「ああ……さんざんだった」
ぼやいたのは、テーブルの上につっぷしたともはちゃん。
あの後、ともはちゃんはすぐにでも帰りたそうだったけど、せっかく作ってきたお弁当くらいは、ともはちゃんといっしょに食べたくて、さんざん拝み倒した結果、テーブルとイスのある吹き抜けのオープンスペースにやってきたのだった。
いろいろあって、お昼には少し遅い時間になっちゃってたけど、テーブルは結構空いてたから、かえって良かったのかもしれない。それでも一応、人目につかなさそうな隅っこのテーブルに、私たちは腰を落ち着けていた。
「ご……ごめんなさい」
私は、ともはちゃんの向かい側で肩をすぼめる。ちらりと目を上げると、ともはちゃんの横で操緒さんが、とっても面白そうに、にやにやしてた。
ともはちゃんが、また大きくため息を吐いて、ゆっくりと起き直る。
「いや、先輩のせい……も、そりゃありますけど」
「はあ……」
ともはちゃんの目が少し恨めしそう。私がいっそう身をすくめると、ともはちゃんはいったん目を閉じ、それからぎこちなく微笑ってくれた。
「いいんですよ。……なんか、自分の運の悪さからいって、こんなことになりそうな気はしてましたし」
「う……」
そんな風に言われると、かえって胸が痛む。ほんと、悪いことしちゃったなあ……。
「でもいったい、佐伯くんや妹さんと何が……その……」
ともはちゃんの表情がみるみる曇っていったので、ついついセリフが尻すぼみになった。
「それは訊かないでください」
「はい……」
ともはちゃんらしからぬ、厳しい口調だったので、素直に引き下がる。努めてあかるく笑いながら、横に置いておいた荷物をテーブルの上に出してあげた。
「ともはちゃん。せっかくだから、お弁当しましょう」
「はあ……」
む、気のないお返事だね。無理もないけど。
構わず、包みを広げる。おかずが三箱に、おにぎりに、サンドイッチ。水筒には、甘さ控えめのダージリンティー。
「はあ……」
それを見ていたともはちゃんが、今度は少し違った声を出した。よしっ。
「ともはちゃん、何が好きか分からなかったから……いろいろ作ってきちゃいました」
「いや……すごいですね、先輩」
いやそれほどでも。えへへへ。もっと誉めてくれてもいいんだよ、ともはちゃん。
「好きなの食べてくださいね。あの、量が多くなっちゃったから、無理して全部平らげようなんて、そんなこと気にしなくていいですからね。ほんとに」
そうなの。一昨日くらいからいろいろ考えてたら、きりがなくなっちゃって。今朝もずいぶん早起きしたんだけど、時間的にはぎりぎりで、片づけもそこそこに飛び出してきたんだよね。残してきた台所の惨状と、お母さんの怒った顔は、今は想像しないことにする。
「そうですね……コルセットはめてるんで、たくさんは食べられませんけど……」
うわあ。ともはちゃん、そんなリアルで私の夢を壊さないでっ。
「でもこれは、もったいないなあ……」
「ささ、どうぞどうぞ」
お箸を渡してあげて、お茶もいれてあげる。
ほんとは、おしゃれなレストランでランチっていうのも捨てがたかったんだけど、高校生のお財布事情ってものがあるし、お弁当でアピールっていうのもいいかな、って。うん、やっぱり正解だった。
「いただきます」
私は、ともはちゃんのお箸の行方をじっと見守る。そうか、やっぱりお肉系が一番最初か。ふむふむ。
ともはちゃんは最初の一口を飲み込んでから、にっこり笑った。
「おいしいですよ。先輩」
「そ、そう。良かったあ……」
私ったら、いつの間にか息を止めてしまってたみたい。胸を押さえて、息を吐く。
「じゃ、じゃあ私も……」
私もお箸を取って、ふと思い出して見上げると、操緒さんが一転してむくれた顔で私たちを眺めていた。
『いいよねー、ともはちゃん。女の子が作ってくれたおいしいお弁当食べられて。ふうん、これが甘酸っぱい青春てやつですかねえ。いいですなあ、いまどきの若い人は』
「いや、だって、お前食べられないだろ……」
ともはちゃんが困った顔をする。私も何て言ったらいいか、分からない。確かに、操緒さんには、ちょっと酷なシーンだったかも。
