「ちゃーすっ!」  
「おぉ、おはようさん、あゆみちゃん。  
おっと、今や姫屋のプリマ(一人前)ウンディーネ(水先案内人)、  
スカーレット・ローズ(紅き薔薇)だっけか」  
「あはっ、あゆみちゃんでいいっすよ」  
「でも、いいのかい?」  
「何すか?」  
「いや、ワシ等トラゲットに関わるモンからしたら、  
あゆみちゃんがトラゲットを漕いでくれるのは、有難いんだけどさ。  
でも、会社とか、あゆみちゃん自身にしたら、  
観光案内してる方が、実入りがいいんじゃないのかい?」  
「ウチは、トラゲットが好きで漕ぎたくて漕いでるし、  
会社には、大目に見てもらってる、みたいな。  
なんつっても、ウチにはクリムゾン・ローズ(真紅の薔薇)、  
晃さんの後ろ盾がありますし」  
 
『その、無邪気な歌姫は』  
 
オレンジプラネットの会議室では、所属プリマを集めた  
ミーティングが行われていた。  
「同業他社の、ここ数ヶ月の目立った動向として、  
姫屋のトラゲットへのプリマの投入が挙げられる。  
これは、地域社会への姫屋の知名度浸透、及び  
観光客へのアピールに一定の効果を上げておる」  
「あー、アリスちゃん、私もトラゲットやりたい」  
「アテナ先輩、それはでっかいワガママです。  
近頃は舞台が忙しくて、ゴンドラに乗る機会すら減ってるのに」  
 
「うぉっほん!」  
偉いさんのわざとらしい咳払いに、アテナとアリスは首をすくめる。  
「ただ、トラゲットは実際の収益への寄与が小さい。  
オレンジプラネットでは、これまで通り、トラゲットには  
半人前(シングル)を投入する事で対応する」  
会議の後、自室に戻ったアテナは、興奮した口調で話していた。  
「プリマもトラゲットできるんだぁ! いいなぁー、やりたいなー」  
「アテナ先輩もシングルの頃、トラゲットしてないんですか?」  
アリスの問いかけに、アテナは首を傾げて考えた。  
言われてみれば、自分はトラゲットに出た記憶が無い。  
 
「んー、やってないと思うんだけどぉ」  
「え! アテナ先輩も、私と同じ飛び級昇格だったとか!」  
シングルを飛ばし、いきなり見習い(ペア)からプリマへと  
昇格したアリスにも、トラゲットの経験は無かった。  
「んんー、そんなハズはないわねぇ。  
飛び級昇格は、アリスちゃんが初めての事だし、  
私がシングルの頃に、アリシアちゃんや晃ちゃんと知り合ったんだし」  
アテナは首をひねって考え込んでいた。  
「確か『明日トラゲットに出てもらうから』って言われて喜んでたら、  
あくる日の朝に『君はトラゲットには出なくていい』  
とか言われちゃったのよねぇ」  
「なんだか、でっかい嫌らしい言い方ですよね、それって」  
「そうでしょ、そうでしょー」  
アテナの話に、アリスが思わず憤る。その態度に、アテナが喜ぶ。  
「ちょっと喜んだせいで、食堂でお皿割って、ゴンドラぶつけて、  
階段でコケたぐらいで、そんな風に言わなくってもいいよねぇ」  
「え?!」  
「それも、朝晩たったの二回づつ」  
「 …… アテナ先輩、トラゲット以前に、よく首にならずに、  
ウンディーネを続けることが出来ましたね …… 」  
 
「あー、もう、禁止よ、禁止!」  
「どうしたの? 藍華ちゃん?」  
目が回るほど忙しい日々の中、藍華は、しばしの休憩時間を、  
アリアカンパニーで愚痴たれて過ごしていた。  
「元はといえば、灯里、あんたもいけないんだからねっ」  
「えっ、私っ?」  
灯里は、両手で自分を指差して、尋ね返した。  
「そーよっ! あんたが晃さんをけしかけて、昇格試験を受けさせた、  
トラゲットやってた娘(こ)がいるでしょっ!」  
「あー、あゆみちゃんね。こないだ、晃さんから聞いたよ。  
トラゲットに出てて、目立たなかったけど、凄く優秀なんだって?」  
 
