−1−  
 
「橘君。来週の中間試験、あたしと勝負しなさい」  
 
中間試験を1週間前に控えた放課後。  
廊下を歩く僕の前に現れた絢辻さんは、開口一番命令口調で言い放った。  
「え、勝負?」  
「そ、勝負。そうそう、敗者は勝者の与える罰を1つ、無条件で受けなければいけない、って条件付きだから」  
いきなり何という暴君発言をするんだ絢辻さんは。  
「ちょ、ま」  
「もちろん、心優しいあたしは橘君にハンデをあげるつもりよ」  
抗議しようとした僕の言葉を遮り、勝手に自分ルールを提示していく絢辻さん。  
「もしもあたしに1教科でも勝てたら、橘君の勝ちってことでいいわ」  
「……それは全然ハンデになってない気がするんだけど?」  
 
僕と絢辻さんの学力には、あまりにも大き過ぎる開きがある。  
そして、試験まではあと1週間しかないわけで。  
はっきりいって無理。どんなに頑張ったって勝てない。勝ち目ゼロ。  
 
「とにかくハンデがあろうがなかろうが、僕はそんな勝負絶対」  
「ストップ」  
 
絶対受けない、と言おうとしたが、それを制するように絢辻さんが僕の目の前に右手を突き出す。  
 
「橘君の意見は聞いてません。あたしが勝負したいからするんです。オーケイ?」  
そして絢辻さんはにやっと笑うと、とんでもないことを言いだした。  
「それとも、橘君は自分に関するいろーんな噂を学校中に流された方がいいのかしら?」  
 
「な!?」  
 
な、なな、何というメチャクチャな学級委員長だ!?  
わざわざ脅迫までしてくるとは!  
しかし絢辻さんのことだ。ここで勝負を断ったら本当に噂を流しかねないぞ……。  
 
「どうなの?」  
「…………」  
僕が返答に困っていると、絢辻さんはこっちに向ってずい、と迫ってきた。  
「へ・ん・じ・は?」  
 
「……はい、勝負します」  
情けなくも頷くしかない僕だった。  
 
   −2−  
 
その日の夜。  
とりあえず夜遅くまで机に向かってはみたものの、一向に勉強ははかどらなかった。  
ただただ眠気が襲ってくるだけだ。  
 
『ふふっ、楽しみだわ』  
 
脳裏には今日去り際に絢辻さんが見せた、心底楽しそうな表情が浮かぶ。  
 
まずい、どう考えてもまずい。  
絢辻さん、何かとんでもないことを企んでるに違いないぞ。  
「とはいっても、絢辻さんに試験の点で勝つなんてどうやっても無理だしなぁ」  
はぁ、と思わずため息をつく僕。  
 
1科目でも勝てばいいなら、まだかすかに望みがある……ないよなぁ。  
仕方がない、いろいろ覚悟しておくしかないか。  
早々と諦めモードに入り、今日はもう寝ようとベッドに潜り込みかけた、その時。  
 
ピコーン!  
 
突然、僕の頭に天才的な考えが閃いた。  
 
――ははっ、そうだよ。その手があったよ!  
どうして気がつかなかったんだろう?  
1科目でも勝てばいいなら、1科目だけを徹底的に勉強すればいいだけの話じゃないか!  
 
そりゃあ他の科目は赤点続出になるかもしれない。  
でも絢辻さんのお仕置きに比べれば、赤点の補習なんて全ッ然怖くないぞ!  
何よりも、敗者が勝者に罰を与えられるってことは。  
僕が勝てれば、僕が絢辻さんを好き放題できるってことで……。  
 
「……ふふ、ふふふふふふふふふふふふ……」  
 
よし、そうと気づけば善は急げだ!  
勉強する科目はどうする?  
付け焼き刃の勉強だと応用問題に対応できないだろうから、数学や英語は厳しいな。  
けど暗記問題オンリーなら、試験範囲を全部完璧に覚えれば満点を取ることは不可能じゃあない!  
よし、歴史だ! 僕は今回の試験、歴史に全てを賭ける!  
 
もはや眠気は完全に吹き飛んでいた。  
溢れるほどにみなぎってきた気合いを押さえきれず、僕は早速机に歴史の教科書とノートを広げた。  
ふふふ、見てろよ絢辻さん。  
僕を甘く見たことを後悔させてやる……!  
 
