これは見過ごせない。女として。いや人として。見過ごすことは許されない。
「……あの、なにか?」
いきなり私にがっしりと袖口をつかまれたともはちゃんが、けげんな顔で尋ねる。
ともはちゃん。バーゲン。
「はあ」
ともはちゃん。バーゲンはね、女の戦場なんだよ。
「は?」
そこでは、逃亡も撤退も敗北も許されないんだよ。
「ええと、先輩?」
贅沢は敵だけど、足らぬ足らぬは工面が足らぬ、なんだよ。欲しがりましょう買うまでは、なんだよ。あらまた一着、もう一着、なんだよ。
「いや、もうすでに意味が分かりません」
だからね。黙って来なさい。分かった?
「……はい」
素直でよろしい。ところで、ともはちゃん。
「はい、なんでしょう」
私、さっきから何も口に出してしゃべってないのに、なんで会話が成立してるのかな。
「いや正直、何も分かんないんですけど。答えだけがなぜかひらめくんですよ……」
なんかすごい。でも今は、それどころじゃない。ともはちゃんの手を引いて、いちもくさんに、バーゲンのフロアへ向かう。かなり出遅れちゃったから、めぼしいものは残ってないかもしれないけど、とにかく行ってみなきゃ。
エスカレータを降りると、探すまでもなく、黒山の人だかりで、目当ての場所は分かった。
「……あの、ひかり先輩? もしかしてあの中に突っ込んでいこう、とか……?」
不安げに尋ねてくるともはちゃんに、にっこりと笑いかける。ともはちゃん、そんなに顔を引きつらせて後ずさるようなことは、なにもないんだよ?
「言ったでしょ? 戦場だって。突撃あるのみですから」
「ええっ……ぼ……私は別に……そういうの興味なくて……」
「撃ちてし止まむ、ですから。では、そういうことで。いざ」
「いえだからそういうことってどういうことですかっ」
『ともはちゃん』
いつの間にか、操緒さんがともはちゃんの背後にぴったりとくっついていた。私と、全てを分かち合った戦友同士の熱い視線をかわす。
『これはねえ、女の子が必ず通らないといけない道なんだよ。そうやって、大人への階段を上るんだよ。花は手折られてこそ花なんだよ』
「いやお前の言ってることも意味不明だしっ」
ええいもう、往生際が悪いなあ。
「操緒さん」
『らじゃー』
言わず語らず、以心伝心で響き合うなんて。ああなんて美しい女の友情なのかしら。
「お……おい、ちょっと……? あ、脚がっ……操緒っ、まさかっ」
ともはちゃん、大丈夫だよ。ちょっと今は、初めてで勇気が足りないだけだから。私と操緒さんが手伝ってあげるから。何も心配ないよ。
「ちょっと待てえええええっ」
上半身だけでむだな抵抗を示しながら、下半身を操緒さんに操られたともはちゃんは、私といっしょに人混みの中へ駆け入っていった。
「うううっ……汚されちゃった。汚されちゃったよう……」
試着室へ向かう列の中、持てるだけの品物を抱えながら、ともはちゃんはさめざめと泣いていた。おおげさだなあ。それに、OLさんからそのカットソーをもぎとった時のともはちゃん、かっこよかったよ。
「いや、ですから……あんな浅ましいマネは、ほんとのぼ……私じゃ……」
だから、戦場だって言ったじゃない。ひるんだ方の負けなんだから。いいのいいの。操緒さんだって、うなずいてるよ?
「いいんですか……それで……?」
なんだか、連続殺人犯でも見るような目つきで私を見るのは、やめてほしいなあ。「理性とか礼節とか、人としてはもっと大事なことが……?」とかぶつぶつ言うのも、どうかと思う。ともはちゃんだって、あっという間に目の色変わってたくせに。
「変わってませんよっ。人を同類扱いしないでくださいっ」
なら、そこに抱えた品物は何? ともはちゃんが何もしないのに、品物がひとりでに飛び込んできたとでもいうのかしら?
