『境界線上の梨穂子』
いつもの空気
いつもの二人
いつものこと
配点(よくあること)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「……に……ぃ……にぃ……」
声がする。
やや幼い感じが残る高めの声だ。
定まらない意識の中で橘は声を聞いていた。
「うるさいな……もう少し寝かせ――」
りゅぉぉぉ! と叫び、沈んでいた意識が衝撃と共に強制的に覚醒する。
目を開け眼前を見るとそこには衝撃の元凶が独特な笑い方でこちらを覗きこんでいた。
「にししし、目が覚めたかね、ねぼすけにぃに」
「……美也……オマエな……腹の上に飛び乗るのはいくらなんでも厳しいぞ」
「だってにぃに呼んでも起きないんだもん〜」
「だもん〜。じゃないだろ、まったく……ほら早く降りろよ、重いだろ」
「失礼ね! みゃ〜はそんなに太ってませんよ〜だ」
「ああ、そうだな、確かに美也はやせているな」
「でしょ〜、みゃ〜はスレンダー美人なのだ〜」
腹の上でどうだと言わんばかりにポーズをとる美也を、しかし橘は溜息をつきつつ、
「本当、どうしてちゃんとつくべきところに肉がつかないのかなぁ、よく食べるのにな……あ、もしかして美也、洗濯板に悪さでも――」
無言で振り下ろされた打撃が折角覚醒した意識を奪い去ろうとするが、何とか堪えてのた打ち回ることを選択する。
「おごごご! 美也オマエ! じ、人中はイカン! 人中はさすがに洒落にならん! しかもその握り!」
見ると美也は親指を握りこんで中指だけを突出させた独特の握りの拳をブンブン振り回し、
「にししし、必殺鉄菱なのだ〜、さあまだ言うか〜」
「わ、わかった!もう言わないから!」
「うんうん、人間素直が一番!」
「まったく……それでなんだ? 僕はすごく眠いんだが」
「もう、にぃには今年も寝正月なんだから」
「あのな、そもそも美也が昨日の夜にぬくぬく長者電鉄を99年設定でつき合わせたからだろ……おかげで寝不足だ」
ふぁ〜、と欠伸をしてベットにもぐりこもうとする橘に美也は、待った! と言ってからイタズラな笑みを浮かべ、
「いいのかな〜、このまま寝たらにぃにはきっと後悔することになるよ〜」
だが橘は、はいはい、と言って聞く耳を持たずに掛け布団をかけて眠りに落ちていく。
「りほちゃんが来てるよ。着物姿で」
音速超過の動きが、飛行機雲を生み出し玄関まで伸びる。
●
「おおっ!」
橘は思わず感嘆の声を上げた。
玄関を開けた先には、髪をアップにして薄いピンク地に大きく橘が手描きされ、それに附随するように淡い色彩で桜がとおしどりが舞うように描かれた振袖を着た梨穂子が照れくさそうに立っていたのだ。
「えへへへ、あけましておめでとう純一」
「…………」
しかし橘は口をパクパクさせるばかり。梨穂子はそんな橘の態度にやや眉尻を下げて左手の拳を顎に当てつつ、
「も、もしかして変だった?」
と、不安そうに橘を覗き込む。
だが橘は一度大きく深呼吸をしたかと思うと、梨穂子の肩を左手で、がしっ、と掴み、キリッ、と顔を整えて戸惑っている梨穂子をじっと見つめる。
「……梨穂子」
「な、なに? 純一……」
「その……」
「……うん……純一」
掴んだ左手の力をやや強めて橘は唇を、
「着物チョー最高ッス! うなじの色気たまらないッス!」
と、動かし右手をサムズ・アップ。
「ん? どした梨穂子、目を瞑って唇を突き出したりして……顔でも痒いのか?」
「へ!? え? ええっ!……あう……」
「まぁ、いいか、ところでどうしたんだこんなに朝早く」
「え? 朝早くって……もう夕方だよ純一」
え? と首を傾げて空を見上げる橘。空では朱の色と藍の色が鍔迫り合いを楽しんでいる。
「なにぃぃ! するってぇとなにかい、僕は半日以上も寝過ごしたってことか! ああ、なんてことだ、僕としたことが朝と昼、二回も御節を食い逃すとは……くっ、不覚!」
がっくりと膝を突き悔しがる橘。
「えへへへ、よしよし……ふふ、純一可愛い」
梨穂子が橘の頭をなでているとふいに声がした。
「はいはい、そこのバカップル、みっともないから玄関でイチャつかないでくださ〜い」
「あ、美也ちゃん〜あけおめ〜」
「ことよろ〜。にしても、りほちゃんも新年早々にぃにをあまやかしちゃダメだよ、ただでさえしまりのない顔が余計に緩んで残念なことになってるから」
「美也……おまえ兄にむかってなんという……大体、この素敵なお兄様のどこがしまりのない顔だというのだ? 自慢じゃないが僕は――」
「さあさあ、りほちゃんも玄関で立ち話もなんだから上がってお茶でも飲んでよ〜この前もらった美味しいお菓子もあるからさ」
「えへへ、おじゃましま〜す」
「あっれ、キャッチボールがバスターエンドランになってね? おまえらもっとマッチング会話を堪能しようぜ――そういえばマッチングって何かエロくね? 合致することがINGなんて、現在進行形で一体何が合わさるんですか!?」
けれど二人は雑談をしながら橘を残し居間へと向かう。
「お〜い、あんましセメントな反応してると泣くぞ〜、いいのか? スンスン泣いちゃうぞ〜」
そう喚く橘を居間の扉に手をかけつつ半目で見ながら美也は横の梨穂子にささやく。
「……ねえ、りほちゃん……みゃ〜が言うのもなんだけど、本当にあんなのでいいの?」
そう言って膝を抱えてスンスン泣いている橘を指差す美也。しかし梨穂子は柔らかく微笑み、