操緒さんはいつも明るくて、さばさばした感じだから、つい気を使うのを忘れちゃうんだけど。幼なじみの男の子が他の女の子のお手製のお弁当をぱくついるのに、その側で見守るしかないっていう状況は、そりゃ面白くないよね。
「それにお前、今まで人が食べてるの欲しがったことなんてないじゃないか」
あれっ……ともはちゃん。もしかして、操緒さんが単においしいものを食べたいだけだなんて思ってるの? 分かってたけど、救いがたいまでに鈍いなあ……。
ちょっと絶望的な気持ちで力無く笑う私の前で、対照的に唇をとがらして何やら考え込んでいた操緒さんは、けれど、いきなりぱっと笑った。
『いいこと思いついた。……とも、はちゃん。あたしに、舌だけ貸してくれない?』
「え……ええっ」
ともはちゃんは絶句してる。無意識のうちだと思うけど、いったん私と目を合わせ、操緒さんに視線を戻す。
「なんだよ、それ……」
『だって、いつでも好きなときに、あたしが体を操ってもいいって、約束したじゃん』
「いやそれはそうだけど……できるのかそれ」
『うーん』
操緒さんはちょっと考えたけど、あっさりと、
『だいじょうぶだよ。何とかなるって。まず試してみるくらい、いいでしょ』
「いやしかし……」
ともはちゃんは渋ってる。
「手足とかならまだしも……感覚を操られるってのは、どうも……」
それはそうかも。それにしても操緒さんって、見たり聞いたりは自分でできるのに、その他の感覚はないんだね。ともはちゃんを操るときだって、痛みだけは感じないみたいで、そのへん、自分で自由に選べるのかな。考えてみると、便利にできてるかも。
私がちょっと感心しながら見守ってたら、抵抗するともはちゃんを見て、操緒さんは華やかな笑顔を引っ込めると、その代わりに、背筋が寒くなるような別の笑みを浮かべた。
『ほほう……手足ならいい、と。だったらともはちゃん、ここであたしに両手をあずけてよ。約束でしょ。そしたら……ね』
「そ……そしたら?」
ともはちゃんも、声が震えてる。操緒さんは悪魔みたいににったりと……いや、悪魔は私の方だから、ええと……人間って、怖いよう。
『そうねえ……いろいろできるわねえ。何なら、ここで全部服脱いじゃおうかなあ。こーんな綺麗な女の子が実はアレだったなんて、きっと面白いことになるわね。うくくっ』
「お前……」
ともはちゃんは怯えと諦めが半々な感じで、
「朱浬さんに似てきたんじゃないか」
『え。ええー』
操緒さんが、心底イヤそうな表情になった。朱浬さんて、黒崎さんのことだよね?
『アレと同じアレと……』
なんだかすごーく落ち込んでたみたいだけど、すぐに立ち直って、ともはちゃんにずずいと詰め寄る。
『ま、それはおいといて、後でゆっくり話しましょ。それで、どうするの?』
ともはちゃんは、肩をすくめた。
「……分かったよ。仕方ない。……でも、できなくっても、今はそれで終わりだからな。代わりに他のところを操らせろってのは、なしな」
『うん。分かった。じゃ』
操緒さんは精神集中のためか、目を閉じる。ともはちゃんは何だかとっても微妙な表情になって、そのまま一、二分がすぎた。操緒さんが目を開ける。
『できた、んじゃないかな。ともはちゃん、何か食べてみてよ』
ともはちゃんが卵焼きを口に運ぶ。二人して揃って口をもぐもぐさせる様子を、ちょっと可愛いかもなんて、ほけっと眺めていたら、操緒さんが嬉しそうに笑った。
『うん、おいしい! わ、ほんとにできたね』
「全然味がしない……」
ともはちゃんの方は、顔をしかめてる。どんな感じか、ちょっと興味があったので、おそるおそる訊いてみた。
「あのう……どんな風ですか?」
「ぼろぼろの粘土を噛んでるみたいというか、何というか……」
「えー……」
それは……作った側としても、何というか、やだなあ。あの卵焼き、けっこう自信作なのにな。
けれど操緒さんは、そんなともはちゃんに構わずに、
『ともはちゃん、次はその唐揚げいこっ。あでも、そっちのコロッケもいいかも』
