古めかしい赤レンガに囲まれた調理室に、甘い香りがゆっくりと広がる。
湯煎していたチョコレートを一すくいすると、つうっ、と糸のように流れ落ちていく。
「いっちょ上がり、っと! 麗花、そっちの準備できた?」
「アーモンドにナッツ、シナモンと……ごめん、ミントを買い忘れてた……」
「ハーブなら、そこの勝手口から菜園に行けるから取ってくるわよ」
「いや、私が行ってくる。他に何か必要な物はある?」
「大丈夫よ。じゃ、こっちは先に進めてるから早く戻って来てね」
シルヴィアは笑顔で麗花を送り出すと、気合を入れなおすために腕まくりをした。
「さて、次の手順はっと……」
「何をしているの?」
「うわぁっ!? リ、リーナ!」
急に背中から声をかけられ、危うくチョコの入ったボウルを落としそうになる。
チョコの無事を確認し、シルヴィアは振り返ってリーナに声をかけた。
「ほら、今日ってバレンタインデーでしょ? クロエもつぐみも渡す相手がいるけど
私と麗花は特にいないから、協力してディーバのみんなに手作りチョコを配ろう、って約束してたのよ。
本当はリーナも誘おうと思ってたんだけど、このところ体調悪そうだったから……」
「そうね。最近、あまり血を吸っていなかったもの」
わずかに目を伏せるリーナを見て、シルヴィアの脳裏にある記憶がよぎった。
「そっ、そういえば、私も血をあげるって約束……」
「別にいいわ。あなたの血も美味しそうではあるけど、彼の血には敵わないでしょうし」
口調の軽さと反比例した表情を見て、同じものを浮かべるシルヴィアはわざと明るく問いかけた。
「……リーナって、意外とグルメだったりする?」
「……私、結構味にはうるさいのよ」
「なら、このチョコの味見もしてくれないかしら」
「いいわよ。私の舌を満足させられる自信があるならね」
「シルヴィア、ミントはこのぐらいで…………って、シルヴィア! チョコが固くなってる!」
ようやく戻ってきた麗花に叫びで、シルヴィアはボウルの中身の異変に気がついた。
「きゃーっ! せっかくいい具合に溶けてたのに〜っ!」
「まさか、私の不幸が戻って……!?」
「……先行き不安、ね」
急に慌しくなる調理室で、一人リーナはため息をついた。
冷蔵庫から十何枚めかのバットを取り出し、クッキングシートに並べられたチョコを別のバットに移し変え終わった頃にはすっかり日も暮れていた。
「こ、これで終わりよね?」
「形は多少不恰好でも、味が良ければ全て良し! けど、私の不幸が戻ってきていたとしたら……」
「まさか、こんなに時間も体力もいるとは思わなかったわ……」
「恐るべし、手作りチョコ……」
エプロンや服のあちこちにチョコの飛沫やパウダーシュガー等をつけたシルヴィアと麗華はへたりこんだ。
「って、へたってる場合じゃないわ! 麗花、早く包んで配らないと!」
「シルヴィア、リボンと小袋がないッ!!」
「汚れそうだから戸棚にしまったんじゃない! えっと、どこの段だっけ……!?」
ドタバタする二人を尻目に、全く汚れた箇所がないリーナはアーモンドチョコをつまみ上げて指先で回している。
「ふぅん……。これなら大丈夫かしら」
なんとか小袋を見つけ、乱雑に包んでいる二人にその呟きは届かなかった。
手分けしてディーバ内の男性に配り終え――不動は見つからなかったが、いつものことなので気にならない――
シルヴィアと麗花の手元には5個のチョコが残った。
そのチョコは他に配ったチョコよりもずっと大きく、包みも(多少は)丁寧になっている。
「……余っちゃったね」
「……そうね」
「つぐみ、『先輩の手作りチョコ、私も欲しいですぅ〜』なんて言ってたんだから、1個くらいあげたら?」
「シルヴィアこそ、二軍の子に視線を送られてたのに気づかなかった?」
「え〜っ? それって麗花のほうを見てたんじゃないの?」
「……ふふっ」「……ぷっ」
顔を見合わせ、同時に吹き出した二人にリーナは声をかけた。
「二人とも、ちょっとこっちに来て」
「どうしたの、リーナ?」
「いいから」
リーナに連れられてやって来たのは、運動広場脇の林だった。
ここにはディーバが神話獣モンジに襲われた際にリーナの歌声によって“咲いた”樹の挿木があり、
幹や葉の形はほぼ統一されているものの違った植物の実がなるため、新国連の研究対象にもなっている。
「ねぇリーナ。あなた、何をする気なの?」
麗花が声をかけたからか、ようやくリーナの歩みが止まった。
「二人とも、チョコを地面に置いて」
言われるままに、二人は包みを林の中心部に並べる。
その手前に、リーナはアーモンドチョコをそっと置き、大きく息を吸い込んだ。
「数が合わないと思ったら、リーナが持っていたのね」
「副司令の分だし、後でまた作ればいっか」
などと小声で話しているうちに、リーナの歌声が林に響き渡った。
歌は挿し木の葉を揺らし、チョコの中心にあるアーモンドに小さな芽を出す力を分け与える。
小さな芽はやがて葉を茂らせ幹となり、5つの包みもその根に取り込んでいく。
歌声が止んだ時には、アーモンドとしてはかなり大振りな木がその実をつけていた。
「リーナ、あなた何を……」
「シルヴィアはアポロとシリウスと頭翅、麗花はシリウスとグレンでいいのよね?」
いきなり問いかけられ、二人同時に頷く。
「ええ、そのつもりで作ったけど……」
「生命の樹を経由するからグレンの眠る場所に届くまで時間がかかるけど、ちゃんと届くから安心して」
「それって……」
目を丸くするシルヴィアに、リーナは口の中で何事か呟く。
「何か言った、リーナ?」
「……いいえ。とにかく、あの三人にもちゃんと届くから安心していいわよ、シルヴィア」
麗花の目が次第に潤み、シルヴィアの顔には抑えきれない笑みが浮かぶ。
「ありがと、リーナッ!!」
「本当に、ありがとう……」
二人に抱きつかれ、リーナは見えない目を白黒させ、やがて優しい笑顔を浮かべた。
おまけ
「なー、なんでお前だけ2個も貰ってんだよー」
「仕方が無いだろう。二人とも私のことを想ってくれているのだからな」
「聖なる口はこのような物を食すためにあるのではないのだが……」
「なら俺が食ってやる! よこせっ!」
「無様な……。見苦しいにも程があるぞ」
「人間の風習は分からんが、好きな相手に贈り物をするのか? ならば喜んで」
「ごめ、やっぱいらねーや」