「えへへ、純一だからいいんだよ。それにあんな事する純一はお茶目さんで可愛いよ〜」
「……そ、そっかな〜……あれ可愛いかな〜……」
美也が首を傾げ、頭の上を疑問符でいっぱいにしていると、梨穂子が嬉しそうに橘に近づいていき頭をなで始める。
「えへへ、純一よしよし」
「ああ、梨穂子は優しいな!!!」
再びのバカップル状態に美也は溜息をつき手を、パンパン、と二回叩いて、
「はいはい、わかったから、にぃには早く着替えてきてね、じゃないと初詣に行く時間がなくなるよ」
「おお、そうだな着替えるか……ん? 初詣?」
首を傾げる橘。美也はその兄の態度に目を丸くして驚き、
「ええ! もしかしてにぃに気付いてなかったの!? 普通気付くよ、正月に着物着て来たところで」
「そうなのか? 普通、正月に着物を着てくるということは『あ〜れ〜お代官様お戯れを〜』『いいではないかいいではないか』という伝統行事をする為じゃないのか!?」
「んなわけあるかぃ! 大体伝統行事って何よ! そんな伝統行事聞いたことないわよ!」
「う〜む……正月の風習は各地で違うというしな……」
腕を組んで、ならばしょうがない、と納得する橘に美也はぱたぱた手を振って、
「いやいや、ないからそんな風習、っていうか同じとこに住んでいるし……はぁ〜、まったく、そんなことばかり言っているとりほちゃん愛想つかされるよ、ねえ」
「う、うん……あ、あのね、純一……」
「な、なんだ、梨穂子……そんなにじっと見て……もしかして怒った?」
「にししし、ビシッと言ってやってよりほちゃん」
「……純一がやりたいなら私は……その……」
もじもじしながら言う梨穂子に美也は頭を抱えて、
「もう、わかったから早く初詣にでも何でも行ってちょうだい……なんかもう……やってらんない……」
そう言い残し、ふらふらと力なく居間へ行きお茶を入れ始める美也だった。
●
朱い鳥居がある。
やや、色がくすんだそれは、時の流れを感じさせるのに充分であり、そこからのびた参道と古びた社殿が独特の空気を作り出す神社だ。
その神社は元旦の夕刻だというのに人もまばらでやや寂びれた感があるが、それでも飾り付けやお神酒の振る舞いなどをして正月らしさを感じさせる。
そんな柔らかな雰囲気の神社。神明造りの拝殿に一組の男女が横並びで目を瞑り手を合わせている。
「…………ふう……さて、そろそろ行くか」
「…………」
「お〜い、梨穂子〜」
「…………」
「まったく、しょうがないな……ならば――」
そりゃ、という掛け声と共に右手を梨穂子のうなじにつける。
「ひゃあ! つめたっ!……も〜、純一また〜」
「ははは、やっと気付いてくれた。しかし随分熱心に拝んでたな」
「えへへへ、だって……ね」
上目遣いで見つめながら言う梨穂子。しかし橘はそんな梨穂子の視線の意味に気付かずに、ふ〜ん、と言うとすぐに周囲を見渡し、
「それにしてもここは正月なのに空いてるなぁ」
「本当、がらがらだね」
「まぁ、でも、ちょうどいいか、おかげでゆっくりお参りできるし」
「えへへ、ありがとう純一」
「ん? なにが?」
「私が人ごみが苦手だから何も言わなくても空いている近所の神社に来たんだよね」
「んー、そう言えば梨穂子人ごみ苦手だったなー、ははは、でも僕はただ近いからここにしただけだよ」
やや棒読みで鼻の頭をかきながら言う橘の横顔は夕日のせいか赤みを帯びていて、梨穂子はその顔を覗き込みながら目を弓のようにして、
「ふふふ、純一ったら……、それじゃそうゆうことにしといてあげますよ」
イタズラな笑みを浮かべ、そっと寄り添うと橘は、む、と一言呟く。
「と、ところで梨穂子は何をそんなに熱心に拝んでたんだ? もしかしてなにか叶えたい願い事でもあるのか? って、まぁ、梨穂子のことだからどうせダイエットが――」
グイッ、と腕を引っ張られ、なんだろうと見ると梨穂子が頬を膨らまし眉根を上げて橘をじっと見て、う〜、と唸っている。
だが橘はしばし梨穂子をまじまじと見つめ、少し考えてから、
「わかった! お餅の真似だ! うん、なかなか上手く表現出来てるぞ」
「なんでそうなるの〜!」
「おおっ! 梨穂子がツッコんだ! 成長したな……僕は嬉しいぞ!」
「えへへ、そうかな〜……って! そうじゃなくて〜!」
「おおっ! また! やるじゃないか梨穂子! うむ! これでもう免許皆伝じゃ、では山を降りて父の仇、鉄の爪と戦うがよい」
「し、師父ー!」
「弟子よー!」
がしっと抱き合う二人。
しばらくするとなぜかお互い顔を赤らめて見つめあう。
やがてゆっくりと顔の距離を狭め――。
「神聖な神社で何しとるかーっ!! この新春初ポルノ野郎ーっ!!」
叫び声と同時に数十本の破魔矢が板野サーカスの軌道で橘だけを正確に穿つ。
の、から始まる悲鳴を残し、橘はきりもみ状に吹っ飛んでいき三回ほどバウンドして沈黙する。
突然のことに唖然としながら梨穂子が振り向くとそこには、弓を構えた着物姿に眼鏡の少女と、なぜか黒いマントに黒い三角帽をかぶって杖のようなものを持った髪の長い少女がいて、
「ふっ、見たか、この浅間神社の通販で買った狙撃巫女印のホーミング破魔矢『九十九里破魔』の威力を!」
「……狙い打つぜ」
と、言いながらこちらに歩いてくる。
「よう、りほっち! あけおめ!」
「あけましておめでとうございます、るっこ先輩、あ、まな先輩もあけましておめでとうございます」
「……ことよろ」
