おお欠伸じゃ、そうか眠いかと言いながら、不慣れながらも優しく赤子を揺する夫を、  
篤姫は幸せに満ちた微笑で見詰める。  
「愛いものよ。のう、御台」  
「はい、本当に」  
誰が子を産むのか判らぬほどの大騒ぎの末に無事誕生した男児に、大奥のみならず江戸城中が喜びに沸いた。  
中でも大いに狂喜したのは、夫であり父となった家定――ではなく、その母だったのは言うまでもない。  
江戸城中の隅々まで本寿院の高笑いが轟いたとか轟かないとか、そんな伝説が早くも実しやかに  
囁かれているくらいだから、その喜びようの激しさは推して知るべしである。  
当事者である家定はといえば、誰かと比べれば大人しいものの、妻の無事の出産と血を分けた我が子の誕生を  
心の底から喜んでいた。  
「さて、名を付けねばならぬのう」  
すやすやと寝息をたて始めた赤子を妻にそっと預けて、家定は眉を下げた。  
本来ならば疾うに赤子の名を公にしていなければならないというのに、名を記すべき紙は正に白紙のままだ。  
「それもこれも…」  
徳高いと評判の僧は、御託と共に嫡子に相応しい幼名を並べたてる。堀田はといえば、歴代の徳川宗家から  
誉高い武将の幼名まで幅広く列挙した分厚い冊子を、誰も頼んでいないのに得意気に献上してくる。  
要するに、候補が多過ぎるのである。  
 
広間が水を打ったような静けさに包まれる中、家定は自ら「竹千代」の名を掲げて見せた。  
悩みに悩んでやっと決めた名を満足気に掲げたのも束の間、見渡せば周囲の空気がどうにもおかしい。  
「な、何じゃ、どうした」  
「…上様。普通にございます」  
皆を代表するように、本寿院がぼそりと呟く。  
「ふつう!?」  
「しかも若干古いッ」  
「古い!? そうきますか母上」  
当惑する夫妻にお構いなしで、本寿院は頬に手を当て溜息をつく。  
「あれだけ悩んでおいでならば、さぞや創意工夫のこもった御名かと思うておりましたのに」  
工夫を凝らしてどうする、という思いを懸命に抑えて、優しい息子は母を見据える。  
「子への願いを込めて、この家定と御台所が共に考え、付けた名にございます」  
「それは勿論でございましょう」  
本寿院は頷いて理解を表してから、ならば尚のこと、と続ける。  
「その想いをありったけ込めれば良いではありませんか!」  
俄かに興奮し始めた本寿院の姿に、家定と篤姫は思わずゴクリと唾を飲んだ。  
「待望の嫡男に対する願いを込めるのに、たった三文字でこと足りるのですか!?  
あやかりたい歴代徳川将軍の御名でも何でも、思う存分付ければよろしい」  
「お、お義母上様? 思う存分と申されましても」  
「まさか延々と繋げていく気では」  
「その通りにございます」  
 
家定が自棄になって冗談で返してみれば、本寿院は大真面目に頷いてくる。  
「まあ多少長くなるやも知れませぬが、呼び難いなら略せば良いこと」  
「…母上、もう既に仰っている意味が解りませぬ…っ」  
完全に言っている事が滅茶苦茶である。幾ら血が繋がっているとはいえ、理解力も限界だ。  
何故誰も口を挟まぬと家定は瀧山や幾島を睨むが、二人とも完全に目を逸らしている。  
(こんの薄情者めが…ッ)  
内心で毒つく家定の目の前に、ぬっと母の顔が大迫力で現れた。  
「それだけではございませんよ上様!  
てっきり私は、母の名を一文字入れてくれるものとばかりっ」  
「それは…」  
「流石に…」  
遂に絶句した家定と篤姫に、それまで沈黙していた女達の声が一気に押し寄せてくる。  
「ですから私も、是非とも『幾』の字をお使い下さいませと姫様に申し上げましたのに!」  
「恐れながら私の『瀧』の字もございます」  
「それから私の『賀』もございましょう、上様?」  
「揃いも揃って面白い事を言う」などとは、真剣そのものの目付きの前ではとても口に出来ない。  
この者たちは一体いつからこんなにも勢いづいてしまったのかと、自分達はいつから付いて  
いけなくなっただろうかと、若い夫婦は乾いた笑い声を上げて思いを馳せるのであった。  
 
「厚かましいにも程があるわ……」  
どこか遠い目をしたままの家定が零した言葉に、篤姫は溜息で同意を表した。  
「儂にはもう無理じゃ。あの者たちをどうにも出来ぬ」  
完全に匙を投げる家定に、そんな大奥の頂点に立つ身の篤姫は思わず情けない顔になる。  
そんな表情のまま、先刻無理矢理押し付けられた紙の束を持ち上げた。  
幾だの瀬だの寿だの、奥の者達の名の一部が無駄に達筆な字で記されている。  
「これをどう致しましょう」  
横暴極まるとは言え、彼女らが心底子の誕生を喜び、また慈しんでいる気持ちは伝わってくる。  
その発露の方法に大いに問題があるだけで、悪気はないのだ。となれば無下に捨て置けとも言い難い。  
かと言って、それこそ寿限無のような名など真っ平である。  
「例えこの中から二文字ずつ使ったとしても、何人分の名が出来ますことか…」  
「……おお。それじゃ」  
顔を上げてポンと手を打つ夫に、御台所は意味が掴めず困惑の表情を浮かべた。  
そちは流石じゃのう名案ではないか、と嬉々とした声が続く。  
「う、上様? 名案とは…」  
「今更何をとぼけておる。子が沢山居れば良いと、そういうことではないか」  
「………は、はい?」  
「そちがそのつもりなら、儂は幾らでも協力を惜しまぬぞ!」  
(上様のお考えにも、時々ついていけませぬ……っ)  
俄然元気を取り戻した家定が、目を輝かせてにじり寄って来るのを前に、  
篤姫は涙目でそんなことを思った。  
 
――そして数刻後。  
「上様、無理にございます。この組み合わせでは名前になりませぬ」  
「難しいのう…。ところで御台、この『正』の字は誰であろう」  
「それは老中の堀田殿にございます」  
「奴はもう罷免じゃな」  
 

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