ゆったりと、規則的な振動が足元から伝わってくる。  
波打ち際で見られるものとは違う、もっと大きな水の塊が動く。その力は、歩いている人間さえも  
その支配のうちに取り込み、一緒くたにして揺らす。  
廊下を抜け、目指す部屋の扉を叩く。返事がないことに軽く眉をひそめ、リチャードは取っ手を  
回した。力を入れるまでもなく開く扉の中へ滑り込み、音もなく閂をかけてから、彼はほっと  
ちいさく息をついた。  
その部屋は、居間と寝室が続き間になっている。本来人を運ぶものではない貿易船は、けれど  
金払いのいい客には相応の待遇を用意してくれた。船倉からもっと上のほうにある船室は  
想像していたよりもじめじめしていないし、快適に過ごせるだけの家具も揃えてある。  
文机に椅子、絨毯の上にはテーブルと長椅子、チェストにクローゼットにひとつだけの寝台――  
どれも伯爵邸で使用していたものとは比べ物にならない、質素な造りのものばかり。  
それでも彼の妻は、船の中にこんな立派な部屋を作れるなんてと、感嘆に目を丸くしていたものだ。  
居間は、灯りを絞ってあった廊下よりも、さらに薄暗かった。テーブルの上に角灯が固定されていて、  
光を放つのはそれだけ。窓からは蒼い月光が差し込んでいるが、視界を助けるほどのものではない。  
闇に目が慣れるのを待ってから二、三歩進み、そこでようやくリチャードは、妻――アネットの  
姿を認識した。  
先に寝室に入っていてくれればいいと言ったのに、律儀に待っていたらしい。長椅子の背もたれの  
向こう側に見える頭は、こちらを振り向かない。気づいていないのか、寝ているのか、いやそもそも、  
部屋に鍵もかけずに一人ぼんやりしていては危険ではないのか。ここはロンドンの屋敷とは  
違うのだ。決して治安のいい場所で育ったわけではないのに、彼女は妙に無防備な時がある。  
説教すべきか否か考えた末、とりあえず今回は見なかったふりをすることに決めた。夜も更けてから  
リチャードがこの部屋の外に出ることは滅多にない。今夜はたまたま所用があったから出ただけだ。  
それに、万全を期すなら彼女が寝台に潜り込むところまで確認して部屋を出れば良かったのだ。  
次回同じような状況になったときにそうして、ついでに釘も刺しておけばいい。  
「アニー」  
名前を呼ぶと、アネットは頭だけ動かしてリチャードを見た。ふわっと笑う――が、どうにも  
反応が薄いというか鈍い。半分寝ているのかもしれない。  
急ぎ足で長椅子の前に回りこむと、果たして彼女は、寝間着の上に毛織の肩掛け一枚を羽織った  
恰好で膝を抱えて座っていた。室内履きは脱いで床に置いてある。裾からのぞく裸足の指先が、  
やけに白くちいさく見えた。  
 
「おかえりなさい」  
「アニー、待っていなくても良かったのに。しかもこんな恰好で……それでは風邪をひいてしまう  
でしょう」  
「大丈夫よ、寒くなんかないもの。待ってる間、海を見てたの。窓から見える水面がね、  
ゆらゆら揺れて綺麗なのよ。特に今夜は満月だから。ほら、リチャードも座って」  
以前であれば、アネットは叱責の響きには敏感に反応して身構えていたものだった。それが  
気にした様子もなく、それどころか嬉しそうに窓の外を指差す。  
だが目の前の光景より何より彼に気がかりなのは妻だった。隣に座り、肩を抱き寄せる。細い身体は  
若干冷えているように思えた。体調を崩すほどではない、けれどリチャードに触れて本来の体温を  
思い出したか、仔猫のように擦り寄ってくる。  
背後から包み込むように抱きしめ、髪に鼻先をうずめ、彼はようやく他の場所へ目を向ける余裕を  
取り戻した。  
アネットが見入るのも無理はない。水平線から伸びた光の帯は、確かに美しい。ゆらゆらと  
自然物ならではの不規則な曲線を描き、蒼と白に角灯の温かい光が重なって生み出される色は、  
格別に幻想的だ。  
「ね、綺麗でしょう?」  
「ええ」  
しかし、いつまでもこうしている訳にもいかない。リチャードは再び立ち上がり、仕種でアネットを  
促した。もうそろそろ夜半を回る。休まなければ明日に差し支えるだろう。たとえ仕事が  
あるわけでもなく、日がな一日海を眺めて過ごしていても問題ない立場ではあっても、だ。  
アネットは差し出した手を取らない。相変わらずふわふわと頼りない表情をして――抱きしめても  
照れもせず会話を続けられたのは、半分寝ているからに違いない――リチャードの手と顔を、  
見比べている。  
やがて彼女は、にっこりして腕を差し伸べた。  
「あのね、寝室まで連れて行って」  
「はい。だから手を……」  
「お姫様みたいにね、抱いて運んでいってほしいの。……駄目?」  
新手の甘え方をされた。呆然と見下ろす夫の心境に気づいているのかいないのか、上げた両手を  
降ろしはしない。  
 