「ううっ……。もう、いいです……」
「あの、お客様」
近くの商品棚に向かってのの字を書き始めたともはちゃんにびくつきながら、店員さんが声をかけてきた。
「大変申し訳ありませんが、ただ今非常に混み合っておりますので、試着室はお連れ様とごいっしょということで、お願いできますか?」
「あ、はい」
前の人たちもそうしていたから、当然のことだと思って、うなずく。ところが、
「え……ええええっ」
背後で、ともはちゃんが悲鳴を上げていた。何なの、うるさいよともはちゃん。
「い一緒って、ぼ……私と、先輩が……?」
「はい。なにか?」
店員さんは首をかしげるばかり。そうだよね。女の子が連れだって試着室に入っても、何も問題ないはずだもの。女の子同士だもん。
「そ、それはさすがにまずいんじゃ……」
そうね、三人だとちょっと狭いかも。でも、操緒さんは宙に浮けるわけだし。
「いや、そうじゃなくて……」
しつこく言い募るともはちゃんを、私は制した。
「ともはちゃん、わがまま言っちゃだめでしょう? ええ、はい、大丈夫です。すみません、連れが聞き分けなくって」
「はあ」
店員さんは今ひとつすっきりしない顔だったけど、列の後ろの方へ同じことを告げに去っていった。
「せ先輩」
ともはちゃんが、私の耳のすぐ側で囁いてくる。ううん、くすぐったいっ。
「いやなにをうっとりと悶えとるんですかあんたは。じゃなくて、一緒に試着室って、それは……」
「ともはちゃん。私の着替えなんか、グランクリユで何度も見たじゃないですか。いまさら、何言ってるんです」
「うううっ……それはっ……」
「ね?」
ほら、何も問題ないじゃない。だからともはちゃん、いい加減泣くのを止めなさい。
「ああっ……先輩……そんなにしたら……締まる……」
「ともはちゃん……まだよ……まだだめ……」
「だって、先輩……私……も、もう、動けない……動いたら……」
「こう? これはどう? いえ、こうかしら?」
「ああっそんなっ……だめっ……許してっ……そんなにしたらっ……出ちゃうっ……」
「我慢するのよ……もう少しで、私も。私もっ」
「あっ……だめ、もう我慢できない……先輩、私、もう、こんなの……やだ……先にいっちゃったら……やっぱりダメ?……もう私……」
「だめだよ……私を置いて先にいっちゃうなんて、許さないから……ほら、もっと締めたげる。ほら、ほらっ」
「ああっ……も、もう、ほんとに、だめえええっ……!」
ともはちゃんがのけぞるようにして背筋を伸ばす。その瞬間、私も何とか目指すものに到達することができて、喜びの声を上げた。長いようで短い濃密な時間のあと、目的を果たした二人は、ぐったりとなって寄り添ったまま、荒い息がおさまるのを待つ。
「せ、先輩……」
ともはちゃんが、涙目になって振り向いた。
「こ、これ……やっぱり、息できませんよう」
「うーん……やっぱり、ちょっとウエストがきつかったですか? コルセットはあんなに締めたんですけど……」
「ちょっとどころじゃ、ないです……うえ、さっき食べたのが、出てきそう……。だから、さっきので終わりにしようって、言ったじゃないですか……」
「だめですよ。試着室に持ち込んだものは、ぜんぶ試さなきゃ。私もまだ何着か残ってるんですから。一人だけ先に出て行こうだなんて、許しません」
「ふええ……」
うーん。タイトなドレススーツに何とかかんとかともはちゃんを押し込んでみたんだけど、ちょっと無理があったか。でも、こういう大人っぽい恰好、すごく似合うんだけどな。少し直してもらったら、これだって大丈夫じゃないかって思うんだけど。
「せ、先輩……もう限界……早く脱がせて……」
『ともはちゃーん』
少し上空から、さっきからの顛末を何故かジト目で見守っていた操緒さんが、
『その言い方、かなーり、やらしい』
「な……何がだよ……」
ともはちゃんが息も絶え絶えの状態で抗議する。なんで、やらしいのかな。きょとんと操緒さんを見上げた私を見て、操緒さんは呆れ果てたように首を振った。
「は、早く……」
そうするうちにも、心なしか、ともはちゃんの顔色が土気色になってきたような。
「う、うん。ちょと待って」
あわてて、さっきはめたばかりのボタンを外そうとしたけど、これがなかなか難物だった。そうだよねえ、もう食い込んじゃってるもんねえ。
「あの……先輩……? それはもう、だめということで……?」
ともはちゃんが情けない声を上げた時だった。試着室のカーテンがさっと開かれて、誰かが中に顔を突っ込んできた。
「あのねっ、まだ次がつかえてんのよ。いつまで無駄な努力してんのっ。みんな待ってんだから、入らないもんは入らないってさっさと諦めなさい、って……え? ともはちゃん?」
はい?
