「ちゃーすっ!」  
「おはようございますっ!」  
「あら? トラゲット組? 私たちのように、プリマになれない居残りさん?  
ま、他の会社の居残りさん達と一緒に、今日もせいぜい頑張ってね(プッ」  
「そ、そんな言い方しなくてもいいんじゃないですか! …… む、むぐぐ」  
「いいから、いいから。朝っぱらから、波風立てなくってもいいから」  
「だって、あんな言い方することは無いと思いませんか? あゆみさんっ!」  
「言いたい人には、言わせておけばいいから。  
ほらほら、そんな真っ赤な顔のまんまで、お客様の前に出る積もりか?」  
「あ …… す、すみません …… 」  
 
 
『その、新たなる船出は』  
 
 
ここは、姫屋の管理室。  
アリシアの現役引退、アテナの舞台デビューに伴い、  
全現役水先案内人(ウンディーネ)のトップとなった晃と、  
シフト管理のマネージャーが、頭を抱えていた。  
「んー、新規支店のテコ入れに、ベテランを送り込み過ぎたかなぁ?」  
「支店の方に連絡入れて、一人前(プリマ)のウンディーネを何人か  
本店の方に廻してもらいますか、晃さん?」  
「藍華も支店の立ち上げでゴタついてる時に、人を動かされても困るだろ。  
それに、本店にだって頭数は居るんだ。  
なんとか、こっちだけで対処してやろうじゃないか」  
 
ホワイトボードのカレンダーには、来月から向こう三ヶ月間、  
びっしりと団体予約が入っていた。  
アリシアの引退で減速したものの、灯里の立ち上がりで  
急速に地歩を固めつつあるアリアカンパニー、  
効率的な運営で業績を伸ばし続けるオレンジプラネット、  
切磋琢磨を続けるその他諸々の中小規模店。  
そういった同業他社の動向に危機感を持った営業が、  
後先考えずに予約を取ってきた結果が、この過密スケジュールとなっていた。  
 
だが、実際に現場に出せるウンディーネの人数は限られている。  
オフをずらしたり、削ったり、ローテーションを工夫するだけでは、  
どうしても予定が破綻してしまう。  
オレンジカンパニーを真似て、プリマに半人前(シングル)のウンディーネを  
つけて、プリマの負担軽減とシングルの修行を行おうとしていたが、  
始めたばかりの制度は、未だ効果を上げていなかった。  
「もうそろそろ、昇格させられそうなシングルは居ないかな?」  
そう言いながら、晃は名簿に手を伸ばした。  
「サンタ・ルチア支店開設前に、一気に昇格させてしまいましたからね」  
マネージャーは、お手上げの仕草をした。  
「うち(姫屋本店)のシングルには、もう昇格対象者は残って居ません。  
それに、そのプリマも経験の浅いメンバーばかりです。  
中堅以上のプリマは、晃さん以外はごっそり支店に持っていきました。  
やはり、現状のメンツでこの予定をこなすのは無理がありますよ」  
マネージャーの愚痴を聞き流しながら、晃は名簿をめくった。  
若すぎるか、操船の技量に問題があるか、接客が稚拙か、 ……  
誰もがどこかにアラがある。  
 
紙をめくりつづけていた晃の手が止まった。  
「あれ? この娘(こ)、どうして昇格対象になってなかったんだ?」  
自分に向けられた名簿の紙面を一瞥して、マネージャーは答えた。  
「あぁ、あゆみちゃんですか。最初っからトラゲット志望の子ですよ。  
プリマへの昇格は興味無いからって、辞退してるんです」  
「へぇ …… 」  
相槌を返しながら、晃は手許の名簿に目を落とした。  
経験は申し分なさそうだし、トラゲットの現場でも、  
他社のシングルも含めて、上手く取りまとめているようだ。  
「けっこう頑固な子ですからねぇ。説得は無理ですよ」  
 
