部室に入ると、響はまずその匂いに引き込まれた。久しぶりに感じる、水泳部の匂いだ。  
部活を引退したのはごく最近でも、響にとってはひどく懐かしいものに感じられた。  
 
 軽く見回したが、誰もいない。奥にあるベンチに、自然と足が向いた。  
練習が終わると、ここに座って乱れた息を整えるのが習慣だった。  
 
 この日は、呼び出されて来ていた。他でもない、後輩の七咲からだ。  
自分が引退した後も、校内ではしょっちゅう顔を遇わせ、ほぼ毎日のように喋っている。  
水泳部としても有望な新人だったし、響個人にとっても、ほとんど妹のような存在だった。  
そんな七咲が、わざわざ部室に呼び出してくる。大切な話なんだと直感はしても、なんの話題か見当がつかない。  
朝起きたときから、響は妙な緊張を強いられていた。久々に味わう部室の空気は、それを少しだけ和らげてくれる。  
 
 足音。その主が素通りするのか、ここに入ってくるのか。立ち止まるのを待たず、響には自然と判別できた。  
これは、明らかに入ってくる人間の音だ。音が止まり、扉が開いた。  
 
「……あ、先輩」  
「七咲。お疲れ。また、あなただけ居残り?」  
「ええ。大会は終わりましたけど、ここで気を緩めるわけにはいきませんので。  
それに、今日は塚原先輩との約束がありましたから」  
「話がしたいだけなら、なにも呼び出さなくてもいいのに」  
「……けど、こんなことは先輩にしか相談できませんので……」  
「……そう。ひょっとして、橘君のこと?」  
 
 言ってみただけだったが、七咲の表情は明らかに動いた。  
 
 去年の冬から、七咲は2年生の男子と付き合っている。  
橘純一といって、響にとっては後輩で、七咲にとっては先輩だ。  
七咲にはその所為でいろいろ悩んでいる時期もあり、水泳の成績にまで影響したが、  
きちんと恋人同士になってからは、むしろ集中力が増したようにも見える。  
去年のクリスマスになにかあったらしいが、照れて詳しくは教えてくれない。  
 
「……まあ、それも少しは関係ありますが……」  
「そう。まあいいわ。どんなことでも、話してくれていいよ」  
「……ありがとうございます、塚原先輩」  
 
 相変わらずの、礼儀正しさだった。こういう生真面目な所は、七咲の長所でもあり、欠点でもある。  
それを支えているのなら、彼氏の存在も悪くないのかもしれない。  
本当のところ、前ほど七咲が自分を頼らなくなったことを、響は物足りないように感じていた。  
そうなったのは、言うまでもなく純一と付き合い始めたからだろう。  
その七咲から久々に相談を受けていることが、不謹慎とはいえ嬉しかった。  
 
「だけど七咲。もし水泳に関することなら、あまり力にはなれないわよ?」  
「どうしてですか?」  
「だって、あなたはもう現役時代の私より優秀だもの」  
「そ、そんなことありません!私に部長なんか勤まるかどうか、まだ不安なんですから……」  
「私も、はじめはそうだったわ。それで、今日は本当はなんの相談なの?」  
「……あ、はい。その……」  
 
 七咲が言い淀むのは、ちょっと珍しかった。  
ふたつ年上の自分に意見をするときでも、ハッキリした物言いをしたものだ。それほど、言いづらいことなのか。  
 
「そ、それじゃあ言いますが……先輩は、その……ひ、ひとりで……」  
「ひとりで?」  
「ひとりで……え、エッチなことをしたことがありますか!?」  
「……は?」  
「したことが、というか……日常的にしているか、というか……とにかく、そういう経験があるか教えてほしいんです!」  
「な……」  
 
 響の頭は、一発でぐちゃぐちゃになった。  
自分の聞き違いでないなら、あまりにとんでもないことを七咲は言っている。  
なんのために、そんなことを聞きたがるのか。  
 
「な、七咲。ど、どうして、そんなことを訊くの?」  
「そ、それは、なんというか……」  
「……なんというか?」  
「……そういうことをするのは、おかしいことなんじゃないかと思って……」  
「つ、つまり七咲は」  
「……」  
 
 顔を赤くして、七咲はうつむいた。響にも、その意味がわからないわけがない。  
しかし、そんな質問にどう答えろというのか。  
 
「……そうですよね。こんなこと訊かれたら、誰だって引いちゃいますよね。でも、冗談や悪戯では絶対にありません。私……」  
「七咲……」  
「……ご、ごめんなさい。やっぱり結構ですっ。  
先輩は私と違って、しっかり自分を律する人ですから、いやらしいことなんてするはずないですよね?」  
「あっ」  
「わざわざ来て頂いたのに、本当にすみません。しっ、失礼します!」  
「七咲、待って!」  
「え……」  
 