「操緒。あのな……いいけど、交代だからな」
『えー何でよ』
「こっちだって味わいたいんだよ。だいいち、食べてても味が分からないなんて、作ってくれたひかり先輩に悪いじゃないか」
『ふーん』
操緒さんが、じっとこちらを見つめる。それから、ちょっと肩をすくめて、
『ま、いいわ。交代ね。てことは、ともはちゃんが二人分食べるってことで。量も多いから、ちょうどいいんじゃないの?』
「えー……そんなに食えないって……せっかく旨いのに……」
呻くともはちゃんの横で、操緒さんはこちらに意味ありげな微笑を見せた。
ああ、そうなんだ。やっぱり、そういうことだね。操緒さんも、やるじゃない。
私も負けないように精一杯の笑顔を返すと、操緒さんの笑みが、もっと大きくなった。
ちょっと悔しい。けど、なんだか、嬉しい。どうしてかな。
食べ物も少しお腹に入って、さっきのトラブルから多少は落ち着いたところで、気になっていたことを、そろそろ訊いてみる。
「ともはちゃん、あの……さっきの女の子、どういうお知り合いなんですか?」
「え……ああ」
ともはちゃんの口振りは重たかったけど、
「佐伯……玲子っていって、中学の頃からの同級生です。今も同じクラスで」
「そう……なんですか」
じゃあ、私なんかよりずっと付き合いが長い。道理で、あんなに遠慮なく叱ったり罵ったり、親しそうにできるわけだ。
「綺麗な子、でしたよね。ちょっと怖かったですけど」
ちょうど、操緒さんに味覚をあずける番だったともはちゃんは、春巻を飲み下しながらも、会話に付き合ってくれる。
「そうなんですよね。根が真面目ってのもあるんですけど、とにかく怖いヤツで。美人だから黙ってればモテるのに、もったいないなって思うこともありますけど」
むう。美人だってとこは、すらっと肯定ですか。
「ぼ……私なんか、いつも怒られてばかりですよ。ぼっとしてるとか頼りないとか。まあ、佐伯はしっかり者ですから、気持ちは分からないでもないですけどね」
ともはちゃん。それ、ともはちゃんはきっと、あの子の気持ちなんて何も分かってないと思う。私から教えてなんてあげないけど。複雑な気持ちで紅茶をすすっていたら、
「まあ……それでも、いいヤツですよ。嫌いじゃないですね。本人には、畏れ多くて言えませんけど」
ともはちゃんは、ふふっと笑って、そんなことを言った。ええと……佐伯さんの前で、そんな笑顔でそんな殺し文句を言うのは、当分禁止です。油断ならないなあ。
『ともはちゃん。タッチ』
そこへ、操緒さんが割り込んでくる。操緒さんもちょっと半眼ぎみなのは、私と似たようなこと思ってるんじゃないかな。
「あ。ああ」
ともはちゃんは、おにぎりに手を伸ばした。うん、そのマヨ鮭のは、お勧めだよ。
私の目は、何となく、おにぎりをつまんだともはちゃんの手に惹き付けられる。
そう。この手だった。
地下の暗闇の中で、私を安心させてくれた手。私をおぶってくれた手。私といっしょに時空を飛び越えた手。忘れるわけない。グランクリユで、ともはちゃんの正体に気付いたのも、その手を見たときだった。ともはちゃんがどんな恰好をしてても、いっぺんで分かった。
それは、女の子の手って言ってもぜんぜん違和感がないくらいの、きれいな手だけど、よくよく見ると、骨組みとかが細いながらもしっかりしてて、やっぱり男の子の手なんだな、って思う。
今日はその手にさんざん触ったり握ったりしたことを思い出して、今更のように頬が熱くなってきた。その最中は、女の子同士みたいな感じで自然に振る舞えてたけど、いっぺん意識しちゃうと、やっぱり恥ずかしい。
でも……この手を持つ人と、契約したら……どうなるんだろう。
そのことを考えるのは、今が初めてじゃない。出会ったときから何回も、ずっとずっと考えてきて、でもまだ、何も分からないし何も決められずにいる。
それは……契約というからには、あの、その、あんなこととかこんなこととかをするんだろうなとか、痛いのは怖いから優しくしてねとか、どんな使い魔が生まれてくるのかしらとか、そういう不安はある。
