怪しげな黒い煙を上げる釜の前で、これまた怪しげな笑みを浮かべる少女が、やはり怪しげな呪文を唱えながら材料を投入していた。  
 そしてその後ろでそれを戦々恐々としながら見守る四人の、クロエを除くアトリエメンバー達。  
「また、何かやってるな」  
 以前彼女の呪いのせいで殺されかけたり、実の姉に性的な意味で襲われそうになったエナは顔を少し青ざめさせながらぼそりと呟く。  
「気にしちゃ駄目よエナ、下手に目立つと犠牲者決定だから」  
「……犠牲者が出る事は確定なんだな、何となくは解ってたけど」  
 何処か諦めたような表情で嘆息する二人。  
「はっはっは、黒いおねえさんの呪いは困りものだねえ。おおっと、そういえばおいら師匠から呼ばれてたんだった、今日はもう帰らせてもらいっだぁ!?」  
 ペペロンは最後まで言い終える前に足を思い切りウルリカに踏まれ悲鳴を上げた。  
「一人だけ逃げようたってそうはいかないわよ」  
 一人減れば犠牲者に選ばれる四分の一が三分の一になるのは当然の帰結であり、それは自分の身を守るために絶対に避けなければならなかった。  
 背後でそんな小さな内輪揉めが起きている事など全く気にせず作業を続けていたクロエだったが。  
「あっ……」  
 後ろの話し声がぴたりと停止し全員がクロエを注視する。一体今の「あっ」はどういう意味なのか、何か失敗をして呪いが台無しになったのか、もしそうなら今回は無事に済むかもしれない、しかし、もし呪いがより酷くなるような失敗だったら?  
 その場にいるクロエ以外の願いは前者である事だった、が、得てして現実とは非常なものである。  
「まあいいや、相手がちょっと大変な目に遭うだけだし……」  
答えは後者だったらしい。  
 背後の四人の顔が傍目に分かるほど青ざめる、クロエの言う『ちょっと』が本当の意味で『ちょっと』だった試しなど一度として無いのだ。  
「うーん、今回も大惨事になりそうだね」  
 ゴトーの言葉に答える者はいない。  
 誰もが声を発しない、というよりは発せないと言った方が正しい、痛々しい程の沈黙の後。  
「……出来た」  
 黒い少女が絶望を告げる。  
 クロエが振り返ると同時に四人は顔を全力でそらした。  
「エナ君」  
 また俺!? と心の中で叫び、助けを求めるように三人へと視線を向け、当然のように無視された。  
 
 誰も自分を犠牲にして他人――仲間ではあるが――を助けようという博愛精神に溢れる人物などいない、というかこの面子にそれを期待するのが間違っていた、とエナは思い知らされた。  
「な、なんだ、何か用か?」  
 意を決して振り返り、そう言った。  
「ちょっと協力してね」  
 そう言い、右手に何か液状の物が入った瓶を持ちながら、少しずつ歩み寄ってくる。  
 エナは逃げられないと、無駄だと心の中の何処かで知りながらも、生を求める本能の叫びのままにじりじりと後退る。しかしそう広くは無いアトリエの中、すぐに背中が入口の扉にぶつかる。  
「えいっ」  
 クロエが声と共に瓶の中の液体を振りまいた時。  
「エナー! 遊びに来たよー!」  
「ぐばっ!」  
 アトリエの扉が勢いよく開き、そのすぐ前にいたエナが吹き飛ばされ、液体は扉を開いた張本人であるエトと彼女に手を引かれて、おそらく無理矢理連れて来られたのか、半ば引きずられていたロゼにも少量降り懸かった。  
「あ」  
 突然の出来事に小さく声をもらすクロエ。  
「わぷっ、何、こ、れ……」  
 謎の液体をかけられたエトは急に言葉が途切れ途切れになりそのまま沈黙した。  
「おい、どうかしたのか?」  
 異変を感じ、エトに声をかけるロゼ。  
 先程懸かった妙な液体が原因だろうとは解っている、あの女が持っていたという事はおそらく危険な代物だろうとも。  
 自分にも少量とはいえ懸かったのが不安だが先ずは目の前の友人の事だ。  
 そう思い再び声を掛けようとした所でエトがいきなり振り返り抱き付いてきた。  
「うおわぁっ! お、おい、いきなり何だ?」  
 エトが抱き付いた際に自分に押し付けられたたわわな肉の果実や、髪から仄かに薫ってくる普段は意識しない良い香りに、少しだけ理性が飛びそうになりながらも、出来るだけ落ち着いた声でロゼは尋ねる。  
 するとエトは抱き付いたままの状態でロゼの顔を見上げた。頬は紅潮し瞳は潤み、まるで熱に浮かされたかのような表情のえも言われぬ艶やかさに心臓の鼓動が跳ね上がる。  
「ねえロゼ、あたし気付いたんだ」  
「な、何にだ?」  
 謎の液体のせいか、エトのせいか、半分崩れかけている理性をそれでも動員し、どうにか平静を保とうと努めるがやはり声に動揺が現われる。  
 
