「御台......がこれ......を......?」  
封の中から出てきたのは白い碁石だった。  
「御台......なぜいつかのように会いにこぬ......」  
 
(そういえば、忙しくてなかなか会えぬ頃、戯れで符牒を決めて、  
やり取りしていたことがあったのう......  
 御台からの白い碁石は   
 <お変わりありませんか?>  
 それに対する返しは白なら   
 <変わりなし。御台を思うておる>であった。  
 時には、更に御台から  
 <私も、上様を思うております>と白の返しが来たこともあったのう......  
 今まで白しか渡したことはなかったが......  
 返事をしようにも、今の儂は起き上がることもできぬ。)  
 
−回想−  
「もし、白黒どちらのお返事も頂けなかったらどうなるのです?」  
「そのときは、よほど抜き差しならぬ事態に陥っているか、  
 または儂とそちの間を隔てる者らがいるということになろうな。  
 じゃが、ここは儂とそなたの城じゃ。そのようなことがあるとも思えぬが......」  
 
(御台はまだ、あの時のことを覚えていようか......?)  
 
<そのころ、篤姫様は>  
「遅い!  
 今までなら、半日の間にお返事を頂けぬことはなかったものを。  
 やはり、上様になにかあったのじゃ。幾島、近う。」  
「は」  
「今宵、表へ参る」  
「ですが御台様」  
「せんだってのように騒ぎを大きゅうしとうない。夜の方が少しは人が減るであろう。  
 よいか、門番に言い含めておけ。」  
「御台様、そのような」  
「おぬしも将軍継嗣の件は気になっているであろう。」  
「まさか、今一度、慶喜どのをご推挙くださると?」  
「そのこと、考えぬでもない......」  
(心にもないことを。許せ、幾島。  
 私は今、いかなる手を使うても、上様のもとに行きたいのじゃ。)  
「では、早速、今宵の手配をいたしまする。  
 しかし御台様。公方様がどこでおやすみになっているか、ご存じなのですか?」  
「だいたいな。」  
篤姫は、それ以上は語らず、にやりと笑った。  
実は、いたずら好きな夫婦はふたりで寝所を抜け出し、  
表の探検にでたことも何度かあるのだ。  
困惑していたのは宿直の者たちであった。  
「そのほうの責めには及ばぬ。」  
このように公方に言われてしまうと、それ以上強くは言えないのであった。  
 
<その夜>  
「御台様、すべて手筈はととのっております。」  
「幾島、ご苦労であった。」  
「では、ご推挙の件、よろしくお願いいたしまする」  
「わかっておる。では、──参る」  
 
−こっからBGMは以下の「篤姫46」でお願いします−  
ttp://www3.nhk.or.jp/taiga/topics/tanbou07/sound/sound.html  
 
白い寝間着を身にまとった篤姫は、つのる思いを胸に抱き、暗い廊下を懸命に急いだ。  
(上様......今、参ります......上様......!!)  
篤姫はいくつもの角をまがり、お渡りの廊下の鈴をかすかに鳴らし、  
またも大奥を抜け出て、家定の寝所へと小走りに向かったのだった。  
 
−BGM フェイドアウト−  
 
<その頃、公方様は>  
 
(今の儂は、ただ御台に会いたいがために生きているようなものじゃ......  
 しかし、御台は......)  
うつらうつらしている家定の耳に、その時、少し離れたところで  
誰かを叱りつけているささやき声が、聞こえた。  
「......妻である私に知らせぬでいるとは。よいか、しばらくさがっておれ。」  
「ですが。」  
「しばしの間じゃ。もちろん、上様の様子に少しでも変わったことあらば、すぐ呼ぶ故」  
そして。  
 