でもそれ以上に……私と契約すれば、夏目くんは、魔神相克者ということになる。無限の魔力を操る、無敵の存在。それも、私といっしょに。私も心のどっかでは、そうなったらいいなって、とっても憧れる。憧れる、けど。
夏目くんは、それを望まない……気が、する。第一、そんな気があればとっくに嵩月さんと契約してると思う。あんな美貌とスタイル(というか、あのバストは極悪非道だよ)の持ち主が側にいて、それもいつでも据え膳て感じで、でも、夏目くんはそうしない。
夏目くんが嵩月さんを嫌ってるとかいうわけじゃない。それどころか、とっても大切に思ってるのは、あまり接点のない私でも分かる。それは、羨ましくてうらやましくて、胸が焼けてくるくらいに。
たぶん、契約って、私が考えるよりも、もっと重たいものなんだ。そんな夏目くんと嵩月さんですら、簡単には踏み出せないくらいに。
真日和くんも、契約なんていいことばっかりじゃないって、ときどき言う。あの真日和くんが、そう言う時だけはすごく真剣な……というより、深刻な顔になるから、それは本当なんだと思う。
だから、怖い。怖い、けど。でも。
でも、あの暗闇の中でつないだ手なら。あの、暖かい手なら。もしかしたら。
悪魔といっても、うちは華鳥風月みたいな名家じゃない。力も、ちょっと特殊だけど、そんなに強大なものではない。それでも、悪魔の力ほしさに近寄ってくる人はたくさんいる。お父さんやお母さんは私をきちんと守ってくれるけど、それでも嫌な目に合うことも多い。
洛高を選んだのも、そこなら割と普通に学生生活を送れる、と聞いたからだ。確かに、最初はちょっとトラブルがあって、六夏ちゃんや真日和くんに助けてもらったりしたけれど、その後はおおむね平穏無事な日々を送っている、と思う。
……まあ、ともはちゃんには別の意見があるかもしれないけど。おおむね、ね。
洛高では、演操者とか射影体とか機巧魔神とか悪魔とかがごろごろしてて、周りも、多少の特別扱いはするけど、まあまあ普通に受け入れてくれてる。それまで、縮こまるようにして生きてきた私から見れば、天国みたいなものだった。
そして、そこで出会ったのは、私が悪魔だって知る前も分かった後も変わらずに、沙原ひかりという一人の女の子として、私に接してくれる男の子。
そんな人がいるわけない、って、思ってた。でも、もしそんな人がいたら、って、思ってた。
そして、見つけた。見つけてしまった。
神様って、ほんとにいるのかもしれない、って、思った。まあ、神様ときたらほんとに意地悪で、その男の子の周りには、すでにわんさかと、私と似たような境遇の女の子たちが集ってたけど。私なんか敵いっこないような、綺麗ですごい人たちばっかりだけど。
でも、一緒にいたい。これからもずっと。素直にそう思う。
契約なんかしなくっても、いいのかもしれない。契約するしないなんて、ほんとはどうでもいいことなのかもしれない。契約できなかった悪魔の末路はひどいものだって聞くけど、夏目くんと一緒に選んだ道なら、何があっても進んでいけるんじゃないか、って思う。
もちろん、今の私には想像もつかないような、苦しいことや悲しいことがうんとあるのかもしれない。夏目くんと嵩月さんは、もうそれを知っているのかもしれない。弱い私なんか、もしかすると耐えきれずに逃げ出してしまうほどのことなのかもしれない。
でも。でもね。何もせずに諦めちゃうのは、イヤだ。夏目くんの手を、私の方から放してしまうなんて、イヤだ。いつかは離れてしまうのかもしれないけど、それまでは、精一杯やってみたい。
どうしたらいいかなんて、今の私には、まだ分からない。でも、この気持ちがある限り、必ず何とかなる。夏目くんと一緒だもの。絶対、何とかなるに決まってる。
「ひかり先輩?……どうかしました?」
ふと気付くと、夏目……ともはちゃんと操緒さんが不思議そうに、こちらを見ていた
「え……あ、いえそのっ」
ええっ……私、何してたの? 耳がかっと熱くなる。もしかして、ずっと、ぼけっとしてた? そんな顔、ともはちゃんに見られちゃったの?