「あたし、ロゼをずっと友達だと思ってたけど本当はそうじゃなくて一人の男として……」  
「――っ! 冗談はよせ」  
 突然の告白に戸惑い、エトの言葉を遮る。  
 エトを止めるためというよりは、あの女の懸けた液体のせいだと理解しているにも関わらず、そのままだと受け入れてしまいそうな自分を止めるためだ。  
「冗談なんかじゃないよ、よーし、それじゃ早速部屋に行って二人で愛を語ろう! メイク・ラブだよー!」  
「おい、まっ、うおぉあっ!」  
 ロゼを引きずり、来た時以上の速さでエトは嵐のようにアトリエの外へと飛び出して行った。  
「「「「…………」」」」  
「成功……かな?」  
 後には呆然とする四人と騒動の張本人が残された。  
 しばしの沈黙があり、いち早く正気を取り戻したウルリカはクロエに尋ねる。  
「ねえ、今回の呪いは何だったの?」  
「呪いじゃなくておまじない」  
 やはりそこにはこだわるらしい。  
「身近な人への好意を増加させるおまじないだよ」  
「好意を増加じゃ済まない感じだったけど……」  
「うん、ちょっと失敗して身近な人を好き過ぎて強姦しちゃうくらいになっちゃって」  
 その発言を聞き、本来なら自分がそうなっていたエナが青ざめていた。  
「奥手なエナ君の後押しをしてあげようとおもったんだけど」  
 どう考えても嘘だ、絶対自分が楽しみたかっただけだ、と皆が思ったがやはり皆が口には出さず黙っていた。  
「それじゃ、私は結果を見届けて来るから」  
 そう言ってクロエが退出し、後には犠牲を免れた幸運な四人が残された。  
「おにいさん、止めなくていいのかい? おねえさんが強姦魔になりそうだけど」  
「止められねーし、止められても止めねーよ」  
「どうしてだい?」  
「もし姉貴に恋人が出来るなら俺への被害が減るし、下手に手をだすと俺が大変な目に遭いそうだし」  
 エナの姉への白状ともとれる言葉にウルリカはため息とともに呟いた。  
「そういう問題じゃ無いでしょ……」  
 しかし、それでも自分に被害が及ぶのは避けたいので何かする気は無いのだが。  
「強姦とは、スマートじゃないねえ」  
 ゴトーの言葉は誰にも受け取られず、そのまま空中に霧散した。  
 
 エトはロゼを引きずる、どころかロゼの足が地に着かない程の勢いで引っ張りつつ自分の部屋に駆け込み、ロゼをベッドへと放り、自分もまた飛び込んだ。  
「ぐっ……、何、し、やがる」  
 思い切り飛び乗られた衝撃で呼吸が詰まり、脱力した所を押さえ付けられた。  
 なんでいきなり俺を押し倒しているんだこいつは、愛を語るんじゃなかったのか? もしかしてこいつにとっての会話は肉体言語を用いたものなのだろうか、普段の行いからするとあながち間違いでは無いかもしれない。  
 などと益体も無い事を考えていたが、現状では不要な思考、と切り捨てる、先ずはこいつから逃げなくてはならない。  
 どうにかして脱出しようと足掻くが、呪いのせいでリミッターが外れているのか普段以上の馬鹿力を発揮するエトに対しては無意味な試みだった。  
 ロゼは物理的な抵抗は意味をなさないと知り、おそらくこちらも無意味だとは解っているが、説得を試みる。  
「お前は今あのクロエとかいう女の呪いのせいで正気を失っているんだ、先ずは落ち着いむぐっ」  
 話を聞くどころかさせる気すら無いのか、まだ言葉を紡いでいる途中のロゼにエトは口付け、強制的に黙らせた。  
 エトはそのままロゼの口内に唇をこじ開けるようにして舌を侵入させ、まるで肉食獣の捕食のように、一切の遠慮もなくロゼの口内を思う様に蹂躙していく。  
 部屋の中で二人の唾液が混ざり合う音だけが存在した。  
「ぷはっ」  
 暫くして、二人の唇の間から唾液が漏れ、ロゼの頬を濡らす頃になり、やっとエトは貪るような口付けを止めた。二人の唇の間に銀の糸が一瞬だけ伝わり、消えた。  
「ねーねーロゼ、どうだった、気持ち良かった?」  
「……んな訳あるか、というか痛い」  
 二人の混ざり合った唾液でぬらぬらと妖しく、艶めかしく光る唇から目を逸らしつつも言い放つ。  
 そういった知識も経験も無いか、或いはゼロに等しいエトに相手を口付けだけで快感へと導く技術などあろう筈もなく、互いの前歯をカツカツとぶつけ合い、寧ろ痛みを残す結果となった。  
「むー、キスする時に舌を入れると気持ち良いってリリアちゃんが貸してくれた本に書いてあったのに〜」  
 お嬢様、どういう本読んでるんですか、と心の中で突っ込みを入れ、後で旦那様に報告して注意して貰おうとロゼは決めた。  
 
