それは、レゾネータ、というらしかった。  
「……新しいプラグイン?」  
「そ」  
 化学準備室で朱浬さんが取り出したケースを前にして、のっけから腰が引けた声を出した僕に、朱浬さんは例のごとくおっとりした微笑で応えた。  
 この人の場合、こういう虫も殺さない顔をしているときが一番恐ろしい。また何か、ろくでもないことを企んでいるんじゃないだろうな。この人の、当人曰く罪のない思いつきのせいで、こちらに被害が及ばなかった例がないときては、警戒せざるを得ない。  
「トモハルも、興味あるでしょ?」  
「いや……ないです」  
 正直にいえば、ないことはなかった。機巧魔神にかかわる総てのことに興味を持たざるをえない立場に、僕はいる。どんなことであれ、操緒を《K鐵》から解放できるカギになりえるのだから。  
 だが一方では、プラグインというものにはとにかくろくな記憶がなくて、状況も分からないまま無闇に関わりたくもない。微妙なところだった。  
「ふーん?」  
 その瞳に面白そうな光をきらめかせる朱浬さんも、こちらの内心の矛盾を分かっているのだろう。僕の答えになど取り合わず、無造作に、机の上に置いたケースを僕の方へ押しやった。僕だけでなく、その場にいた操緒や嵩月、アニアの視線も否応なくその上に集まる。  
「まあ、見てみなさいよ」  
 僕は、おそるおそるケースを覗き込んだ。ケースの中はほとんどが詰め物で、真ん中が、ちょうどそのプラグインがすっぽり収まる形にくぼんでいる。レゾネータは、そこで冷たい銀色の光を放っていた。  
 形は、例のイグナイターなどという卑猥な代物に比べれば、いたって普通だ。いわゆる音叉というやつで、ただ、全面に細かい紋様が彫られていることだけが特徴といえた。  
『これって、なんなんです?』  
 慎重に黙っている僕に代わって、操緒が尋ねる。  
「んふふー。さあて、なんでしょーね」  
「私も、初めて見るな」  
 アニアがプラグインをまじまじと見つめながら呟く。機巧魔神に関する研究では世界でも屈指のこの天才少女でも、これが何なのか知らないのか。  
「なんだこれは?」  
 自分の知識を超えるというのがややプライドに障ったのか、詰問に近い口調で質すアニアに、朱浬さんは頬に人差し指を当ててみせた。  
「うーん。実はあたしもよく知らないのよ」  
 さっきはあれだけ勿体ぶって思わせぶりなことを言っていたくせに。思わずそこにいた一同が白い眼を向けるのに、朱浬さんは動じるそぶりも見せない。  
「こないだ、王立科学狂会がどこぞで掘り出したらしいんだけど、良く分かんないからって、こっちに回してきたのよ。トモハルにも見せといてくれ、ってさ」  
「え……僕に?」  
 
 それはまた、うさんくさい話だ。  
「兄貴ならともかく。僕なんかが見たって、分かるはずないでしょう」  
「あたしもそう思うんだけど」  
 しれっという黒服の上級生に軽く殺意を抱く僕の横で、アニアがあっさりとプラグインを手にとった。いろいろとひねくり回しながら、  
「ふむ、特に目立ったインターフェースや機構部分は見当たらぬな……? レゾネータというからには、機巧魔神を何かと共鳴させるのだろうが、一体何とどうなるというのだ。表面の紋様も、特段何か意味がありそうには見えぬが」  
「うーん。ニアちゃんでも分かんないか。実はちょっと期待してたんだけど。こうなったら、部長にでも訊くかなー」  
「む」  
 アニアはむっとした様子で、  
「何も、今すぐ思い当たるふしがないからといって、私に解らぬはずがない。少し時間をかせ。必ず調べだしてやる」  
