「御台様!」  
家定を安置している表から戻った篤姫を、お鈴廊下で滝山と幾島が待っていた。  
「御台様・・・」  
かろうじて自分の足で歩いてはいるが、篤姫に生気はない。  
うつろな顔に、涙。幾島は何があったかを察知した。  
「御台様、少しお休みになられませ・・・」  
「それがようございます、御台様。」  
『何を言うか・・・。今から休んでいては、今宵の上様のお渡りにさしつかえあろう。』  
「・・・は・・・?」  
『上様はビワの蜂蜜漬はお気に召すかのう?珍しいものがお好きゆえ、  
 きっと我が里の菓子も喜んで頂けるであろうな。』  
「・・・・幾島殿・・・。」  
「・・・・御台様・・・。はい、それでは、早速今宵のお渡りの準備を致しまする。」  
『頼んだぞ、幾島。』  
 
「幾島殿、御台様はいったいどうなされたというのじゃ?まさか・・・いえ、そんな・・・」  
「あれ程の気丈なお人柄だった御台様が、にわかに信じられませぬが  
 御台様と上様がお互い愛しみあわれていた事はわたくしもこの目でみて承知しております。  
 最愛の夫の最期を看取れなかった現実を、御台様は受け入れることが出来ないのでございましょう・・・」  
「気がふれられたと・・・」  
「何を言われるか!ただ、今は現実から逃れられているだけに違いない。きっと、戻ってこられるに違いない!」  
「ならば良いのですが・・・もちろん本寿院様には内密にしておきますゆえ。」  
「わたくしと滝山殿。あと初瀬にのみ事の次第を話しておきまする。」  
「それにしても・・・・おいたわしいこと・・・上様もどれほどご無念だったか・・・」  
 
御台の部屋に幾島が戻ってきた。  
先に戻っていた御台所の様子がおかしいのを、初瀬がいぶかしげにみつめていた。  
「あ!幾島殿。先ほどから御台様のご様子がおかしいのです。  
 庭先に出られ、『ほらホタルにございます、上様』と申されまして・・・  
 上様はいらっしゃいませんし・・・どういうことでしょう・・・?」  
幾島は初瀬に事の次第を説明し、御台から目を離さぬよう申し付けた。  
 
翌日−  
お志賀が御台を訪ねてきた。  
数ならぬ身の自分は長らく姿さえ見ることもかなわぬ上様の消息を、  
御台の様子を監視することでつかもうとしてきた。  
だが、昨日から御台の様子がおかしい。  
何か我を失った、そして御台らしくない行動をしている。  
庭でフラフラ歩くなど、尋常ではない様だ。  
 
「御台様、お志賀が参っておりますが、下がるよう申しつけましょう。」  
『お志賀・・・?誰じゃ、それは。』  
「御台様・・・お志賀にござりますよ・・・・」  
『・・・あぁ〜、あの廊下で会うた、優しそうな中臈じゃな!その中臈が何の用じゃ?』  
 
そこに、意を決して無礼を承知で飛び込んでくるお志賀。  
【御台様!一生に一度のご無礼をどうかお許し下さいませ。  
 どうか、わたくしに真実をお教え下さいませ!】  
「これ、お志賀殿!初瀬、お志賀殿を連れ出すのじゃ!」  
『幾島〜何を慌てておるのじゃ〜』  
【御台様、わたくしは不安で仕方ないのです。どうか本当の事をお教え下さい。  
 もしや・・・公方様はもう・・・この世におわしませぬのでは・・・】  
『・・・!!』  
「お志賀殿!今その話は・・・」  
『幾島!この者は何を申しておるのじゃ!!意味がわからぬ!』  
【後生でございます、御台様、わたくしには弔うことも悲しむことも許されないのでしょうか!】  
『えぇい、弔うなどと、いったい誰を弔うというのじゃ!』  
【あんまりでございます御台様、私は滝山殿と幾島殿のご様子から確信いたしました。  
 すでに公方様は薨去あそばされたのだと・・・】  
『・・・ええい、うるさいうるさい!うるさいうるさいーー!!  
 嫌じゃ!そのような事、聞きとうない!黙れ、黙れ黙れ黙れーーーっ!!』  
激昂した御台所は、そのまま意識を失った。  
 
奥で寝かされている御台所。夢をみている。  
まぶしい。なにやら夕日を間近で見ているような。  
誰かいる・・・?上様!  
『上様!お久しゅうございます。いったい何をなさっていたのですか・・・』  
“すまぬのう、御台。公務が忙しゅうてな。”  
『上様、わたくし、上様におわびせねばならぬことに気が付きましてございまする。』  
“ふっ、まったくそちは、いつも何か大事(おおごと)を抱えておるな。申してみよ?”  
『わたくし、以前、上様に将軍としての職務を全うせぬは無責任と申しましたが、  
 あの言葉はお忘れ下さいませ。』  
“はて、あの言葉が間違っているとも思わぬが、なぜじゃ?”  
『わたくし、何が一番大事なのか、今更ながらに気付いたのでございます。』  
“何じゃ?”  
『それは、上様でございます。上様の御身体にございます。  
 無理に公務に邁進されて、さわりがあったら大変にございまする。』  
“・・・・・・しかし、御台らしくないのぅ?なぜそう思い至ったのじゃ?”  
『なぜ?か・・・?わたくし、嫌な夢をみたのでございます。上様が薨去なされるという・・・』  
 