翌朝。  
「ちゃーすっ …… う、うわぁ! な、何すか! 晃さんっ!」  
いつものように、朝の挨拶をしようとしたあゆみに、  
姫屋のトッププリマが、子泣き爺のようにしがみついていた。  
「ぐふふ、あゆみちゅわーん、今日はトラゲットをお休みして、  
私のサポートで、団体さんの対応に回って欲しいんだなぁ」  
彼らの周りで、一緒にトラゲットに行こうとしていたシングル達が、  
遠巻きに、恐ろしそうに見守っていた。  
「晃さんってば、藍華さんが居なくなったから …… 」  
「ああやって、シングルやペアの娘をさらって来ては、  
シゴキ倒して もとい 可愛がって、寂しさを紛らわしてるそうよ」  
「今日の犠牲者は、あゆみさんだ、ってコトで …… 」  
「それじゃあ、私たちは …… 」  
「「「「いってまいりまーすっ!!」」」」  
「ああっ! みんなっ!」  
 
首尾良く管理室に連れてこられたあゆみは、打ち合わせを行っていた。  
「別にウチは、お手伝いすることに、不満がある訳じゃ無いんすけどね、  
ただ、大事なお客様なら、ぶっつけでやらずに、  
予行演習をしてから本番に入った方が良い、って思うんすけど?」  
普段の顔に戻った晃が、疑問をぶつけてきたあゆみに答えた。  
「ああ。今日が、その予行演習だ」  
「へ?」  
「まぁ、あれを見てみろ」  
ホワイトボードの予定表を指さしながら、晃は言った。  
ぎっしりと書き込まれた予定に、あゆみは絶句していた。  
「お客様を迎えるにあたって、本番も練習も無い。それは分かるな?」  
晃に言われたあゆみは、黙ったまま頷いた。  
「だが、滅茶苦茶忙しくなる来月までに、みんなの様子を把握する必要がある。  
だから、今日のは本番ではあるけれども、来月に向けた予行演習でもあるんだ」  
晃の鋭い目線に、あゆみは再び黙って頷いた。  
 
「ようこそ、いらっしゃいませ」  
ゴンドラ乗り場に、晃のよく通る声が響いた。  
その声に、あゆみは はっ とした。  
ただの挨拶、セリフだけならば紋切り型の口上に過ぎないのに、  
そこには、歓迎の気分が、聞いただけで微笑まずにいられない明るさが  
込められていたからだ。  
「これが、トッププリマの接客かぁ」  
あゆみは、これまで興味を感じられずにきた、  
観光案内の世界の奥深さを、垣間見たような気がした。  
 
あゆみにとって、晃の白いゴンドラに、半人前の黒いゴンドラで並走するのは、  
正直、気がひける思いがしていたのだが、その事は杞憂に過ぎなかった。  
乗客たちは、女性が操るゴンドラで観光案内してもらう、という  
体験そのものに珍しさを見出している様子だった。  
間近に見る晃の操船や口上、振舞いなどから、大事なものを盗みとっていった。  
1セットのクルーズが終わる度に、晃から厳しいダメ出しが出た。  
声が小さい、態度が硬い、気さくと失礼の間の見えない一線を踏み越えている。  
晃のダメ出しがあるごとに、あゆみの腕前は向上していった。  
 
晃にとっても、あゆみと接する事で、新たな発見があった。  
あゆみの気さくな態度は、乗客の緊張感を消し去った。  
活発な動作は「この娘のゴンドラなら大丈夫」といった安心感をもたらした。  
普段トラゲットで鍛えられている成果なのか、  
男性客の下品な冗談はさらりとかわし、  
乗客が多い時でも、安定した操船を行っていた。  
午前のクルーズを終了し、昼休みをはさんで午後一番のクルーズの途中、  
「こいつ、意外と凄腕のウンディーネになるんじゃないか?」  
と思いはじめていた頃、厄介ごとが持ちあがった。  
観光客の集団とは、基本的に厄介ごとがセットになっている。  
いきなりトイレを要求する者、腹が減ったと言い出す者、居眠りする者、  
大抵の事は経験済みだったが、さすがの晃もちょっと困った。  
 
あゆみは、先行する晃が右手を小さく廻している仕草に気がついた。  
「お客様、すこしスピードを上げますので、お気をつけ下さぁい」  
ハリのある声で言うと、晃のゴンドラに並ぶ位置につけ、  
かろうじて二人の間だけで聞こえる程度の小声で尋ねる。  
「なんでしょう?」  
「あゆみ、ピンチだ」  
赤ん坊を抱えた、若い母親のお客様が、授乳をしたいと言い出したのだ。  
大きな商業施設にまでたどり着いてしまえば、授乳室もあるが、  
ネオヴェネツィアの下町の水路を航行している今この場には、  
そういうこじゃれた物は無い。  
この場で授乳してもらう事もできるだろうが、  
抵抗無くそういう事ができるなら、わざわざ晃に相談しないだろう。  
 
