「ウッソォ! マジで?!」  
 時しも平和な昼下がり。  
 場所は聖地のカフェテラスに、レイチェルのすっとんきょうな声が響き渡った。  
「アンジェ、あなたって……自慰をしたことがないの?!」  
「きゃああああああああ」  
 言われた方は耳まで真っ赤になって、慌てて金髪の少女の口をふさごうとする。  
「レイチェルっ、レイチェルっっっ。な、なんてことを言うのよう」  
「だってアナタがとんでもないことを言うからでしょ」  
 すっかり涙目のアンジェリークがおどおどきょろきょろ、周囲をはばかっていると言うのに、レイチェルの方はすましたものだ。  
「そ、そんな……だったらレイチェルは」  
「もちろんしているわよ。定期的に」  
 ごん、と鈍い音が響いたのは、アンジェリークがテーブルに頭をぶつけたからだ。  
 そんな彼女にはおかまいなしに、レイチェルは言葉を続けていた。  
「食欲・睡眠欲・性欲は、人間の三大欲求よ。正しく解消してゆかないと、健全な成長を望むことは難しいわ。そんなことも習わなかったの?」  
「習ったけど、でも、それとこれとはちょっと」  
 違うような気がするの、という反論くらいではレイチェルはとまらない。  
「エルンストだって言っていたでしょ? ワタシたちと聖獣が、どんな絆でつながれているかはまだ解明されていないって」  
 したがって、体調管理はもちろんのこと、メンタル的な面でも常に安定している必要がある、と彼女は言った。  
 そもそもこの聖地の中に、これだけの充実した施設と自然が整えられているのも、そのためなのではないか? 女王や守護聖が豊かな暮らしをしているのも、その過酷ともいえる任務(義務?)のストレスを埋め合わせるためなのではないか?  
 
「いい? ワタシはあなたをライバルと認めているからこそ、こうやって忠告をしているのよ。ちゃんと定期的にガス抜きをしないと、アルフォンシアがバター犬になっちゃっても、ワタシ知らないからね?!」  
「え、えーと……レイチェル?」  
「なあに?」  
 上段切って、びしっ、と突きつけられたレイチェルの人差し指をまじまじと見つめ、そしてアンジェリークは言ったのだ。  
「バター犬ってなんだか可愛いね。お茶犬の仲間なの?」  
 
 俗に。  
「最後に乗せた藁一本が、ラクダの背骨を折る」と言うが。  
 その一言が、レイチェルにとっての藁一本、だった。  
 一瞬の間をおいて、  
 
「ルヴァ様のお部屋で本に埋もれてきなさいっ!」  
 
 ……かなり離れた教官室まで、その声は届いたとか届かなかったとか。  
 
 それからかっきり30分後。  
 
「レイチェルもひどいよぅ……いくら怒ったからって、コーヒー頭からかけることないのにー」  
  きゅっ、とシャワーの栓を締め、バスタブに身体をすべりこませながらアンジェリークはため息をついた。  
 砂糖もミルクもたっぷりいれたコーヒーを飲んでいたせいで、髪も制服もべとべとになってしまった。  
 洗い替えを持ってきておいてよかった。でないと明日一日、私服で過ごすことになってしまう。  
 もしもそんなことになったら、礼儀に厳しいジュリアスになんといわれるか、と考えて、かあっとアンジェリークは顔を朱に染めた。  
 レイチェルの言葉を思い出してしまったのだ。  
 (ま、まさか守護聖様方も、定期的……にって)  
(まさか、まさか、そんなことはないよね? ああっ、でも、ロザリア様が確かおっしゃっていたわ……)  
 そう。  
 守護聖たちは、外界と異なる時間の流れの中を生きているだけの「人間」なのである、と。  
 
『ですからヘンに気構えたりせず、気楽にお話しをなさい。日の曜日には、思いきってお誘いするのもよいと思いますわ』  
 
 紫のドレスがよく似合う補佐官は、にっこり笑ってそう言ってくれた、けれど。  
 まさか……「そういう点」でも、「人間」なのだろうか……?  
 