 しかしそれは後の事であり、今は目の前の事態をどうにかしなければならないのだ。  
「お前みたいに不器用で大雑把な奴には無理な芸当だ、だからさっさと諦めて俺を離せ」  
「んー、じゃあロゼからキスしてよ」  
 少し考えるような素振りをしてから、ロゼの予想の右斜め上遥か上空を通り過ぎる答えをエトは返してきた。  
「……………………は?」  
 予想外にも程があり過ぎてほぼ思考が停止し、ロゼの口からは単音説が発せられるだけだった。  
「だからぁー、ロゼの方からキスしてって言ってるの」  
 何故そうなる、とか、こいつ話の後半部分聞いてねえ、とか、何で無理矢理押し倒している相手にそんな事がいえるんだ、とかロゼの頭の中で様々な突っ込みが回っていた。  
 だが、この場で言うべき言葉は一つしか無いだろう。  
「断る」  
 美少女に口付けを迫られる、本来なら垂涎もののシチュエーションなのだろうが今現在の異常な状況では何が何でも忌避すべき事柄でしかない。  
「えー、何でー?」  
「俺とお前は、こういう事をしていい関係じゃない」  
「恋人同士なのに?」  
 どうやら認識だか前提条件だかが二人の間で果てしなく食い違っているようだ。  
「いつ、俺らが恋人同士になったんだ」  
「え? んー、……………………あ! そういえばなって無かった!」  
 普通なら、長考どころか一瞬の思考すらせずに気付くべきである。  
 再びの予想を遥かにぶっ飛んだ発言に絶句するロゼ、そしてその衝撃も覚めぬ内に更に駄目押しがきた。  
「じゃあ今から恋人って事で、これで問題無しだよ!」  
 ロゼは最早様々な感情を通り越し、呆然たる心地である。  
 しかしいつまでも呆然としていられる状況でも無い。  
「勝手に、俺の意思を無視して決めるな」  
「堅い事言わないでよ〜、いーじゃん別に、減るもんじゃないし」  
「堅い事じゃないし、減る減らないの問題でもない」  
 一旦言葉を区切り、更に続ける。  
「だいたい、恋人ってのは好き合ってる者同士がなるものだ」  
「あたしはロゼのこと好きだよ?」  
 一切の恥じらいも躊躇も無く言い放たれたその言葉に、ロゼはエトが正気では無いと解っていながらも思わず赤面してしまう。  
 純粋で明け透けな好意を――まあ見た目は――美少女から示されて何も感じないのは、極一部の特殊な性癖を持った、あまり関わり合いになりたくない部類の人々くらいである。  
 
