部屋の中に温かい夕暮れの日差しが少し空いているカーテンの隙間から入り込んでいた。
ベッドの上には一人の女性の姿が合った。この工房の主、イリスだった。
彼女はどれぐらい夢の世界にいただろうか?今だに規則正しい息遣い、それにあわせて胸が小さく起伏していた。
イリスは今まで感じたことの無い心の充実感、それとまどろみの中の気だるさ
そして一筋の救いの光による幸せを感じ、意識が眠りの世界から現世に戻ろうとしていた。
カタッ……
部屋の中には動いている人の気配を感じることが出来た。
彼が身支度をしているのだろうか?
極力物音を立てないように部屋の中を移動している様がイリスの惚ける頭の中でも感じ取ることが出来た。
重い瞼を擦りながらその人物に声を投げかける、想像以上の脱力感が寝起きの良い彼女の思考を靄を掛け鈍らせていた。
「ユアンさん…」
「……」
無言で息を呑む呼吸音が彼女の耳に届く。
途端に突き刺さる氷のような冷たい視線…
「イリス」
吐き捨てるような言葉で男は彼女の名を呼んだ。
イリスは頭の靄が消し飛び、一瞬にして気だるさや自分を包んでいた幸福感が取り除かれた。
その声はユアンではなく自分が一番知る人物、あるいは一番身近な人の声だった。
「エッジ?」
「あぁ…体調が悪いならそのまま寝ておけ」
驚きの眼差しで見つめ返すイリス。その視線を受け止めながらエッジは淡々と言葉を紡いだ。
「思ったより簡単なクエストだった。お前のこともあったから早めに切り上げてきたところだ」
しかし言葉には感情を表さないものの彼の目はイリスの体を何度も何度も舐めるように足の先から頭のてっぺんまで往復していた。
上体を起こしたイリスはベッドのシーツに身を隠し、エッジを直視できずに床に視線を落としていた。
その視線の先にはイリスの衣服、そして丁寧にたたまれた下着が置かれていた。
よりによって相手を確かめもせず別の男の名を口走ってしまったことを後悔する。
しかも一番間違ってはいけない人物にだ…
「だ、大丈夫…」
長い沈黙が続いた中、我慢しきれずに彼女は呟いた。
何に対して大丈夫なのかは自分でも分からなかったが、とにかく彼女はその言葉をエッジに伝えるだけで精一杯だった。
「……」
しかし男は何も返事を返さなかった。平素から彼はこのような対応をすることは多かった。
またしても彼は無言のままイリスに突き刺さるような視線を投げかけていた。
彼女は身じろぎ一つできないまま再び沈黙が訪れ、外から聞こえる小鳥の囀りが唯一部屋の音源となって静寂を破っていた。
どくん…
イリスは自分の体内から零れるものを感じていた。
今日ユアンを受け入れ、そして自ら求め願った彼の分け与えた残滓。
熱く滾っていたそれは彼女の秘所から太腿へと、昼間の情事を思い出させるかのようになぞった。
焼けるように熱かった彼の精は今では湧水のように冷たくぞくりとした感触をイリスに与えるのだった。
「…ごめん」
沈黙に耐えかねたイリスが再び口を開いた。
その言葉をきっかけにエッジはベッドへと一歩、また一歩近づいてくる。
「ごめんエッジ!ごめん…私、わたし…」
エッジはベッドの傍まで到達すると呪文のように謝罪の言葉を吐き続けるイリス
まるで拝むように胸の辺りで掌を合わせ、そこに額をつけて体を小さく震わせていた。
エッジの目にはイリスの華奢な体が寄り一層小さく、脆いものに映った。
自分の頭に取り巻く猜疑心をうち払うかのようにエッジは彼女の合わせる両手の手首を取り、その祈りを解いた。
そのままエッジはベッドに腰を掛け、じっとイリスの顔を見つめる。
イリスは恐る恐る瞼をゆっくりと開くと、吐息が掛かるほど近くにあるエッジの顔に思わず彼女は息を飲んだ。
真剣に見つめるエッジの黒い瞳、それはまるでイリスの瞳から心の中を覗き込むように凝視していた。
イリスは言葉で問われるより辛い目による尋問に耐え切れず顔を逸らした。
しかしその行動をエッジは許さなかった。彼女の細い顎に手を添え、強引に自分のほうへと向かせた。
「イリ…ス」
彼の淡々と紡ぎ出す低い感情のこもらない声。
イリスは自分の小さな心の壁に限界を感じていた。
緊迫した空気、終わりが見えない最愛の人の問いかけ、なにより彼を裏切って一時の逃げ道を選んでしまった自責の念に心が押しつぶされそうになっていた。
「エッジが…エッジがいけないのよ!だから私ッ、…私!」
追い詰められた鼠が猫に噛み付くように突然イリスはエッジに矛を向けた。
彼女の昂ぶった感情は留まることなく目の前の男に吐き出された。
「あの男に犯され、そして優しく包んでくれる彼に体を委ねて何処が悪いのよ!?」