あゆみは、少しの間あたりを見回すと、にっ と微笑んで、晃に言った。  
「了解っす。不躾ながら、しばらく先導させて頂きたいんすが」  
「分かった。まかせる」  
「お客様、しばらく規定のコースを外れさせていただきまぁす」  
規定速度いっぱいの早さで、町の舟着き場にゴンドラを付けたあゆみは、  
手早く自分のゴンドラを舫う(もやう)と、乗客にしばらく待つように頼み、  
陸上に姿を消し、またすぐに戻ってきて、晃に合図をした。  
晃はゴンドラを接舷させると、赤ん坊を抱えた母親に声をかけた。  
船に不慣れなお客様は、立ち上がるだけでもゴンドラをゆらしてしまう。  
 
あゆみは、素早く母親のお客様をはさんだ、晃と相対する位置に回って、  
片足でゴンドラを踏みしめる。  
晃に手をとられて、揺れが収まったゴンドラから降りたお客様を  
すかさずエスコートして、あゆみがどこかに連れていく。  
晃は、残された乗客が退屈しないよう、二隻のゴンドラにむかって、  
あれやこれやの逸話を語って聞かせた。  
 
しばらくたって、恐縮したお客様を連れて、あゆみが戻ってきた。  
待たされていた他の乗客も、晃の話に退屈を感じていなかったためか  
戻ってきた母親を温かく迎えた。  
その母親が、舟着き場の方を見て深々とおじぎをしているのに気づいた晃は、  
そこに人の良さそうな婦人の姿を認めた。  
「あの方が授乳する場所を貸して下さったのか」  
と思った晃は、自分も深く一礼をした。  
ふと見ると、自分のゴンドラに戻ったあゆみは、  
舟着き場の婦人に向かって、元気一杯に手を振っていた。  
その、あゆみの姿を見た、道を歩いていた関係の無い子供が、  
喜んで手を振りかえす。  
その子供に向かって、今度はお客様が手を振り始めた。  
自然と沸き上がった、和やかな笑いに包まれて、  
二隻のゴンドラはクルーズを再開した。  
 
「今日の午後のアレには参ったな」  
仕事を終え、ピザ屋にやってきた晃とあゆみは、  
反省会と称して、マルガリータをぱくついていた。  
「よくあの場所で、授乳場所を貸してくれるお宅を知っていたなぁ」  
「あぁ、それは」  
感心したように言う晃に、嬉しそうにあゆみが答える。  
「イトコの知合いがあすこに住んでるンすよ」  
「親戚の知合いって、それは赤の他人と言わないか?」  
呆れたような晃のツッコミに、あゆみは邪気の無い笑いを返した。  
「実は場所を貸してくれたのは、そのお向かいさんなんすけどね。  
あン時、知合いさんは留守だったもんで」  
あゆみの笑い声は、店の中にころころと響いていった。  
 
その日から、あゆみはプリマのサポート役に駆り出される事が多くなった。  
ただ、あゆみ自身は自分の仕事の主軸を観光案内には置いていないようで、  
相変わらず、トラゲットの現場へと足を向けていた。  
その事で、ウンディーネ達の中に、噂が流れるようになった。  
「トラゲットをしているシングルの中に、  
プリマ級の腕前を持つウンディーネが混じっているようだ」  
「どうやら、それは、姫屋のシングルらしい」  
「姫屋は、そのウンディーネを軸にトラゲットの独占を狙っているそうだぞ」  
「いやいや、そのウンディーネの才能に嫉妬したプリマが、  
昇格できないように手を廻しているんだ」  
「嫉妬しているプリマとは、三大妖精の一人、クリムゾンローズだってよ」  
晃は、自分についてなら、どんな誹謗や曲解でも、受け止めることができた。  
だが、あゆみの事で、好き勝手な事が語られているのが、我慢ならなかった。  
あゆみ本人は、噂話なぞ気にも止めてない態度をとっていた。  
むしろ、あゆみを気遣う晃自身が心配だ、と言ってくれるんだが ……  
 