振り向くと、そこには、モデルばりのでたらめな美人さんがいた。この人、知ってる。確か、ともはちゃんといっしょに科學部にいる、
『朱浬さん……』
私より先に、操緒さんが、その名前を呼んだ。黒崎朱浬さんは、まだ驚きを隠せない様子で、
「操緒ちゃんも……それにあなた、沙原ちゃん?」
「あ、はい……」
黒崎さんの視線が、試着室の中をぐるりと一巡する。なんだか、強烈なサーチライトに照らされてるみたいで、私はびくりと身をすくませた。
「ふーん」
黒崎さんは、にっこりと笑った。とっても綺麗ですてきな笑顔だった。なのに、なんでこんなに怖いのー!
「おもしろそうなこと、やってるじゃない」
「あ、あのう……これは、そのう……」
何か説明しなくっちゃ、と気ばかりは焦るんだけど、おろおろするだけで、言葉なんか出てこない。黒崎さんは構わず、いったん試着室から顔をひっこめた。
「奏っちゃん! こっち来ない? すごいもの見ちゃった」
え。え。奏っちゃんって、嵩月さんもいるの? そ、それって、まずいよう……。
凍り付く私が何もできずにいる間に、カーテンの隙間から、これまたとんでもない美少女さんが、試着室の中を覗き込んだ。嵩月奏さん。ともはちゃんのクラスメイト。悪魔四名家の一、炎を操る嵩月家の跡取り娘さん。それが、なななんでここに……?
「あー……」
黒崎さんに強引に押し込まれたらしい嵩月さんは、きょとんとした表情で、ゆったりと中を見回す。その視線が、ともはちゃんに止まった。
「……夏目くん?」
は? 嵩月さん、今なんと?
なんで、ともはちゃんのこと、知ってるの?
ええっと、それって……。ということは……。
全然考えなんかまとまらないでいると、嵩月さんの目が、ゆっくりと、私に向いた。
「ひゃっ……」
思わず、小さく悲鳴を上げてしまった。さっきの穏やかな眼差しから一転して、まるで終生の仇敵を見るかのような、冷たく真剣な目つき。あ……あのあの、どうして私がそんな目で見られなきゃいけないんでしょう……?