「優秀も何も、その娘の指導でプリマへの昇格者が  
3人も出ちゃったのよっ!」  
「すっ、凄ーいっ!」  
藍華の言葉に、灯里は目を丸くして驚いた。  
驚くと同時に、疑問も感じていた。  
そういう凄い事を、何で藍華ちゃんは、怒って話すんだろう?  
「全部、他所(よそ)の会社のウンディーネだけどねっ!」  
「へ? 姫屋って、他の会社のシングルを指導してるの?」  
「なぁにを、お間抜けな事を言ってるの?  
そんな訳ないじゃない。トラゲットよ、トラゲット。  
あゆみちゃんは、プリマに昇格した後でもトラゲットに出てて、  
そこで誰彼なしに、漕ぎ方や接客を指導してるらしいのよっ!」  
 
「私もあゆみちゃんに、トラゲットのこと教えてもらったよ」  
「あんたの事は、いいのっ!  
ここんとこ、トラゲット経験者のシングルが、  
立て続けにプリマに昇格しててねっ、  
昇格後の面談で、言ってるらしいのよっ。  
『トラゲットの現場であゆみさんに教わった事が、いい勉強になった』って。  
その娘たちの会社の指導や先輩とかを差し置いてねっ」  
嬉しそうに微笑みながら、灯里は相槌を打った。  
「あゆみちゃんって、結構世話焼きだからねぇ。  
あ、ちょっと晃さんに似てるかもね、雰囲気」  
 
「暢気な事を言ってる場合じゃないわよ、灯里。  
私たち観光案内業者にとって、プリマは収益の源泉。  
他の会社のプリマが増えるって事は、取りも直さず、  
自分たちの会社の取り分が減るって事なのよっ!」  
藍華の発言は事実だった。  
その事は、アリシアの跡を継いで、アリアカンパニーの  
実質的な運営にあたっている灯里も、十分理解していた。  
しかし、灯里は、その表情から嬉しげな微笑を消さなかった。  
 
「でもぉ、あゆみちゃんのやってる事って、藍華ちゃんが、  
私に色んなことを教えてくれたのと、同じような事だよねぇ」  
「うっ …… 」  
出鼻を挫かれた藍華は、愚痴の方向を変えた。  
 
「それだけじゃないのよっ!  
プリマや先輩に苛められたとかで、悩んでる娘とかがいたら、  
あれこれ相談に乗ってあげてるらしいのよっ!  
おかげで今では、会社の枠より、トラゲットに出てる  
ウンディーネ同士の連帯の方が強いんじゃないか、  
なんて話があるぐらいなのっ」  
それを聞いても、灯里の微笑みは消えなかった。  
「あ〜、それって、藍華ちゃんが、周りの人たちと上手くいかずに  
悩んでたアリスちゃんを、慰めてあげたのと一緒だぁ」  
「あうっ …… 」  
「あの時は藍華ちゃんったら、目に涙を溜めて、  
アリスちゃんを力づけてあげてたんだよねぇ」  
「恥ずかしい思い出話、禁止っ!」  
自分の話を持ち出されて、薮蛇になってしまった藍華は、  
顔を赤くして怒鳴った。  
 
「でも、姫屋の本社には晃さんが居るんだし。  
会社に良くない事だったら、晃さんが止めるんじゃないかな?」  
「それがねぇ …… 」  
灯里の疑問に、藍華はため息混じりに答えた。  
「晃さんは『どんどんやれ』って、けしかけてるらしいのよ」  
「ほへ?」  
「『先輩であることを嵩(かさ)にきて、苛められる事に対抗するんなら、  
会社の枠を超えて団結するのも悪くない。  
それに、プリマが増えて仕事を奪われるのが嫌なら、  
各人がもっと、自分を高める努力をするべきだ』  
なんて言っちゃって。  
私には、先輩なことを嵩にきて、  
さんざん苛めてくれたくせにねっ!」  
 
晃らしい言い分に、灯里は思わず笑った。  
そして、藍華の悪態に納得がいった様子で、頷き返した。  
「なぁんだ、そういう事かぁ」  
「やっと分かってくれた? 灯里」  
「うん、よっく分かったよ。  
藍華ちゃんは、晃さんを取られたような気がして、寂しかったんだね」  
「は、は、は、恥ずかしいセリフ、禁止っっっ!!!」  
顔を真っ赤にした藍華の怒号と、灯里の軽やかな笑い声が、  
アリアカンパニーから流れ出した。  
 