「ほへ、しばらくお会いしない内に、そんな話があったんですかぁ」  
多忙を極める日々の中、久しぶりに偶然ゲットできた午後の半日オフを  
晃はアリアカンパニーで過ごしていた。  
久しぶりに、私も今日はオフなんですよ、と笑う灯里は、  
午前中は、アイちゃんの修行に付き合い、午後も店番をしているそうだ。  
それって、オフでも何でもないような気がするんだが。  
予定カレンダーにも、姫屋のそれと大差ない程の書き込みがあった。  
 
「でもなぁ、あゆみも嫌な思いをしてると思うんだ」  
ティーカップを口許に運びながら、晃はぼやいた。  
「なんとかしてやりたいんだけどなぁ」  
「あらあら、じゃあ、そのあゆみって娘を、  
プリマにしちゃえばいいんじゃないかしら?」  
横から聞こえた言葉に、思わず晃は顔を向けた。  
「ア、アリシア! いつからそこに?!」  
「うふふ、わりとさっきから」  
灯里が、アリシアの分のお茶とお菓子を用意しはじめたので、  
晃はアリシアに向かって話した。  
「だけどなぁ、プリマになっちまったら、トラゲットには出られないんだろ?」  
「あらあら、そんな事ないわよ。  
トラゲットを漕げるのはシングルだけ、なんていう決まりはないの」  
「え? そうなのか?」  
驚く晃に、アリシアは微笑んだ。  
 
「そうよ。大勢のお客様に乗っていただくから、  
あまりゴンドラに慣れていないウンディーネじゃ困る、っていう話があるだけ。  
ペアの人が対象外になってるのは、たぶんその事が元ね。  
だから、プリマでもトラゲットをしても何の問題も無いはずよ」  
「でも、聞いたこともないぞ。プリマがトラゲットするなんて話」  
晃は、自分の知る範囲から疑問を投げかけた。  
「そうでしょうね。私も現役時代には、そんな話は知らなかったわ。  
だけど、グランマが現役の頃には、  
プリマでもトラゲットを漕ぐことがあったそうよ」  
 
「正確には私が現役になる、少し前までの話かしらねぇ」  
「グ、グ、グランマ! い、いつからそこに!」  
「ふふっ、わりとさっきからかしらね」  
そこには、灯里からお茶を受け取りながら静かに微笑むグランマが居た。  
「トラゲットはねぇ、ペアからシングルに昇格したご褒美でも、  
プリマになれないシングルへの罰ゲームでもないの。  
もちろん、プリマがトラゲットをしてたのだって、  
ペナルティの意味は無かったのよ」  
グランマは、アクアで観光業が成立し始めた時代の事を語った。  
なりふり構っていられない、入植直後の時期が終わり、  
人々が余裕とゆとりを手にし始めた頃。  
一部の人の娯楽が、多くの人々の余暇となり始めた時期に、  
地球(マンホーム)のヴェネチアを真似て、ゴンドラでの観光が始まった。  
だが、ルーキーからベテランに至る、全てのウンディーネにいきわたる程の  
仕事の需要は、存在しなかった。  
 
「そんな時に、トラゲットは始まったらしいのよねぇ」  
人々の暮らしに密着した、ヴァポレット(水上バス)がフォローしきれない  
短距離の移動をウンディーネが受け持とうというプランが持ちあがった。  
「だから、始めの頃はプリマでもトラゲットをしてた訳よ。  
みんな自分の会社の知名度を上げようと一所懸命だったらしいわ」  
「それなら、なんで、プリマはトラゲットをしなくなったんですか?」  
晃が投げかけた疑問に、グランマは灯里の予定表を示した。  
「やがて、地球(マンホーム)のお客様が定期航路で見えられるようになって。  
プリマは自分のゴンドラで案内をするので、手一杯になっちゃったでしょう。  
それが、私が現役になる少し前の話なの。  
その頃から、プリマはトラゲットに出なくなっていったらしいのよねぇ。  
ま、私が現役になる前の話は、先輩からの又聞きなんだけどねぇ」  
 