「そう? んふふ。期待してるわよん」  
 にっこりと笑う朱浬さんは、今の会話でまんまとアニアを乗せたに違いない。まったく、この人は悪人だ。倉澤六夏のように分かりやすい悪人面でない分、いっそうタチが悪い。思わずそんな感慨にふけっていると、  
「ほれ」  
 横合いからプラグインが僕の目の前に差し出された。  
「アニア? えーと、それはちょっと」  
「愚か者。いきなり《K鐵》に組み込んでみろなどと乱暴なことは言わん。一応、手にとってみるがよい。演操者には何か反応しないともかぎらんからな」  
「う……」  
 反応してもらっちゃ困るのだが、ここで断るというのも大人げないだろう。何も起こらないことを祈りつつ、アニアからそれを受け取った。  
 ほっとしたことに、何も起こらない。  
「ふむ。なるほど」  
 アニアがうなずく。僕は手にしたプラグインが意外に軽いのに驚きながら、  
「これって……音叉っていうんだろ」  
 軽く、指をその上に滑らせてみた。その瞬間、涼しげな鈴のような音が、僕の聴覚を打つ。それと同時に、  
『「んっ」』  
 ため息のような声が重なって聞こえた。  
 顔を上げると、朱浬さんが神妙な表情で胸に手を当てていた。ちょっと上を振り仰ぐと、操緒も同様の姿勢で、ほう、と小さく息を吐くのが聞こえる。  
「朱浬さん……? 操緒……?」  
   
「ん、あ」  
 朱浬さんが、つと我に返って、  
「あ、何でもない。……何でもないわ」  
「いや、でも……? 操緒も」  
『え? あたし……ええと、あは、何でもないってば』  
 とても二人ともそんなふうには見えなかったので、さらに問い重ねようとしたとき、  
「智春っ。プラグインっ」  
 アニアの鋭い声がして、僕は自分の手の中のそれに視線を戻した。  
「う……わっ」  
 驚いた。レゾネータは、淡いオレンジ色の光を放ちながら、その先端から粒子状になってさらさらと崩れつつあった。あまりのことに、思わずそれを取り落とす。  
「な……何だ……」  
「智春っ。何をしているっ」  
 アニアが、大急ぎで床の上にかがみこみ、目を凝らして観察を始めた。しかしその甲斐もなく、床の上に軽い音を立てて落ちたそのプラグインは、止まることなく空中に溶け続け、やがて全てが消え失せた。  
 僕たちは呆然として、何もなくなった床の上を見つめる。  
「何だ、今の……?」  
「プラグインが、分解した……?」  
 僕の問いのような呟きに、アニアが独り言のように答える。確かに、そんな風に見えた。アニアは鋭い視線を僕たちに投げかけ、  
「智春。操緒も。何か、変わったことはないか?」  
「い、いや……」  
 僕自身には、取り立てて目立った変化はない。ちょっと、どきどきしているだけだ。  
『あたしも、何ともないよ?』  
 操緒も、きょとんとした顔で応じる。何なんだ、一体。  
「……うむ……」  
 アニアは、難しい顔をして考え込む。  
「こんなプラグインは、見たことも聞いたことも……是非とも、調べなくては」  
 ぐい、と僕を引き寄せたその双眸には、研究者魂があかあかと燃えていた。  
「智春。今宵さっそく始めるぞ。図書館で一晩つき合え。奏もだ」  
「え……ええっ」  
 僕がのけぞったのは、嵩月やアニアを相手に一晩過ごすというので、けしからぬ想像を逞しくしたからでは、もちろんない。徹夜で、題名を読めもしない本を探したり、お茶やお菓子の給仕をしたり、アニアに無能だのトロいだのと罵られるのが容易に想像できたからだ。  
 何とか、断るための口実を探す。ええい。この際、方便も許されるだろ。  