   −3−  
 
「そ、そんな!?」  
テスト返却日の放課後の教室。  
僕の手に握られた歴史の答案用紙を見ると、絢辻さんは驚愕の表情を浮かべて硬直した。  
答案には花丸と共に、100点と書いてある。  
 
あれから1週間。邪な妄想を抱きながら、徹底的に試験範囲を勉強した結果がこれだ。  
重箱の隅をつつくような問題も数問あったが、はっきりいって今の僕の敵ではなかった。  
 
「ところで、絢辻さんの歴史の点数は?」  
信じられない、という様子でいまだ固まっている絢辻さんに、余裕たっぷりに尋ねる僕。  
 
「それは……」  
絢辻さんの視線が虚空をさまよう。  
どうにかして誤魔化そうと考えてるんだろうか?  
しかしすぐに観念したらしく、僕に答案用紙を見せてくれた。  
 
「……91点」  
うーん、さすがは絢辻さん。もしも正攻法で挑んでたら、僕には逆立ちしたって取れない点数だ。  
でも、勝負の方法を決めたのは絢辻さんだ。自業自得としか言いようがないだろう。  
「ということは、僕の勝ちだね」  
平静を装いつつも、僕の心の中は歓喜の気持ちで満たされていた。  
 
――僕は絢辻さんに勝った! 勝ったんだああぁぁぁぁ!!  
 
「まさか、そんな、ありえない! どうして急にこんな点数を……?」  
「能ある鷹は爪を隠すってことだよ。もちろん、いつもより遥かに勉強はしたけどね」  
実は歴史しか勉強してません、などという種明かしはしない。  
まあ頭がいい絢辻さんのことだから、すぐに気がつくと思うけど。  
ちなみに他の科目の点数は……いや、わざわざ言うまい。  
 
「こんなはずじゃ……」  
それにしても、普段冷静沈着な絢辻さんの狼狽した顔。  
この表情を見ることができただけでも、努力した甲斐があったってもんだな。  
おっと、満足してる場合じゃなかった。  
 
「ところで絢辻さん。確か負けた人は、勝った人が与える罰を1つ受けないといけない、って約束だったっけ?」  
「うう……」  
絢辻さんは渋い顔で何やらぶつぶつ呟いていたが、やがてほぅ、と深く息を吐いた。  
「約束したわよ……」  
しぶしぶ、という感じで答える絢辻さん。不貞腐れたような表情がちょっと可愛かった。  
「ゆっくり考えておくから。それじゃ、また明日」  
それだけ言い残し、僕は悠々と教室を出た。実に清々しい晴れやかな気分だ。  
 
思えば絢辻さんのドSっぷりには、今まで散々振り回されてきた気もするし。  
たまには僕がちょっとくらい仕返ししてもいいじゃないか。たまには。  
 
教室から、ガンガンと何かを蹴りつけるような音が聞こえてくるが、とりあえず気にしないことにした。  
 
   −4−  
 
「……来てあげたわよ」  
僕の前に姿を現した絢辻さんは、あからさまに不機嫌そうだった。  
 
ここは学校裏にあるポンプ小屋。  
テスト返却日から3日後の放課後、僕は絢辻さんをこの場所へ呼び出した。  
『絢辻さんが決めたルールなんだから、まさか破らないよね?』  
と、ひとこと付け加えて。  
 
「ちょっと意外だったよ。もしかしたら来てくれないかと思ってたんだ」  
「フン! 橘君がその単純な頭で何を考えたのか、興味がないこともなかったしね」  
ぶっきらぼうな口調で言うと、絢辻さんは僕をキッ、と睨みつける。  
「言っておくけど、いやらしいことをしたら後でどうなるか覚悟はできてるんでしょうね?」  
「うーん、別にエッチなことをしようとしてるわけじゃないんだけどなあ」  
 
……フェチなことはしようとしてるけどね。  
と、心の中で付け加える。  
 
この3日間、僕はいろいろ考えた。  
どうすれば絢辻さんに一泡吹かせられるか。絢辻さんに弱点はあるのか。  
これまでの絢辻さんの一挙手一投足を思い出し、お宝本を読みふけり、僕の人生を振り返り。  
ひたすら考えた。授業中も考えた。3時間しか眠らずに考えた。脳味噌が沸騰するまで考えた。  
 