***  
 
「え? プリマへの昇格試験の試験官、ですか …… 」  
アテナとアリスを前にして、オレンジプラネットの管理担当者は、  
ネオヴェネツィアの水路図を指差しながら言った。  
「そうです。アテナには、この街中から港に抜けるルートで、  
アリスは、倉庫街の周りを迂回するルートを」  
それぞれにむけ、対象ルートを指でなぞって見せる。  
「アテナはもう解ってると思うけど、試験中のゴンドラは、  
外部からもモニターされているので、そのつもりでいて。  
失敗を無かった事にする温情も、  
優秀なウンディーネを蹴落とそうとする策略も、  
あなた方自身の評価を落とすことになるから、心していて」  
「外部からのモニターって、会社の人が見てるんですか?」  
アリスは、初めて聞く試験の実態に驚いた。  
 
「いいえ。ゴンドラ協会の専任の担当者よ。  
実際に、誰がどのように見ているのかは、秘密にされているわ」  
管理担当者は、冷たさすら感じさせる態度で言った。  
スキルの不十分なプリマが増えることも、  
才能のあるウンディーネが、プリマになれないことも、  
どちらも、ネオヴェネツィアの観光にとってはマイナスになる。  
プリマの昇格試験が、正しく行われているかどうかは、  
ゴンドラ協会にとっても、大きな関心事なのだった。  
 
「特にアテナ、あなた『この辺りでカンツォーネ歌いたいなぁ』  
とか思って、鼻歌を口ずさんだりしても、  
カンニング行為と見なされますからね。注意してちょうだい」  
三大妖精の一人にして、稀代の歌い手であるアテナは、  
前科でもあるのか、首をすくめて項垂れた。  
「受験者には、好きなタイミングで試験日を教えてかまいません。  
ですが、コースは直前まで教えないように。  
今回の受験者は、二人とも何度か試験を受けているから、  
要領については、アリスより詳しいかもしれないわ」  
 
その日の夕方、トラゲットから会社に戻ってきたアトラと杏は、  
アテナとアリスの出迎えを受けた。  
自分たちより余程格上のプリマの出迎えに、アトラたちは、緊張した。  
だが、アリスはその二人よりも緊張していた。  
「ア、ア、アトラさんっ」  
「は、はいっ!?」  
「こ、今度、プリマへの昇格試験を行いますっ」  
「はいっ」  
「し、試験官は、私が担当しますっ」  
「はい」  
「で、でっかい頑張って下さいっ」  
「はいっ」  
 
二人のやりとりを見ていたアテナは微笑んだ。  
「まるで、アリスちゃんが試験受けるみたい」  
「ですよねぇ」  
相槌を打つ杏を見ながら、アテナはふと黙り込む。  
その態度に、杏は不安を感じた。  
何かを思い出そうとでもするように、しきりと考え込むアテナに、  
恐る恐る尋ねかける。  
「あ、あの、何か?」  
杏の顔を、まじまじと見ながら考え込んでいたアテナは、  
やがて納得がいったように、ぽん と手を打った。  
「そうそう、杏ちゃんも試験だから。アトラちゃんと同じ日に」  
「えっ、あっ、は、はいっ!」  
 
あくる日から、アトラと杏の二人は、  
トラゲットの休憩時間に、必死に試験対策の練習を始めた。  
見かねたあゆみたちが「修行に専念して、トラゲットは休めば」  
と声を掛けても、けっして、トラゲットを休もうとはしなかった。  
そんなある日、昼休み中に、休憩しているシングルたちから離れて  
練習している二人の所へ、あゆみが顔を出した。  
「がんばってるなぁ、キミらも。少しは休んだほうがいいよ?」  
「う、うん。大丈夫だから」  
アトラが健気な返事を返す。  
その脇で、杏が両手を握り締め、黙って俯いていた。  
 
「杏ちゃん?」  
その様子に気がついたあゆみが、声をかける。  
アトラも不審そうに首をかしげて、杏を見た。  
「こ、怖いんです。失敗しそうで。又、落第しそうで」  
張り詰めた神経が、断ち切られてしまったかのように、  
杏は両手で顔を覆って、泣き出した。  
「アトラちゃん!」  
あゆみは、アトラに声を掛けると、すばやく杏の手を取った。  
アトラも一瞬遅れて、反対側から杏の身体を支える。  
 