二人の少女、夕月と飛羽は梨穂子の両脇に陣取ると、今だピクピクしている橘を半目で見据え、
「しっかし、橘のヤローはホント見境がねぇなあ、隙があったらいつでもどこでも、って、何キスの何原何一ですかよ!」
「……好評発売中。家庭科部のサブキャラ二人が特におすすめ」
「りほっちもさ、あんまり甘やかさないでたまにはビシッと言った方がいいんじゃないか?」
「えへへへ、でも嫌じゃないし……その……純一が喜んでくれるなら……」
顔を手で覆い、えへへへ〜、と言いながら体をくねらせる梨穂子を見て夕月は、だめだこりゃ、と肩をすくめ振り向くと橘がジト目でこちらを見ながら、
「夕月先輩、前振りなしの弾幕ズドンは危険ですよ〜僕じゃなければおロープ頂戴もんな事件ですよ」
「……っち、もう復活したか」
「あっあっ、今、舌打ちしましたね、それもやや蔑んだ顔を添えて! なんてことするんですか! 着物姿と相まってちょっといいな〜、とか思っちゃったじゃないですか!」
橘の言葉に、なっ、と言ってみるみる顔が赤くなる夕月。対し、明らかに不機嫌になる梨穂子。だが橘は気付かずに続ける。
「まったく、年上の美人系の夕月先輩が着物装備の上、蔑んだ目で冷たくあしらうもんだから、僕のM心がワクワクして益荒男ゲージが二本ほど溜まったじゃないですか、どうしてくれるんですかこれ」
「い、いや、んなこと言われてもなぁ……どうしろと……なぁ、愛歌」
困った顔で見ると飛羽は少し考え、
「……尻を蹴ればいい」
おいおい、と呆れ顔をする夕月。一方橘はヘラヘラと笑い、
「なんてことだ、この上尻まで蹴ってもらえるのか! そんなことされたらテンションHighの5ターン目突入でアタックマークが点灯からのイベント発生で、僕が夕月先輩をお姉様と呼んで懐いてしまうじゃないか! いいですか?」
そう言って尻を突き出し、バチコーイ、と言う橘に夕月は無言で弓を構える。
音速超過で打ち出されたバカは残像を残しながら近くの樹に激突するとうつ伏せに倒れピクピクしている。尻から数十本の破魔矢を生やし。
「まったくあのバカは何を考えてるんだ!」
「……無茶。しやがって」
「まぁ、冗談はこの辺にして」
「うお! 復活はやっ!」
「ははは、ちゃんと受身をとりましたからノーダメージです」
「え? 受身ってそういうもんだったか? 何か違うような……」
「ははは、ドンマイ! それよりも……飛羽先輩のその格好……なぜに魔法使い?」
「……Trick or Treat」
「正月かんけねー! ってかなぜにハロウィン!」
「……気にするな」
「いやいやいや、そんなツッコミ待ちの格好で言われても無理ですから! 大体その手に持っているものはなんですか!」
「……レイジングハート……なの」
「YES! my master」
「うお! 喋った!」
「……心を込めて……全力全開メラゾーマ」
「色々混じっちゃったー! ってかどんだけボケ倒すんですか! さすがにツッコミきれませんよ!」
「……ふっ、勝った」
口角を上げてピースをする飛羽。そんな姿に夕月は肩を竦め、やれやれ、と息を吐いてから、
「愛歌、もういいだろ」
「……満足」
「そんじゃまぁ、私らもそろそろ行くか。あんたも早く追っかけた方がいいぞ」
夕月の言葉に首を傾げ疑問符を出す橘だったが、やがて梨穂子の姿がないことに気付き、
「あれ? 梨穂子は?」
「ああ、りほっちならあんたが愛歌や私とばかりじゃれているもんだから拗ねて行っちまったよ。まずいんじゃないか〜、りほっちほっぺた膨らませてたぞ〜」
「ええ! なんだってーっ! っていうかなんで黙って行かせたんですか!」
「そりゃあ、犬も食わないって言うぐらいだからな、それに泳がした方が面白くなるかな〜なんて思ってな、テヘッ」
「テヘッ、じゃねーっ! ってかなぜにそこで急に萌えキャラですか!」
「……若さゆえの過ちだ」
「認めたくねーっ! って! こんなところで細かなボケを拾ってる場合じゃない、早く梨穂子を探しに行かなきゃ」
そう言ってきびすを返す橘に苦笑しながら夕月と飛羽が声をかける。
「頑張れよ少年」
「……泣かすなよ」
二人の言葉に橘は、一度振り向き苦笑とサムズ・アップで答えた。
●
「……さて、どうしたものか」
橘は顎に手を当て考えていた。
むくれてしまった梨穂子の探索で林のほうにある秘密基地を試しに覗いてみたところなんともいえない光景に出くわしたからだ。
そして、その光景を作り出しているのがよく知る人物であるが故に反応に困っていた。だから橘は考える。この状況をなんとか理解しようと。
……えっと……とりあえず状況を整理しよう。今日は元日。刻限は夕刻。そしてここは神社裏の秘密基地前。うん、ここまではよし! そして問題なのはあそこで必死に何かを頼み込んでいる……。
橘が半目で見るとその問題の人物は、
「お願い! それを譲ってくれ! このとーり!」
と言いつつ、頭を深々と下げて手を合わせ目の前の人物に対して懇願の意を表している。
「う〜ん、でもなぁ……」
だが、懇願されている対象の人物は眉を下げてやや困った表情を浮かべるばかりで手ごたえは薄いもよう。
……とりあえず状況は何となくつかめた。要するに何かを譲ってもらおうと必死に頼み込んでいる最中で、その頼み込んでいるのが……。
橘はもう一度確認するようにじっくりと問題の人物を観察する。
……ああ、間違いない……いや、認めざるを得ないと言ったところか……。