以前であれば、彼女はこんな要求をしなかっただろう。手間をかけること、世話をかけること  
すべてが迷惑をかけることに通じているのだと、頑ななまでに思い込んでいたアネットは、  
何もかもを一人で片付けたがったものだった。手助けすらさせてくれない、心配など要らない。  
その姿勢は賞賛されてしかるべきものだったのかもしれないが、リチャード自身は拒絶されている  
ようで辛かった。とうとう自分を抑えられず、彼女を酷く怯えさせてしまったことだってある。  
彼女を迷惑に思ったことなどない、むしろ頼られることは嬉しい。愛しているのだから。  
想いが通じ合って後も何かと遠慮するアネットに、根気良く同じ言葉を言い聞かせ続けた成果が  
これだということだろうか。彼は胸の奥から湧き上がる何かを無理やり飲み込み、笑みを浮かべた。  
「仰せのままに、レディ」  
妻の身体を、肩掛けごと横抱きに掬い上げる。アネットはちいさく笑い声を上げて  
リチャードの首にしがみついた。耳元に唇を寄せ、じゃれ合うように、けれど目線だけは  
しっかりと足元を見据えて歩く。肘を使ってなんとか寝室の扉を開き、寝台の上にそっと降ろす。  
首に回った腕は解けなかった。彼は靴を脱いでそのままシーツの中に潜り込み、彼女に  
覆いかぶさった。独特の光沢を持つ髪を梳き、指先で耳をなぞり、両手のひらで頬を包み込む。  
口付けは優しく甘く、それでいて酷く酩酊を誘う。熟れた苺のように赤く染まった唇の間、  
規則正しく並ぶ真珠色が見えた。惹かれるままに奥へ奥へと進み、深く吐息を交わしあう。  
どれだけ触れても飽き足らない、永遠に触れ続けていることだってきっとできる。  
少しずつ熱くなってきている頬を撫でると、肩がびくりと跳ねる。  
なんとなく異常を感じて、リチャードは一度唇を離した。  
「……目、覚めちゃった」  
夢から覚めたような顔でアネットがつぶやく  
「…………。やっぱり寝てたのか……」  
わかっていたつもりだったがわかりたくなかった。未だ頭の芯に痺れを残したまま、彼はがっくり  
肩を落とした。  
わかっていた。わかっていた、はずだ。寝ぼけていたから普段よりも甘えん坊だったし、普段よりも  
素直に身をゆだねてきた。いや、もちろん妻は彼が抱きしめようとすれば逆らいはしない。  
恥ずかしいだけで嫌がっているわけではないからだ。羞恥心を必死に抑えて応えようとする姿は  
いじらしくて愛らしくてたまらないが、一方でそろそろ慣れてくれはしまいかと思う自分もいる。  
純情も過ぎれば男にとって凶悪だ。無理強いはしたくない、でもこれではいつまで経っても  
この先に進めない。ただ抱き合って眠るだけでこの上なく幸せを感じるのは間違いないけれど、  
幼い子供ではないのだから。  
船旅はもう、予定していた日数の半分を終えた。今のところ航海は順調だそうだから、あと半月も  
すれば新大陸に上陸できるだろう。最低限の手配は事前にしてあるとはいえ、暮らしが  
落ち着くまでにはきっと時間がかかる。そうなれば、なんというかその、またしばらくお預けに  
なることは必至だった。  
 