そして1つ、何気ない会話の一幕に思い当たるフシがあった。  
推論を重ねれば重ねるほど、自分の考えに自信が深まっていった。  
おそらく間違いない。絢辻さんの弱点は、あれだろう。  
 
まあ場所が場所だし、警戒されるのも無理はないな。  
ここは一つ、僕の誠意溢れる言葉で絢辻さんの不信感を拭い去っておいた方がよさそうだ。  
 
「絢辻さん、誤解しないでほしいんだ。確かに最近たまに思うことがあるよ」  
「何を」  
「自分はもしかすると、変態なのかもしれない、と」  
「知ってるわよ」  
「ぐっ……」  
間髪入れずにツッコまれ、ちょっとブルーになる僕。  
しかしめげずに言葉を続ける。  
「しかしそれ以前に、僕は紳士でもある!」  
 
「…………は? 何言ってるの? 頭大丈夫?」  
3秒ほどの間を置いて、冷やかな声を発する絢辻さん。  
あからさまに呆れた様子なのは、この際気にしないでおこう。  
「だから大丈夫。絶対変な場所は触らないから」  
「……ということは、変な場所以外は触るのね?」  
「う」  
 
し、しまった。かえって墓穴を掘ったか?  
「……う、うーん。まあ、それはその……ぶつぶつ」  
上手く切り返せずに僕が口の中でごにょごにょ言ってると。  
「変態」  
絢辻さんは僕に、お決まりの冷たい罵声を浴びせるのだった。  
 
「はあ、まあいいわ。ほら、さっさと済ませなさいよ」  
「え?」  
「どうせくだらないこと考えてるんでしょう? とっとと終わらせてほしいだけ」  
「わ、わかったよ!」  
よ、よし、今がチャンスだ。絢辻さんの気が変わらないうちに!  
僕は絢辻さんへ執行する『罰』を発表することにした。  
コホン、と咳払いをし、僕は言葉を紡ぐ。  
 
「それじゃ、絢辻さんへの罰を発表します。これから」  
「これから?」  
「絢辻さんを」  
「あたしを?」  
「……」  
一拍の間を置いて、僕は高らかに宣言した。  
 
 
「くすぐりの刑にします!!」  
 
 
………………。  
「……………………………」  
 
静寂の声が、ポンプ小屋を支配した。  
 
数十秒の沈黙の後。  
絢辻さんはしばらくぽかんとしていたが、またも呆れ顔を作った。  
「橘君、それ何かのギャグ? もしかしてふざけてるのかしら」  
声には、明らかにする僕を小馬鹿に響きが含まれている。  
 
あ、あれ?   
おかしいな? もっと動揺すると思ったんだけどな?  
「まさか。僕は至って本気さ」  
内心に生まれた不安を押し殺し、どうにか平静を装って答える僕。  
「そんな子供だましで、あたしをどうにかできると本気で思ってるの?」  
しかし、絢辻さんは強気な態度を崩さない。  
 
……もしかして僕の推理、全くの見当外れ?  
いや、そんなことはない……はずだ。  
むむむ。  
え〜い、ままよ。ダメもとで絢辻さんの体に確認してみるしかない!  
「もちろん本気で思ってるよ! それじゃ早速!」  
言うが早いか、僕は絢辻さんの素早く脇腹に人差し指を伸ばし、つんっと突っついた。  
 
「きゃっ!?」  
 
絢辻さんは悲鳴を上げ、ビクンと体を震わせた。  
「おおっ?」  
平気な顔をされるかと思ったが、確かな手ごたえ!  
さらにつんつん、と2回ばかり突っつく。  
「あっ、ひっ!」  
絢辻さんは激しく身を捩らせると、その場にうずくまった。  
 
やはりそういうことか!!  
僕は心の中でガッツポーズを取った。  
よしよしよし。もしかしたらくすぐりに耐性があるのかと思ったけど、どうやらそんなことはないみたいだぞ。  
むしろ、今のは結構ナイスなリアクションだった!  
虚勢を張ってたのか、それともくすぐられることを甘く見ていたのか。  
いずれにしても、僕の推理は大当たりだったらしいな。ははっ。  
 