……何度見返してもあそこにいるのはお宝本という大海原を共に駆け、世間の無理解を刃に下に心と書いて共に忍び、
常に知識を研鑽することでさらなる高みを求め合ってきた戦友にして僕の唯一無二の親友……梅原……だよな……。
……まぁ……そこまではいいとしよう、何がいいのかはさておいて……だが梅原が頼み込んでいる相手が一番の問題だよな……だってあれ……。
「苦労して摩央姉ちゃんの目を盗んで拾ってきたもんだしなぁ……」
「そこを何とか! な、な、頼むよ〜いい子だから〜」
そう言って尚も目の前にいる自分より頭二つ分小さい人物に食い下がる梅原。
……アレ……どう見ても小学生の男の子だよな…………梅原よ……どうした……。
小学生相手に必死に何かを頼み込む親友に色々と不安を覚えた橘は、ゆっくりと梅原の背後に近づいていき肩にそっと手を乗せ柔らかな笑顔で言った。
「……さぁ、悩みがあるなら言ってごらん」
「おう、大将じゃないか! ちょうど良いところに……って、なんだい? その気味の悪い表情は? 大丈夫か?」
「あっれ、心配がUターン帰省して正月太りして帰ってきた! ってか梅原はこんなとこで小学生相手に何してんだよ」
「うむ……それはだな大将……語れば長い話なんだが……実はな」
そう言って梅原は、星が瞬き始めた宵闇の空に顔を向け深く息を吸い、
「お宝本、譲ってくれと、交渉中」
「みじかっ! ってか無差別に上の句を読むなよ、しかも字余りだし……って、お宝本?」
首を傾げて問う橘に梅原は、ニヤリ、と笑い、声を潜めて言う。
「ああ、あの男の子が手にしているものをよ〜く見てみな」
「手にしてるって、小学生が持っているものなんてたかが知れている……あっ! あれは!!」
男の子が持っているものを見て橘は驚愕した。
「ふふふ、流石大将だな、一目であれが何かわかったか」
「あ、ああ、僕も現物を見るのは初めてだが間違いない! あれは、これまで幾人ものお宝本ハンターが自分の家族すらも犠牲にして追い求め、
その度に奥さんに叱られてお小遣いを減らされ、子供からは『汚いから洗濯物は別にしてね』と言われてへこみ、
輝日東スポの見出しに毎回騙され、満員電車で痴漢冤罪に戦々恐々としながらも不屈の闘志で会社と家の往復! 負けるな父ちゃん! ガンバレ父ちゃん!
いけいけ僕らのお父ちゃん! きっと明日はいいことあるさ! でおなじみ伝説のお宝本!
曰く、異界黙示録と対をなす存在。曰く、混沌の海、たゆたいしもの、夜よりもなお暗きもの、血の流れよりなお紅きもの、時の流れに埋もれし偉大なるエロの本流。
生けとし生けるものに等しくエロを与えんことを! ローアングル探偵団・極み!」
右手を前に突き出し、フハーッ、と鼻息を荒くする橘に梅原は深く頷き、
「ああ、まさにその伝説の一品、オッパイソムリエにしてゴットモザイクを纏いし全裸の妖精“湿った手の男”。
そして尻神信仰の開祖にして尻がまロいことを解明した偉大なる交渉役 ・――世界はまロく満ちてゆく“悪役を任ずる男”。
その道の権威が実演を交え本気の性戦を繰り広げた『R元服全竜会議』。
その全てを余すことなく本にしたら大辞林に匹敵するページ数になり“エロを内包する鈍器”と称されお宝本界の最厚記録を打ち立てたキングオブお宝本『ローアングル探偵団・極み』だ!」
「クッ……なんてことだ、僕らは今、先人がその生涯と威厳的なアレを犠牲にしながらも終ぞ得られなかった真理に到達しようとしているのか……」
「そうだ大将、だから――」
「みなまで言うな心の友よ! そのミッション、僕も参戦する! いくぞ梅原!」
橘の問いかけに、おう! 力強くと応えるや否や声をハモらせ掛け声一閃!
「「クロスチェンジャーッ!!」」
満足そうにポーズを取る二人。
「決まったな大将」
「うん、バッチリだ!」
と、そこに申しわけなさそうに男の子がいい笑顔で汗を拭う橘に話しかける。
「……あの〜、いい空気吸っているところ申し訳ないんですが……」
「ははは、なんだい少年、君もまざるかね? 楽しいぞ」
「い、いや……それは……そ、それよりもさっきっからお兄ちゃんたちの言っていることがまったく解らないんだけど、僕どうしたらいいの?」
「ははっ、解らなくても大丈夫だぞ、なにせ僕も自分で言っててよく解らないからな」
「そ、そおなんだ……はは」
男の子は微妙な顔で笑うとじりじり二人から距離をとり、しゅたっ、と右手を上げて、
「じゃ、そおいうことで」
と言ってくるりと回れ右をしてダッシュ。
「ははは、まぁ、そう慌てずに」
しかし回り込まれた。
「さて、それでは交渉に入ろうか」
「えっと、僕、そろそろ帰らないと……」
「ふむ、そうだね、確かに子供がこんな時間に一人でうろうろしているのは好ましくないね」
「で、でしょ! だから交渉はまた今度――」
「では手短に交渉して早々にお宝本を手に入れるとしよう」
「聞いてないし!」
男の子が頭を抱える正面、橘は無表情で思考をめぐらす。
……ここは一つ、セオリーの則って物でつるか……しかし小学生の男の子が喜びそうなものなんか……。
何かないかとポケットをまさぐる橘。するとコートの内ポケットから数枚のカードが。
……これはこの間、男ばかり数十人集まって行った忘年会の賭けインフィールドフライでマサケンの二人から巻き上げた球技王カードか……
確かこれ小学生に大人気だったよな……これならばこの子もお宝本と交換してくれるかな?
