く似た笑みでこっくり頷いた。
「あの二人を欺ききれれば…万事、上手く運んだも同然じゃ」
「心得ております」
「そちには不自由をかけるが、許せ」
「私は、何も案じておりませぬ。こうして上様が、お守り下さっております故…」
「しばしの間じゃ。積み上がっておる面倒が収まれば、混乱も少なかろう」
家定の手が、篤姫の腹を優しく撫でた――。