 うー、と小さく呟いて、アンジェリークは鼻のすぐ下まで湯船の中に身を沈める。  
 いくら彼女が内気で奥手だからと言っても、「そういうコト」にまるっきり興味がないわけではない。それなりの知識はちゃんとある。  
 そうっと、胸のふくらみに手をあててみる。そんなにボリュームがあるわけじゃないけど、ふんわりやわらかい。  
 とくんとくんと心臓の音。  
 しばらくそうしていると、こころなしか、ふくらみの先端がつんと尖ってくるような気がする。  
 ちょんちょん、と指先でそこをつついてやると、先端がきゅっと固くなり、立ち上がってくるのが自分でもわかる。  
 でも、「キモチイイ」という感覚は―――そんなに、ない。  
 
(えっちなことを考えないと、キモチよくならないのかな……)  
 
 でも、えっちなことってどんなことなんだろう。  
 耳元で「愛しているよ」と囁いてもらって、キスをして―――首筋にもキスされて―――そして、服をぬがしてもらって―――。  
 想像の中の「誰か」の動きにあわせ、アンジェリークの指先は、ゆっくりと自分の身体の丸みをなぞってゆく。ちょっとくすぐったい。不思議な感じ。  
 唇。喉。肩のラインからすうっと下へ流れて―――胸の双丘へたどりついたところで、いつも彼女は(そして架空の恋人は)、はた、と当惑してしまう。  
 ここから、どうしたらいいのだろう。  
 なだらかな下腹部の淡い茂み。お湯の中にゆらゆらとゆれるその中に、指先をもぐりこませてみる。  
 
(ここを……触ると、いい、って、)  
 
 本やマンガにはあったけれど、どうしたらいいのかが、よく判らないのだ。  
 草むらを探ると、唇よりももっと柔かい、二枚の花びらが触れる。ここのどこかに真珠の核が隠れていて、刺激するととてもキモチイイ、らしい。  
 
「ん……んんっ」  
 
 ふにふに、と花弁に刺激を与えているうちに、なんとも言えないむずがゆさを感じて、アンジェリークは身を震わせた。これがそうなのかしら、と、更に指を動かしてみるけれど、それ以上の刺激は得られない。ただ。  
 くちゅり、と指が熱いぬめりにめりこんだ。  
「あっ」  
 とっさに指をひいてしまう。触れてはいけないものに触ってしまったような、そんな罪悪感。  
 お湯とは異なる感触で、そこが濡れている。けれど、それだけだ。  
 残るのはもどかしさと、欲求不満。そしてイケナイコトをしてしまった、という罪悪感めいたもの。  
 
「……はぁ」  
 
 キモチイイわけじゃないのに、濡れるだけは濡れているなんて。  
 なんだか自分が酷く淫乱な女の子であるような気がして、アンジェリークはざばりと湯船の中にもぐってしまった。  
 ホントに、ルヴァさまの書庫をあさりにいこうかな、などと考えつつ。  
 
「で?」  
「で? って? ただ、それだけよ」  
 銀縁眼鏡を光らせたエルンストに、書類挟みの向こうから冷ややかな視線を投げられても、レイチェルはまるで臆することがない。  
「だってアンジェリークったら、いつもうじうじ、おどおどして裡にこもってばかりいるんですもの。この間なんか、こーんなクマまで作っていたし」  
 彼女は彼女なりに、アンジェリークのことを気づかっているのだろう。それは判る。判りはするが、エルンストはため息を禁じ得なかった。  
「まったく……老婆心ながら忠告しておきますが、レイチェル。守護聖様方や協力者の前では、自慰だのセックスだのという言葉は口にしないように」  
「え、どうして?」  
「あなたの評価を不当に落とすことになりかねませんから」  
「どうしてよっ!」  
「女性が人前でそのような語彙を使用することは、慎みがなく嘆かわしいことだと言うのが、世間一般の常識ですからね」  
「えーっ、それじゃワタシ、慎みも恥じらいもないってこと?」  
「事実そうでしょう。女の子が白昼堂々、人前で、己が自慰行為にふけっていることを公言するなど、言語道断もいいところです」  
「えーっえーっ、何よそれ!男女差別反対!」  
「いえ、これは差別というわけではなく」  
「エッチなことを考えない人なんていたら、ワタシそっちの方が気持ち悪いと思うけどなー。エルンストだってそうでしょ?」  
「―――私が、何か?」  
「宇宙のことが好きだったっていうけれど、ギリシャ神話の絵画をみたりして、ドキドキすることくらいはあったんじゃない?」  
「………………」  
 
 エルンストは深々とため息をつき、痛むこめかみをもみほぐした。  
 ……悪い子では、ないのだが。多分。  
 

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