しかしこれ、球技王とか言っている割には野球ばかりなんだよな……もっとこう、セパタクローとか他の球技も入れれば良いのにな……まぁいいかそんなことは……。
などと考えながら橘はカードを男の子の前に突き出し、
「よし、それじゃあこれと交換でどうだね? 今流行の球技王のカードだぞ〜欲しいだろ?」
男の子は突き出されたカードを一瞥すると、
「けっ、いらないよそんな地味なカード」
「ええ! 地味なのかこれ!? で、でもこの盗塁王を三回もとった屋鋪なんか派手じゃないか?」
「え〜、それなら13年連続盗塁王の福本の方がスゲーじゃん、それに屋鋪なら高木、加藤もいなきゃスーパーカートリオのコンボが使えないじゃんか〜」
「むむ……、よし、それならこの達川なんかどうだ? 野村や日比野と並ぶささやき戦術の使い手で色んな逸話があって派手だと思うぞ」
「でも色物じゃん」
「うわっ! ひどっ!」
「だって、すぐにかすってもないのにデットボールだって言い張るし、コンタクトを落として二度も試合を止めるし……
だいたい、達川と宇野のカードはみのもんたカードが無いと本当の戦闘力を発揮しないじゃないか〜」
「いい選手なんだけどなぁ……しかしなかなか難しいな……な、なら最強助っ人外国人のカードはどうだ?」
「あっ、それなら欲しい! だれだれ? バース? クロマティ? あ、もしかしてホーナとか?」
「ブッブ〜ハッズレ〜、正解はアニマル・レスリーでした〜」
「それも色物じゃんか! っていうかどのへんが最強助っ人外国人なんだよ!」
「……い、いやまぁ……マウンドで吼えたり、チームメイトにかなり強めのスキンシップするとこ? そ、それにほら、ストロング金剛や丹古母鬼馬二と組ませるといい仕事したりするし……」
「最後の完全に球技関係ないよね? 最強の意味が風雲的なアレになっちゃってるよね?」
「う〜む、これもダメとなるともうカードの持ち合わせが……」
と、最後の一枚をチラリと見て、
「無いしなぁ……」
「あれ? まだ一枚あるじゃん、それは?」
「ああ、これか……これはいいんだ……」
「え〜、なになに? 気になるからみしてよ〜」
「でもこれ長嶋だぞ」
「ええ! すごいじゃん! 超強いカードじゃん! それなら僕欲しい!」
「一茂でも?」
「……あ……ははは……そ、その……今のは僕が悪かったと思うの……」
「……いや……こちらこそなんかごめん……」
二人して俯き、気まずい沈黙が訪れる。すると今まで静観していた梅原が口を開く。
「なぁ、大将よ、そんな珍プレー選手名鑑よりもさ、もっとこうリビードーに訴えかけるものの方が良いじゃないかな?」
「お、おまえもなかなかセメントだな……しかしリビドーか……ふむ、それなら」
そう言って橘は再び何かを取り出して、
「なぁ君、女の子と仲良くなるための三種の神器はいらんかね?」
「三種の神器? なんかうさんくさいなー」
「ははは、まぁそう言わずにとりあえず見るだけでも、なぁにお代は見てのお帰りだ」
と、どこから出したのかハリセンで地面を、バシバシッ、と二回ほど叩き、
「さぁさぁおたちあい(バシバシッ)とりぃだしたるこれなるは(バシッ)一見ただの袋に見えるがなかなかどうして、世にも不思議な袋なれば名を『話題袋』といいまして(バシッ)女子との会話にゃ欠かせない、話題を入れとく袋でござぁい(バシバシッ)」
「話題袋?」
「そう、この中にね女の子の好きそうな話題を入れといて、いざ会話になったらそこから話題を取り出してうまいことマッチングさせれば相手のテンションを上げることが出来るんだ」
「テンションが上がったらどうなるの?」
「ははは、決まってるじゃないか、アタックだよ!」
「アタック? それをすると何かいいことあるの?」
「ああ、聞いて驚け、なんとな……女の子とイチャイチャできる!」
「な、なんだってー!」
と驚愕の表情を浮かべる男の子、あと梅原。
「そ、それは本当なのお兄ちゃん!」
「ああ、本当だ」
「ぼ、僕も女の子とイチャイチャできる?」
「ああ、ちゃんと使いこなせばな。僕なんか熟練度が上がって無限に話題を入れられるようになったし、ヒット済み会話の判定と自動会話のスキル、
それに最高レベルで手に入るスキル『朝へ戻る』も習得したぞ、だから君もこれを使いこなして女の子とあんなことやこんなことを……な」
「あんなことやこんなこと……で、でも僕、そうなった時にどうしていいかわからないよ」
「ははは、そんな時に役に立つのがこの二つ目の神器『SMHKマナー講座・できるかな?』だ。これにはありとあらゆる状況下での紳士的心構えをモッコさんとゴムタちゃんが実演して教えてくれる奇跡のビデオでこれで勉強すればいざという時も安心」
すると男の子はパッケージの裏を見ながら、
「でも、いくらなんでも膝にキスするときの作法とかプールで腕ひしぎ十字固めを決められた時のマナーなんて役に立つのかな?」
「いやいや、人生何があるかわからないからなぁ、もしかしたらある日突然女の子からご主人様なんて呼ばれるかもしれないぞ」
「まさか〜、あははは」
「ははは」
笑いあう二人。するとまた梅原が口を開く。
「で、大将よ、最後の一つはなんだい? オレも興味が出てきたよ」
「ああ、最後の一つか……まぁ、これは役に立つようなことがないほうが良いんだがな」
「ほう、そいつはまた意味深だな、でも知りたいな」
「うん、僕も知りたい」
梅原と男の子が目を輝かせて言うのを見て橘は、ふむ、と顎に手を当てて懐から本を取り出し二人に言う。
「この最後の神器『危険者トーマスに学ぶ・我輩のォォォ鍛えた言い訳世界一ィィィ!!』は、他の子と仲良くしてるのを見られてしまった、うっかり下校の約束などをダブルブッキングしてしまった、