 考える前に、呼び止めていた。七咲も、響の指示につい従ってしまったようだ。  
 
「……動揺しちゃって、ごめんね。話、ちゃんと聞くよ。どんなことでも話していいって、言ったものね」  
「先輩……あ、ありがとうございますっ」  
「とりあえず、着替えてきなよ。水着じゃ窮屈だし、まだ寒いんだから」  
「はいっ。では、ちょっとだけ失礼します」  
 
 七咲が出て行くと、響は部室の中を歩き回った。戻ってくる前に、頭を整頓しておかないといけない。  
七咲を呼び止めた瞬間から、質問に答える覚悟は出来ていた。恥ずかしさはかなりあるが、気持ちは落ち着いている。  
 
 10分ほどして、七咲は戻ってきた。急いだらしく、髪はまだ濡れている。  
 
「お待たせしました、先輩」  
「お帰り。まあ、座りなよ」  
「失礼します。……それで、先輩……」  
「うん。今度はちゃんと答えるから、もう一回ちゃんと質問してくれるかな」  
「はい。……その、先輩は……」  
「……うん」  
「塚原先輩は……自分で自分の体を触ったり……いじってみたことがありますか……?」  
「それは、どういう意味で?」  
「……き、き……気持ちよく……なるために、です」  
「……マッサージ、っていうことじゃないみたいね」  
「はい。つまり、その……」  
「ひとりエッチをしているか、ってこと?」  
「……そうです」  
 
 消え入りそうな声だった。こんな七咲を見るのは、初めてかもしれない。  
沈黙が生まれてしまう前に、響は口を開いた。  
 
「あるかないかと言われれば、あるよ」  
「えっ?」  
「勉強に疲れたときとか、少し面白くないことがあったときとか。気分転換くらいの意味で、しちゃうことがあるの」  
「先輩が……?」  
「あれ。私だって、こう見えて年頃の女の子なんだからね。たまには、変な気持ちになっちゃうことくらいあるんだよ」  
「……先輩……」  
「はじめは、私も不安になった。こんなことしてるのは私だけで、すごくいけないことをしてるんじゃないかってね。  
けど、なぜかやめようとは思えなくて……」  
「わ、わかりますっ」  
「実を言うと、いまでも不安になることがあるの。けど、仕方がないって考えることにした。  
それで勉強や部活が疎かになるわけでもないし、半分くらいの女の子はしてるっていうしね」  
「は、半分?」  
 
「そうよ。まあ、雑誌なにかに載っていたことだけど。だから、仕方がないの。生きてるんだもんね」  
「仕方がない、ですか……」  
「それだけのことだけど、以上が私の考え。あまり参考にならないかな?」  
「そっ、そんなことないです!私、なんだか安心しました……本当に、ありがとうございます」  
「ふふっ。どういたしまして」  
 
 響は、自分の機嫌がいいことに気付いた。相談を受けて、自分の不安も晴れたのかもしれない。  
 できるなら。もう少しこの話題を続けたい。誰とでも話せる内容じゃないのは、響にとっても同じことだ。それなら、この機会を逃す手はない。  
 
「……七咲が自分でするようになったのは、最近なの?」  
「えっ?……は、はい。その、先輩と……橘先輩と、付き合うようになってから……」  
「……へえ。それは興味深いわね」  
「……喋ってしまっても、いいですか?」  
「いまさらなにを言ってるのよ。好きなだけ吐き出してくれればいいって」  
「……はい」  
 
 七咲も、かなり乗り気のようだった。顔を赤らめながらも、いつもより饒舌なくらいに感じる。顔が赤いのは、自分も同じだろう。  
 
「橘先輩とデートをすると、最後はいつも抱き合ったり、き……キスをするんですが……」  
「……うん」  
「あの人はエッチだから、いろいろな所を触ってくるんです。腰や背中だけじゃなく、おしりとか、胸も……」  
「そう。それで?」  
「近頃は、足の……私の足の間に、自分の足を入れてきて……す、擦り付けてきたりもするんです。  
でも、それ以上はしてくれなくて……ただの物陰だから、できないのは分かってるんですが……  
別れた後で、触られたところがどうしようもなく疼いてしまうんです……」  
「……なるほど。それで、自分で触ってるうちに、か」  
「……はい。こんなのいけないって思いながら、指だけがどんどん勝手に動いていって……  
そのうち、デートじゃない普通の日にもしたくなって……すっかりのめり込んで……」  
「不思議だよね。それまでなくても平気だったものが、ある時からなくちゃ駄目になるんだもの」  
「……はい。ここひと月くらいは、ほとんど毎日なんです。お風呂に入る前、気が付くとベッドに横たわっていて……」  
「へえ。ほとんど毎日?」  
「や、やっぱり多いですかっ?」  
「まあ、私よりはね。けど、お風呂の前っていうのは同じかな。いろいろ汚れちゃうからね」  
「……あっ。でも、この間は……」  
「この間は?」  
 