「こ、こんなの全然大したことないわ……」  
絢辻さんは、自分の体を抱き締めるようにしてふらふらと立ち上がった。  
さて、その強がりがいつまで持つか。  
ふっふっふ。楽しませてもらおう、絢辻さん。  
 
絢辻さん、本当に平気?」  
「へいき!」  
「あ、そう。それじゃあ今度は、手を横に広げたままじっとしてて」  
「え、それは……」  
僕の指令に、ひくっ、と絢辻さんの顔が引きつる。  
「絢辻さん、もしかしてできないの?」  
「で、できるわよ。できるに決まってるでしょ!」  
言葉の勇ましさとは裏腹に、恐る恐るといった感じで両手を広げる絢辻さん。  
僕は指をわきわきとさせながら、手を絢辻さんの脇の下に向ってじりじりと伸ばしていく。  
僕の手が近づくにつれ、絢辻さんの顔には脅えの色がはっきりくっきりと浮かび上がっていく。  
「た、橘君、ちょ、ちょっと待って」  
「待たないよ〜こちょこちょこちょ」  
言うが早いか、素早く両手を脇の下に入れてくすぐった。  
「きゃあああ!!」  
僕の指が触れた瞬間、絢辻さんは両脇をぎゅっと締めるとまたもその場にうずくまってしまった。  
 
「わお」  
うーん、軽くくすぐっただけなんだけど、凄い反応だなぁ。  
もしかすると絢辻さん、僕の予想を超えたくすぐったがり屋さんなのかもしれない。  
 
「……絢辻さん。そんなに暴れられたらくすぐれないじゃないか」  
「だって、じっとしてられるわけないじゃない!」  
「あれ、さっきは子供だましとか言ってなかったっけ?」  
「それは……気のせいよ! 橘君の気のせい!」  
もはや絢辻さんの表情からは、さっきまでの余裕は完全に消えていた。  
変わりに浮かんでいるのは焦りと脅え、そして恐怖の色。  
 
「とっ、とにかく! もう満足したでしょ? 終わりでいいわよね!?」  
「いやいや、まさか」  
この程度で終わりにしたんじゃあ、血の滲むような努力をしてまで勉強した甲斐がない。  
もう少し楽しませてもらわないとね。  
 
僕は懐に忍ばせておいた手錠を取り出した。  
最近通販にて格安で買った品だ。まさかこんなに早く使う時が来るとは思わなかったけど。  
いまだにしゃがんだまま荒い息をついている絢辻さんの両手首を素早くとり、手錠をはめる。  
カチッと小気味いい音がして、絢辻さんは両手の自由を失った。  
この間、僅かに1.5秒。我ながら電光石火の早業だ。  
毎日お宝本という名のマニュアルを読んで、練習してたのは伊達じゃない。  
 
「ちょ、ちょっと!」  
「ん、何か?」  
「何かじゃないわよ! 外しなさい!」  
手錠をガチャガチャいわせながら、僕に抗議する絢辻さん。  
「もちろん外すよ。罰が終わったらだけど」  
「エッチなことはしないっていったじゃない!」  
「エッチなことはしてないじゃないか。フェチなことはしてるかもしれないけど」  
我ながら苦しい言い訳をしてる気もするが、あまり深くは考えないでおこう。  
「この……ド変態っ!」  
「…………ははっ」  
 
ははははっ。  
だから僕は変態である以前に、紳士なんだってば。  
さすがに面と向かって再三変態変態変態言われると、いくら紳士な僕でもムッと来る。  
これは少し懲らしめてあげないといけないみたいだな。  
 
「あ、またそういうこというんだ。じゃあ僕もう手加減しないよ」  
そう言うと、僕は絢辻さんの体を後ろから取り押さえる。  
「きゃっ!?」  
そしてそのまま床にうつ伏せに引き倒し、体の上に馬乗りになった。  
もちろん必要以上に重みがかからないよう、体重のかけ加減に注意を払うのは忘れない。  
怒りに身をゆだねても冷静さまでは失わない。さすがは僕、紳士の鑑だ。  
 