等の時に役立ついい訳のトレーニングブックだ、これがあればどんな状況でも言い訳が出てくるようになる」
「ふえ〜、なんかすごいね〜」
「ああ、だけどな、何であれ女の子を悲しませるようなことはしちゃぁいけないよ、なぁ梅原」
「うむ、まったくだ。世の中にはクリスマスのデートをダブルブッキングするような不貞の輩も居るって言うしな、確かにそれで言い訳を鍛えればそれすらも何とかなるかもしれんが……だがそれはなんかな……」
「たしかにそれはけしからんな、そんなやつは男として最悪だな」
そう言って橘は腕を組んで何度か、けしからん、と呟いてから男の子の方に顔を向け、
「と、まあ、そういうわけでどうだろう? この三種の神器とそのお宝本、交換してはもらえまいか」
対し男の子は、う〜ん、と唸り迷いを見せる。が、ややあってから、
「うん、わかった! それじゃあこれと交換しよう」
快諾した。
「おお! そうか、それは素晴らしい! よし! ではこの三種の神器は今日から君のものだ」
「うん、それじゃあはいこれ」
互いの持ち物を交換する二人と踊る梅原。
「やったな大将!」
「ああ、感無量だ」
梅原と橘は互いに涙を流し男泣きをする。その光景になぜか男の子も感動し、
「お兄ちゃんたち、色々ありがとう」
と二人に抱きつく。
「なぁに、こっちこそありがとうといいたいね」
「ははっ、これから頑張るんだぞ」
「うん、僕頑張って女の子と仲良くなるよ」
三人肩を組んで空を見上げる。
と、ふいに声がした。誰かの名を呼ぶ女の子の声だ。
「あっ、いけね、もう見つかっちゃった」
「お、なんだ女の子のお迎えか?」
「うん、近所に住む一つ上のお姉ちゃん」
「ははっ、なんだ神器がなくてもモテるじゃないか」
「そんなんじゃないやい」
「ははは」
「それじゃあ僕行くね」
「うん、元気でな」
「女の子を泣かすなよ」
「うん、そんじゃばいばい〜」
男の子は元気よく駆けて行った。
やがて男の子の背中が見えなくなると二人は互いに顔を見合わせ、ふっ、と笑い動き出した。
●
「くそー、梅原の奴があんなに強くなってたとは予想外だ」
服についた埃を払いながら橘は毒づいていた。
「……ま、仕方ないか、賭けスモールパッケージホールドで了承した僕の失策だ、次は梅原の苦手な賭けトペ・コン・ヒーロで挑んでお宝本の独占権を奪い返すぞ!」
うん、と一度頷いて上着を羽織ると参道へ足をむける。
●
「あれ? 橘君じゃない」
神社が参拝客に振る舞っている甘酒で次回の梅原との相対戦の景気づけをしようと参道脇の仮設テントを目指していた橘は突然の声に振り向いた。
「おわ? ああ、香苗さんじゃないですか、ははは、香苗さんもお参りですか」
「まぁ、そんなとこよ」
そう言いながら香苗はきょろきょろと何かを探している。
「どうしたんですか?」
「え? ああ、桜井はどこかな〜って、どうせ今日も一緒なんでしょ?」
けらけらと笑いながら言う香苗の言葉に橘は汗が噴くのを実感した。
……やっべ〜忘れてた……そうだよ! 梨穂子を探していたんだった! ……うう、まいったな、お宝本の衝撃で完全に当初の目的を忘れてた……。
「ちょっと大丈夫? 顔が青いわよ」
「は、ははは、だ、大丈夫ですよ」
「ふ〜ん、そんならいいけど……んで、桜井どこ?」
「そ、そこいら辺にはいると思うんだけど……ははは……今はちょっと用事で別の場所に……」
しどろもどろになりながら橘が言うと香苗は一言、ふ〜ん、とやや半目になりつつ言う。
……うわ〜、香苗さんが物凄く不審がっている……で、でも、知らない間に梨穂子がいなったのにお宝本に気をとられて探すの忘れてた、何ていったらきっと怒られるしな……うん、怒られるのは嫌だからなんとかお茶を濁そう……。
「そ、そおだ! 香苗さん、僕と一緒に甘酒を飲みませんか」
……って! なに言い出すんだ僕は! これじゃあ香苗さんをナンパしてるみたいじゃないか! 彼女のいぬまにその親友をナンパってどこの昼ドラだよ! なんですかっ、どろどろ三角関係からのnice boat 的なあれですか!
頭を抱える橘。だが香苗はさして気にした風もなく、
「いいわよ、ちょうど私も飲みに来たところだし」
……あ、あれ? 別に気にしてないみたいだな、よかった〜……しかし、男としてまったく意識されてないのは少し……いやいや、僕は梨穂子一筋なんだ!
だいたい、ギャルゲーの主人公じゃあるまいし、そうそう都合よく女の子とフラグが立つわけないじゃないか、まったく今日の僕はどうかしてるな……。
「ねえ? 橘君本当に大丈夫? なんかさっきから挙動がおかしいわよ」
「え? ああ、よくあることだから大丈夫ですよ〜、ははは」
「そ、そう……まぁいいや、ほらはやくいこ」
「はいはい〜」
軽い返事で返した橘は甘酒を振る舞っている仮設テントの寒さよけの暖簾をくぐった。するとそこには、
「あら、純一ちゃんいらっしゃ〜い、おそかったわね〜ほらこっちこっち〜」
「り、梨佳おばさん!?」
上機嫌の桜井母が嬉しそうに手を振っていて、さらには、
「おお、梨穂子ちゃんの旦那がおいでましたよ〜、さぁさぁ、純一君もこっち来て飲みたまえよ、お〜いこっちにもう一本つけてくれ〜」
「先ほどもいいましたが、正月とはいえ未成年にこうも堂々と飲酒を勧めるのは如何なものかと判断します。――以上」
「ならばこっそり忍んで勧めてみるは如何で御座ろうか?」
「おいおい、おめーいくら忍者だからって何でも忍べばいいってもんじゃネーだろ。あ、それからつまみ、一分な」
「五秒で戻って御座る!」
「なるほど、了解しました。堂々ではなくこっそり忍んでなら問題はないかと判断します。――以上」