「……放課後、用事があって先輩の教室に行ったんです。けど誰もいなくて、そこで先輩の机を見つけて……」  
「なるほど。……角、使っちゃったんだ?」  
「は、はい。誰かに見られるかもって思って、ほんの少しでやめるはずだったのに……」  
「かえって気持ちよくなっちゃうんだよね。それ、わかるかも」  
「終わった後はぼんやりして、用事も忘れて帰っちゃいました。  
でもその日の夜、私が擦りつけた机を先輩が使うのを想像して、また熱くなってきて……」  
「お風呂の前に、か」  
「……もう、自分でも嫌になりそうです」  
「ねえ七咲。お風呂の中では、したことないの?」  
「えっ?な、中って、湯船でですか?」  
「そうじゃなくて、こう、ね。あるでしょ?気持ちよくなれそうなものが」  
「え、えっと……あれかな……それとも……」  
「いまの七咲の頭、覗いたら大変なことになってるわね」  
「っ、先輩、からかわないで下さい!」  
「ふふっ。でも、そっか。七咲は、シャワーを使ったことはないんだ」  
「シャワー……な、なるほど……」  
「結構、都合がいいのよ?せっけんもあるしね」  
「せっけん……ですか。さ、さすがです先輩。そんなことまで、私より詳しいなんて……」  
「あ、でも、お風呂は声が響くし、シャワーの温度にも気をつけないと……」  
 
 そこまで言って、ふと響は我に返った。いくらなんでも、喋りすぎかもしれない。  
忘れていた恥ずかしさが、一気にこみ上げてくる。  
 
「……な、七咲。とりあえず、ここまででいいかな?」  
「えっ?あ、はい。ちょっと、すごい話をしすぎたかもしれませんね……」  
「でも、話せてよかった。こんな会話、はるかともしたことないんだからね?」  
「そ、そうなんですか?……森島先輩は、ひとりエッチとかしてるんでしょうか……」  
「……どうかな。ちょっと、見当がつかないかも」  
 
 それは、本当だった。まったく無知とも思えるし、無邪気に楽しんでいるような気もする。  
一番の親友だという自負はあっても、はるかの頭の中には分からない部分が多い。  
 
「今度、泊まりに来たときにでも訊いてみようかしら」  
「……あの、そのときには、私のことは……」  
「大丈夫。もちろん、秘密にするわ……それにしても、罪な人なのね、橘君は」  
「……はい。あの人と知り合ってから、私はおかしくなりっぱなしです。体を触るくらいなら、いっそ……」  
 
 七咲が、口篭もった。触るくらいなら、いっそ押し倒してほしい。そういうことを考えているらしい。  
 
「けど、七咲。彼だって、必死に我慢してるんじゃないかな」  
「……そうなんでしょうか。私の体は貧相ですから、そんな気になれないのかもって思うんですが……」  
「好きな女の子とエッチしたくない人なんて、いないんじゃない?  
完全にふたりきりになる機会があれば、きっとすぐに襲いかかってくるって。今度、家にでも上がりこんでみれば?」  
「けど、家族の人が……」  
「それは、機を窺うしかないわね。  
……そうだ。今度の日曜にはるかと買い物に行くんだけど、その時に美也ちゃんも誘ってみようかしら……?」  
「せ、先輩、そんな……」  
「あ、でも、親御さんがいるんじゃ結局だめかな?」  
「……いえ。先輩のご両親は共働きで、日曜日でもいないことが多いそうですけど……」  
「へえ。それなら、万全じゃない。無理強いはしないけど、奥手な彼氏にはこっちから迫ってみてもいいんじゃない?」  
「……先輩。もうひとつだけ、訊いてもいいですか?」  
「うん、なにかな?」  
「塚原先輩には、好きな人とか……それとも、彼氏がいたりするんでしょうか?」  
「……ふむ。好きな人、彼氏、ねえ」  
 
 これまで、ありそうで無かった質問だった。  
七咲も遠慮していただろうし、そもそも、自分には男子と近しいイメージがあまり無いらしい。  
 
「……それは……秘密、かな」  
「秘密……ですか」  
「そう。きっと、そのうちに分かるんじゃない?」  
「それって、つまり……」  
「だから、秘密。そうね、七咲が橘君と一線を越えたら、教えてあげようかな」  
「……っ、先輩、そんな露骨な……!」  
「いまさら露骨もないでしょうに。ほら、そろそろ帰ろうよ。練習で疲れてるでしょう?」  
「……わ、わかりました……」  
 
 なぜはっきり本当のことを言わなかったのか、自分でもわからない。ただ、あまり言うべきでないという気がしただけだ。  
 
 帰り道で、七咲はずっと赤くなったままうつむいていた。  
今日話した内容よりも、純一の家に行くことを考えているらしく、それはなんとなく微笑ましい。  
 
 これがきっかけで、七咲は恋愛に溺れてしまうかもしれない。ただ、響は純一のことも知らないわけではない。  
妹を任せても大丈夫な人物であることは、わかっているつもりだった。  
 
 なぜか、とても気分がいい。自然に、笑顔がこぼれてくる。そんな響を、七咲は不思議そうに見上げてきた。  
 

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