上品に笑うグランマの声を聞きながら、晃は灯里に向き直った。  
「灯里、この中で、あゆみと面識があるのは、私以外にはお前だけだ。  
だから、お前の目から見た、正直な感想を聞きたい。  
あゆみの奴は、プリマとしてやっていけると思うか?」  
真剣に問いかける晃に、灯里は静かに微笑みながら答えた。  
「ええ。あゆみちゃんほど、お客様と接する事とゴンドラが好きな  
ウンディーネが、プリマとしてやってゆけない訳がありません。  
あゆみちゃんは、きっと素敵なプリマになりますよ」  
確信と信頼に満ちた灯里の答えに、晃は恥ずかしささえ感じていた。  
思えば、あゆみの名簿を見て彼女の素質を予感したのは、  
自分自身だったはずだ。  
それが、思いもよらない噂話のネタにされ、最初の確信を失ってしまっていた。  
自分が、あゆみとあゆみの可能性を信じなければ、  
誰が信じるというのだろう。  
 
晃は、確信を失っていた恥ずかしさと同時に、  
なぜ灯里は、あゆみの事をこれほど確信できるんだろう?  
という疑問も感じていた。  
だけど、身振り手振りでトラゲットでの体験を話す灯里と、  
微笑みながら聞いているアリシアとグランマを見ている内に、  
そんな疑問は、ささいな事なのだ、と思えてきた。  
晃には、かつてグランマが姫屋を出て、この場所にアリアカンパニーを  
設立した理由と気持ちが、少しだけ分かるような気がした。  
 
数日後、その日最後のクルーズで、舟着き場まで団体客を送り届けた後、  
晃は舟着き場に自分の白いゴンドラを舫った。  
今日もサポートについていたあゆみは、そんな晃にゴンドラから声をかけた。  
「どうしたんす? 今日はこっちにお泊まりっすか?」  
あゆみのゴンドラまでつかつかと歩み寄った晃は、あゆみに言った。  
「今日はお前のゴンドラに、私を乗せて帰ってくれ」  
「いいっすよ」  
「ただし、客としてだ」  
 
その瞬間、あゆみは、桟橋に片足をのせ、左手で杭をしっかり握ると、  
にっこりと微笑みながら、晃に右手を差し出した。  
「ようこそいらっしゃいました。今日はどちらまでお運びしましょう」  
晃は、たった半月ほど前のあゆみの様子を思い浮かべ、  
短期間での成長に、内心で驚いていた。  
無表情を装いながら、あゆみに手を取ってもらって、ゴンドラに乗り込む。  
「姫屋の舟着き場までお願いします」  
まるで、貴婦人のような、気品と風格を感じさせながら、晃が言った。  
「承知いたしました。 ゴンドラ通りまーす!」  
大小の船で混み合う夕方の舟着き場を、スムースなオールさばきで、  
あゆみのゴンドラが滑り出た。  
 
普通の観光案内のように、景色の解説など話しながら、  
危なげなく姫屋への水路を通っていったのだが、  
とある三叉路を通過する時に、異変はおきた。  
「ウンディーネさん、その角を曲がって下さい」  
晃はいきなり、あゆみに呼びかけた。  
「あ、お客様、そこは …… 」  
「曲がってください」  
「そこは通行禁止区域です」というセリフを飲み込むと、  
あゆみは覚悟を決めた声を出した。  
「ゴンドラ、曲りまーす!」  
 
そこは、まるで迷路のように見える水路だった。  
日没が近い夕方の空は、急速に明るさを失っていった。  
視界が悪い中、急カーブが、連続したクランクが、行く手を阻む。  
良く見えない分は、波音と感じられる水の流れで補い、水路の様子を把握する。  
かといって、操船だけにかかずらっている訳にはいかない。  
両岸の建物に、何とか話のネタを見出そうとする。  
細い、路地のような水路に、話すネタも見つけられない時には、  
カンツォーネを唄って、間を持たせる。  
やがて、広く開けた場所に近づいた事が感じられてきた。  
あゆみは、晃に声をかけた。  
「お客様、狭い水路が続いて大変失礼をいたしました。  
お詫びに、ネオアドリア海に沈む、とっておきの夕日を  
ご覧に入れて差し上げます!」  
水路を抜けたゴンドラは、ネオヴェネツィア港に踊り出た。  
そして、スムースなオールさばきで、舳先を沖に向けると、  
目の前には、今まさに海に没しようとする、夕日の姿があった。  
 