「いいのかよ! おいおい、この人セメントかと思ったらちょっとスゲーよ」
「フフフ愚弟、女にはね柔軟性が必要なのよ、あまり硬いといろいろと楽しめないでしょ。
でも男は硬い方が好みよ、大きさも大事ね、あと我慢強くなければダメよ、だからあなたも我慢強く負けない男になりなさい。
私は、負けない男が好き! 負けない女も好き! 負けない私が最高に素敵!」
「姉ちゃん! 姉ちゃん! 話が慣性ドリフトした挙句トゥルーエンド入んなよ!」
「こらーっ! あなたたちーっ! 神聖な神社でなにしてますかーっ!」
「うわっ! 巫女が弓を持ち出したぞ! ズドンくるぞーっ! 退避ーっ! 退避ーっ!」
近所の顔見知り達が酒盛りをして騒いでいた。
「な、なんか、すごいことになってるわね……」
「ははは……」
矢があちこちから飛び交い人がゴミのように吹き飛ばされている中、橘と香苗は目を点にしながら佇む。
すると桜井母が樽の中の白く濁った液体をどんぶりですくい、橘に勧めつつ言う。
「純一ちゃん、そちらのお嬢さんはどちら様かしら? お義母さん的には最重要事項で気になるのだけど」
ジト目で橘に迫る桜井母、だが次に口を開いたのは橘ではなく、
「どもども、梨穂子さんと同じクラスの伊藤香苗でーす、いつも梨穂子さんにはお世話になってます」
「あら、な〜んだ、あなたが香苗ちゃんなのね、そっかそっか私ったらてっきりうちの息子(予定)をたぶらかす悪い……と、いけない……
いつもりほちゃんから話しはきいてるわよ〜頼りになる友人だってね、そういえば挨拶がまだだったわね、初めまして梨穂子の母親の桜井梨佳、17歳です」
と、桜井母が言うと間髪いれずに橘の、おいおい、というツッコミが入り桜井母は満面の笑みになる。
「ふふふ、いいツッコミよ純一ちゃん、りほちゃんもこれぐらいツッコミが上手だといいんだけど、誰に似たのかボケてばかりなのよね〜」
「いやでも、梨穂子と梨佳おばさんはそっくりだと思いますよ」
「あらやだ純一ちゃんったら〜、私が梨穂子と同い年に見えるぐらい若いなんて褒めすぎよ〜」
やだも〜、とくねくねしながら照れる桜井母を見ながて、やれやれ、と肩をすくめる橘の横で香苗があっけにとられつつ呟く。
「濃いなぁ」
「でも今の梨佳おばさんは多分酔っているせいだと思うけど、普段よりもまともな気がするなぁ」
「ええっ! 普段どんだけよ! ってか、酔えば酔うほど普通になるって、なにその逆ジャッキー状態は!」
「まぁその……梨穂子の母親は伊達じゃないってことかな……ははは……」
「う〜みゅ……桜井家、奥が深いわね……」
香苗が腕を組んで感心していると、いつの間にか桜井母が目の前に立ち。
「そういうわけだからこれからもりほちゃんと仲良くしてね」
と、香苗の手を握りながら言って、香苗が、はい、と答えると満足そうに頷き、さてと、と前置きを入れつつ橘に体を向け、
「そんじゃ純一ちゃん、ちゃんとりほちゃんのこと連れて帰ってね」
と言う。だが橘は何のことかわからず、はい? と首を傾げ疑問符を出す。すると桜井母は酒樽の一つを指差し、
「あれ? りほちゃんがそこにいるの気づいてなかったの?」
そう言って酒樽の陰に回り込む桜井母、つられて橘と香苗が樽の陰に回りこむとそこには、
「梨穂子!」
「ちょっと桜井! アンタなに飲んでるのよ!」
トロンとした目で酒樽に背を預けて座りながら杯に入った液体を飲み干している梨穂子がいた。
「り、梨佳おばさんこれはいったい……」
「いや〜それがね、おつまみを買い足しにいった帰りにね、なんか一人でぶんむくれているりほちゃんを見かけてね、ここへ連れて来て甘酒でも飲ませて落ち着かせようとしたらね……
まぁ、その……こっちのどぶろくと間違えちゃった。えへへ〜しっぱいしっぱい」
ぺろっと舌を出しておどけてみせる桜井母、だが香苗は手をぱたぱた振りつつ、
「いやいやいや、甘酒とどぶろくは普通間違えませんから」
「え〜そうかなぁ〜色も似てたし〜」
「いやいや、似てるの色だけですから! だいたい、樽に大きくどぶろくだってかいてるし匂いも違うしそれに――」
と、言葉を続けようとする香苗の肩を橘が叩く。そしてゆっくりと首を横に振りつつ、
「香苗さん、残念ですけど桜井家ではこの程度の間違いは日常茶飯事なんです……僕も昔、夏場に梨穂子の家に遊びに行くと三回に二回はよく冷えた麦茶とよく冷えた麺つゆを間違えて出されてましたし……」
「確率高っ! ってかそれ、むしろ麺つゆがレギュラーだよね? 麦茶完全に補欠だよね? ……でもそれでよくまた遊びにいく気になるわね」
「ははは、でもそうやって間違えた後は大抵梨穂子がお菓子をくれたりして優しくしてくれてね、まぁいいかって気になるんですよ」
「へ〜桜井もいろいろと大変だったのね〜」
「でもまぁ、麺つゆ出された後に梨穂子が板チョコとカレールーを間違えた時には、麺つゆにカレールーをつけて食べてもカレーうどんの味にはならないんだなぁとか発見しつつ、
実は僕嫌われてるんじゃないか。なんて軽く疑心暗鬼になっちゃいましてね〜、いや〜あの時は大変でしたよ〜ははは」
「前言撤回……やっぱ橘君の方が大変だわ……」
などと二人で話しているとふいに、
「じゅ〜んいちぃ〜」
と、低い位置で声が発生した。二人が反射的に声の発生場所を見ると、眉根を上げた梨穂子が橘をじっと見ていた。
「……え〜と、つかぬことをお聞きしますが」
「む〜」
「なぜに梨穂子さんは僕のことを低い位置からの上目遣いで睨むのでしょうか?」
「む〜」
「いや……さすがの僕も頬を膨らませて唸られても何を言いたいのかはわからんぞ」