 赤面しながらも、やや崩れかけではあるが冷静さを何とか保ちつつ、まだ諦めていなかった説得を再開しようとする。  
「だからそれは呪いのせいでだな……」  
「もしかして……ロゼ、あたしのこと、嫌いなの?」  
 再び説得は今度は言葉によって遮られた。  
 何となく、その声の響きがそれまでのものとは違っていた気がして、ロゼは今の今までずっと逸していた視線をエトに向けた。  
 視線の先にある顔は、今にも泣き出しそうだった。  
「キスしても、好きって言っても喜んでくれないし……恋人じゃないって言うし」  
 言いながら、エトの目尻に涙が染み出してくる。  
 不味い、とロゼは思った。ぷにぷにが猫に決して勝てない事のように、男が女の涙の前になす術なく敗北するのは永遠の真理なのである。  
「い、いや、その、嫌いじゃないぞ」  
 咄嗟に、碌に考えもせずに、只目前の事態に対処するためだけの言葉を言い、言ってからロゼは自らの失策に気付いた。  
 ここで嘘でもいいから肯定していれば、この場から逃れられたかもしれなかった、などと今さら気付いてもどうしようもない事実に気付いたのだ。  
「本当!? よかったー!」  
 先程までの泣顔から一転し、歓喜の表情を浮かべるエト。  
「これで二人は晴れて恋人同士だねっ!」  
 どうもエトの脳内では、嫌いじゃない=好き=恋人、とでも自動翻訳されてしまったようである。  
 そう言いつつエト今までロゼを押さえ付けていた手を離し、ロゼに抱き付いた。  
 むにゅっ、とロゼの胸板を弾力があって、しかし柔らかいという、どこか矛盾した、しかし確かに存在する至福の感触が襲った。  
 そしてその感触はロゼの理性という堤防に、大きな罅を入れた。  
 そもそもこの年頃の男などヤりたい盛りであり、ここまで美味しい状況でどうにかならない方がおかしいのだ、しかもロゼは少量ではあるがクロエの呪いまでかけられている最悪のコンディションである。  
 ここまで持ったのはひとえに彼のモラルや常識が、呪いだかおまじないだかでおかしくなっている友人を手籠めにする事を許さなかったからだ。  
 しかしそれも呪いや度重なるエトの誘惑により、もはや崩壊寸前である。  
「ロゼぇ」  
 エトは、甘えるような、媚びるような、蕩けそうに甘い声をロゼの耳元で囁く。  
 
「こっから先はあたしもよく知らないんだ、本にも書いて無かったし」  
 ロゼは何も言わない、いや、言えない、暴発しそうになる自分を押さえるのに必死で、何かを考える余裕すらない。  
「だからね」  
 放たれた、エトのその口から、決定的一言が。  
「ロゼの好きにして、いいよ」  
 ロゼはその瞬間、確かに自分の頭の中で何かが崩落していく音を聞いた気がした。  
「どうなっても、知らないからな」  
 一言一言、区切るようにしてロゼは言葉を発する。  
「いいよ、ロゼなら」  
 これから起る事への期待か、今の多幸感か、赤く、紅葉を散した顔でエトは答える。  
 答えと同時に、二人の顔は少しずつ近付いていき、重なった。  
 最初のように一方的では無く、お互いから求め合う口付けだった。  
「んっ、ふ、ふぅん」  
 ロゼの舌がエトの唇を開き口内へと侵入する、ロゼはそのまま舌を絡ませ、口蓋をねぶり、歯茎をなぞり、歯の一本一本までもまるで味わうかのように舐めてくる。  
 犯されている、口付けをされているだけだがエトはそう感じていた。  
 まるで口内全体が性感体になったように、ロゼの舌が動く度にエトの身体を電撃が走った。  
「ふっ、う、ふうぅー!」  
 ロゼの執拗なまでの愛撫は続く。  
 耳にはぴちゃぴちゃという水音が、鼻先には二人の唾液の混じった生々しい匂いとロゼの香りが、舌にはロゼの口内の味が、感触が、そしてすぐ目の前には愛しい、愛しいロゼの顔が。  
 まるで五感の全てを犯されるような未体験の感覚に、脳まで溶けてしまいそうな快楽に、身体を走る電撃は更に強くなっていく。  
「ふっ、んふうぅー!」  
 そして一際強い電撃がエトを駆け巡り、大きく身体を痙攣させた。  
(何、これ……)  
 エトは、口付けだけで与えられた、初めての絶頂の感覚に、戸惑いつつも悦びを感じていた。  
 ロゼは相手の反応を見て唇を離す、銀の糸が、名残惜しむかのように二人の唇を繋ぎ、消えた。  
「はっ、はっ、はあ」  
 エトは息荒くそのままロゼにしなだれかかる。  
 エトは、この後起きる事が今とは比べ物にならない程に凄まじいものだと伝え聞いている、だとすればいったい自分はどうなってしまうのか、そう不安がよぎる。  
 しかし、その表情は、それを恐れるようで、隠し切れない肉の快楽への期待が溢れる、淫靡で妖艶なものだった。  
 
 

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