「えっと……今晩は、テスト勉強が……」  
「む? 奏、本当か?」  
   
 わ。そこで裏を取るなんて、どこでそんな知恵を付けたんだ。真面目な嵩月が、咄嗟に口裏を合わせてくれたりするわけがないじゃないか。案の定、嵩月が罪のない口振りで、  
「あー……テストは、たしか来週末……」  
 暴露してくれてから、ちょっと慌てて口を押さえる。嵩月、遅いよ……。  
「決まりだな」  
 アニアが邪悪とも言えそうな笑みを浮かべ、僕はうううっ……、と呻いた。何てことだ。しかも、張本人の朱浬さんときたら、  
「トモハルと操緒ちゃんが付き合うなら、あたしはいいわよねー。先に帰るわ」  
 しれっと、まるで他人事のように言ってくれる。  
「う、うむ」  
 アニアにしてみれば、朱浬さんも観察対象にしたかったはずだが、さすがに朱浬さんの笑顔を前にしてごねる度胸はないらしい。そのかわり、二人分たっぷりつき合えとでも言うように、僕を睨み付ける。あー、はいはい。どうせ僕はそういう役回りだよ。  
 そんな風に少しいじける僕を後目に、  
「じゃねー」  
 朱浬さんは軽く言って立ち上がり、それから、滅多にないことに、よろけた。すぐ近くにいた僕は、慌てて立ち上がり、朱浬さんの二の腕をつかんで支える。  
「……大丈夫」  
 ですか、と言いかけて、朱浬さんと目が合った瞬間、僕は息を呑んだ。  
 いや、確かに朱浬さんは美人だ。それも、でたらめなくらいに。中身がアレなことは重々分かってはいても、いざその美貌をこんなに間近で見れば、健康な青少年男子としては、やはりいくらかは緊張する。  
 だが……その香りは、こんなに芳しかったろうか。肌は、こんなに吸い付くように滑らかだったろうか。瞳は、こんなに潤んだ光を宿していたろうか。唇は、こんなに艶めいていたろうか。吐息は、こんなに甘かったろうか。腕は、こんなに華奢で柔らかかったろうか。  
「あ」  
 一瞬のことだったと思う。朱浬さんは目を丸くして僕から飛びすさり、  
「ごめーん。ありがとね、トモハル」  
 もう、いつもどおりの朱浬さんにしか見えなかった。目をこすりたい思いで見つめる僕に向かって、  
「ふふーん? どったの? いまさらながら、あたしの魅力にまいったとか?」  
 おっとりと、だが悪戯っぽい目つきと笑みで訊ねてくる。  
「あ、いや……」  
 首を振るのが精一杯の僕の背中に、  
『智春おー?』  
 いやに優しげな操緒の声と、やけに冷たい嵩月の視線が突き刺さった。いや、なんでもないんだ。君たち。話し合おう。別に、ちょっとした人助けをしただけじゃないか。  
 おおわらわでそっちへの対応に追われる僕が背中を向けた隙をぬうようにして、朱浬さんはさっさと化学準備室を出ていってしまった。やれやれ。相変わらず、周囲を引っかき回すのだけは上手い人だ。  
 それにしても……いったい、何だったんだ。今の。  
 
   
『智春。やっぱ、風邪?』  
 満月にもうあと二、三日という感じの月明かりに照らされた夜道で、僕と並んで鳴桜邸への帰路をたどりながら、操緒が訊いてきた。  
「んー……どうかな」  
 僕の答えは、頼りない。本当に、よく分からないのだ。頭がぼうっとして、体がふわふわした感じはあるが、頭痛も喉の痛みもないし、洟も咳も出ない。それに、いつぞやの風邪のときと違って、操緒も普通に出てるし。  
『ふーん。ま、でも、良かったじゃん。ニアちゃんに勘弁してもらえたんだし』  
「そうだな」  
