ふと時計に目をやると、いつの間にか三十分も経っていたので、黒崎朱浬は少しびっくりして目を瞬かせた。ほんの数分間だと思っていたのに、半分以上機械の体が客観時間と主観時間のずれを経験するなど、ひどく珍しい。
もっとも、今の朱浬にとっては全く気にならなかったが。
(まあ、たまには。ね)
視線を元に戻す。その先には、机の上につっぷして穏やかな寝息をたてている少年が一人。小春日和の午後の化学準備室における閑かなひとこまだった。
それもめったにないことに、朱浬と少年の二人きりなのである。いつもなら少年の周囲には他に何人も(主として女の子たちが)いて賑やか極まりないのだが、どういうわけだか今日は、化学準備室を訪れた朱浬の目の前で、少年はたった一人で眠りこけていた。
常に少年の傍らに寄り添っている射影体の少女の姿さえ、今は見えない。まあ、副葬処女は演操者の脳機能に依存した存在だから、演操者が眠っている間は現れないとしても不思議はないのだが。
そんなわけで、朱浬は少年の向かい側に腰を下ろし、この得難い機会を存分に愉しむことにしたのだった。
(しっかし、よく寝るわねえ)
それも、他人にまじまじと寝顔を見られながら。自分なら絶対に目を覚ましてしまうだろう、と思う。こんなに暢気で無防備な寝姿など他人の前にさらしていたら、命がいくつあっても足りないからだ。それにひきかえ、
(さすがトモハルね)
朱浬は頬杖を突いたまま、妙に納得した。この安気さこそが、夏目智春だと思う。
高校生男子にしてはやや幼さの残る、やさしげな面立ち。つい指をからめてみたくなる、柔らかそうな髪。少しだけ口を開けて眠っている今は、尚更あどけなさが目立つ。
まあ、起きていたって別段、きりりと様変わりするわけでもない。ぱっと見は昼行灯そのもの、大体において影が薄くヘタレで気弱で頼りなく、煮え切らない態度と薄らぼんやりした笑顔と役にも立たない愚痴っぽさが身上の男の子なのだ。
そして黒崎朱浬は、そんな夏目智春抜きの世界など、今や想像もできないのだった。
「トモハル。知ってる?」
いつも一杯一杯だったのよ、と後半部分は口の中で囁きながら、朱浬は目を細める。
あの事故の後、半身不随の状態で意識を取り戻したときから。夏目直貴の手によって、半ば機巧魔神と化した体になったときから。事故で行方不明になったはずの、双子の姉妹の運命を知ったときから。失ったものを取り戻すため、王立科学狂会に身を投じたときから。
黒崎朱浬は、かけらほどの余裕もなく生き急いできたのだった。焦燥も不安も恐怖も怒りも、全てをおっとりした笑みと漆黒のコートの裏にくるみ込んで。
(まあ、今だって同じなんだけどね)
朱浬は苦笑した。望んだものを何一つまだ手にしていない以上、何も変わりはしない。変わるはずもない。そのはずなのに。
(不思議ね)
智春と出会ってから、全てが変わってしまったように思えるのだ。
ふと気付くと、智春をからかいながら屈託なく笑っている自分がいた。ごく自然に智春と触れ合って安らいでいる自分がいた。夏目ともはという少女にお化粧をしてあげるのに純粋に熱中している自分がいた。
そして、夏目智春が傷付くとき、鋭い痛みを覚える自分がいた。
他人のことなど、どうでもいいはずだったのに。自分の願いをかなえるためなら、何者を犠牲にしても顧みないはずだったのに。
「ひどい女だよねー」
他人事のように、呟いてみる。
(じっさい、ひどい先輩だって思ってるわよね、トモハルも)
それはそうだろう。とんでもない厄介ごとに巻き込み、いやというほど危険な目に遭わせ、きわめて重要な真実を隠して教えなかった。その結果、智春が傷付くであろうことは十二分に予想した上でのことだったし、実際にそのとおりになった。
数多くの必然といくつかの偶然が重なった挙げ句のこととはいえ、そもそも最初に智春の手を引いたのが自分であることを忘れてはいない。忘れることなどできない。
だが、後悔はしないと決めた。これからも、必要なら躊躇いはすまいと思い切った。たとえ智春がどれほど傷付き苦しもうとも、ここで逃げ出せばもっと過酷な運命が待っているだけなのだから。
そして、暗い顔をしていても何の役にも立たないから、せめてあっけらかんと笑っていようとも決心した。うまくやりおおせている自信など、いささかもないが。
非道い話だ。実に非道い。
「ねえ。恨んでる?」
同じように机の上につっぷし、上目づかいに少年の寝顔を眺めつつ、訊いてみる。答えは、容易に想像できた。そりゃ恨んでますよ、と智春は言うだろう。仕方なさそうに笑いながら。
夏目智春は、全てのものをあるがままに受け入れて、ごく当たり前に揺るがない。次々に襲い来る非日常に振り回されっぱなしのようでいて、その視線は、真に大切なものを決して見失わない。
だから、その周囲ではあらゆるものが当然のようにところを得て存在する。機巧魔神も射影体も、家族もクラスメイトも、悪魔も使い魔も、生徒会も部活動も、総てが同心円の中に丸く収まってしまう。鬼っ子の黒崎朱浬でさえ、いたずら好きの我が儘な先輩でいられる。