「アニー」  
「え、何……んんっ?」  
再び唇を重ねる。もう休まなければと囁いてくる理性を無理やり押しのけて、ただ衝動に従い  
口付けを続ける。  
混乱はすぐに過ぎ去ったのか、細い腕がリチャードの背中に回された。合わさった唇の  
角度が変わるたび、鼻にかかった呻き声が漏れる。頬や額を撫でるごとに、ちいさな手の中の  
服地は伸びたりぐしゃぐしゃになったり、忙しなく形を変えた。  
やがて彼は、静かに顔を引いた。少し距離をとって見下ろした瞳は、熱に潤んで蕩けきっている。  
声は聞こえなかったが、名を呼ばれたのはわかった。目尻に口付けた唇を滑らせ、甘く耳を食む。  
同時に肩に添えていた手のひらを、鼓動を確かめられる位置までずらしてそっと押した。  
「……!」  
途端、アネットは全身を硬直させた。予想していた反応とはいえ、少々切ない。  
だが気づかないふりをして、やわらかな部分をまさぐる。リチャードの舌が首筋をなぞり、  
鎖骨までたどり着いたところで、彼女は焦ったように彼の肩を押し返そうとした。  
「リ、リチャード? あの、何……」  
「この状況で、それを訊きますか。まさか、何も知らないわけではないでしょうね」  
「しっ……知ってるわよ、馬鹿にしないでったら! そうじゃなくて、あたしが言いたいのは  
ちょっと待ってってこと……っ!」  
「待たない」  
それ以上の反論を許さず、彼は妻の肩口に顔を埋めた。皮膚の薄いところ、太い血管の通っている  
場所に唇を押し当てれば、そこを尋常でない速度で血流が通り抜けていっているのがわかる。  
指の間では心臓が激しく脈打っているのが伝わってくる、興奮のためかわずかに汗ばんできた  
身体からは耐え難く魅惑的な香りが漂ってくる――これで待てと言われて素直に従う男など、  
存在するはずがない。  
「待たない」  
リチャードはもう一度、アネットを見下ろしてきっぱりと告げた。  
「あなたはおれの妻だ。夫が妻を求めて悪いことなど何もない。おれはあなたが好きで、あなたは  
おれが好きで、これ以上必要なことが他にあるとでも?」  
「それは――ない、けど」  
わずかな光の中、かすかに見える彼女は、顔を赤くして目を逸らした。  
「おれはあなたと、一緒にいると決めたんです。約束はした。誓いも交わした。ただ、このままでは」  
いつまで経っても、お嬢様と元執事のままだ。口をついて出かけた言葉を、すんでのところで飲み込む。  
 
身勝手なのはわかっていた。たとえ自分が相手でなくとも、彼女が幸せになれさえすれば  
それでいいと思っていた。でも、それは嘘だった。次には、自分のものにできないのなら、  
他の誰にも渡したくないと思った。それなら我慢できると思ったのに、やはり無理だった。  
ずっと一緒にいると誓って、自分の一番の望みと愛する人の一番の望みが同じものであると  
いうことを知って、これ以上幸せなことなどこの世にあるものかとまで思ったのに。  
気づけばもっともっとと、子供のように欲してしまう自分がいる。この望みにはきっと、  
際限などないのだろう。ひとつ得られたら、また次の一つを望む。ずっとずっと望み続けて――  
命の終わりまで満たされ続けることを望んで、いつのまにか年老いているに違いない。  
こんな想像ができるようになったということ自体、幸福である証明のようなものだが、  
切羽詰まったリチャードにはそこまで考えは回らなかった。  
「……リチャード」  
名を呼ぶ声に、リチャードははっと現実に立ち返った。見れば、アネットが苦笑めいた笑みを  
浮かべて彼を見上げている。頬は未だ赤い。けれど先ほどまでの戸惑った様子とは違い、どこか  
清々しく開き直ったかのような気配が感じられた。やわらかな両手がリチャードの頬を包み込む。  
「あたし、リチャードが好きよ」  
「アニー」  
「本当に好きなの。愛してるの。あのね、その、だからね……嫌だとか、やめてとか、  
口では言っちゃうかもしれないんだけど。でも好きだから! 色々言っちゃうのは  
単に恥ずかしいだけだから、やめないでいいの、リチャードの好きにしてくれていいのよ」  
言っている途中でやはり恥ずかしくなってきたらしい。最後のほうは半ば自棄になって早口で  
言い終え、ぐいと彼の頭を引き寄せる。  
目の奥が熱を持って疼いたような気がしたが、リチャードは無理やりに笑った。  
「愛してる」  
唇が重なる寸前、二人は同時に同じ言葉を口にした。  
 