「あなた……たしか……沙原先輩……」
「ははははい!」
「何をしてるんですか……こんなところで……そんな恰好で……」
「え」
自分の体を見下ろして、ようやく、シュミーズ一枚の恰好だったことを思い出した。……え、ええと、これはですね、私が試着服を脱いだところで、ともはちゃんが困っているのを助けることになったからでして、決してその、ご想像のようなことは……。
私がもじもじしているのをどう受け取ったのか、嵩月さんの表情がどんどん硬くなってく。
「夏目くんに……何、してるんですか」
「ああああのその、これは……一緒に……お買い物を……ってだけでして……」
『あのさ。どうでもいいんだけど』
私の窮地を救ってくれたのは、操緒さんだった。
『ともはちゃん、そろそろ窒息しそうだよ?』
それからは、ちょっとしたてんやわんやだった。ともはちゃんを何とかドレススーツから解放し、ぐったりしたともはちゃんを介抱し、二人とも慌てて元の衣装を身につけ、店員さんとか他のお客さんに謝り倒し、結局何も買わずに逃げるように、フロアを立ち去った。
そして今、私たちは喫茶店にいる。ともはちゃんと、その左側に私、右側に操緒さん。向かい側には、黒崎さんと嵩月さん。
黒崎さんが「ちょっとお話しましょ?」と誘ってくれて、ほんとは遠慮したかったんだけど。黒崎さんと嵩月さんの目の色が、私たちには断る権利なんてない、って明らかに言ってたので、ともはちゃんと操緒さんと私は大人しくついて来たのだった。
「いやー、奇遇ってあるものねえ」
黒崎さんがしみじみと言う。ともはちゃんと私は、かしこまって座っているばかり。一応目の前には、注文したコーヒーなんか出てきてるけど、味なんて分かるわけない。
「まさか、バーゲン会場で、ともはちゃんに会うなんて……ねえ? 奏っちゃん」
会話を振られた嵩月さんは、相づちも返事もしなかった。ただ、ともはちゃんと私にじっと目を据えている。あのう、そんなに睨まないで……いえその、すみません……いいんです……。
そんな嵩月さんを見て、黒崎さんが苦笑した。あらためて私たちに向き直り、
「で? なんだって、こんなおもしろいことになったの」
やっぱり、ここは私が説明しなきゃだめなんだろうな。念のため、ともはちゃんをちらりと横目で見てみたけど、もう全てを諦めた世捨て人みたいな顔をしてたし。
「あ、あの……私が、誘ったんです……その……ともはちゃんとは、グランクリユで……いっしょにお仕事するうちに、何となくともはちゃんのこと、分かっちゃって……」
それを聞いて、黒崎さんが、あああれ、という風にうなずく。ともはちゃんがあそこで働くことになったのは黒崎さんの紹介だったから、細かいところまで話さなくてもいいのは助かる。
「でも、ともはちゃん、綺麗で、うらやましくて、いつか、いっしょに遊べたら、楽しいだろうな、って……そう思ってて……それで、ちょっとお願いしたいこともあったから……」
というか、こういう事態になることを避けるために、夏目くんじゃなくてともはちゃんといっしょにお出かけしたのに、どうしてこうなるんだろう……。ともはちゃんのことが、こんなに色んな人に知られてるなんて、考えてもみなかったなあ……。
考えるうちにたまらなく情けなくなって、涙が出てきた。この人たちの前で泣きたくなんてなかったから、一生懸命こらえようとしたのに、結局、二、三粒がぽろぽろと頬の上を転がり落ちていってしまう。
「あー……」
それを見たのか、黒崎さんが少し気まずそうな声になる。いやだ。同情なんか、されたくない。私は急いでティッシュを取り出して目のあたりを拭うと、黒崎さんや嵩月さんと正面から顔を合わせた。
「……ふふん?」
私と目を合わせた黒崎さんは、ちょっと意外そうに目を見開き、やがて面白そうな光を目に宿らせた。
「沙原ちゃんって……なかなか」
ともはちゃんには、今回いろいろ迷惑かけちゃって申し訳ないって思うんだけど、黒崎さんや嵩月さんには関係ない。この人たちの前で、うなだれてなきゃならない理由なんて、何もない。だから、私は顔を上げて前を見ていればいいんだ。そのはずだ。
私とにらみ合うようなかっこうになっていた黒崎さんは、しばらくして、ふ、と息を吐いた。
「まあ、確かに……いかに大切な科學部員とはいえ、トモハルが休日に誰と出歩こうが、あたしたちがとやかく言うことじゃないかもしれないわね。トモハルの自由なんだし」
それを聞いて嵩月さんが、戸惑ったように黒崎さんを見る。良かった。分かってもらえたんだ。思わず安堵のため息をついたんだけど、
「……でもね。ともはちゃんについては話が別なの」
は?
