「う゛〜〜……トイレ、トイレ……」  
今トイレを求めて可能な限り全力疾走――亀よりは速いかな――している私は、地球防衛機構ディーバに所属するごく一般的な女の子。  
強いて違うところをあげるとすれば、左腕に翅があるってことかナー。  
「……なんて、どっかの漫画みたいなことを考えてる余裕ないのよね……あ痛たた」  
下腹部の鈍痛に眉をしかめ、シルヴィアは廊下にしゃがみこんだ。  
2年前に初潮が来て以来、定期的に訪れる痛みは他の女性エレメントと比べて軽いほうだったのだが、  
ここ最近は以前の10倍ほど痛みが増し、痛む期間も長くなっている。ような気がする。  
(絶対アポロのせいよ! あんなケダモノが近くにいるから、そのストレスが原因でこんなに痛むんだわ!)  
思うように動かせない体に苛立ちつつ、壁に左手をついてゆっくりと立ち上がる。  
その手が壁をしっかり掴み、指が壁の中にメリメリと沈んでいくが、彼女は全く意に介していない。  
「早くトイレに行かなきゃ……。誰か来たら痛み止めも貰わないと……」  
「痛み止め、って何のだ?」  
「っぎゃーーーっっ!!! ……ぁ痛ったぁ〜……」  
天窓から逆さまに現れたアポロを見て、自分の体のことも忘れて絶叫してしまう。  
そんなシルヴィアの様子に気づかずアポロは軽く眉をひそめた。  
「お前さ、一応女なんだから、叫ぶにしてももうちょっとマトモな声を出せよ。どっかの神話獣かっての」  
「っるさいわね……。あんたがいきなり出てくるからでしょ。いいから早くどいてよ」  
「へっ! お前が避ければいいだろ?」  
「今日はちょっとでも動きたくないのよ……」  
「……ん?」  
ようやくシルヴィアが常態でないことに気づいたアポロは、さらに眉をしかめて鼻をひくつかせる。  
「……なぁ、お前どっか怪我でもしてんのか?」  
「え? 怪我なんてしてないわよ」  
「だって、お前から血の臭いがす」  
「わーーーーっっ!!! それ以上言っちゃダメッッ!!!」  
鈍痛にも構わず再び大声をあげ、右手でアポロの口を塞ぐ……つもりが、勢いよく顔面に張り手を喰らわせた。  
 
「いっへーな! ひははんああろ!(いってーな! 舌噛んだだろ!)」  
「あんたがバカなこと言いだすからよ! 本ッ当デリカシーのかけらもないんだから!」  
「あらあんえひおいおいすうんあお?(なら何で血の臭いするんだよ?)」  
「そっ、それは……っ」  
言いかけて、シルヴィアは慌てて口を塞ぐ。  
(こ、これってこの前と同じパターンじゃない! 慎重に答えないと……)  
「…………そっ、それはね、さっきまで厨房にいたからよ! お兄様に手作りの料理を食べてもらいたくて……」  
「俺、さっきまで厨房にいたんだけど」  
「えっ?」  
シルヴィアは目を丸くする。  
「あそこにゃ丸々と太った鼠がよく出るからな。野良と違って脂がのってて美味いんだぜ!」  
「そ、そう……」  
引きつった愛想笑いを浮かべ、シルヴィアは必死に思考をめぐらせた。  
「でも、厨房にお前がいたにおいは全然無かったし、よく掃除してっから血の臭いだってほとんどねーぞ?」  
「あ、えーっと、……そう! 厨房じゃなくって、庭園に怪我をした小鳥がいて、その手当てを……」  
「鳥の臭いもしねーんだけど」  
「じゃぁ怪我をした子猫が……」  
「猫の臭いも犬の臭いも、ついでに馬とか鹿とか猿の臭いだってしてねーよ。  
 それともお前の血って象の臭いでもすんのか? 象の臭いは嗅いだことねーからなぁ」  
「違うわよ!!! じゃぁ、じゃぁ……えっと……」  
次第に俯きだすシルヴィアの顔をチラッと覗き込み、  
「ぃよっと!」  
「きゃぁっ!! なっ、何するのよっ!!」  
シルヴィアを横抱き――通称お姫様抱っこ――にすると、勢いよく駆け出した。  
「ちょっ、下ろして! お兄様に見られたらどうすんのよっ!!」  
「っるせーなぁ。お前怪我してんだろ? 医務室に運んでやっから大人しくしてろって」  
「違うのっ! 怪我じゃないから! お願いっ!!」  
「耳元で怒鳴るな! あんまジタバタしてっと傷口が開くぞ!」  
「だから違うんだってばぁ!」  
 