 
 
好きにしてくれてかまわない、とは言ったものの、実のところアネットはがちがちに緊張していた。  
だって、手を繋ぐだけでどきどきするのだ。抱きしめられることにも随分慣れたとは思うけれど、  
その瞬間はつい身を硬くしてしまう。キスなんてされたら、それこそ頭の中が真っ白になる。  
うまい応対の仕方も知らず、しがみつくのが精一杯だ。それでもリチャードは彼女に失望する  
ことなく、それどころかいつも殊更に優しく扱ってくれる。  
 
ずっと、その気遣いに甘えてきた。でも、アネットだって彼の望むことはできる限り叶えたい。  
羞恥心と未知への恐怖に覚束ない心地にはなるけれど、きっとこれは幸せへ続く道でもあるのだから。  
好きな人にここまで言わせておいて尻込みしていては、女が廃るというものだ。  
一大決心に内心で力強く頷いた彼女は、しかし次の瞬間ちいさく悲鳴を上げた。長い指が胸元の  
リボンを一気に解いたのだ。それだけに留まらず、リチャードは器用な手つきで寝間着の袖から  
アネットの腕を抜いてしまう。まるでオレンジの皮を剥くように無造作に、彼女を包む絹地を  
取り去ろうとする。今はもちろんコルセットなんかつけていない、布の下にはただ素肌が  
あるだけだ。このままぼうっとしていたら、裸にされてしまう。  
「……アニー?」  
くつろげ広げられた寝間着を一生懸命掴んで放さないアネットを不審に思ったか、リチャードが  
手を止めて見下ろしてきた。灰色の瞳は闇に沈み、光を吸い込む。きょとんとした表情は  
一見無邪気だが、隠そうともしていない情欲の色だけは確かに読み取れて、何かがぞくりと  
背中を駆け抜けた。  
「あ……あの」  
「何か?」  
「何かって……き、貴婦人って、男の人の前で裸になってもいいものなの?」  
「さあ」  
「さあって……」  
絶句して目の前の男を見上げる。さも当然とばかりに寝間着を脱がしにかかったリチャードは、  
けれど本当に彼女の疑問に対する解答は持っていないように見えた。  
アネットとて、世の夫婦がどういった行為をして子供を授かるのかは知っている。別に知ろうと  
思って得た知識ではないが、彼女が育ったイーストエンドでは、娼婦は珍しい存在ではなかった。  
初めて知ったときは衝撃を受けたが、それをいつまでも引きずっていてはあの街では生き抜けない。  
宿に客を引き込む娼婦はまだ良識のあるほうで、場合によっては人目も気にせず路地裏で仕事をする  
者もいた。知らないふりをして通り過ぎても、目に入ってしまうものは多少ある。いずれにせよ、  
裸でそういった行為をしている人間は見たことがない。往来なのだから当たり前といえばそうだが、  
ともかくアネットにとっては、例え同性であっても裸を見られることはたまらなく羞恥心を  
誘うものだという認識があった。  
「さすがにおれも、そこまでは知りません」  
彼は生真面目に首を振った。  
 