「今回の件であたしが気に食わないのはね。あたしのあずかり知らぬところで勝手に、ともはちゃんが出歩いてる、ってことなのよ」
な……何なんですか……そのワガママめいっぱいな言いがかりは……。
あまりのことに呆然としている私たちの目の前で、黒崎さんは堂々と続ける。
「大体ね、ともはちゃんの生みの親はあたしなのよ。それに一言の相談もなく、人目にその姿をさらしてまわるなんて、ありえないわ。そんなの、親を呼ばずに結婚披露宴やっちゃいました、みたいなもんなのよ。人倫に反するわ。そう思わない?」
いや……あまり思いません。というか、全然思いません。ともはちゃんも、「そんな理屈ってあるのか……?」とかって、頭を抱えてるじゃないですか。嵩月さんも、結婚披露宴とかいう単語に反応して唇の端をひくつかせるのは、お願いだからやめてください……。
なんか、六夏ちゃんがこの人を嫌いな理由が、良く分かった。お互い、ゴーイングマイウェイなところがそっくりだから、同類嫌悪なんだ。きっと。
「というわけでね。沙原ちゃん」
え。ええと、私ですか?
「あなた。ともはちゃんのマネジメントを仕切ってるあたしの縄張りを荒らしておいて、どう落とし前をつけてくれるのかしら?」
「あ……あの、何がどうなって、そういう話に……」
「どうなの?」
黒崎さんの目がすっと細くなる。
別に、恐ろしい顔をしてるわけじゃないの。見た目は、とってもにこやかで優しい笑顔……なのに、どうして今日が私の命日かもって感じがひしひしとするのかな。背中に嫌な汗が流れるのかな。横を見ると、ともはちゃんも、この世の終わりみたいな顔をしてた。
この世のものとは思えない理不尽な状況の中、思わず、両手をともはちゃんの腕にからめ、手と手を握り合わせる。ええと……その、深い意味はなくて、ちょっと助けてほしいというか、お互い支え合おうねというか、それだけなんだ、けれ、ども。
それを見た瞬間、黒崎さんと嵩月さんの顔から、表情がぜんぶ消えた。
……お父さんお母さん。すみません。不憫な娘が先立つ不孝をお許し下さい……。
……ああ。生きてるって、やっぱり、いいなあ……。
私は、一人きりで公園のベンチの上にへたり込みながら、ぼんやりと、抜けるような青空を見上げていた。風は少し冷たいけど、午後の日差しはそれなりに暖かくて、気持ちいい。
いやほんとに、喫茶店でのあの瞬間は、「ふぁすたー・ざん・……」とか思わず口走りそうになっちゃったくらい、身の危険を感じた。無事に生きて出てこられたのが、奇跡みたい。
もちろん、何の犠牲もなし、というわけにはいかなくて、ともはちゃんは黒崎さんに拉致されていっちゃった。「というわけで、ともはちゃんはあたしが預かるわ。文句ないわね?」とにっこり言われたら、首を縦に振る以外のことなんてできなかった。
ともはちゃんが黒崎さんに引きずられていきながら、こっちによこしたすがるような目には気付かない振りをして、心の中で手を合わせるのが精一杯。ごめんね、ともはちゃん。私、か弱い普通の女の子だから。全身これ武器の改造人間の相手は、ちょっと荷が重いの。
それにしても黒崎さんて、ともはちゃん……夏目くんのこと、どう思ってるのかな。単にからかいがいのある後輩っていうだけじゃなくって、何ていうか、言動の端々に、夏目くんは自分のものって思ってるのが透けて見えて。本人は意識してないのかもしれないけど。
夏目くんの方も、年上は嫌いじゃないって言ってたし、あれだけ大人っぽくて美人でスタイルがいい人が身近にいたら、中身はどうあれ、くらっと来ちゃうことも、男の子だから、あってもおかしくない。
私も同じ年上なのになあ。子どもっぽくて、頼りなくて、美人でもなくて、出るとこも控えめで。なんだって、こんなに差があるんだろう。