<お篤。>  
『!!父上様!薩摩より使いの者が参りましたが。間違いだったのですね!』  
“いや御台、間違いでも、夢でもないのだ。”  
『・・・・・・。』  
<お篤よ。お前を上様に嫁がせた事は大儀のためとはいえ自責の念もあった。  
 だがこうして、公方様と真に夫婦となった様子を見て、今、安堵し嬉しく思っておるぞ。  
 だがまた・・・そちには辛い現実の世界が待っておる。  
 それもこれも、元はわしの差配の故と思えば、そちに申し訳ない気持ちでいっぱいである。  
 だがわしは信じておる。そなたならば、必ず大地に足をつけいかなる困難も乗り越えてゆくとな。  
 それでこそ、わしが選びし姫であり、我が島津家の姫である。>  
『父上様・・・』  
“御台よ。わしもそなた独りを残して、申し訳なく思っておる。  
 出来れば母上にもよくしてやって欲しい。  
 わしの遺言は、あの夜に言ったとおりじゃ。時期将軍を補佐し、徳川の家を守るのじゃ。”  
『う、上様・・・では上様は・・・本当に・・・?  
 嫌です、嫌にござります。わたくし独りでどうやって生きていけましょうか!  
 どうかお連れ下さい。お2人とも、わたくしをお連れ下さりませ!』  
“そのような御台はらしくないぞ。わしが愛した御台は、まっすぐに生きる目をしておったぞ”  
『上様は勝手にござりまする。わたくしがこうなったのは上様のせいにございまする』  
“御台には感謝しておる。とっくに捨てた世の人生の最後に、そちと共に過ごし、幸せであった。  
 初めて生まれてよかったと思えたこと、全てそちのおかげじゃ。  
 あの夜に言うたように、また生まれ変わっても、人となるぞ。  
 そして、また、そちと出会って、夫婦になるのじゃ。今度は健康な身体に生まれ、  
 小大名家がよいのぅ。よいな?急いで来ぬでよいが、待っておるぞ。”  
 
『い、嫌でござります、すぐにわたくしもいきまする』  
“ならぬ!ならぬぞ、御台。そのようなこと、わしは望まぬし、喜ばぬ。父君も同じじゃ。”  
『そんな・・・上様がいないこの世は、辛いことばかりにございまする。  
 色の無い世界で独りで生きていけと申されますか。』  
“わしは心配しておらぬ。そちは必ず、生きる理由を、意味を見つける女じゃ。  
 焦らずともよい。少し時が経てば、嫌でも会える時が来るのじゃ。  
 それまで、わしが成し得なかったことを、そちが変わって引き継いでくれ。”  
『上様の変わりに・・・?』  
“そうじゃ、わかってくれたか?では、そろそろ行かねばならぬ。  
 御台、しばらく、しばらくの間の別れじゃ。達者でな。”  
『う、上様!父上!上様、上様、上様ーっ!!』  
 
寝所で天に向かって手を伸ばし、もがいている御台所の手を幾島が取った。  
「御台様、しっかりなさいませ、御台様!」  
目を覚ます御台所。顔にはいく筋もの涙のあとが。  
「御台様・・・今宵も上様のお渡りが・・・?」  
『・・・幾島・・・。すまぬ・・・。』  
「はっ?」  
『わたくしはどうかしておったな。上様は・・・お亡くなりになられたのじゃな。』  
「・・・!!姫さま!!・・・よろしゅうございました、よろしゅうございました・・・」  
『上様のお後を追うことも考えたが、どうやらそれは望まれぬようじゃ・・・』  
「姫さまっ!」  
『案ずるな。そのようなことはせぬ。上様と父上様に顔向けできぬようなことはな・・・』  
「・・・はい・・・」  
『のう幾島。上様はわたくしを御台所に迎えて、本当に良かったとお思いだっただろうか・・・?』  
「今更、何をおおせになりますやら。この幾島が悔し涙を流すほど、姫さまは公方様をお慕いし、  
 また公方様も、同じように姫さまを愛おしくお思いでございました。  
 人の一生は、一瞬のように儚いものにございます。姫さまと公方様のお2人が過ごした時間は、  
 かけがえのない大切な時間でございました。  
 その想い出があれば、きっと、これからも強く、生きてまいられましょう。」  
『そうじゃな・・・いつか公方様に会うその日まで、ちゃんと、生きてまいらねばな・・・』  
 
薄暗くなった庭に目をやると、二匹のホタルが飛んでいた。  
しばらく飛んで温かな光を放っていたかと思うと、どこかに姿を消した。  
『わたくしを哀れに思し召し 最期の別れに来られたか・・・』  
篤姫の目は、潤んではいたが生気が戻りつつあった。  
 

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