「もちろん読本の類いにもそういった項目はないでしょう。おおっぴらに話題にするようなことでも  
ないですから。……庭園の暗がりであればともかく、寝室で誰に見られる心配もないのなら、  
それぞれが好きなようにしているだろうと解釈するしかないのでは?」  
「そ、そういうものなの? ええと、じゃあ、別にどっちでもいいってこと?」  
「おそらくは」  
「そうなんだ。じゃあ恥ずかしいから、着たままでも……」  
「でも、おれはあなたのすべてを見たい」  
言うが早いか、リチャードは彼女の一瞬の隙を突いて寝間着を奪い取った。そのまま両手首を  
掴まれ、シーツに押し付けられる。決して痛くはなかったが、抗えない力で固定され  
縫い止められる――咄嗟に顔を逸らしても、動くのはアネットの視界であって彼のそれではない。  
視線を感じて、頬と言わず全身が熱くなる。室内の空気は冷たく澄んでいるはずなのに、  
寒いとすら思えなかった。  
一糸纏わぬ姿をさらして、羞恥に身を震わせることしかできない彼女をどう思っているのか、  
彼は何も言わない。ただ、見られているのはわかる。ぎゅっと目を瞑る。  
密やかなため息が聞こえた。  
瞬間、アネットは全身を強ばらせた。期待外れ、だったのだろう。自分の身体のことは、  
自分が一番良く知っている。肌はそれなりに白いほうだと思っているが、もともとが痩せっぽちで  
骨ばっていて、貧相な体つきだったのだ。ちゃんと三食食べられるようになっても、肉がつくのは  
お腹周りだとか腕だとか、足だとか。胸や腰に栄養が回ってくれはしないかと期待した時期も  
あったが、体質的に向き不向きもあるようで、諦めた。  
喉の奥からせりあがってくる何かがある。アネットはそれごと、無理やり唾を飲み込んだ。  
泣いたら駄目だ。たとえ期待外れの身体であっても、リチャードはそれだけで彼女に愛想を  
つかしたりはしないだろう。彼が何より愛していると言ってくれたのは、他ならぬ彼女の心だ。  
だから大丈夫。――大丈夫。できれば何もかも全部、丸ごと好きだと思ってもらえたら  
よかったのだけれど。贅沢は言っていられない、泣いたら駄目だ。  
「……やっぱり、綺麗だ」  
「ええっ!?」  
吐息のように呟かれた言葉に、アネットは耳を疑った。勢い良く頭を起こしかけて、しかし  
重力に逆らえず羽根枕に再度受け止められる。急に動いた彼女に驚いてか、リチャードは  
何度も瞬きした。問いかける目つきになって髪を梳く。アネットは口をぱくぱくさせた後、  
なんとか声を絞り出した。  
 
「え……っと、今、何て言ったの?」  
「? 綺麗だ、と言いましたが」  
「なっ……、えっ、なんで? なんで!? だってあたし、胸はないし色気はないし、リチャード、  
綺麗な人なんて見慣れてるでしょ? なんであたしが綺麗!?」  
「……」  
何を言っているんだこの人は、と言わんばかりの表情で、リチャードが眉をひそめる。最早  
羞恥心は完全にどこかへ吹っ飛んでいた。食い入るように見つめるアネットの視線の先で、  
彼は肩を落としたように見えた。  
「あなたは、おれを何だと思ってるんですか」  
「え? 何って……リチャード」  
「そうではなくて! ……ああもう、この際だからはっきり言いましょう。あなたの目に  
あなた自身がどう見えているのか知りませんが、少なくともおれの目に映るあなたは、  
おれが今まで会ったことのある女性の中で一番綺麗です」  
「え……」  
「綺麗で美しい。清らかで凛々しい。この髪も瞳も、身体だって、どこもかしこも細工物みたいに  
繊細だ。あなたの声を聞くだけで安らぐ。あなたが笑っているのを見るだけで、幸せで幸せで、  
どうしようもなくなる」  
「ちょっと、待っ……待って、リチャード! リチャード、褒めすぎよ!」  
さらに何か言い募ろうとするリチャードを遮ってアネットは大声を上げた。彼が心臓に悪い台詞を  
さらりと言う人だということはわかっていたつもりだが、これほどとは思わなかった。  
実は彼の前にいるのはアネットではない別人だとか、何か別のものを見ていてそれを彼女だと  
勘違いしているのではないかとか、そんなことまで考えてしまう。けれど灰色の瞳が  
覗き込んできているのは間違いなく自分の目だし、髪を梳く優しい指の感触も現実だ。  
嬉しいけれど、困る。困るけれど、嬉しい。どうしていいのかわからなくなって、彼女は  
苦し紛れに目を閉じた。  
待ちかねていたように唇が降りてくる。恥ずかしいことに変わりはなかったが、アネットは  
即座に口付けに応じた。同時に大きな手のひらが肌の上で動き始める。肉付きの薄いはずの胸は、  
彼の手の中でやわらかく形を変えた。身体のあちこちが、じんじんと痺れる。息が上がってきて  
苦しい。唇はいつのまにか離れて、手と同じようにあちこちを好き放題彷徨っている。  
鼻にかかったような、甘ったるい声。そんな声が自分の喉から出るなんて信じられない。  
 