……なんて考えてると落ち込む一方だったので、背筋を伸ばして、両手で頬を軽くはたく。とにかく、夏目くんには来週にでもきちんと謝るとして、今日のお出かけの目的は果たしたんだから。うん、予想以上の収穫だった。
膝の上のお弁当箱を見ながら、あらためて拳を握る。残念ながら、夏目くんに持って帰ってもらうはずだったこれは、あのどさくさの中で私の手元に残っちゃったけど、夏目くんに何を贈ってあげたらいいかという答えは、そこにあった。
そう。何か、手作りのもの。お弁当でもいいけど、クッキーとかケーキとか、お菓子の方が日持ちがしていいかな。手編みは、今年はもう時間がないから来年の宿題ということにしよう。
それに、そのうちに、夏目くんの家にご飯を作りに行ってあげようかな。それとも、うちに来てもらってもいいかも。別に、彼氏だとか彼女だとかいうんでなくても、友だちとしてでもいいから、夏目くんに何か、家庭のあったかさを感じさせてあげたい。そう、思った。
その時に、夏目くんがどんな風に笑ってくれるかを想像したくて、目を閉じる。
そのおかげだったかもしれない。足音もしなかったし、声をかけられたわけでもなかったけど、その人がすぐ側に来たことがはっきりと感じられて、私は微笑んだ。
「待ってたよ。嵩月さん」
こっちから声をかけたのは、先制したつもりだった。
でも目を開けると、私から二、三メートルくらいのところに立っている嵩月さんの表情には、驚きも当惑もなくって、ただ、じっと私を見てた。弱い風につややかな長い黒髪をなぶらせたその姿は、恐いくらいに綺麗で、危ういくらいに張りつめてた。
私も、ベンチから立ち上がる。座ったままでは失礼に思えたし、なにより、足を踏ん張ってないと気圧されてしまいそうだったから。
「来てくれて、ありがとう。私も、嵩月さんとは、少し話したかったんだ」
「……あまり、夏目くんに近づかないで」
いきなり、そう来たかあ。どうでもいいけど、タメ口で話してるね、私たち。今は対等、ってことかな。悪魔の家柄とか先輩後輩とか関係なくって、ある男の子を大事に想ってる女の子同士、ってだけなんだ。それはそれで、なんとなく嬉しい。
「……どうして?」
「それは……夏目くんが……苦しむことになるから」
「そうなんだ」
思わず苦笑する。それは片手落ちだよ、嵩月さん。
「だったら、嵩月さんが夏目くんと親しいのは、どうなの?」
「私は……」
嵩月さんは、少し口ごもってから、
「私は、何があっても、夏目くんを守る、から」
きっぱりと言ってのけた。
こういうところは敵わないなあ……と、思う。たぶん嵩月さんは、夏目くんの彼女になるとかならないとか、夏目くんと契約するとかしないとかに関係なく、夏目くんを守るって決めてるんだ。下心もとい乙女心ありありの私は、まだそこまでは割り切れてない。
でもね、嵩月さん。
「でも、嵩月さんが側にいて……嵩月さんに何かあれば、やっぱり夏目くん、きっと悲しむよ。苦しむよ。それは、同じじゃないかな」
「それは……」
嵩月さんの顔が、ちょっとだけ歪む。痛いところだよね。私も同じだから、よく分かる。でも、遠慮なんかしない。たぶん、この機会を逃したら、嵩月さんとは二度とこんな話はできない気がする。
「嵩月さんは、夏目くんと契約しないの?」
口にしてしまってから、でもやっぱり、ちょっと後悔した。嵩月さんが一瞬泣きそうな顔になったから。
「……夏目くんが、望まないから」
「夏目くんが望んだら?」
「……」
その沈黙は、嵩月さん自身が迷ってる、ってことだね。嵩月さんのことだから、自分のことよりもまず、契約したときに夏目くんにかかる責任や負担のことを心配してるんだろう。けど。
「嵩月さんの方は、そうしたいんだって思ってたけど」
