懐妊疑惑が大奥を揺るがしてから、暫しの時間が経っていた。
一時は騒然としたものだったが、意外なほどにあっさりと終息を迎えたのは、
瀧山と幾島の有能さ故か、はたまた海の向こうからのしぶとい客が齎す激震の所為か。
ともかく、篤姫は平穏に“試食係”を務めていたのである。
この間、事が露見しないよう、家定の腹心の医師が密かに篤姫を診ていた。
だが如何ともし難い「胸焼け」は、医師でもどうにか出来るものではない。
そのつど、家定と篤姫は一芝居打ち続けてきた。
カスティラに始まり、餅に団子に汁粉に豆大福、更には煎餅、おかき、雷お●しと、
家定のお品書きは増える一方である。
「今では上様の御菓子が、奥の者達に大評判でございます」
「まったく予想外じゃ…」
「それが、今朝方も胸が悪ぅなりまして。つい芋羊羹、と…」
「芋羊羹!?」
申し訳なさそうな篤姫の横で、家定は思わず天井を仰いだ。
何気に、家定の腕前は上々だったのである。幾島と瀧山に振舞ってからというもの、
その噂はあっという間に広まり、今では「是非私も」という者達で溢れかえってしまっていた。
「そろそろ儂もネタ切…いや、機は熟したであろう」
家定は決意を示すように、傍らの妻に頷いて見せた。
「明日、奥の主だった者を集めるぞ。いよいよじゃ」
「はい」
★
大事な知らせがある、との呼び出しを受けた者たちは、まんじりともせずに公方の言葉を待っていた。
―お世継ぎをどちらになさるか、お決めになられたに違いない。
誰からともなく流れた予想は、この場の全員の共通認識となりつつあった。
どこからか喉を鳴らす微かな音が響く中、家定は漸く口を開いた。
「皆を集めたのは他でもない、」
「う、う、う、う、う上様ッ!!」
引き攣った声の主は、本寿院その人である。
「ここの所、御台所とこそこそ何やら画策していること、この母は存じておりますぞ!」
瀧山や幾島が思わず伸ばした制止の手も虚しく、ただならぬ形相で生母は篤姫ににじり寄っていく。
「奥の者らをどれだけ上手く騙せても、この私を易々と謀れるとお思いかッ!!」
「は、母上!」
見かねた家定が割って入ろうとした瞬間、
「お義母上様…っ」
篤姫が、固く握り締められわなわなと震える本寿院の手を、しっかりと握った。
「浅はかでございました…。
他でもない、上様をお産みになられた本寿院様。全てお見通しになられて当然にございます」
「……は?」
「思えば早々に、お義母上様にだけはご相談申し上げ、お知恵を頂くのが筋であるところ。
大奥広しと言えど、この身と同じ思いをなされたのは、母となられた本寿院様だだお一人」
感激で目を潤ませる篤姫の言葉に、本寿院を始めとしたその場のほぼ全員が、理解不能に陥っていた。
助けを求めるように、全員の視線が家定に注がれる。
「要するに、御台に子が出来たということじゃ」
今度は口を半開きにした表情が、見事に揃って篤姫に向けられる。
本寿院の手をとったまま、笑みを湛えて何度も頷く篤姫と、彫像のように固まる一同……。
「ぇええええええええええ――!!!!?」
大奥、いや江戸城中に響かんとする、一同の割れんばかりの絶叫が轟いた。
★
耳を塞ぎながら、その叫び声は儂の専売特許じゃと思うのも束の間、
向けられる恐慌の矛先に、家定は思わず後ずさりする。
「で、で、では、お世継ぎの件は!?」
「子が男かどうか判らぬが、一旦棚上げじゃな」
「なんと…」
「そんな…」
「気をしっかりなさいませ、本末転倒ではありませぬか!」
呆然と肩の力を抜かす幾島と本寿院を、一足先に我を取り戻した瀧山が叱咤する。
「宜しいですか、ご懐妊にございますぞ」
その声に、騒然としていた場が、一気に静まり返った。
皆ゆるゆると居住まいを正し、平伏する。
「誠に、おめでとう存じまする―」
「皆、御台をしっかり支えてやってくれ」