 僕は苦笑する。有り体に言えば、アニアには叩き出されたも同然なのだった。本を探しにいけば書棚の間でぼうっと突っ立っているし、お茶を出せばアニアが読んでる本の上にぶちまけるし、話しかけられても全て生返事とくれば、まあ致し方ないだろう。  
 その挙げ句に、あやうく、激怒したアニアに運気のことごとくを吸い取られようとした時に、嵩月が「あー……夏目くん、風邪かも……」と取りなしてくれたのだった。  
 アニアもこれには拍子抜けしたらしく、「病気か。だったら、早く言え。病人に徹夜させるほど、私も人でなしではない。さっさと帰るがよい」と、あっさり放免してくれた。  
 本来ならアニアも一緒に鳴桜邸に戻るべきだったろうが、本人がすっかりやる気なので、図書館に残してきた。アニアがあの図書館で夜なべ仕事をするのは、これが初めてというわけでもないし。  
 そのために今や、ベッドをはじめとした色々な家財道具が運び込まれていて、一晩や二晩過ごすのには何の不便もない。まあ、お風呂だけはさすがに付いていないが、それは、最初にみんなで夕食を取りに出たときに、さっさと銭湯で済ませてきたし。  
 それに、生徒会関係者をはじめ演操者がごろごろいる洛高に、たとえ夜中だろうと忍び込んで悪さをしようなんて輩はまずいないから、むしろ、鳴桜邸にいるよりも安全で快適かもしれない。まあ、せめて短時間でも、暖かくして睡眠を取ってくれるように祈るばかりだ。  
 嵩月は、僕と一緒に引き上げた。僕を鳴桜邸まで送ると言ってくれたが、こっちもそこまで体調が悪いわけじゃないので、せっかくだけどお断りした。いくら強力な悪魔だといっても、こんな夜遅くに鳴桜邸から自宅まで女の子を一人で歩かせたくない。  
 嵩月はそれでも少し渋ったのだが、操緒が「だいじょうぶだって。あたしもいるし」と受け合ったので、諦めてくれた。なんか、僕より操緒のセリフで納得してくれるというのが、微妙な感じではあったが。  
 嵩月の自宅の門前で別れ際に、「……夏目くん。お大事に」と真剣な面持ちで言ってくれたのは、本当に有り難かった。とにかく、僕の周りときたら最近、人の迷惑も考えないような人間ばかりだから、こういう素直な善意はとても心にしみる。  
 ほのぼのと嵩月の控えめな笑顔を思い出していたら、肩の上から冷たい声がした。  
『智春。鼻の下伸びてる』  
「んなこと、ないだろ」  
 思わず鼻の下をこすりたくなるのを懸命にこらえて、操緒を見上げる。  
『ふーん? どーせ、嵩月さんのことでも思い出してたんでしょ』  
「う……」  
   
 こいつは、ほんとに時々、こっちの心が読めるんじゃないかと思う。言葉に詰まった僕を見て、操緒は半眼になり、  
『スケベ』  
「別にそんなんじゃ……」  
『さっきのコンビニでも、やらしい雑誌見てたし』  
「いや、あれは……」  
 しかし、それは事実なのだった。自分でも、どうかしてたと思う。ちょっと買い物に立ち寄ったコンビニで、ふと気付いたら、十八歳未満お断りのスペースで大人の雑誌に手を伸ばしていた。操緒の鋭い制止の声がなかったら、そのまま手にとっていたに違いない。  
 普段なら、それはもちろん興味がないと言えば嘘になるが、操緒もいることだし、そんなことはしない。だが、その雑誌の表紙の上で、ストレートセミロングで長身の美女が黒い下着姿で微笑んでいるのを見たとき、僕はふらふらと惹き付けられてしまったのだった。  
 何がなんだったのか、自分でもよく分からない。  
『やっぱ、ヘンだよ。今日の智春』  
 僕の首に操緒の腕が回されて、思わず身を固くした。実際に締め上げられたりするおそれはないとはいえ、気持ちのいいものではない。と思ったら、僕の頬に自分のそれをすり寄せるようにして、操緒が背後から顔を寄せてきた。  