「……あなたには……分からない」
やっぱり、私なんかには言えない? だったら、こっちも言いたいことを言うだけ。
「うん。分かんないよ。そんなの」
嵩月さんがきっ、と私を睨み付けたのは、私が笑いながら軽い調子でそう言い放ったからだ。でも、私は動じない。
「嵩月さんが、一人で悩んで、一人で決めて、一人で迷って、でもそんなの、私は分からない。分かってあげない」
「……」
「夏目くんだって、いろいろ考えてるよ。嵩月さんが夏目くんを守るなら、夏目くんも嵩月さんを守りたいって思ってる。嵩月さんが、夏目くんのことを第一に考えて、自分のことなんかどうでもいいって思ってるなら、それは、夏目くんをバカにしてる」
「……私、はっ……バカになんかっ……」
「だめだよ。嵩月さん」
嵩月さんの血を吐くようなうめきにも、気付かないふり。
「私、嵩月さんのことがうらやましい。夏目くん、私なんかよりずっとずっと、嵩月さんのことを大事に思ってるよ。その気持ちは、ちゃんと受け止めてあげてほしいんだ」
「……」
「……まあ、というのも、私のわがままなんだけど。私ね。夏目くんといっしょにいたい。これからもずっと。でもね、嵩月さんだけが勝手にいなくなっちゃったら、夏目くん、もうぜったい私のことなんか見てくれなくなると思うんだ。だから」
一歩、二歩、三歩。嵩月さんに近づく。嵩月さんが後じさるかな、と不安だったけど、嵩月さんは彫像みたいに動かなかった。
「嵩月さんも、ずっといっしょにいて……私と夏目くんを取り合って……私にやっかまれててほしいんだ」
嵩月さんの手を取って、握りしめてあげた、とたん、嵩月さんの美貌がくしゃくしゃっとなって、その大きな瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちてきた。
「わ……私……私、だってっ……いっしょに、いたいっ……夏目くんと……ずっと……」
「うん。うん」
ほんとは抱きしめてあげたいところだったけど、嵩月さんの方が私よりずっと背が高いから、ちょっと無理。代わりに、嵩月さんの腕を私の背に回し、ぴったりと寄り添ってあげる。うーんそれにしても、私の頭を柔らかく受け止めてくれた胸は、やっぱありえないよ。
「だったら。だったらさ。いっしょに、いようよ。夏目くんだって、絶対諦めたりしないよ。夏目くんなら、絶対何とかしてくれる。私たちも、夏目くんといっしょに、頑張ろうよ」
嵩月さんは何も答えずに、ただしゃくり上げるだけだったけど、私はそれを、うなずいているんだと勝手に解釈することにした。
「だから、勝手に諦めないで。契約したければ、しようよ。いっしょにいたければ、いようよ。夏目くんとなら、何だってできる。私、信じてる。嵩月さんは、信じないの?」
嵩月さんの顔を見上げる。こんなにボロ泣きしてても美人に見えるなんて、いいなあ。
「……わ……」
「うん?」
「……私、も……信じ……てる」
「うん」
嵩月さんが泣きやむまでには、ちょっと時間がかかった。それまでの間、私たちはずっと抱き合ったままだった。ええとその……そろそろ日も傾いて寒くなってきてたし、嵩月さんはあったかくて柔らかくて、触れ合ってると、とっても気持ちよくて安心できたから。
ようやく鼻をすすり上げる音がやんだところで、私はそっと嵩月さんから体を離す。嵩月さんときたら、目は真っ赤だし、顔は鼻水やら涙やらの跡だらけだし、髪は風にあおられてぐしゃぐしゃだし、もろもろひっくるめて、とっても綺麗だった。
「……私、そろそろ、行きますね」
私は呟くように言う。いまさらなんだけど、猛烈に恥ずかしくなってきた。私、いったい偉そうに何を言ったんだろう。嵩月さんのことを良く知りもしないのに。