「何度も言うけど、エッチなことはしないから安心していいよ。僕は紳士だから」  
そう言いながら、僕は絢辻さんの無防備になった脇腹へ両手をスタンバイした。  
 
「さて絢辻さん、覚悟はできてる? 僕はできてる!」  
「あ、や、橘君ちょっと待……」  
絢辻さんが何やら言おうとしていたが、僕は無視して脇腹をくすぐり始めた。  
「きゃああああああああっ!!」  
 
絢辻さんは叫び声を上げ、ジタバタと暴れ始めた。  
しかしいくらドS女王様気質全快の絢辻さんといえども、普通の女の子であることに変わりはない。  
まして両手の自由を奪われた状態では、男の僕をはねのけられるはずがない。  
「やめっ、やめて! やめてえええええええっ!!」  
時折勢いのついた蹴りが、僕の背中に激しくヒットする。  
けれどもこんなこともあろうかと、背中にはこれまた通販で買ったショック吸収座布団を仕込んである。  
おかげで痛みも何も感じない。さすが通販、格が違う。  
 
「いやあああっはっはっは!!」  
指先に伝わるのは、絢辻さんの柔らかくて弾力のあるウエストの感触。何という気持ちいい感触なんだ。  
僕はその感触を存分楽しみつつ、一心不乱に脇腹を揉み続ける。  
「きゃあっはっはっは! あーーーっははははははは!!」  
狂ったように笑い、暴れ、身をくねらせる絢辻さん。  
 
それにしても、絢辻さんのこの素晴らしいまでの悶えっぷり。  
いい意味で完全に予想外だ。まさかここまで効くとは思わなかった。  
 
「あはっあはっ、あははははははは!!」  
「以前猫をかぶってる時の絢辻さんに、触られてくすぐったい場所はどこって聞いたことがあったでしょ?」  
絢辻さんの脇腹を揉みほぐしながら、僕は名探偵のごとく、自分の推理を披露し始めた。  
「ひひゃはははははは!! きゃはははははははは!!」  
「あの時絢辻さん結局答えなかったよね。僕の経験なんだけどさ……」  
「やめてえ!! ひゃはははははふはやひゃはは!!」  
「そういうこと聞かれて誤魔化す人って、くすぐったがりの人が多いんだよね」  
「はひぃはひぃ、ひひひひひひははははははははは!!」  
「だからちょっと試してみたくなって」  
「あははははあはははは、はは〜っはははははは!!」  
「いくらなんでも、ここまで弱いとは思わなかったけど」  
「たす、たしゅっ、たしゅけひぇええええええ!!」  
「人間誰しも弱点はあるんだね……って、絢辻さん聞いてる?」  
「きひぃぃぃひひいひひ!! 何でもいいからひゃめ、ひゃめて、はひゃはははは!!」」  
絢辻さんは自由を失った両手をカチャカチャいわせながら、床をバンバン叩いている。  
 
「しょうがないなぁ」  
あまりにも苦しそうなので、僕は一旦くすぐるのを止めて脇腹から手を離した。  
もちろん逃げられないように、絢辻さんの体から降りるような真似はしない。  
それにしても頑張って演説したのに、ほとんど聞いてはもらえなかったのは残念だ。  
 
「まだ始めてから2分しか経ってないよ、絢辻さん」  
「はぁはぁ……」  
早くも力尽きたのか、絢辻さんは荒い呼吸をつきながらその場にぐったりと横たわっている。  
 
髪は乱れ、頬は紅潮し、何とも言えない艶っぽい雰囲気を全身から醸し出している模範的優等生。  
普通の男子生徒なら、99パーセントの確立でそのまま襲いかかってしまうシチュエーションだろう。  
でも僕は絶対にそんなことはしない。僕はあくまでも、紳士だからね。  
 
よし、今の絢辻さんは全くの無力だ! こんな機会は滅多にないことだし、もう少し苛めてみよう。  
「一応言っておくけど、まだ始まったばかりだから」  
僕の言葉に、絢辻さんの体はビクッと震えた。  
「次はどこをくすぐろっかな〜♪」  
耳元で楽しげに囁いてやると、絢辻さんは再びドタバタと暴れ始めた。  
「いや、絶対いや! これ以上くすぐられたら、あたし死んじゃう!」  
長い髪を振り乱して子供のようにイヤイヤをする綾辻さん。  
その姿は、普段の絢辻さんからは想像もできない弱弱しさだ。  
 