『こーんなに可愛い女の子がすぐ側にいるのに。それじゃ不満?』  
「操緒……」  
 どうしたんだ、こいつ。いつもなら、険悪な罵声が飛んでくるところなのに、僕の耳のそばで聞こえたのは、やけにしっとりした囁きだった。新手の嫌がらせかと警戒しながら横目で見やると、何というか……妙に、頬が上気していて、表情が柔らかい。  
「ヘンなのは、そっちだろ」  
『え』  
 僕に言われて、びっくりしたような顔になる。自分じゃ、気付いていなかったのか。慌てて僕から離れて、  
『あ……あれ……? え、と……あたし?』  
 何度か瞬きし、首をかしげた。僕はため息をついて、  
「なんか、二人ともおかしいな。今日は」  
『うん……そうかも』  
 図書館でぼんやりしていたのは、僕だけではなかった。操緒までもが、気付くとあらぬ方を見ていたり、何度も呼びかけても答えなかったりしていたのだった。アニアが早々に諦めてくれた理由には、そのことも含まれていたかもしれない。  
「……今日は、さっさと寝た方がいいかもな」  
『そだね』  
 といっても、もう十分に遅いのだが。とりあえず鳴桜邸の門構えが見えてきたところで呟いた僕に向かって、操緒も頷いた。それから、  
『ん?』  
 不意に空中に浮かび上がり、手びさしをしながら鳴桜邸の方角を見る。  
「どうした?」  
 訊いた僕に、操緒は戸惑った顔で声を潜めて、教えてくれた。  
『灯りがついてる』  
 
「ほんとだ……」  
 鳴桜邸の門をくぐったところで、僕と操緒は足を止めて、誰もいないはずの建物の二階の窓から漏れる灯りを眺めた。それも、よりにもよって、  
『あれって……智春の部屋じゃん』  
「……だよな」  
 間違いない。東南の角部屋だ。  
「何だろうな」  
 言いながらも、実はあまり狼狽えてはいなかった。慣れたくはないが、前例がないわけではない。嵩月に始まり、朱浬さんとか真日和とかこないだの友原さんとかいう家出少女とか、この屋敷には招かざる客が勝手に入り込んでいることが多いのだ。  
『どーする?』  
「そりゃ……確かめるしかないだろ。ここ以外に、帰るとこないんだし」  
 願わくは、あまり物騒な輩ではありませんように。僕は物音をさせないように玄関に歩み寄り、鍵を開け、中に入った。ええと、玄関の鍵が閉まっていたということは、相手は窓とか地下とかから入り込んだということか。  
 そのまま、忍び足で廊下をわたり、階段を昇る。古い家だから床がどうしても軋むので、ゆっくりとしか進めない。電灯を点けることもしなかったが、自分の部屋までなら慣れたものなので問題ない。  
 ようやく自分の部屋の前にたどりつき、そこで一息つく。  
『見てこよっか?』  
 操緒が囁く。  
『天井のとこからちょっと覗くくらいなら、向こうにも気付かれないかもよ?』  
「いや……」  
 僕はかぶりを振った。相手が分からない以上、ここは慎重に行こう。扉にそっと耳を寄せて、室内の様子を窺う。しばらくは、自分の鼓動の音の方が大きくて何も聞き取れなかったが、そのうちに段々と耳が澄んできた。  
 かすかに、何かがこすれる音。衣擦れだろうか。続いて、  
「……ふっ……」  
 聞こえてきたのは、どう考えても、人間の吐息だった。僕と操緒は顔を見合わせる。再び扉に耳を付けると、今度はもっと鮮明に聞こえた。  
「は……ふ……ふぅ……は、あ……あ、ん……は」  
 声音からすると、どうやら女の人らしい。どことなく聞き覚えがあるような気がしたが、しかしこれは。  
『何やってんだろ』  