泣きじゃくる杏を抱えるようにして、トラゲットの事務所に向かう。  
事務所といっても、その実態は掘建て小屋だ。  
休憩時間の暇つぶしに、釣り糸を垂らしていた老人に、あゆみは叫んだ。  
「おっちゃん! 事務所借りるよ!」  
「おうよ」  
今までのやり取りを、聞くとも無く耳にしていた老人は、  
あゆみ達が飛び込むように入っていった事務所を眺めた。  
「ふむ」  
老人はため息をつくと、飄々とした足取りで、  
休憩中のウンディーネ達がたむろっている一角に歩み去った。  
 
一方、事務所の中では、しょげ返った杏をあゆみが慰めていた。  
「ほらほら、心配しなくても、漕ぎも接客も経験あるんだから。  
そんな、切羽詰らなくても大丈夫っしょ」  
泣き止んだものの、呼吸を乱してしまい、  
返事が出来ないでいた杏に代わり、アトラが答えた。  
「それが、今度の私たちの試験官が、アテナさんとアリスさんなのよ」  
「え! 三大妖精のセイレーンと、飛び級のプリンセスが!」  
ようやく呼吸が整った杏が、鼻をすすりながら言った。  
「はい。私の担当はアテナさんです。  
私、アテナさんみたいにカンツォーネなんか歌えません!」  
 
怯えたような杏に同調するように、アトラも言葉を継いだ。  
「私だって、人並みには漕ぎは出来るつもりよ。  
でも、天才って言われるアリスさんみたいには、  
ゴンドラを扱うことは出来ないわ!」  
杏のように、泣き出してはいないが、  
アトラも精神的に、かなり追い詰められているようだ。  
そんな二人に、あゆみはため息をついた。  
 
「キミらねぇ、ちょっとは落ち着きなさいよ。  
ウチだって、晃さんと同じくらいに接客できなきゃダメって言われたら、  
一生プリマになんかなれないよ?  
もし、アテナさん並に歌えなきゃ失格になるんなら、  
ネオヴェネツィアのウンディーネは、アテナさん以外は、全員失業っしょ?」  
杏とアトラは、きょとんとしてあゆみの事を見ていた。  
言われてみれば、その通りな気がする。  
「プリマになれるだけの実力がある事を示せばいいんだから。  
その力は、二人にはあると思うよ。  
もっと肩の力抜かないと、試験の前に潰れちゃうよ?」  
 
杏とアトラは、呆気に取られたように顔を見合わせた。  
憑き物が落ちたような二人の様子に、あゆみは胸をなでおろした。  
「さ、そろそろ休憩時間が終わるよ!  
今日の午後は、トラゲットに出てもらうとして、  
明日からは、試験に向けた修行をしな。  
大丈夫だよ、キミらは二人っとも、腕はあるんだから!」  
 
頷きあう杏たちに笑いかけながら、  
事務所の扉を開けたあゆみは、立ち止まって絶句した。  
不審に思った二人が、あゆみの肩ごしに外を覗き込む。  
そこには、休憩していたはずのシングルたちが  
取り囲むように立っていた。  
「二人っとも、ダメじゃないすか! 大事な試験があるのに」  
「今日の午後は、あゆみ先輩を貸してあげるから、  
しっかり修行しなさいよねっ!」  
「杏ちゃんも、アトラちゃんも、がんばっ!」  
色とりどりのユニフォームをまとった少女たちが、口々に声をかけた。  
 
「あれ?」と思ったあゆみが、ふと傍らを見ると、老人が  
わざとらしい程そ知らぬ顔をして、つり道具を片付けていた。  
それで事情を納得したあゆみだったが、すぐに気持ちを仕事のことに戻した。  
「でも、午後からはどうするの? 二人も抜けたら、大変っしょ?」  
「二人じゃありませんっ! 三人ですっ!  
あゆみさんは、午後から杏ちゃんとアトラちゃんを指導してあげるんですっ!」  
一人の少女が力説する。  
その隣の少女が、おっとりした調子で説明した。  
「休憩時間の間に、午後の場所割りを組みなおしました。  
皆さんが抜けても、業務に支障はありません」  
 