満ち足りた表情で微笑む家定と篤姫。
だが、和やかな空気もまさに束の間、どこからともなく啜り泣きが聞こえてきた。
「幾、島?」
「そのような大事、この私にも知らせて下さらなかったなんて…。
姫様にとって、私は所詮そのような存在だったのでございますねッ!?」
「そうではない! 幾島、落ち着け…」
「これが落ち着いていられましょうか! うううう…」
「何というかその、敵を欺くには先ず味方から、と言うではないか」
「敵とは誰のことでございましょう?」
ずい、と本寿院が篤姫に顔を近づける。
「たっ、他意はございません。ものの例えにございます」
疑わしげな眼差しの姑に、篤姫は必死に言葉を続ける。
「身篭った私にとって、この奥で心からお頼りすべきはお義母上様にございます」
「おお、なんと…」
「どうか何卒、この子のためにお心をお砕き下さいませ」
「ええ、ええ。勿論ですとも」
嫁の殊勝な言葉に、本寿院の表情が途端に和らぐ。満面の笑みを浮かべ、
「これからも何なりと、頼って参られよ。
この私が付いておる故、安心して丈夫な御子をお産みなされ」
「お義母上様…!」
★
嫁姑の仲が途端に急展開する一方で、家定は必死に声にならぬ声で妻に助けを求めていた。
「あれ程“子はできぬ”とか“子は作らぬ”とか言っておきながら…」
「お志賀、す、少し冷静に…」
「私は至って冷静にございます」
それでも、じりじりと詰め寄るお志賀の表情には殺気すら感じられる。どう見ても尋常ではない。
思わず目を逸らすと瀧山と目が合って、思わず無言で助けを求めるが、
「私めにはどうすることも」
と、有能な女史はにっこりと微笑んでみせるのみである。その微笑の奥に、
この瀧山までも謀っておいて、などという黒い感情が見え隠れしているのに、今の公方は気付く余裕もない。
「こんなにも上様に尽くして参りましたのに…」
「いやそれは儂とて重々承知し、」
「上様にとって、私はただ都合の良い女…。酷い、あまりに酷うございます…っ」
顔を覆って、さめざめと泣き出すお志賀。
「泣ーくーなーっ」
「上様ァッ」
慌てて宥めにかかろうとするのを、横から迫り来る圧倒的な迫力が阻んだ。
「恐れながら、上様に申し上げまする」
「何じゃ、い、幾島か」
正直助かったと思った瞬間、幾島の形相に家定は事態が好転していないことを悟った。
「…ちっ、邪魔が…」
「何か申したかお志賀?」
「いえ何も。…ううう」
「上様ッ、私の話をお聞きになる気がおありなのですか!?」
「聞いておる! 聞いておるから早う申せ!」
「だいたい上様は、姫様のお体を真剣にお考えでいらっしゃいますか!
姫様ッ、姫様もここにお座りなさいませッ。…いいですか、大体」
小芝居などせずに私にもっと早くお知らせ下されば姫様に滋養のつくお食事をご用意しましたのに云々。
上様上様お子の名前は何と致しましょう男子ならやはり上様の幼少の頃のお名前から一字頂戴して云々。
恐れながら上様「芋羊羹はまだか」と奥の者達が痺れを切らせております云々。
「ええい黙れえええッ収拾がつかぬわァッ!!」
★
絶叫と共に半ば無理矢理に散会させた広間には、ぐったりと脱力しきった家定と篤姫が残っていた。
「まこと、子を持つとは、このように大変なことなのでございますね…」
いや絶対普通はもっと和やかな筈だと思いながら、家定は遠い目で溜息を吐いた。
「御台…この際男でも女でも何でも構わぬから、早う丈夫な子を産んでくれ…!」
こんな筈ではなかったと心底思いながら、家定は篤姫の手を握り締めた。
その後も、本寿院から嫁への過剰な交流は続き、公方は政に忙殺される中で、
菓子作りとお志賀の視線に怯える日々を過ごしていた。
そんな数ヵ月後、大奥の一室から、赤子の鳴き声が高らかに響き渡り――
それがまた平和な大奥を(色んな意味で)盛大に盛り上げることになったとか
ならないとか。