「......上様、見つけました......」  
打って変わって弱々しい声と、ふわりと甘い匂いがし、傍に篤姫が座っていた。  
「御台......やはり......来てくれたか......よう......来たのう......」  
家定はにっこりした。  
「はい......お返しがなかったので、気にかかりまして......」  
篤姫は涙を懸命にこらえていた。  
「何故......このようになるまで......」  
「わしには......脚気の持病があってのう......そなたには知らせなんだが、  
 薬が手放せなかったのじゃ......それが心の臓にまでついに来てしまったようじゃ......」  
「......上様......」  
「泣くな御台......儂は......そちの笑顔が見とうて......  
 ここまでなんとか持ちこたえてきたのじゃ......」  
「無理でございます......」  
「御台......手を......」  
「はい......」  
そっと、家定の手を篤姫が包むと、その手の中に小さな丸いものが。あの白い碁石であった。  
「これを......御台じゃと思うて......、ずっと......離さずにいたぞ。」  
それを見た篤姫は、ようやく少し微笑んだ。  
「その顔じゃ......あの頃の遊びが......このように......役に立つとはの。」  
「はい。」  
「それに......、御台がこのような......お転婆なおなごでよかったのう。  
 並のおなごでは......到底......到底、ここまで来られまい......」  
篤姫はいたぶらっぽい笑顔になり、  
「本当に、そうでございますね」と言った。  
その顔を見ているうちに、家定の心にふっと悪戯心がわいた。  
 
「御台......近う」  
「はい......」  
「耳を貸せ」  
そう言う家定の目には少し生気が蘇ってきていた。  
「なんでございましょう」  
耳元で家定の言葉を聞いた御台は真っ赤になった。  
「上様、このような時に」  
「今だからこそ......申すのじゃ......  
 儂は今、身動きすることもままならぬ。  
 かろうじて......自由になるのは......この手と、ここだけじゃ」  
そういって家定は悪戯っぽく舌を少し出した。  
「とはいえ、私からそのような......恥ずかしゅうございます。」  
「もそっと顔を、近づければ......良いだけではないか。  
 早う......」  
「......上様......」  
恥じらってなかなか近づかない篤姫に、家定はふと真顔になって言った。  
 
「御台......聞け......  
 言葉というものはな......幾ら尽くしても、  
 本当の思いには届かぬものなのじゃ。」  
「はい......?」  
家定の声は真剣であった。  
「じゃが、そなたに触れている時......それを伝えられる気がする。  
 儂がそちをどれほどに......」  
愛しく思っているか、という言葉は家定の口から聞かれなかったが、篤姫には通じた。  
「上様、もったいのうございます......」  
家定はつながっていた篤姫の手にわずかな力をこめ、体を引き寄せようとした。今度は篤姫も逆らわなかった。  
そっと篤姫は家定に口づけた。かすかに唇を開くと家定の舌が忍び入ってきた。  
同時に、篤姫は、家定の指が弱い力ではあったが、自分の手首をとらえ、そして更にその先へ......、  
袖の中の自分の腕に直接触れてくるのを感じた。  
「......っ」  
いつもの篤姫なら手を引っこめてしまうところであったが、全てを夫に任せることにした。  
 
なにもかもが、とても静かな動きであった。が、篤姫は充分に感じとることができた。  
夫の自分への優しく、温かく、激しい思いを。  
いつも不思議でならなかった。夫の長い指が自分に触れてくるたび、決して激しい動きではないのに、  
いつのまにか我を忘れさせられてしまう。  
それは、夫の自分へのとめどない思いの迸りゆえであったのだ、と、ようやく今わかったのだった。  
いつしか篤姫は目を閉じ、その思いにすべての感覚をゆだね、味わっていた。  
 
どれほどの時間が経ったのか、二人はそっと体を離した。  
わずかに息を乱している篤姫の、潤んだ目をのぞきこみ、  
「火がついてしまったのう、御台......」と家定は微かに笑った。  
「上様がつけたのです。もう少し、お体を直して、この続きは必ず......」  
「わかった」  
二人とも、それが叶わぬことは百も承知であった。  
「もうそろそろ......行ったほうがよい。  
 明るくなれば、......騒ぎが大きくなろう。」  
「また必ず参ります。それまで、これをお傍に......」  
篤姫は白の碁石をそっと家定の手に戻した。  
「わかっておる。......片時も離しはせぬぞ。」  
二人は微笑みあった。  
その笑顔のまま、身を切られるような思いで、篤姫はその場を離れた。  
 
家定の心は安らかであった。もはや、この世に執着はなかった。  
(御台よ...... あと、いっとき待っていれば、儂を看取ることができたと  
 そなたは自分を責めることになるのかもしれぬ......  
 じゃが、儂はそなたの泣き顔を見ながら死ぬのは嫌だったのじゃ。  
 儂の、最後の我が儘を許せ......。  
 そなたと笑顔で別れることができて、儂は満足じゃ。  
 やはりそなたは、たいしたおなごであった......)  
家定は満たされた心のまま、永の眠りについた。  
 

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