手のひらで口を覆ったら、即座にリチャードの手が伸びてきて退けさせられた。心の奥底までも  
射抜く視線は、しかしあからさまに欲望に濡れていて、アネットのすべてをどろどろに溶かしていく。  
肌にかかる吐息が熱い。手が熱い、唇が熱い、触れ合う彼のすべてが熱い。  
心臓に近い場所に強烈な刺激を感じて、腰を浮かせる。霞んだ目を必死に凝らせば、彼はまるで  
赤子のようにその場所に吸い付いていた。たまらず黒髪を抱きしめる。ざらざらした感触が  
そこを何度も通り過ぎ、かと思えば歯を立てられる。声をあげるたびに彼の動きからは  
遠慮がなくなっていき、同時にアネットの中に何かが蓄積されていく。  
「……」  
リチャードは無言のまま、唐突に身を起こした。何事かと見上げる彼女に頓着せず、性急な  
手つきで自身のシャツのボタンを外す。汗でまとわりつく服を鬱陶しそうに放り投げる仕種は、  
彼らしくなく酷く荒っぽかった。均整の取れた体つきは容貌と同様やはり格好良くて、ずっと  
眺めていたかったが、そのまま下衣に手をかけ始めたので慌てて目を逸らす。どくどくと  
全身を巡る血潮が耳元でうるさくて、衣擦れの音は聞こえない。けれど何をしているのかは  
わかっている。アネットは脈打つ心臓を片手で押さえながら、つかの間与えられた小休止を享受した。  
ぽつ、と汗の玉が落ちてきた。視線を戻せば、至近距離にリチャードの顔があった。  
彼はアネットに触れるだけの口付けを落とすと、額にかかった前髪をそっと払った。  
「少し、慣らします。力を抜いて」  
「あ、うん……」  
何を慣らすのかは知らないが、指示の意味はわかる。身体はすっかり融けてしまっているような感覚が  
あるけれど、意識してみればまだ自分の思うとおりに力が入るし、抜くこともできた。  
しかし次の瞬間、彼女は自分の意思でなく再び全身を緊張させることになった。  
「ひっ……!?」  
するりと手のひらが内腿を撫でる。アネットの狼狽も素知らぬふりで、指先はそのまま彼女自身も  
触れたことのない場所にまでやってきた。汗で微妙に滑りの悪くなっている足とは違う、  
そこは抵抗なく摩擦を受け入れる。リチャードは視線を下げて思案げな顔をしているが、  
アネットにしてみれば考え事をするような余裕はない。指は入り口付近を数度往復した後、  
予想通りに侵入してきた。息を詰める。  
「力を抜いて」  
「いっ……ぁ……」  
「……痛いですか?」  
 