その荘厳な風景に、しばし見とれた後、  
すっと立ち上がった晃は、あゆみの方を振り向いた。  
その動作に、あゆみは思わず息を飲む。  
地上であれば、なんでもない動作だが、波に揺れるゴンドラの上、  
余計な振動をゴンドラに与えず、なおかつへっぴり腰にもならず、  
自然に振る舞うのは、相当な熟練の賜物と言えた。  
あゆみは、目の前の人物が掛け値なしのトッププリマである事を、  
改めて思い知った。  
 
「今のコースの意味、分かるな?」  
「プリマへの昇格試験、っすか?」  
「そうだ。お前は、たった今、それに合格した」  
あゆみは黙って頷いた。  
新入禁止区域に行くことを命じられた時から、いや、  
晃に客として便乗された時から、薄々察してはいた。  
しかし、最初からプリマを目指す少女達の間でさえ難関といわれる試験を、  
トラゲット一本でやっていくつもりの、自分がパスしてしまうとは。  
喜べばいいのか、どうか、正直迷っているところに、晃が語りかけてきた。  
「これまで通り、シングルでやっていくのも、  
プリマに昇格するのも、お前次第だ」  
晃は言葉を続けた。  
「プリマになっても、トラゲットに出ることは構わない」  
驚くあゆみに、晃はグランマから聞いた話をかいつまんで語った。  
「だが、現状、プリマになってトラゲットに出るという事は、  
今以上の反発ややっかみ、中傷や噂を背負い込む事になる。  
その上で、お前がどうしたいかを決めてくれ」  
 
わずかの間考え込んでいたあゆみは、やがて晃に答えた。  
「分かりました。プリマへの昇格、お受けします」  
何かをふっ切った表情で、あゆみは語った。  
「ウチは、ほんっとにトラゲットが好きなんです。  
晃さんのおかげで、観光案内も凄い事なんだって分かったけど、  
やっぱり、トラゲットやってるのが楽しいんです。  
だけど、一緒にやってるみんなは、そうとばかりも言えなくって。  
プリマになれなくて辛く思ってる娘もいれば、  
嫌味いわれたり、苛められる娘だって居る。  
あてつけに思われるかもしれないけど、そんなみんなを元気付けたいんです」  
「ああ、お前ならきっとそれが出来るよ」  
優しく微笑みながら、晃が答えた。  
 
「でも、よくウチなんかに、昇格試験を受けさせてくれましたね」  
姫屋に向かうゴンドラの中で「もう普通に漕いでいいぞ」と  
言われたあゆみは、晃に尋ねた。  
「ああ。経験はあるんだし、合格するとは思ってたからな」  
気安い態度で、晃が答える。  
「それに、他のプリマからの推奨もあったしな」  
「へぇ。ちなみに、どなたなんです? ウチを推奨してくれたのは」  
「アクアマリンだよ」  
そんな通り名のプリマって、姫屋に居たっけ?  
通り名は、不思議とそのプリマの人となりを表すという。  
確かに、自分はアクアマリンと呼ばれるウンディーネを知っている気がする。  
だけど、それが誰だか分からない。  
そのもどかしさに、あゆみはしばし考え込んだ。  
 
振り向いて、あゆみが悩んでいる様子を見た晃は、  
楽しげに笑いながら、その名前を教えた。  
「姫屋のプリマじゃないよ。アリアカンパニーの水無灯里だ」  
「あぁ! あの時の!」  
あゆみは、一緒にトラゲットを漕いだことのある、  
凄腕のシングルのウンディーネを思い出していた。  
「うーん。灯里ちゃんは、ちゃんとプリマになってたんかぁ。  
ウチの見立て通りやなぁ。さすがやなぁ」  
しきりに感心するあゆみに、その笑みを大きくしながら晃が言った。  
「おいおい、お前も今日から、そのさすがのプリマの一員なんだぞ」  
「はいっ! 承知しておりますっ!」  
元気良くあゆみが答える。  
笑いさんざめく二人を乗せたゴンドラは、姫屋への路をすすんでいった。  
 
- fin -  
 

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