 呟いた操緒の声にも、ねっとりとしたものがまとわりついていた。確かにこれは……悩ましすぎる。一体、人の部屋で何をやってるんだ。まさか、どこぞのカップルでもしけこんでよろしくやってるんじゃあるまいな。  
 それでも相手の様子から、どうやら室外へはあまり注意を払っていなさそうだと見当をつけた僕は、そうっと扉を開き、おそるおそる中を覗き込んだ。何も反応が返ってこないことを確かめると、室内へ体を滑り込ませ、まずベッドの上に目をやった。  
 案の定、そこにいた。一人だけだ。やっぱり、女性だった。ベッドにうつぶせになり、今やはっきりと荒くなった息づかいとともに、体を小刻みに動かしている。これじゃ、まるで。  
   
『な……なにしてんのよっ!』  
 想定外の情景に言葉を失った僕の代わりに、操緒が大きく叫んだ。その声に、女性の動きが止まり、ややあってから、のろのろと顔を上げてこちらを見る。  
 その顔には、見覚えがあった。だが、あまりの意外さに、僕は凍り付いた。  
「……朱浬さん……?」  
 いや、ある意味では、そこにいても不思議のない人ではあった。朱浬さんは、どうもこの家を自分のセカンドハウスとでも思っているふしがあって、よく勝手に入り込んでは、僕のワイシャツ一枚というきわどい恰好で、ぶらぶらしていたりするのだ。  
 そう、まさに、今もそんな恰好だった。ベッドの上で肘をついて上体を起こした朱浬さんは、やはりワイシャツ一枚で、だがいつもと違って、そのボタンは半ば以上が外されて滑らかな胸の谷間を垣間見せていた。さすがにここまで無防備な姿は、見たことがない。  
「え……」  
 朱浬さんは当初、誰が入ってきたのか分からなかったらしい。徐々にその瞳が焦点を結び、僕と操緒の姿を認めたのか、やおらベッドの上で飛び上がった。ワイシャツの裾がめくれ上がり、すらりと伸びた素足の根元のショーツまで丸見えになる。  
「ト……トモハルくん? な……なんでっ……」  
 いや、自分の家に帰ってきただけなのに、なんだってそこまで意外そうな顔でそんなことを言われなければならないんですか。  
「いや……なんで、って訊きたいのはこっちで……一体、何して……」  
「だ……だって……どうして……トモハルくん、今日は帰ってこないって……」  
「それは……いやその、人が留守にしてるからってですね」  
 言いながら、いわく言い難い違和感と既視感を覚える。その正体を確かめたくて、朱浬さんの顔をまじまじと凝視した。どことなく、気弱っぽくて頼りなげで、優しくて柔らかい表情。これは……朱浬さんじゃない。まさか。しかし。まさか。  
「紫浬、さん……?」  
「あ……」  
 一瞬、あっけに取られたように目を見開いたあと、黒崎紫浬さんは、心の底から嬉しそうな笑顔をひらめかせた。  
「トモハル、くん」  
 その弾んだ声を聞いたときだと思う。僕の中で、スイッチが入ったのは。今日の午後からずっと、もやもやと体内でわだかまっていたものが、はっきりと形を成したのは。  
『ト……智春っ?』  
 操緒の慌てた声がどこか遠くに聞こえた時には、僕はベッドのすぐ側まで近寄って、紫浬さんを見下ろしていた。僕は……何をしてるんだ。  
「トモハルくん……」  
 紫浬さんの声にも、いくらかの怯えが混じる。ベッドの上で後ずさりして壁に背をつけ、小さくいやいやをしてみせる。  
「だめ……トモハルくん……だめ、です……」  
 いや、紫浬さん。そんなに熱っぽく潤んだ眼差しを投げかけながら、そんなに期待で震える声で囁くなんて、こっちを誘ってるとしか受け取れません。貴女も、そのつもりなんでしょう? 僕と……同じなんでしょう?  