嵩月さんは、答えない。目も伏せて、何を考えているのか、私には分からない。怒ってる……かなあ、やっぱり。
私は、ベンチへ戻ってお弁当箱を抱え上げ、足早に立ち去ろうとして、そこで、一つだけ嵩月さんに訊いておきたかったことを思い出して、振り返った。
「……嵩月さん」
嵩月さんは、うつむいたままだった。構わずに、
「私たち……友だちに、なれます、よね……?」
嵩月さんが瞳をゆっくりとこちらに向ける。まだ涙が残っているのか、夕陽を浴びて輝く黒い瞳。
「……あー……私……」
嵩月さんはとつとつと、けど迷いのない口調で、
「……やっぱり……沙原先輩のことは、嫌いです……」
がっかりはしなかった。何となく予想はついてた答えだったから。それでも、理由くらいは教えてほしいな。
「……どうしてですか?」
「……夏目くんが……沙原先輩には、優しいから……です」
うーん。それは、あんまり嬉しくない指摘だなあ。なぜって、
「あのう……それってたぶん、私が頼りないだけ、じゃないでしょうか……」
そんなことを言われても自惚れたりできないくらい、自分が大した人間じゃないってことは良く分かってるし、何よりも、夏目くんの優しさを誤解なんかしたくない。力無く笑う私を見て、嵩月さんはさらに続けた。
「……それと……私が……沙原先輩のこと嫌いなのに」
二度も言わないでほしいなあ。さすがにちょっとへこんだ私が視線を泳がせた隙に、
「沙原先輩が……私なんかに……優しいから」
言うなり、嵩月さんはぱっと振り向いて、走り去って行ってしまった。あっという間に遠くなる嵩月さんの後ろ姿を見送りながら、こっちは呆然とするしかない。
「……やられた……」
さすがに、これは予想できなかったよ。嵩月さん。一本取られました。ええと……どうしても、にやにやせずにはいられそうにないから、家に帰るまで不審者扱いされないといいけどなあ。
ふう。
なんだか、思ってもみないくらいに大変な一日だった。つくづく、ともはちゃんには、悪いことしちゃったな。けど、いろんな人と会えて、それはそれで良かったんだと思う。
佐伯くんの妹さん。ほんと、お互い苦労するよね。でも、夏目くんはちゃんと妹さんを見てくれてるよ。妹さんも、分かってるはずだよね。だから、もうちょっとだけ、素直になってみてもいいんじゃないかな。私の経験から言うと、それでも結構むずかしいんだけど。
操緒さん。操緒さんは私のこと可愛いとか言うけど、操緒さんだって、とっても可愛いよ。夏目くんにはちょっともったいない気もするくらい。だからいつかきっと、夏目くんに、自分がどんなに果報者かってこと、ちゃんとはっきり、思い知らせてあげようね。
黒崎さん。夏目くんのこと、ほんとはどう思ってるのか、そのうちゆっくり聞いてみたいな。きっと本音なんか言ってくれないだろうけど、でも、だったら私も遠慮なんかしない。どんなに美人で親しくても、ただの部活の先輩だっていうんならね。それでもいい?
嵩月さん。今日のことは、夏目くんには当分ないしょだね。だって、最後に見せてくれた真っ赤にむくれた顔は、とんでもなく殺人的に可愛くて、あんなのを見せられたら、さすがの夏目くんもいちころだと思うから。二度も嫌いって言ってくれた、お返しだよ。
はあ。
困ったね。ほんとに、素敵な子ばっかり。分かってたけど。覚悟の上だけど。
でもね。だから。
夏目くん。そろそろ、覚悟を決めてね。私たちは、夏目くんから離れたりしないよ。夏目くんが一人で全部抱え込もうとしたって、そんなの、許してなんかあげない。だから、夏目くんが選んだ道を、いっしょに行こう。私たちは、もうとっくに選んだんだから。
だいじょうぶだよ。こんなに可愛くてけなげな女の子たちがいっしょなんだもん。ぜったい、何があっても、だいじょうぶ。