ちょっと困ったような顔で、あゆみは背後の二人を振り返った。  
杏とアトラが、さっきまでとは違う意味で涙ぐんでいた。  
二人が口々に、あゆみに言った。  
「あゆみさん、午後から私たちの修行を指導してください」  
「お願いします」  
ぽりぽりと頬を掻きながら、あゆみは少しの間考え込み、  
そして、にっ と微笑みながら言った。「うん。解った」  
そのまま振り返ると、周りのウンディーネたちに呼びかけた。  
「みんなっ、ありがとなっ!」  
その声を合図とするかの様に、笑い声が湧き上がった。  
「しっかり、教えたげてくださいねっ!」  
「杏ちゃんもがんばれ〜、アトラちゃんも負けるな〜」  
「さ、私たちもそろそろ、午後の仕事だよっ!」  
「うんっ!」  
みんなの声に励まされるようにしながら、杏とアトラも  
あゆみと共に、自分たちのゴンドラに向かった。  
 
午後からは、あゆみの指導でアトラと杏の修行が始まった。  
「昇進試験のコースは、いくつかあるんだけど、  
コースを丸暗記したって無駄なんだ」  
あゆみは、熱心に聞き入る二人に語った。  
「余りにも水路が複雑すぎて、月や日、時刻によって、  
水の流れ方が全然違うからね」  
事も無げに語るあゆみに、二人は、  
「なら、どんな練習をすれば?」と聞き返した。  
「だから、漕ぎの練習は、どんな流れの中でも真っ直ぐ進む事を基本に。  
次に、ゴンドラの進行方向を、自分の望む方向にスムースに曲げる練習。  
聞いてたら、まるで見習い(ペア)の練習みたいっしょ?  
でもね、これさえきちんと出来たら、昇進試験は受かるよ」  
 
時々は、あゆみが乗客役になり、  
客席に座りながら、細かく指摘していく。  
「杏ちゃんは、ちょっと体格小さいから、  
お客さまの重さに漕ぎ負けないように、ゴンドラの進路を保持して。  
ゴンドラのベンチには幅があるから、どうしてもお客さまは、  
左右どっちかに寄って腰掛けちゃうからね」  
「はいっ」  
あゆみの腰掛けている側に、微妙にずれていた進路を、  
杏が返事をしながら修正した。  
 
「それから、アトラちゃんは、乗せているのは、  
あくまでもお客さまであって、  
試験官じゃないんだって事を忘れないようにして」  
「え、あ、はいっ」  
ついつい普段の態度に戻りがちなアトラにも注意する。  
「乗っているのがユニフォーム姿のウンディーネだから、  
みんな、うっかりお客として接する事を忘れちゃうんだねぇ。  
見慣れた同じ会社の制服のウンディーネでも、  
お客さまだって事を、忘れんようにね」  
 
あゆみから教わった事を元に二人は、  
翌日から試験対策の修行に専念した。  
そして、試験当日がやってきた。  
アリスは、自分が試験を受けるかのように緊張していた。  
それに対してアテナは、普段通りに、いや、  
もしかしたら普段以上に、ぼーっとした雰囲気を放っていた。  
「う〜、私は、居ても立ってもいられないので、  
先にゴンドラ乗り場に行ってます。  
アテナ先輩も、ドジっこぶりを発揮して、  
遅刻しないようにお願いしますねっ」  
そう言い残したアリスが部屋を出て行くのを、  
アテナは、微笑みながら見送った。  
 
予定の時間ぎりぎりに、ゴンドラ乗り場に現れたアテナに、  
小言を言おうとしたアリスが、あんぐりと口を開けたまま固まった。  
アテナは、普段のユニフォームではなく、  
淡いパステルグリーンのワンピースを着ていた。  
「な、なんて格好をしてるんです、アテナさんっ!」  
憤るアリスに、アテナはにこにこと答えた。  
「うふふ、かわいいでしょ、アリスちゃん。  
試験官は制服着てなくても、いいのよ」  
アリスは、立ち会っていた管理担当者を見る。  
管理担当者は、やれやれといった様子で肩をすくめただけだった。  
とりたてて注意するほどの事ではないらしい。  
 
