むせかえるような甘い"女"のにおいに目眩がする。
―目の前にいるこの女は誰だ…
彼の前にいるのは確かに姫のはず。
だが、今の彼女にはいつもの気丈さも、活発さも見当たらない。
誘うように彼を上目遣いで見上げ、はだけた胸元をすり寄せてくる。
生娘のはずの彼女が下手な娼婦よりも艶めいている。
そのことに疑問をいだきながらも、視線は勝手に姫の薄くひらかれかすかに乱れた熱い吐息をもらす唇やはだけられた恐らく誰も触れたことは無いだろう処女雪のように真白い胸元にいこうとする。
だが彼はけして姫に触れようとはしない。
それは彼女が姫で、彼がただの薬師であるという身分違いによるものだけではない。
彼が姫に触れられない理由。
それは彼の体質によるものだった。
彼の身体は毒でできている。
幼い頃からの多量の毒物摂取により、彼の身体は今ではそれ自体が毒を発している。
口付けだけで目の前の姫を殺しかねない程の強力な毒を。
「俺はバジリスクだとわかっているんだろう。
悪ふざけもいい加減に…」
姫から目をそらし、その芳しい肢体を引き剥がしながら彼は姫を拒もうとするが、言葉を何かに遮られる。
それはかつて二度程味わったことのある感触だった。
唇をぺろりと舐められ我にかえり急いで姫から離れる。
「姫!?なにを…
い、いや、それより身体は…。」
「なんともないわ。
だっておまえはもう、バジリスクじゃないもの。」
ほらね…と微笑みつつ姫が彼の、彼本来の色彩に戻った髪をひっぱってみせる。
「なぜ………?」
心底驚き愕然とした体の彼に、姫はまたもや身を寄せ耳元で吐息を吹き込むように囁く。
「おまえはもう、バジリスクじゃない。
それで充分でしょう。
何故なんて問うより…。
もっと、楽しいことをしましょう。」
柔らかく耳を食まれ、その瞬間、理性の溶け崩れる音を聞いた気がする。
―自分がバジリスクであるかどうかなどもはやどうでも良い。
大切なことは、目の前に姫がいる。
それだけだった。
迸る想いの勢いにまかせて噛付くように姫に口付け、舌をさしいれる。
その性急な攻めを宥めるように応えてくれる姫。
かつてたった二度だけ与えられた一瞬の口付け。
その感触を塗りつぶすかのように、何度も何度も激情をこめ口付ける。
彼は、あまりの幸福感に目眩がしそうだった。
「ねぇ、アルジャン。
おまえにはちゃんと私の名前を呼んで欲しいの。」
姫がそう言ったのは彼が、姫のなかに押し入ろうとする寸前のときだった。
「だが…。」
「姫と薬師としての節度?
そんなもの今更だわ。
だから、ね?」
彼は姫を抱こうとするその最中でさえ、彼女のことを"姫"と呼んでいた。
ただ、その理由は姫の言う薬師としての節度などではなかった。
もし、姫をプリムラと呼んでしまえば、彼のなかにある何かが押さえ切れなくなってしまう。
彼女を"姫"という彼には決して手には入らない人として諦めることが出来なくなる。
意識も出来ない程の深い底、無意識のうちに彼はそう思っていた。
だが、姫の言うとおり今更なことだ。
―それなら呼んでもいいだろう…。
今更なのだからと、半ば自身への言い訳のように彼はそう考えた。
「プリムラ。」
「そうよ、アルジャン。
今おまえが抱いているのは"姫"ではなく、ただのプリムラ。」
満足げで艶やかに微笑む彼女のなかに彼が押し入り、繋がる。
―本当は、ずっとずっと…望んでいた。
こうして"姫"を、いやプリムラを手に入れることを。
「プリムラっ……!」
「なに?」
目の前に姫がいた。
いや、正確に言うと先程彼と共に乱れていた姫ではなく、いつもの、良く言えば活発で悪く言えば全く色気の無い姫だった。
「姫…?」
「まだ寝ぼけてるの?」
「ねてた…?」
「そうよ、こんな時間まで寝てるなんておまえらしくないわね。
それに寝ぼけてるなんて。
まさか…アルジャン具合でもわるいの?」
心配げに顔をのぞきこんでくる姫に、先程の夢の"姫"を思い出し、彼の心臓がひとつ拍子をとばした。
「いや、そんなことはない。それより早く出ていってくれ。」
「なによ!
人がせっかく…。」
「着替えたいんだが。」
「えっ…。
なによ、はやくいいなさいよ。」
ぶつぶつ言いながらも、素早く出ていく姫に聞こえないよう溜め息をつく。
「なんであんな夢…。」
―いや、本心ではわかりきっている。
俺は姫のことを…。
それ以上考えてしまうと、目を逸らし、堪えているものが溢れてしまいそうな気がして、彼は頭をふり思考を切り換えた。
「しかし、起こしに来たのがソーダでなくて良かった。」
あの勘の良い子供は気付いてしまうだろう。
彼がどんな夢を見ていたのか。
何故、そんな夢を見てしまったのかを。
それを想像した途端、またひとつ大きな溜め息が漏れ出た。
《おわり》