「大丈夫だよ絢辻さん。くすぐられたぐらいで死ぬことはないから。多分」  
諭すような僕の言葉も、どうやら脅迫にしか聞こえないらしい。  
「いや! いや!! 謝るから! 謝るから許して!」  
「謝る? 何を?」  
「い、今まで橘君にしてきた酷いこと全部!」  
「酷いこと? 酷いことって、例えば?」  
「言葉責めしたりとか、ネクタイ引っ張ったりとか、口にメロンパン詰め込んだりとか!」  
「変態呼ばわりしたことは?」  
「ごめんなさいごめんなさい! みんなあたしが悪かったから!」  
 
僕は思わず苦笑した。  
うーん、必至過ぎるぞ絢辻さん。  
どうやら相当な恐怖を味わってるみたいだな。  
しかし改めて本人に懺悔されてみると、僕って絢辻さんにそこまで酷いことされてない気もするなあ。  
 
「絢辻さん。僕全然気にしてないから」  
全く偽りのない、本心から出た言葉だったけど、どうやら絢辻さんには伝わらなかったらしい。  
「いくらでも謝るから! もうしないから! だからくすぐらないでぇ!!」  
半べそをかきながら謝り続ける絢辻さん。その姿はもはや、キバを抜かれた狼同然。  
 
恐るべきはくすぐり地獄だ。そして考えついた僕天才。  
いくら僕が謙虚な紳士といえども、自画自賛せざるを得ないな。ははっ。  
さて、そろそろ絢辻さんの体力も回復してきた頃だろう。  
 
「でもほら絢辻さん、一応これ罰だから。じゃあ、そろそろ休憩は終わりってことで」  
僕は非情に告げると、今度は絢辻さんの脇の下に手を差し込もうとした。  
おっと、僕は紳士だから、うっかり胸を触らないように気をつけないと。  
まあ、うっかり触れちゃう程の大きさはない……ゲフンゲフン。これは失言だった。  
 
「ひぃあ!! やだ! やめて! そこはやめて!!」  
僕の指が脇の下に食い込んだ瞬間、絢辻さんは乗っかっている僕を振り落としかねない勢いで暴れまくった。  
ガチャンガチャン、と手錠の音が空しく響く。  
「そこはダメ! そこだけはやめて!!」  
この反応、もしかして絢辻さんは脇の下が1番弱いのかな?  
「やめてって言われると、逆にやってみたくなる気持ち、絢辻さんならわかるよね?」  
「くすぐらないなら何してもいいから!! 何でも言うこと聞くから!!」  
「うーん。魅力的なお誘いだけど、返事はノーで」  
「やめて!! くすぐるのはやめて!! やめてやめてやめてやめてやめてやめてえええええっっ!!」  
涙声で絶叫する絢辻さん。完全にパニック状態に陥ってる様子だ。  
 
……さすがにちょっとかわいそうな気もしてきたぞ。  
かといって、ここで中途半端に止めるのも何だか凄くもったいない気がするしなあ。  
うーん、どうしたものか。  
…………。  
 
よし、決めた!  
「わかったよ絢辻さん。それじゃ、やめてあげるよ」  
僕はそう言って、絢辻さんの脇の下から手を引き抜く。  
「やめてやめて……え?」  
僕が手を引き抜くと、絢辻さんの絶叫はぴたりと収まった。  
 
「ほ、本当に? 本当にやめてくれるの?」  
「うん、やめる」  
恐る恐る、といった様子で尋ねる絢辻さんに対して、力強く爽やかに頷く僕。  
そんな僕の様子に安堵したのか、絢辻さんの声と表情に希望の光が灯る。  
「あ、ありがとう! ありがとう橘く」  
「あと3分くすぐったらね」  
 
「…………え…………!?」  
絶句する絢辻さん。お礼の言葉は、最後まで発される前に喉の奥で凍りついたようだ。  
「だからもうちょっとだけ頑張ってみよう!」  
ウソくさいほど爽やかな声で絢辻さんを励まし、僕は改めて脇の下に指を差し込んだ。  
 
「嘘つき!! 橘君の嘘つき!!」  
「僕は別に嘘ついてないよ? ただ絢辻さんが早合点しただけじゃないか」  
そう、間違いなく嘘は言っていない。時間差によるフェイントは使ったけどね。  
 
