「爆撃航程」  (原作:「あなたに似た人」 ロアルド・ダール著)  
 
 
 その男は既に酔っていた。つまり、彼女の存在を不思議にも思わないほどに。  
疲れもあったのかも知れない、――実際、彼は疲れていた、とても疲れていた。  
彼はカウンターを挟んで彼女と向かい合いながら、やや前屈みになって顔を伏せ、よく冷えたグラスに指で線を  
引いていた。そのことに熱中しているように装っていたが、何か言いたいことがあるのにそれをどう切り出した  
ものか迷っているように見えた。彼女は黙ってナッツをつまみ、いささか無頓着すぎるほどに音を立てて噛んだ。  
 彼はグラスをなぞり続けながら顔も上げずに、ゆっくりと物静かに言った。  
「やれやれ、俺は給仕か娼婦にでもなりたかったよ」  
彼はグラスを持ち上げ、ふた口で飲みほした。  
「もう一本飲もうか」と彼女は言った。  
「ああ。ウィスキーにしよう」  
「よしきた。ウィスキーね」  
彼女はカウンターの下からダブルのスコッチと炭酸水を取り出し、ウィスキーに炭酸水を注いだ。  
彼はグラスを取ってひと口飲み、いったん置いたが、また持ち上げてちびりとやった。  
二度目に置くと、出し抜けに身を乗り出して話しはじめた。  
「なあ、俺はいつも考えるんだよ、目標の上空に差し掛かって、まさに投弾しようというとき、ほんの僅か機首の  
向きを変えて一ミリほど片側に寄れば、俺の爆弾は誰か別の人間に命中することになるんだ、とね。  
誰に爆弾を落としてやろうか、今夜は誰を殺してやろうか、と俺は考える。全ては俺の胸一つだ。  
俺が足をぴくりとでもさせたのかどうか、誰にも分からない。爆撃手にも、航法手にも、誰にもだ」  
彼は小さなナッツをつまみ上げ、指でそれを粉々に砕きながら話していた。  
そんな話を切り出した自分に当惑していたらしく、殊更に目を伏せて手元をじっと見つめていた。  
彼はひどくゆっくり話していた。  
「方向舵を親指の付け根でほんの少し押す。自分でもそれと気付かないくらいの僅かな力だけれど、それだけで  
爆弾は別の家や別の人間の上に落ちていく。俺は出撃のたびに、誰を殺すか決めなきゃいけない。  
方向舵のペダルに乗せた爪先にわずかな重さをかけるだけで、そいつは決まっちまう。自分でも気付かないうちに  
もう終わってる。坐る位置を変えるためにちょっと体を傾けるだけだ。たったそれだけで、別の人間がたくさん  
死ぬことになるんだ」  
もうグラスの水滴は乾いていたが、彼は相変わらず、なめらかな表面を上下になぞっていた。  
「俺は海軍の連中を羨ましく思うことがある」と彼は言った。  
「奴らは黒い小箱に任せることができるからな。ミサイルを運んでいって、それを放り出して終わりだ。  
ミサイルがほんの少しずれたって誰に分かる? 奴らはそんなこと考えもしないだろう。  
俺たちはそうはいかない。全部自分たちで決めなきゃいけない。誰を殺して、誰を助けるかをな。  
まったくひどい酒だ」  
「ほんとね」  
「こいつを飲んだらもう一杯貰わなきゃな」  
彼女はまたウィスキーを注いだ。彼はひと口飲んで  
「そうなんだ、」と言った。  
「こいつは難しい問題だ。取り止めがなさすぎる。だけど、爆撃の最中はそいつが頭に憑いて離れないんだ。  
出撃のたびに俺は自問するんだ、こいつらにしようか、あいつらにしようか。いちばん悪い奴らはどっちだって。  
左にちょっとずらせば、子供を爆弾で吹っ飛ばす卑怯なスパイどもを殺すことになるかもしれない。あるいは  
そのせいでスパイを助けて、防空壕の年寄りを殺すことになるかもしれない。  
所詮俺には分かりっこない。俺に限らず、誰にも分かりっこないのさ」  
彼はからっぽのグラスを中央に押し出した。  
「だから俺は方向を変えないことにしている」と彼は付け加えた。「少なくとも滅多にやらない」  
「ひどいウィスキーね」  
「ひどいなんてもんじゃない。最悪だ。もう一杯飲もう」  
「ええ」  
彼女はまたウィスキーを注いだ。  
 
「あんたは綺麗だな」と、唐突に彼は言った。  
「あら、そう?」  
「特に目が綺麗だ。金属みたいに冷たく青灰色に澄んでいて、奥深くて神秘的な感じがする。でも、」  
と付け加えた。「俺はきっと、あんたと同じくらい綺麗な女をたくさん殺してきたんだぜ」  
「ノルウェーにも、私みたいな人がいるかしら?」  
「そりゃ、いるだろうさ。いるに決まってる。俺の尻の下にな。まったくひどい酒だ」  
「ええ、もう一杯飲みましょう」  
彼女はまたウィスキーを注いだ。  
彼らは飲みつづけた。陸軍の連中が店に入ってきて、それぞれに談笑しはじめていた。  
彼は椅子にもたれて、片手をぐるりとまわした。  
「この店の客を見ろよ」  
「ええ」  
「もしも、この店にいる連中がみんないきなり死んじまったら、どうなると思う?」  
「給仕連中が示し合わせて毒でも入れたら?」  
「そうさ」  
「そりゃ、大変ね。大騒ぎよ」  
「そうだろうな」と彼は言った。  
「だけど俺はそれと同じことを何度もやってきた。この店にいるよりたくさんの人間を何百回も殺してきた」  
「でも、それとこれとは話が違うんじゃない?」  
「同じ人間だよ。男に女。みんな酒場で飲んでいた」  
「違うわよ」  
「違やしないよ。ここでそれと同じことが起きたらひどい騒ぎになるだろうな」  
「どえらい騒ぎになるわね」と彼女も同意した。  
「ところがそれを俺はやってきた。何度もだ」  
「何百回もね」と彼女は言った。「この店なんてどうってことないわ」  
「嫌な店だ」  
「ええ、嫌な店ね。河岸を変えましょう」  
「ああ、こいつを飲んだらな」  
彼女はまたウィスキーを注いだ。  
 
 ソロキン大尉が彼女の背後に現れた。  
「パーカー大尉、そろそろ戻って頂かないと困ります」  
「分かったわ」  
カウンターにうつ伏せた男に向かって炎すら凍らせかねない一瞥を最後に投げて、国王陛下の空軍士官は立ち上がった。  
 
「パーカー大尉」  
「なに?」  
「先週の金曜日にあなたと飲んでいた男ですがね。  
あの翌日、死んだそうですよ。離陸のときに、ブラインダー爆撃機が横転して。ひとりも助からなかったそうです」  
彼女の姿は蔭に深く沈み、左目だけが薄明かりに蒼く光っていた。  
その口もとにちらとでも満足の色が走ったか否か、窺うことはできなかった。  
「そう」と言い、彼女は踵を返した。  
 
<爆撃航程・了>  
 

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