 僕はベッドの上に膝をつき、紫浬さんを壁際に追いつめる。そのおとがいに指をかけると、紫浬さんの唇がわずかにおののき、軽く開かれるのが見えた。僕は……ああ、もう何もかもが、どうでもいい。目の前の相手とひとつになること以外に、何も考えられない。  
『智春っ……何して』  
 操緒の悲鳴のような叫びは、僕が紫浬さんに唇を重ねると同時に、断ち切られた。  
   
 お世辞にも、上手いキスとは言えなかったと思う。そりゃ、こっちは(露崎だとか鳳島氷羽子との件は数えずに)初めてだし、紫浬さんにしたって、ぎこちないものだった。それでも、お互いを求める荒々しさだけを頼りに、僕たちは相手の唇をむさぼり合った。  
「ふ……あ……」  
 ちょっとだけ二人の唇が離れる都度、かすかに漏れる紫浬さんの甘い吐息が、お互いの動きをいっそう加熱させる。何度も何度も、一番ぴったりと隙間なく相手と触れ合える位置を求めて、僕たちは息継ぐ間もなくキスを続けた。  
 さすがに息が切れるまで、どれくらい経っただろう。荒い呼吸を繰り返しながら、それでも至近距離で目線を合わせたままの僕たちに、横合いから、操緒が倒れ込むようにしなだれかかってきた。  
『は……あ……なん、なのお、これえ……』  
 そちらに目をやると、操緒も息を切らし、頬を紅潮させ、熱に浮かされたような瞳をしている。どういう仕組みなのか、服の胸元までが少しはだけていて、実に扇情的だった。  
「操緒……」  
 これは……おかしい。紫浬さん、いや朱浬さんも……操緒も……僕も……何を、してるんだ。こんな……こんなことは……あるはずがない。  
 僕の脳裏に浮かんだ疑問は、しかし、  
「……トモハルくん。よそ見は、ダメ」  
 紫浬さんが僕の顔に両手をかけて自分に向き直させた途端に、どこかへ霧散してしまう。  
「ね」  
 たしなめるように小首を傾げるなり、今度は紫浬さんから挑んできた。  
『はあっ……』  
 操緒の喘ぎが聞こえたような気もしたが、構っていられない。紫浬さんの舌が、最初はおずおずと、でもすぐに大胆な動きで、僕の中に入ってくる。唇の裏や歯をなぞってくれる。背筋がぞくぞくするような快感を覚えながら、僕も舌を動かした。  
「ふ、うっ……」  
 互いの舌の先端が触れ合った瞬間、紫浬さんの体が大きく震え、その息が僕の口に吹き込まれた。さらに、闇雲に舌を絡め合ううちに、僕の舌が紫浬さんの舌の裏側をかすった時、紫浬さんの背筋が軽くのけ反る。  
「は、あ」  
 予想外の感覚に少し驚いたのか、やや身を引き気味にした紫浬さんを僕は逃さず、そのポイントを責め立て続けた。最初は受け身のまま体をくねらせていた紫浬さんも、やがて積極的に、同じようなやり方で反撃し始める。だめだ。気持ちよすぎる。  
『あ、あんっ……だめ、そんなっ……』  
 僕が快感に陶然となるのと同時に、操緒の感極まった声が聞こえた。もしかして、僕と感覚がシンクロしてるのか? 一体、どういうわけだ?  
 だが、そんな思考も長くは続かない。僕と紫浬さんは、操緒の途切れ途切れの嬌声を背景に、酸欠気味でぼんやりとなりながらも、ひたすらにお互いの口腔と舌を犯し続けた。  
 そのうちに、紫浬さんの動きがやや緩慢になり、耐えきれないような吐息が漏れ始める。そろそろ、僕も限界かもしれない。最後のあがきとばかり、紫浬さんの顔を思いっきり引き寄せると、舌全体で紫浬さんの舌を裏側から舐めあげ、吸い立てた。  
「っ……!」  
 紫浬さんの全身が、一瞬硬直するなり痙攣した。僕は、ぎりぎりまで紫浬さんの舌と反応を堪能してから、唇を離す。  
「は……ああああっ」  
 紫浬さんは深い深い吐息とともに、脱力した上半身を僕に預けた。  
 しばらく、二人とも息を静めるのに精一杯で、何もできず何も喋れなかった。いつの間にか、上着をはだけさせられてシャツだけになった僕の胸の中で、紫浬さんの体がどこまでも熱く柔らかい。  
『智春お……』  
 操緒が、とろけそうな表情と声で、僕の眼前に現れた。  
   