「わ私……あのう……」
「いえ、なんだかずっと黙りこくってたから……気分でも?」
「だ、だいじょうぶ。だいじょうぶですっ。何でもないですっ」
「そう……ですか?」
ともはちゃんはちょっと心配顔。よかった、笑われなくて。それに、何となくだけど、ともはちゃんの表情が、すごく優しく見える。
『ともはちゃーん』
そんなともはちゃんの肩に、操緒さんが上からしなだれかかった。
『ともはちゃんこそ、なーんかじろじろひかり先輩見ちゃって、あやしーい』
「え……そんな、じろじろなんて見てないだろ」
『そーかなー? なんか、見とれてたようにしか見えなかったですけどっ』
「見とれてたって……いやそりゃ、少し綺麗だなとは思ったけどさ」
え。あのう、ともはちゃん、今のとこ、もいっぺん、いいでしょうか?
「いや何ていうか……ひかり先輩が、急に大人びて見えて……いつものひかり先輩らしくないっていうか。それで、ちょっと気になって」
あのう……その言い方にはちょっとひっかかるものが。
「それって……いつもの私は子どもっぽい、ってことですか?」
「え……まさか……あはは」
ともはちゃんは、目をそらして冷や汗を一粒垂らしてる。むう。その件については、またの機会に、じっくり伺いましょう。それにしても、私、どんな顔してたんだろう。
あたふたする私に冷たい視線を注いでいた操緒さんが、するりとともはちゃんから離れて、
『あたし、もうお弁当、いい。ともはちゃんも、十分食べたんじゃない?』
「え……まあ、そうかも……」
見ると、お弁当は三分の一くらいが残った状態だった。嬉しいな。思ったより食べてくれたんだ。
「ごちそうさまでした」
ともはちゃんが手を合わせる。私はぺこりと頭を下げて、
「いいえ。お粗末様でした」
それから、ふと思いつく。
「あの……ともはちゃんって、一人暮らしなんですよね」
「まあ……一人暮らしといえばそのような、そうでないような」
ともはちゃんは微妙な表情で、横の操緒さんを見る。そっか、そうだよね。
『なによー。あたしがついてるから、何とかなってんでしょ』
操緒さんが不満そうに言うのに、ともはちゃんがやり返す。
「お前が生活上役に立ったことなんて、ないだろ」
『そりゃ、幽霊だもん。あたしは、精神的サポート専門だから』
「なんだよそれ……」
あのうお二人さん、夫婦漫才はそれくらいにしてですね。私の言いたかったことはそうではなくて。
「もしよかったら……残ったの、持って帰りませんか? お夜食にでも……お弁当箱は、後で学校で返してもらえればいいですから」
「え」
ともはちゃんは、机の上のお弁当箱、そして私、の順に視線を移して、
「……いいんですか?」
「もちろんです。あの、こんなのでよければ」
「いえ……すごく助かります」
ともはちゃんの顔を注意深く観察してみたけど、お世辞じゃなく、本気で言ってくれてるみたい。よかった。残ったお弁当を一つの箱に詰め直して、ともはちゃんの前に置いてあげる。
「ありがとうございます。それにしても、ひかり先輩、料理上手ですね」
「え……ええっ」
不意に褒められたから、どう答えていいか分からない。
「そ……そうですか?」
「はい」
ともはちゃんは満面の笑み。それを見てるうちに、なんだか頭がくらくらしてきた。ともはちゃん、その笑顔は反則だよう。
「家庭的なのって、憧れるんですよね。そういうの、あまり周りになかったので」
ああ……そうなのか。さっき、ちょっとだけ話してくれた昔話が、よみがえる。
そっか。これは、いいこと聞いちゃったな。うん。
「そうですか。……私なんかでよかったら、またいくらでもお弁当作りますよ?」
「え……」
ともはちゃんは満更でもなさそうだったけど、操緒さんの目が笑ってない笑顔が目に入ったからか、
「いや、そこまでは……悪いですから」
「……そうですか」
ここでもう一押し、と思わないでもなかったけど、ここは一旦退くことにする。ともはちゃんは力無く笑って、それからふと、視線をさまよわせた。ん? 何かしら?