だが、そのアテナの様子を見て、杏とアトラは、はっ とした。  
今日、ゴンドラにお乗せするのは、試験官でも同じ会社の先輩でもない、  
お客様なんだ、というあゆみの言葉を思い返していた。  
「では、行ってらっしゃい。私たちも良い結果を期待しているわ」  
管理担当者の言葉で、試験は開始された。  
「はい。では、お客様、こちらのゴンドラへどうぞ」  
おのおののゴンドラに試験官を誘導する杏とアトラを見ながら、  
「今度は上手くいくのかな?」と管理担当者は思った。  
杏も、アトラも、これまでに何度か、昇進試験を落ちている。  
合格できる、という確証は無い。  
 
杏は、ゴンドラを漕ぎながら、ふと違和感を感じた。  
練習で漕ぐよりも、進路の保持がしやすい。  
水路から見える風景や建物の案内をしながら、その原因を探る。  
いつものゴンドラとオール、お客様は一人、  
漕ぎ方を変えているつもりは、ない ……  
ふと、原因に気が付いた。  
ゴンドラの、普通に座れば二人掛けのベンチ。  
アテナは、その丁度中央に座っていた。  
杏は、一瞬、胸が熱くなる思いがしたが、  
すぐに気持ちを切り替えて、観光案内を続けた。  
 
やがて、網の目のように入り組んだ、ネオヴェネツィアの水路の  
別々の場所で、アテナとアリスは、同じ言葉を口にした。  
「ウンディーネさん、そこの角を曲がって下さい」  
杏とアトラは、昇進試験のクライマックスへと舟を進めた。  
 
これまで、幾度となく経験してきた、曲がりくねった水路。  
複雑な水の流れが、ゴンドラを揺らそうと待ち構えている。  
杏もアトラも、あゆみから教わった事を胸に、  
慎重に、果敢にオールを漕いだ。  
一艇身でも半艇身でも、四分の一艇身でさえも、  
真っ直ぐ進む場所では、絶対に進路をぶれさせずに進む。  
曲がりたい場所では、スムースに、必要なだけ曲がる。  
どうしても揺れる事が避けられないのならば、  
早めに注意を呼びかけ、揺れが収まった後のフォローも忘れない。  
彼らは必死にゴンドラを操り続け、ふと気がつけば、  
広々としたネオヴェネツィア湾に到達していた。  
二人とも、今日の試験は、途中で打ち切られることはなかった。  
 
「合格です」  
アリスは言った。  
「え、あ、はい」  
アトラは、少しうろたえながら返事をした。  
実はアトラは、試験の合格・不合格よりも、  
自分がコースを完了できた事の方に驚いていたのだった。  
「細かい点を挙げると、キリがないのですが、  
不合格となるミスやエラーは見当たりませんでした。  
プリマになった後も、でっかい精進してください」  
「は、はいっ!」  
 
「あ、あそこに見えますのは …… 」  
「あー、もういいわよー、合格ー」  
ネオヴェネツィア湾から見える町並みを案内しようとする  
杏を遮って、アテナが合格宣言を出した。  
「えっ! は、はい! ありがとうございますっ」  
お礼を言った後で、自分の方を見て、何かを待っている様子の杏に、  
アテナは尋ねかけた。  
「んー、なにかな?」  
「あのぉ、終わった後で講評て言うか、  
ダメ出しがあるって聞いていたのですが …… 」  
「あー、カーブの時に曲がるタイミングが  
もう少し早いほうがいいかなー、とか、  
カンツォーネは、もうちょっとのびのびと歌えたらいいかなー、とか、  
案内の態度が硬くて、レコーダーの再生みたいだなー、みたいな?」  
 
杏は、自分が単に昇進試験に合格しただけであって、  
ウンディーネとしては、まだまだ至らない事を自覚させられた。  
「でもぉ、そんな事は、実際にやっていく内に、  
自然に身についていくからぁ。  
今日のところは合格っ! って喜んでたらいいんじゃないかな?」  
そんな杏に、アテナは言葉を続けた。  
アテナの態度に緊張感がほぐれた杏は、元気よく頷き返した。  
しかし、すぐに寂しげな表情になって、つぶやいた。  
「そういえば、プリマになっちゃうと、  
トラゲットには、もう出てはいけないんですよねぇ」  
「そうそう! トラゲット!」  
杏のつぶやきに反応して、アテナが、ぽん と手を打った。  
「わたしもやりたいの。トラゲット」  
 