一度持ち上げておいてから、再び落とす。  
普段の絢辻さんにこういう手を使ったとしても、絶対に引っかからないだろう。  
どうやら恐怖心によって、絢辻さんは冷静な思考力をも完全に奪われてしまっているようだ。  
……それにしても、今の作戦はちょっと紳士らしくなかったかもしれない。  
紳士として、よく反省しとかないといけないな。ははっ。  
 
「もうやめて!! もうやだ!! もうやだあ!!」  
そんなことを考えてる間にも、絢辻さんの喉から絞り出される涙交じりの金切り声は、だんだん大きさを増していく。  
 
「助けて!! 誰か助けてええ!!」  
……う。この悲鳴はさすがにまずいかも。もし誰かに聞かれたら、誤解じゃ済まない気がする。  
ま、このポンプ小屋ならどんなに大きな声を出されても、外に声が漏れることはないだろう。……おそらく。  
 
よし、そろそろラストステージ開幕の時だ!  
紳士として、早く絢辻さんを楽にしてあげよう!  
「それじゃあ、いくよ!」  
そう言うと、僕はスタートからフルスロットル。マイフィンガーのスピードをマッハにする!!  
 
コチョコチョコチョコチョコチョコツンツンコチョコチョコチョコチョコチョコチョモミコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョコチョ……  
 
「いやああああああああああああああああああああああっ!!」  
ポンプ小屋に、絢辻さんの断末魔の悲鳴がこだました。  
 
   −5−  
 
キーンコーンカーンコーン  
 
「ふぅ……」  
今日も無事に1日を終えることができたな。  
僕はカバンに教科書やノートを詰め込み、帰宅の準備を始めた。  
 
「…………」  
思い出すなぁ、中間試験のこと。  
 
――僕が絢辻さんとの勝負に勝ち、ポンプ小屋で『罰』を執行したあの日。  
 
あの後絢辻さんは、結局3分が経過する前に気を失ってしまった。  
僕は慌てて、気絶した絢辻さんを保健室へ担ぎ込んだ。  
結局ただの貧血だったらしくて、ほっと胸をなで下ろしたもんだ。  
保健の先生にいろいろ質問されて返答に困ったけど、目を覚ました絢辻さんが上手いこと誤魔化してくれた。  
 
次の日から、絢辻さんはしばらく口をきいてくれなかった。  
冷静になってから振り返ると、どう考えても僕のやり過ぎだったのは明らか。  
猛省した僕は、来る日も来る日も絢辻さんに誠心誠意謝った。  
諦めずに1週間ひたすら謝り続けた結果、どうにか許してもらうことができた。  
今では昔と変わらない、元の健全な? 関係に戻っている。  
 
……だけど、あの日の報復を受ける時は、刻一刻と近づいていた。  
 
「橘君」  
 
不意に声をかけられ、僕は我に返った。  
物思いにふけっている間に、教室の中はがらがらになっていた。  
今教室に残ってるのは2人だけ。  
1人は僕。そしてもう1人は誰あろう……。  
 
「……やあ、絢辻さん」  
「橘君。明日の放課後、学校裏のポンプ小屋に来てくれるかしら」  
 
――数日前に行われた期末試験。  
その1週間前、僕は再び絢辻さんに勝負を挑まれた。  
今度はハンデをもらうことができず、結果は僕の完全なる敗北だった。  
 
「一応聞いておくけど、僕に拒否権は」  
「そんなものあるわけないでしょう? それじゃ、要件はそれだけだから」  
そう言い残し、絢辻さんは教室を出ていく……かと思いきや。  
出入り口の所でくるっと僕の方を振り返った。  
 
「さよなら、橘君。明日が楽しみだわ」  
 
にやり、と不気味な笑みを浮かべ、絢辻さんは今度こそ教室の外へ姿を消した。  
 
「……仕方ないよな。なんとかなるさ」  
達観した言葉を口にして、僕は自分を勇気づけようとする。  
しかし、心の底から湧き上がってる恐怖心を抑えるのは容易ではなかった。  
果たして明日、僕は五体満足で家に帰ることができるだろうか?  
 
絢辻さんに慈悲の心が一かけらでも多く残ってることを、僕は願わずにはいられなかった……。  
 
 
 
   −おしまい−  
 

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