『ともはちゃん。あっち』
操緒さんが白けた表情で、ある方向を指さす。そっちは……ああ、なるほど。
「え、ええと……」
『行ってきなよ。あれくらいの遠さなら、あたしはここにいられるから』
ともはちゃんは恥ずかしそうな苦笑い。
「じゃ、じゃあ……」
『ごゆっくり』
手をひらひらと振る操緒さんに見送られて、ともはちゃんが小走りにお手洗いに消えたあと、操緒さんと私の間には、ちょっと気詰まりな感じの沈黙が残った。
……ええと。おずおずと、切り出してみる。
「操緒さん……それで……お話って……?」
操緒さんは、びっくりしたりしなかった。ただ、静かに微笑んだだけ。
『ひかり先輩って……意外と、侮れないですよね』
意外と、って……まあ、そうかもしれないけど……。だって今ここで、ともはちゃんに付いていかずにここに残るのって、私に話があるとしか思えないよ。
「それで……そのう……何でしょう……?」
『ええと、ですね』
操緒さんに珍しく、少しためらいがあった。
『智春なんかの……どこがいいんです?』
そういえば、あの地下迷路でも同じこと訊かれたなあ。答えは同じだけど、さすがにこんな冷静な状況であらためて口にするのは、ちょっと恥ずかしい。
「……その……優しくって、頼りになるとこ……です……けど」
『えー』
なんだかまずいものでも食べたかのような声。でも操緒さん。今度は、あの時みたいに大げさに驚いたりしないんだね。操緒さんもちゃんと分かってる、って取ってもいいのかな。
『優しいっていうより、何も考えてなくてお人好しなだけかもしれませんよ? あたしがついてないと、いまいち何もできないし』
「操緒さんは……夏目くんのこと、そんな風に思ってるんですか?」
『まあ、付き合い長いですから……それもこの何年かは四六時中ずっといっしょですし。悪いとことか足りないとこも、いろいろ見えてきますよね。否応なく』
「でも……操緒さんも、夏目くんのこと……嫌いだとは思えないんですけど」
私の追求にも、操緒さんは口ごもったりしない。不自然なくらいに流暢に答える。
『だってほらあたし、選択の余地ないですから。智春から離れられないんだし。どうせなら、険悪になるよりは、ほどほどに仲良くしてる方がいいじゃないですか。適当に目つむるとこはつむって。深く考えても仕方ないし』
「……それで……自分と同じように……私にも予防線を張るんですか?」
『っ……』
操緒さんは口を閉じて、私を睨んだ。初めて見せてくれた表情だった。
『……あたしは別に……先輩が智春と付き合うことになったって……構わないって、思ってますよ。ただ、なんで智春なのか不思議なだけで』
「自分にはそんな資格はないから、仕方ない……ですか?」
『……』
操緒さんの頬が強張る。ちょっと開いた唇の間から、食いしばった白い歯が見えた。
『先輩に……そんなことを言われる筋合いはない、って思いますけど』
「……そうかもしれませんね」
私はにっこり笑って、自分の声が震えないように祈る。
「しょせん、ただの知り合いの上級生ですよね。……操緒さんみたいに、いつもいっしょにいて、《K鐵》を呼び出せて、夏目くんを守ったりなんか、できませんし。操緒さんは特別で、どんな子だってかなわない」
『……』
「でも私なら……操緒さん以外の女の子なら……夏目くんと触れ合える。夏目くんの恋人になれる。夏目くんに抱きしめてもらえる」
私が言葉を重ねるたびに何かをこらえるような操緒さんの表情を見て、私はいったん言葉を切った。次の言葉は、口にするのにちょっと勇気がいったから。でも、思い切って言ってみた。
「……夏目くんが、佐伯くんみたいに元演操者になっても、いっしょにいられる」
『先輩、あたしはっ……』