(しっかし)
智春を取り巻く人々を思い浮かべて、朱浬の表情が微妙にひきつった。
(妙に女の子が多いわよね。それも綺麗どころばっか)
幼馴染みの美少女幽霊。極上和風美人の同級生悪魔。異国の幼い天才魔女。ウサギみたいに可愛い上級生悪魔。他にも確か、第一生徒会会長の美形の妹だの、元気のいい魅力的なクラスメイトだの。ひけを取るつもりはさらさらないが、気にならないと言ったら嘘になる。
「そこんとこ、どうなのよ」
手を伸ばし、智春の目を覚まさせないよう細心の注意を払いながら、その頬を指先で軽く突っついてみる。その存外に柔らかい感触を楽しみながら、朱浬はそっとため息をついた。
分かっている。彼女たちも、自分と同じなのだ。惚れたはれたとかいう以前の、切実な想い。いわば、智春こそが、自分たちを世界につなぎ止めてくれるよすがであるかのような。智春の傍らこそが、求めてやまない安住の地であるかのような。
自分自身、この気違いじみた二巡目の世界で正気を失わずにいられるのは、智春がいてくれるからだろう、と朱浬は思う。智春と一緒ならば、いつか目的を果たすまで、しっかり自分の足で立っていられそうに思えるのだ。
そう。自分たちはそれでいい。
だが。夏目智春にとっては、どうなのだろう。
(トモハルは…どこまで耐えられるのかしら)
智春は決して、操緒を見捨てたりしない。奏の手を離したりしない。近しい者の誰をも諦めたりしない。
その代わりに、自らの心と体を削るだろう。周囲の誰も癒すことのできない深い傷を、その精神と肉体に負うだろう。
そんな智春を支え切る自信など、朱浬にはなかった。苦悶する智春を直視することすら、心弱い自分には能わないのではないか。己の望みすら叶えられない非力な自分に、何ができるというのだろう。
その時は、最も近くで直接手を差し伸べられる操緒や奏でさえ、結局は力及ばないのかもしれないのだ。いやそれどころか、彼女たち自身が今や、智春を切り刻む刃の一部でもあった。その救いの無さに、朱浬の心は凍り付く。
「ダメな先輩かもね。あたし」
免罪符になどならないことは承知の上で、自虐的に呟いてみる。不意に襲ってきた身震いは、罪悪感や絶望のせいなどではなく、寒さの故だと思いこむことにした。上体を起こし、両腕で自らを抱きしめる。しかしそれにしても、
(本当に冷えてきたわね)
実際、いつの間にやら、窓の影が部屋の中に長く伸びていた。今更のように、手足の先が冷え込んでいることに気付く。朱浬は立ち上がり、少し考えてから、徐に智春に歩み寄った。自分のコートを脱ぐと、智春の上にそっと掛ける。
「ゴメンねトモハル。こんなもんで許してよ。今のところはさ」
目を伏せ気味に、智春の平和な寝顔をじっと見つめるうちに、だが黒崎朱浬は唇を噛んだ。
(そうね。何もできないなんて、今決めることじゃないわね)
そう簡単に諦めては、女が廃る。借りを作りっぱなしというのも、寝覚めが悪い。
この頼りない少年が全てを引き受けて怯まないというのなら、自分もその側で、何かの役に立ちたい。黒崎朱浬という存在を、少年の中に僅かでも留めておきたい。こんな自分にだって、大事なものを守る力が少しくらいはあると、信じたい。
大切なものを大切だとおおっぴらに認めることもできないなんて、悔しいではないか。黒崎朱浬は、そんな奥ゆかしくもしおらしい女ではないはずなのだから。
だからとりあえず、朱浬は身をかがめ、智春の頬に唇を寄せた。
「あー……」
唐突に背後から声がした。だが、朱浬はそのままの姿勢でしばらく動かず、それからゆっくりと背を伸ばして振り向く。朱浬をしても引け目を感じさせるほどにとんでもない美少女の後輩が、戸口のところでまん丸に目を見開いて立ち尽くしていた。
「あら、奏っちゃん。どしたの?」
「あの……日直のお仕事が長引いて……夏目くんとここで待ち合わせ……です」
「トモハルなら、ここで間抜けに寝こけてるわよ。たたき起こす?」
「えー……」
奏の視線は戸惑いと疑念に満ちていて、朱浬には多少こそばゆい。
「んじゃ、後は任せるわね。そうそう、いいチャンスだから、トモハルに何しても構わないわよ。あたしが許可するわ」
「あー……その……はい……」
困惑している割には穏やかならぬ返事をしてのけた奏を残して、朱浬は部屋の敷居を跨いだ。くすくす笑いながら、独りごちる。
奏っちゃん。何してたんですかって、訊いてもいいのよ。そしたら、傍迷惑な先輩が、いたいけな後輩をからかってただけだって、言ってあげる。当分、そういうことにしといてあげる。
だって、あなたもあたしも、トモハルだって、まだその先には進めないんだから。今はまだ。そうでしょ?
そういえばコート、と朱浬は最後に思い出す。そして、悪戯っぽく笑った。あのままトモハルが着ていって、そのまま洗わずに返してくれないかしらね、と。それを身につけたら、いつもよりほんの少しだけ勇気が湧いてくるような気がするのにな、と。