「……るっこ先輩のこと年上美人でいいな〜とか言ってた」
「はい?」
「……まな先輩とすごく楽しそうにじゃれあっていた」
「ええっ! いやあれは――」
「いつの間にか香苗ちゃんと一緒にいるし……」
「いや、香苗さんとは今そこで偶然に会っただけで――」
そこまで言うと橘は急に黙り込み、ふむ、と呟き梨穂子と目線を合わせるようにしゃがみむ。そして覗き込むように梨穂子に顔を近づけ、
「なぁ、梨穂子……先輩達や香苗さんにヤキモチ妬いたの?」
問うた。
「……そ、そうだよ、わるいかよぅ」
口をとがらせながらそう言った梨穂子は俯いて、もう、と小声で呟くと膝を抱え顔を隠してしまう。
橘はそんな梨穂子を見て、はぁ、と息を吐くと膝を抱えて丸くなっている梨穂子の頭に、ぽん、と手を置き優しく問いかける。
「僕が先輩達ばかり構うから寂しかったの?」
「……うん」
「そんで、ここで探しに来るのを待ってたら僕と香苗さんが一緒に来たもんだから不安になった、と」
「……だって……しょうがないじゃんか、純一かっこよくて誰にでも優しいからすごくモテるし……」
「ははっ、さすがにそれは褒めすぎだろ」
「ほんとのことだもん……だから純一が他の女の子と楽しそうにいてるとなんか胸がきゅっ、てなって。だからだから――」
続く言葉を不意の浮遊感にびっくりして飲み込んだ。
「っしょっと」
「ふえぇ?」
掛け声一つで梨穂子を抱きかかえ、お姫様抱っこを完成させた橘はややあっけにとられている梨穂子の顔をじっと見て、
「顔、みせて」
ニコッ、と微笑む。
「そんなの……ずるいよ……」
耳まで真っ赤にして梨穂子がそう呟くと、橘は梨穂子のおでこに自分のおでこをつけてささやく。
「ごめんな、不安にさせて」
「ううん、私こそ勝手にやきもち妬いて勝手にすねて……ごめんね」
「ははっ、いいさ、梨穂子は怒った顔も可愛いからな」
「……もう」
と眉根を上げた梨穂子は、しかし次の瞬間には表情を変え、えへへ、と小さく笑う。
その表情に安堵したのか、橘は顔を上げて息を吐き、でも、と前置きを入れて、
「やっぱり梨穂子は笑った顔が一番だな」
「えへへへ」
橘の言葉に笑顔で応える梨穂子。すると橘はやや自嘲気味に笑い、
「本当、僕ってダメなやつだよなぁ。こんなに温かい笑顔を曇らせるなんて……あのさ梨穂子、僕こんな感じで鈍くて梨穂子を不安にさせるダメな男だけど、それでもずっと一緒にいてくれる?」
「もう……何でそう言うことを聞くかな……そんなの決まってるじゃない……だ、だいたい純一こそ……」
逡巡。
「すぐにヤキモチ妬いて、ドジばかりする食いしんぼうな女の子が一緒でいいの?」
「一緒は嫌だなぁ」
橘の言葉に梨穂子は心を失いそうになる。だが、再び顔を近づけられ、
「ずっと一緒じゃなきゃ嫌だね」
唇を重ね優しく包まれる。それはかつて何度も交わしたはずの行為。
だが今は、まるで遺伝詞が共鳴しているかのように橘の気持ちを正確に伝える緩やかなセッション。
その、気持ちに。
その、安堵に。
その、喜びに。
その、愛しき人の温もりに……。涙がこぼれた。
「ど、どうした!?」
「えへへ、うれしくてつい」
「ははは、そっか」
「うん、そう……」
微笑みあい、見つめあう。やがてまた唇の距離が近づき――。
「あのさぁ、そうゆうのは帰ってからやってくんない?」
不意に投げかけられた声に二人同時に見るとそこには、
「まったく……」
「あらあら、うふふりほちゃんよかったわね〜」
「いやはや、若いっていいねぇ〜」
「姉ちゃん、姉ちゃん、オレ知ってるぜ! こういうのを痴話喧嘩っていうんだよな! でもさ、痴話ってなんかエロくね?
んでオレ珍しく辞書引いてみたんだけど『痴話ー愛しあう者どうしがたわむれてする話。むつごと。転じて、情事。』だってよ! 情事だよ! 情事! ダンがアレックスで危険なあれだよな!?
つまりエロいことしながらの喧嘩って意味だよな! うおぉ! オレテンション上がってきた! こんに痴話痴話〜っ!」
「フフフ、愚弟、テンションを上げて正気度下げるなんてプラマイゼロでなんて地球に優しいの! これはエコね! エコ! 一本足せばエロよ! 素敵!」
「……まぁ、この姉弟が狂っているのはいつものことで御座るが、自分思うに、人前でのチューはうらやま……けしからんことだと思うで御座るよ」
「ただ今、そこの御座る語尾の怪しげな忍者様を嘘発見器にかけたところ、ひがみからくる嘘を検知しました。因みにこちらの臭い検知器の指数は、ほほう、犬のような臭いを検知しました。
なるほど、これではモテないのも当然。他人の幸せチューをひがむ気持ちも自然であると判断します。――以上」
「さ、最悪で御座るな貴殿!」
「なんでもいいですけど、神社でエロことすると禊祓いの名目でズドンしますよズドン!」
杯片手に好き勝手なことを言う近所の面々を背景に香苗が半目でこちらを見ていて、
「仲が良いのは充分わかったからさ、そういうことは二人っきりの時だけにしなさいよね。見てるこっちが恥ずかしくなるでしょ」
「ははは、すいません、つい」
「つい、じゃないわよ。ってかアンタ達よく恥ずかしくないわね」
「えへへ、そりゃあ」
だってねえ、と梨穂子が橘の顔を見ると橘も、なぁ、と言い、二人同時に香苗を見て言う。
「「愛し合ってますから」」
●
神社に設けられた仮設テント、すでに側面の壁は吹っ飛び、屋根も一部なくなっている。
そんな骨ばかりになったテントの宵闇の中、興味本位で見物していた通行人や酒盛りしていた近所の面々。
集まった人々に香苗は振り返ると一度会釈をして、笑みの表情のまま、一度手を下にして、さん、ハイ、と上げ、一同そろって、
「「「「やってらんな〜〜〜い!!!」」」」