蒼い瞳から涙が零れ落ちる。自分が醜く感じながらもエッジに責任を擦り付けることで心を締め付ける鎖がほどけて行くのが分かった。
だからこそ彼女はありったけの不満を彼にぶち当てていた。
「エッジは私のことなんて何もわかっていないの!これっぽっちも!」
たとえ殴られ、暴力を振るわれたとしても、それは自分の心を理解してくれる存在を見つけた彼女が選んだ選択だった。
叫び声に近い訴え、イリスの体を隠していたシーツははだけ下着を着けていない裸体を
そして暗幕に包み隠していた傷ついた心を自ら曝け出していた。
「エッジが私を……」
繋ぎ早に繰り出されていた声が途絶え、それ以上は言葉が続かなかった。
イリスはエッジに何を望んだのか、どうして欲しかったのか不条理すぎる言い訳が思い浮かばなかったのだ。
彼女の言葉が途切れるのを待っていたかのようにエッジの手が動く。
手首を掴んでいた彼の手が離れ、指がそっとイリスの頬をなぞった。
涙を拭ったその手はイリスの細く震える肩に置かれる。
「すまない」
イリスが想像していなかった謝罪の言葉。掠れた声でエッジはそれを彼女に告げた。
彼ならきっと頬を叩いて自分を叱ってくれると思っていたイリス。
そしてイリスの肩からエッジの手が離れ、彼は立ち上がり背を向けた。
「……」
エッジは声にならない唇が動いただけの謝罪の言葉をもう一度吐き出した。
一歩一歩重い足取りでエッジは離れていった。
その動きは体だけではなく心も共に離れていく様をイリスは感じ取っていた。
無念、失望?……絶望。
エッジは自分の感情の整理がつかないまま身支度を整えていた。
もはや自分がイリスに必要とされていないことを痛感した彼は誓いを破る決意を固めていた。
「イリス…」
自然と彼女の名前を口走ってしまった。しかし、呼びなれたその名前を口にするのがとても心苦しかった。
心の中で立てた彼女を護ると言う誓い、自分の力量不足からなしえなかった目標……いや、夢となり崩れた彼の志。
共に過ごしてきた時間が脳裏を過ぎり、その手が止まる。
楽しかった日々、辛く感じた異世界での冒険、充実感に溢れた他愛の無いやり取り。
彼女の見せた錬金術の素晴らしさ、命を懸けて護ろうとしていた二人の絆…
ガタッ……
机に何かが当たったような音。おそらく故意に発せられた音のだとエッジには感じとれた。
彼は背後から聞こえた物音に振り返りもせず音の主に問いかける。
「イリスか?」
「…うん……エッジなにしてるの?」
見れば分かるだろう、とエッジは返事を口にせず飲み込んだ。
イリスの到来で彼の止まっていた手が動き出し、ただ黙々と作業を続けていた。
「エッジ…ごめんなさい」
イリスの呟き。
「あぁ……」
エッジは彼女を見ずに曖昧な返事を返した。
「わたし…」
「世話になったな。今日でここを出て行くことにした」
イリスが話し始めるのを待っていたかのようにエッジは彼女の言葉を打ち切って自ら意思を伝えた。
「…っ!」
息を呑む音が小さく聞こえた。イリスは口に手を当て床に視線を落としていた。
何か悩んだときにする彼女の癖。エッジは今まで何回、何十回と見てきたその仕草。
しかし今日はその姿を見ないようにそのまま工房の扉を見つめていた。
後ろ髪引かれる思いをしないように彼は一瞥もせずに立ち上がると外へ続く扉へと足を進め始めた。
タタタ…
イリスの足音が静かに、それでいて早く床の上に響きエッジの前に立ちはだかった。
「エッジ!」
俯いていたエッジを覗き込むように彼女は低い姿勢で上目遣いで見上げていた。
その視線をばつが悪そうにエッジはそらす。
視界にかろうじて入ってくる彼女の衣服。
いつもの白いワンピース……と思ったがしかしそれは彼女の衣服ではなかった。
ベッドのシーツに身を包んだだけの彼女。
もちろん靴は履いてはいない、冷たい床に彼女の素足が映った。
「エッジ、御願い聞いて…私、まだすべてを伝えてないの……」
「聞く意味がない、俺は行くぞ」
エッジは道を塞ぐイリスの体を邪魔な置物をどかすように手で薙ぎ払った。
彼女の体は予想以上に軽く力を入れすぎたエッジの行為にイリスはバランスを崩し床に倒れこむ。
「…ぃッ…」
小さく喘ぐがイリスはすぐ起き上がり再びエッジの前に両手を拡げて彼の道を阻んだ。
普段見ることの無い真剣なイリスの表情に男は唾を飲んだ。
何かを決心したような、覚悟を決めたその瞳。
イリスの鬼気迫る迫力にエッジは一瞬たじろいでしまう。
「…私…私…エッジのことが……」
言葉が詰まる。彼女が紡ぐ次の言葉はエッジにとって想像に容易かった。
なぜならそれはエッジもイリスと同じ感情を胸に抱いていたからだった。
工房には長い長い静寂と闇が敷き詰め二人の姿を包んでいた……
おそらく つづく