操緒さんの顔は、怒ってて、泣いてて、笑ってた。構わずに、続ける。
「夏目くんのことが、そんなに大事ですか? 夏目くんに彼女ができても、笑ってがまんできちゃうくらい? 自分だけの場所はあるから、って? 自分はいつ消えてしまうかも分からないから、って? ……そんなのを、私にも見ないふりしろって、言うんですか?」
『……』
「私はイヤです……そんなの。操緒さんがごまかしたままだったら、誰も前に進めないじゃないですか。夏目くんも、操緒さんも、私も。……たぶん、嵩月さんだって」
『……あたしは……』
「私、悪魔ですから」
精一杯、人の悪そうな笑顔を作ってみる。
「夏目くんと、契約しちゃうかもしれませんよ? そしたら……このままなら、操緒さんのこと、二号さん扱いしちゃいますよ? なにせ……ええとその、あ、愛の結晶なんか、できちゃうんですから。それでも構いませんか? 本当に?」
『……』
「操緒さん。自分が夏目くんの恋人になれっこないなんて……ならなくてもいいなんて……本当に、本気で思ってるんですか?」
操緒さんは、じっと私を見てた。その薄い色の瞳に、吸い込まれてしまいそうな気がするくらいに。
どれくらい、そのままでいたんだろう。そんなに長い間じゃなかったはずだけど、私には何時間にも思えた静寂のあとに、操緒さんはおもむろに目を伏せて、呟いた。
『それで……あたしに何言えって……言うんですか……』
「……なんにも。言わなくていいです。……私が言いたいこと言ってただけですから」
『そんなのって……ずるいじゃないですか』
「そうですよ? ……おあいこです」
操緒さんは顔を上げた。私が澄ました顔で見返すと、操緒さんは段々と目を眇めるなり、いきなり、にやりと笑った。
『先輩って、やっぱ意外と……』
まだ言いますか。
「あの……ですから、意外と、は余計です……私、一応ほら、年上で……」
操緒さんは吹き出した。ええと……その……もう、何がそんなにおかしいのー!
『先輩……せんぱい』
操緒さんは笑い声の下から、切れ切れに言う。
『先輩、可愛いっ。可愛過ぎっ』
「え。ええっ……」
あのう……操緒さん。たった今私が言ったこと、聞いてました?
『そんなに可愛いの、反則ですよー……まいったなあ。あたし、百合じゃないはずだったのにい』
「……まいるの、こっちですよう……それに百合って、なんなんですかあ……」
くすくす笑い続ける操緒さんと、しょげる私。そこに、ともはちゃんが戻ってきた。
「……何やってんですか。二人して」
『んー』
操緒さんがいたずらっぽく目を輝かせて、
『女の子のヒ・ミ・ツ。ともはちゃんには、まだ早いかなー。もっと大人になったら、教えてあげるね』
「何だよ、それ……」
ともはちゃんが物問いたげに私を見るけど、私も乾いた笑顔を向けるのがやっとだった。とてもじゃないけど、年下の女の子に可愛いって言われたなんて、口にできない。
ともはちゃんは要領を得ない顔つきのまま、肩をすくめた。
「あー……。お待たせしました。行きましょうか」
「はい」
私もお弁当箱を持って、立ち上がる。残り物を詰め直した方をともはちゃんに渡してあげると、ともはちゃんがふと思い出したように、
「そういえば……プレゼント、結局決まらないままですね。すみません」
ああ、そうだった。うん、それはね。
「いいえ、大丈夫ですよ。もう、決まりましたから」
「え?」
ともはちゃんは何のことだか分かってない顔だったけど、私は何も言わずに、ふふ、とだけ笑った。操緒さんが笑うのを止めてジト目で睨んでくるけど、気にしない。
まあ、いろいろあったけど、結果オーライ。けっこう収穫があったなあ、と体の向きを変えた私の目に、あるものが飛び込んできた。
壁の広告。レディース冬物バーゲン。8割から9割引き。