痛くはない。首を振る。ただ異物感と圧迫感がある。足を閉じようにもいつの間にか隙間に  
入り込んでいたリチャードの身体に邪魔され、思うようにいかなかった。  
今まで誰にも許したことのない場所だ。人目どころか、外気にさらされたことだってないはずの  
身体の中心、内側。それが、なんだってこんなにぬるぬると、当たり前のように彼を受け入れているのか。  
恥ずかしくてたまらないのに、それに少しは怖いのに、もっと奥も触って欲しいなんて考える  
自分はどこかおかしい。壊れてしまっているのかもしれない。  
「リ、チャー……ド」  
「やはり指だけだと……」  
苦し紛れに口にした名前は聞こえなかったのだろうか。彼は独りごちると、不意に手を引っ込めた。  
圧迫感から解放されて、一瞬ほっと息をつく。しかし次に襲ってきたのは、先ほどまでとは  
比べ物にならないほどの衝撃だった。  
「……!」  
声にならない悲鳴を上げて身をよじる。ありえない場所にありえない感触が触れて、頭の中が  
真っ白になった。見なくともわかる、今彼が何をしでかしてくれているのかわかる。嫌だ、  
やめて、そんなところ汚い――浮かんだ言葉はすべてちゃんと口に出して叫んだはずだったのに、  
ことごとく無視された。そもそも何を言ってもやめないでと、最初に念を押したのはアネットだった。  
もう恥も外聞もない。勝手に声が出てくるのだから仕方がない。激しさを増す愛撫に、彼女は  
為す術もなく翻弄された。涙が散る、腰が跳ねる、足をばたつかせる。引き剥がそうと思って  
伸ばした手も、かろうじて黒髪に届くだけで、ものの役には立たなかった。  
身体の奥から何かが押し寄せてくる。波にさらわれて、そのままどこかへ行ってしまいそうになる。  
リチャード――夫の名を呼んだと同時に、ぎりぎりのところで保たれていた神経が焼き切れるのを、  
見たような気がした。  
 
 
 
暴れていた身体が、不意に力を失って弛緩した。  
妻の上を通り過ぎた何かを確信し、ようやく動きを止める。リチャードは伏せていた顔を上げ、  
そろそろと起き上がった。  
恐らくもう、何を考える余裕もないのだろう。あれほど恥ずかしがっていたのにも関わらず、  
アネットは一糸纏わぬ姿を、無防備に彼の前にさらけ出している。腕も足も投げ出して、激しく胸を  
上下させている。白い肌は淡く染まり、あちこちに散らした所有の印は、更に赤く花びらのように見える。  
 
「……も……」  
アネットが何かを言いかけた。聞こえなかったので口許に耳を寄せるが、声も掠れていて聞き取りづらい。  
恨みがましい響きを伴っているところを考えるに、抗議のようではあるのだが――リチャードは  
ちいさく笑って謝った。  
「すみません、あなたがあまり可愛らしいので、つい。止まらなくなってしまったんです」  
ぼふっと後頭部にやわらかいものがぶつかった。笑顔のまま、ぶつけられた羽根枕を壁際に放る。  
精一杯怖い顔をしているつもりらしいのだが、頬を真っ赤にして睨みつけられても愛らしいだけだ。  
わざと音を立てて眉間に口付けると、そこにあった皺はあっという間になくなった。彼女の顔にキスを  
降らせながら、自身を押し付ける。ぴくん、とアネットが反応した。  
「あ……」  
「怖いですか?」  
尋ねて、頷くわけはないとわかっている。けれど訊かずにはいられなかった。  
愛している。愛されているのも知っている。だが時に、未知への恐怖はそれらを凌駕することだってある。  
リチャードが、欲しい欲しいと思いながら今まで尻込みしていた理由もそうだ。嫌とかそうでないとかは  
別にして、泣かせてしまうことは確実だった。そして彼女の泣き顔を見たら、無条件で降参してすべて  
言うとおりにしてしまうことは間違いない。どんな無体なこと――たとえば今すぐ部屋を出て行けと  
言われても、きっと自分は従うのだろう。  
アネットは肯定も否定もしなかった。じっと見つめる瞳は、こんな闇の中でも生き生きと輝いている。  
その輝きに触れて、亡霊は人間になった。光は時に凶器だ。けれど彼女は、触れるものを焼き尽くすで  
なく、癒して生かす。それは彼が出会った至上の幸運。  
「好きよ、リチャード。大好きよ」  
「アニー」  
「好きにしていいって言ったのに、律儀なのよね。もう一度言うわよ、リチャードの好きにして。  
……愛してるわ」  
「おれも……愛してる」  
囁いて、リチャードは腰を進めた。蕩けた身体は想像していたよりはずっと簡単に彼を受け入れる。  
それでも圧迫感は相当のものなのだろう。浅く忙しない呼吸を宥めるように、あちこちを撫でながら  
ゆっくり、ゆっくり侵入していく。  
初めての苦痛に歪む妻の顔とは裏腹に、リチャードの脳髄はまさに焼けそうだった。神経も感覚も、  
すべてがそこに向かう。熱い肉はやわらかく彼を受け止め、包み込む。身体の芯を優しく慰撫されて  
いるような、そういえばそこは、人の原初でもあるのだったか。  
 