「二人とも、廊下で騒ぐんじゃないっ!」  
アポロの首に腕を回しつつ、泣きそうな気持ちになりながら必死で抵抗するシルヴィアのもとに  
ようやく救いの女神が現れた。  
「……なんて、ジェロームがいたら怒られちゃうわよ?」  
科学誌を数冊手に、ソフィアはいたずらっぽく微笑んだ。  
「それで、騒ぎの原因は何かしら?」  
「こいつが怪我してんのにぎゃーぎゃー騒ぐから、医務室に運んでやろうとしたんだよ」  
「だから、私は怪我なんてしてないんだってば!」  
「じゃぁ、どうして血の臭いがすんだよ?」  
「そっ……それは、その……えっと……」  
チラチラとソフィアを盗み見て救援を要請するものの、どうやらまだ気づいてくれないらしい。  
「……お前、よく見たら顔もわりーじゃん」  
「なんですってぇっっ!!」  
「じゃなくて、顔色もあんま良くねーじゃん。さっきなんかかなり血の気がひいてたし」  
「あんたのおかげで血圧が上がったのよ……」  
頬を引きつらせつつ、左手に念力を込める。  
「とにかく、あんたはさっさと私を下ろしてあっちに行ってよ! あんたがいると困るのっ!」  
「はぁ? 何がどーして困るんだよ」  
「まぁまぁ、ケンカなら後でもできるでしょ?」  
「へいへいわかりましたよーっと」  
ようやく事情を飲み込んだソフィアの仲裁で、アポロは医務室へと足を向けた。  
 
痛み止めの薬を飲み、ベッドに横になっただけのシルヴィアを見てアポロは首をかしげた。  
「なんで血ぃ止めねーんだ? ちゃんと止血しねーと治るもんも治らなくねーか?」  
「これでいいのよ」  
笑いをこらえきれないのか、クスクス笑いながらソフィアは隣室のソファに腰を下ろす。  
アポロも彼女の向かいに座り、差し出されたスポーツドリンクを一気に飲み干した。  
「んじゃ、なんでほっとくんだ?」  
「そうねぇ……。アポロ、動物の出産って見たことある?」  
(えぇぇぇっっ!? いきなりそこからっ!?)  
耳をそばだてていたシルヴィアは慌てて体を起こす。が、忘れていた痛みがぶり返しすぐにまた横たわった。  
「んー、野良犬のなら見たことあるぞ。バロンと手伝ったんだけど、赤ん坊のほとんどは寒さでやられちまった」  
「なら話が早いわ。女の子はね、いつかお母さんになるための予行練習をしなきゃならないのよ」  
(やめてぇぇっっ!! そんな言い方したら、また変な好奇心出しちゃうじゃない!!)  
「予行練習?」  
「そう。お腹の中から赤ちゃんが出る時って、とっても痛いし血もいっぱい出るの。  
 だから、いつか来るその時のために文字どおり血を流して練習しなきゃならないのよ」  
「へ〜……。あのじゃじゃ馬姫が、母親になる練習ねぇ……」  
(じゃじゃ馬は余計よっ!)  
「アポロが嗅いだ血の臭いも、その練習で出たものなの。怪我とは違うから安心なさい」  
シルヴィアにも聞かせるため、「安心なさい」という部分をわざと強調してから微笑んだ。  
「でもね、女の子は影で練習してるところを男の子に知られたくないの。だから、他の人に言っちゃダメよ?」  
「なんで知られたくないんだ?」  
「心配させちゃうからよ。貴方も、シルヴィアが怪我したと思って心配してたじゃない」  
ソフィアはさらに微笑み、アポロの額を軽くつついた。  
つつかれたアポロだけでなく、シルヴィアの顔も見る見る赤くなっていく。  
「ししし心配なんてこっここれっぽっちもしてねーっ!! おっ、俺、メシ食いに行くからなっ!」  
 
四足で部屋を飛び出すアポロを見送り、ソフィアは隣室へと声をかけた。  
「……こんな感じでどうかしら?」  
「……その、誤魔化してくれてありがとうございます……」  
隣室に入り、シルヴィアの顔を覗き込む。  
「あら、誤魔化したなんて心外ね。嘘は言ってないわよ?」  
「そうですけど……」  
「アポロの性知識は小さな子と同じくらいだから、このくらいでいいのよ。  
 安心したなら仮眠を取りなさい。司令には出撃できない事を私から言っておくから」  
「はいっ! ……本当にありがとうございました」  
痛み止めも効いてきたのか、すぐにシルヴィアの安らかな寝息が響き渡る。  
ソフィアは彼女の枕元に薬やゼリー飲料などを置くと、そっと部屋を出ていった。  
 
 
「アポロには後日、実地で性教育を施そうかしら……フフッ」  
 

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