少し唖然としながら、杏が答えた。  
「え? 会社の偉い人が、トラゲットに出るのはシングルだけ  
って言ってたらしいですよ?」  
「うん。言ってた。でもね、やりたいの、トラゲット」  
駄々をこねるようなアテナの態度に、たじろぎながら杏は尋ねた。  
「あの、それなら、アリスさんに言われてみたらどうでしょうか?」  
「アリスちゃんはね、私がトラゲットやりたい、って言うと怒るのよ。  
でもでも、トラゲットやってみたいから、  
知ってる人に、連れて行ってほしいなぁ、って思うのよ。 …… だめ?」  
小さい子供が、おねだりをするように問いかけてくるアテナに、  
杏は途方にくれていた。  
 
***  
 
「やぁ! おはよう、アトラちゃん、杏ちゃん。  
協会で聞いたよ。プリマ昇格、おめでとう!」  
「えー、本当! やったぁ!!」  
「おめでとう、二人とも!」  
「ねえねえ、通り名決まったの?」  
トラゲットの現場に出向いた二人は、早速、お祝いの言葉を浴びせられた。  
その言葉に、仲間たちが寄ってきた。  
「ありがとう。私の通り名はサンシャイン・オレンジ(降りそそぐ陽光)。  
で、杏ちゃんが …… 」  
「うん。私はライム・グリーン(薫り立つ新緑)です」  
「きゃー! かわいいー!!」  
はにかんだ、真っ赤な顔で、アトラと杏が礼と報告を言う。  
そんな二人を、周りの仲間たちがはやし立てる。  
 
ひとしきり騒いだ後で、係員の老人が尋ねた。  
「わざわざ、挨拶に来てくれたのかい?  
姫屋さんと違って、オレンジプラネットでは、  
トラゲットへのプリマの参加はしないって聞いてたけど?」  
「そ、それが …… 」  
口ごもるアトラの背後から、アテナがひょっこり顔を出す。  
「え? 三大妖精のセイレーン …… 」  
絶句した周囲に向かって、アテナはまるで新人ウンディーネのように、  
ぴょこん とお辞儀をした。  
「あの、アテナさんが、どうしてもトラゲットしたいって …… 」  
「ええーっ!」  
 
驚いてばかりもいられないので、とりあえず、  
アテナを場所割の中に組み入れた。  
さすがに、三大精霊の一角を占めるウンディーネだけあって、  
アテナはトラゲットの漕ぎ方や要領を、すばやくマスターした。  
仰ぎ見るような大先輩の登場に、少しおののいていたシングルたちも、  
アテナの飾らない性格に安心し、  
そして、自分たちの輪の中に受け入れていった。  
 
アテナも、初めて体験するトラゲットの仕事に、  
面白さを感じていた。  
気取らない立ち乗りの乗客たち、  
息を合わせた、二人漕ぎのゴンドラ。  
普段の観光案内との違いもあって、漕いでいると、結構楽しい。  
楽しくなると、ついつい口をついて、カンツォーネが流れ出す。  
水路に朗々と響く歌声に、周囲の人々は驚き、そして、喜んだ。  
楽しげな気持ちのままに歌われる、アテナのカンツォーネは、  
聞く者の心をすら、暖かな喜びで満たしたのだった。  
 
やがて、一人のシングルが、思わずアテナの声にあわせて歌い始めた。  
自分が、セイレーンの歌を邪魔してしまった事に気づいた彼女が、  
はっ として口ごもりそうになる。  
しかし、そんな彼女を後押しするかのように、  
アテナは主旋律を明け渡した。  
高音で歌に華やかさを添え、低音で曲を支える。  
 
「一緒に歌いましょう」  
アテナの誘いを悟った彼女が、弱気を振り払い、力強く歌い始めた。  
その歌声に、他のウンディーネが加わった。  
さらに一人、もう一人、歌声の輪は、少しずつ大きくなっていった。  
乗客だけではなく、川沿いの道を行く通行人も足を止め、  
ウンディーネの合唱に耳を傾けた。  
川岸に店を出す、普段はやかましい物売りたちすら、  
しばし、客引きの呼び声をとめた。  
 
やがて、曲が終わりを迎える。  
運河の上に、歌声が流れ去った一瞬の静寂の後で、  
割れるような拍手が沸きあがった。  
「ブラーヴェ!!」  
「ケ・ベッレ!!」  
人々の拍手と歓声は、いつまでも響き渡っていた。  
 
〜fin〜  
 

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