細く熱く息を吐く。  
指を絡めて押さえつけて、今すぐ暴れだしたい。滅茶苦茶に突き上げて啼かせて、この美しくしなやかな  
肢体にすべてを刻み付けてしまいたい。その衝動を抑えて、彼は注意深く妻の様子を伺った。今にも  
泣き出しそうに潤んだ瞳は、けれど懸命に夫を見上げている。息が苦しいのだろうに無理やりに笑もうと  
するせいで、唇がひん曲がっている。  
それでも、笑顔には違いなかった。応えて喉の奥から出てきた自分の声は、まるで獣の唸り声のように  
聞こえて、いや実際そうだったのだろう。  
 
それから先は、夢中で、夢中で。はっきりとは、思い出せない。  
 
次にリチャードが気づいた時、二人はいつものように抱き合って眠っていた。  
さほど時間は経っていないはずだ。窓から差し込む月光は多少高度を減らしているように思えたが、  
夜と呼んで差し支えのない時刻。彼の腕の中で、アネットは安らかな寝息をたてている。白い頬には  
涙の痕が幾筋も残っていた。いくら夢中だったとはいえ、初心な娘に相当の無体を強いた――罪悪感が  
頭をもたげそうになった瞬間、ぱちりと目を開ける。  
言葉もなく見つめるリチャードの視線を受けて、彼女はぼんやりと瞬いた。寝ぼけ眼のまま、首をかしげる。  
「…………リチャード? ……もう朝……?」  
「あ、いや……まだ。もう少し時間があります」  
答えて、彼はシーツの上に流れる髪を梳いた。  
「まだ大丈夫。休みましょう……ずっと、側にいますから」  
「ずっとよ」  
「うん。ずっと」  
頷くと、アネットはうふふと嬉しそうに笑った。リチャードの胸に額を押し付けてくる。くぐもった  
笑い声が空気だけでなく胸の奥まで震わせて、彼は喉を詰まらせた。  
間をおかず、また寝息が聞こえ始める。苦しくないように、そっと――そっと妻を抱き寄せて、  
リチャードも瞼を閉じた。  
アネットは、恐ろしいくらいに明け透けでお人好しだ。誰にでもすぐ心を開くし、出会って間もない  
人間のことだって我がことのように心配する。たとえ嫌なめにあわされてもすぐそれを忘れ、  
懲りずに他人を信じる。  
 
ずっとそれが不満だった。得がたい美点であることはわかっていたし、変わって欲しいとも思わない。  
それでも不満だったのは、彼女にとって、彼女を一番に想う彼のこともまた、他の人間と同列なのでは  
ないかと感じていたからだ。  
彼女を好きになって、自分の嫉妬深さに自分で驚いた。たぶんこれからも、頓着せず辺りに笑顔を  
撒き散らす彼女に、振り回され続けるのだろう。  
けれど少なくとも、彼女のこの姿は自分だけのものだ。必死に名を呼んで、泣きながら手を伸ばして、  
縋りつく。誰にも見せない、もちろん仲の良い友人であるローズウォール兄妹にすら見せることのない、  
それは正真正銘リチャードだけのアネットだ。  
生まれて初めて、純粋に彼の幸せを願ってくれた娘は、彼の幸せそのものになった。  
泣きたくなったけれど、涙は出なかった。指先で、艶やかな髪を弄ぶ。リチャードが切り揃えて形を  
整えた髪は、一年経って随分伸びた。上流階級の娘としては短いほうだが、今では付け毛をしなくても  
結い上げることができる。時間が経てば、髪はもっと長くなって、彼女はもっともっと美しくなるだろう。  
その様をこれからもずっと、側で見つめていられるのだ。それこそ、年老いて命が終わるその時まで、  
ずっと。未来を想像して心躍る日が来るなどと、彼女に出会う前は想像したこともなかった。  
 
 
 
毎夜、幸せを抱きしめて眠りにつく。  
ここは海の上、たゆたう水に揺られる船の中。それなのに、耳について離れなかったはずの波の音は、  
とっくに気にならなくなっていた。  
 
 

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