『あたし、ヘン……あたし……』  
「ああ……でも、いい、だろ……?」  
『うん……』  
 理性のかけらもないやり取りだったが、操緒は頷いてくれた。そうか。なら、このまま。  
「紫浬さん……」  
 紫浬さんの耳にそっと囁くと、その肢体が軽くわなないた。僕の胸に手をついて少し体を離すと、耳まで真っ赤になった顔を見せてくれる。  
「トモハルくん……もう、わたし」  
 そこで、いきなり僕を仰向けに突き倒す。不意打ちに抵抗すらできずベッドに倒れ込んだ僕の上で、紫浬さんは馬乗りになった。僕の顔の両側に手をついて、おおいかぶさってくる。  
「ゆ……」  
 呼びかけようとした僕を、微笑みで黙らせると、完全に僕と抱き合うところまで体を重ねる。不思議と、ふだんなら感じるはずの怪力も体の重さも、苦にならない。なんだか、僕の体の中からそれを跳ね返すに足るだけのエネルギーが湧き上がってくるようだった。  
 紫浬さんは、僕の上で深い深い吐息をついた。ノーブラの胸が僕の胸の上でつぶれてやわやわとうごめき、そのしなやかな手が僕の脇腹から背中を撫でる。それらの感触全てに、僕も頭がどうにかなりそうだった。僕の肩におとがいを乗せると、耳元で囁いてくる。  
「もう、わたし……がまん、できません。だって、ぜんぶ、あれの……せいですから……仕方ない、ですよね? トモハルくんだって……」  
「あれ、って……?」  
 首筋に感じる紫浬さんの息づかいに我を失いそうになりながら、かろうじて訊ねる。紫浬さんは僕の耳から首に軽い口づけを繰り返しつつ、一言だけ呟いた。  
「共鳴……器」  
「あ……」  
 あれか。レゾネータ。紫浬さんは、僕の顔に頬をこすりつけ、唇で僕の顎をなぞり、細い指先で僕のシャツのボタンを器用に探り当てて外しながら、続ける。その間も、僕の胸の上のふくらみと腹の上の柔らかい盛り上がりとが、微妙にうごめいて僕を刺激していた。  
「トモハルくんも、もう分かるでしょ……あれは、機巧魔神同士を……その通じ合う部分を増幅して……魔力がぐるぐる回って強め合って……でも、こんな……こんなふうに響き合うなんて……ああ、でも」  
 共鳴。機巧魔神同士の。そう言われてみれば、僕は演操者で、操緒は射影体で、紫浬さんの体には機巧魔神の技術が使われていて、しかしそれが、どうして……?  
 いやだが、確かに、この体の底から揺るがされるような衝動は、《K鐵》を呼び出すときのそれに通じている。紫浬さんと……共鳴し合う相手と、どこまでもひとつになって融け合ってしまいたいという、抗いがたい切望が、僕の裡で渦巻き、荒れ狂っている。  
 ああ。僕も分かっていた、のかもしれない。あの午後の化学準備室で、朱浬さんと目を合わせたときから。僕と操緒と、朱浬……紫浬さんが、離れていられたりするはずがないってことを。コンビニで見かけた雑誌の表紙モデルも、思えば、朱浬さんに少し似ていた。  
 呆然と横たわる僕は、ふいに胴体に冷たい空気を感じて、視線を下ろした。紫浬さんがいつの間にか、僕のシャツを左右にはだけさせ、Tシャツを胸のところまでまくりあげてしまっていた。悪戯っぽい、でもどことなく怨ずるような目つきで僕を眺めながら、  
「ふふ……トモハルくんが……悪いんですよ? あんなの……起動しちゃって。トモハルくんのシャツとベッドで……それだけでがまんするつもりだったのに……いきなり帰ってきて……あんなふうに呼ぶから……あんなキスするから……だから、わたしだって」  
 その声の甘やかすぎる響きにくらくらし始めた僕の胸から脇腹を、紫浬さんは、さも愛おしげに指でなぞった。  
「う……」  
『ひゃっ……』  
 うめき声を上げたのは、僕だけではない。操緒もまた、僕と同じ快感を共有したらしかった。それを見て、紫浬さんが目を細める。  
「ふふ……可愛い。トモハルくんも。操緒さんも」  
 

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