ドアチャイムを鳴らすと「はーい」というくぐもった応答が聞こえて、すぐに扉が開いた。
左手でノブを掴んだまま詞が顔を出した。
口元は微笑をたたえていたがそこに漂う雰囲気はどこか不穏で、純一はそれだけで少し怖じ気づいた。
「こんにちは、絢辻さん」と挨拶し彼女へ歩を進めると、詞はにわかに厳しい表情になって警戒するように扉を半分閉めた。
「……絢辻さん?」
「遅い」
純一の『絢辻さん?』より、一呼吸も速い言い方だった。
「えっ?」
「約束は一時でしょ。もう三十分以上遅れてるんだけど」
彼女はジッと純一を見据えた。
詞の不機嫌の理由が分かって純一はむしろ安心した。
以前ならそれだけで狼狽えてしまうような威圧的な視線が、今は不思議と愛しく思えた。
「えっと、ごめん。ちょっと道が分からなくて」
「電話してくれれば迎えに行ったのに」
「公衆電話も見当たらなかったし、それに絢辻さんに心配かけたくなかったから」
「そっちの方が心配するわよ」
「ごめん、今度から気をつけるよ」
純一は顔がほころびそうになるのを抑えるのに苦労した。
詞はしばらく口を利かず、扉の隙間から彼の真意を観察するように見つめていたが、そのうちにフッとため息をついて、扉を開いて純一を迎え入れた。
二月に入ったばかりのある寒い休日で、空は乳白色の雲に覆われていて、太陽は朝からほとんど姿を見せていなかった。
詞はクリーム色の上品なタートルネックのセーターと紺のジーンズを着ていた
純一が玄関に入ると家の中はしんと静まりかえっていて、冬の冷気が漂っていた。
他人の家独特の違和感のようなものがあった。
「家族の人は?」 と先に靴を脱いで上がった詞に尋ねた。
「お父さんとお母さんはいないわ」
そう答えた彼女の背中もまた、自分と同じように他人の家にいるかのように妙に馴染んでいなかった。
純一が玄関を上がるのとほとんど同時に、「詞ちゃん、お客さん?」と間延びした声が聞こえた。
その声は冬の冷やかな空気と静寂に充ちた家の中では、特別異質な響きをもって耳に届いた。
わずかに前を歩いていた詞は立ち止まって、しかしそれきり何も答えなかった。
どんな表情をしているかは分からなかったが、少なくとも喜ばしいといった雰囲気ではなかった。
左手の居間にあたるであろう部屋のドアが開いて、姉の縁がひょっこりと顔を出した。
彼女はその柔和な視線を詞に向け、次にゆっくりと純一へと移した。
縁は純一の姿を認めると、にこりと微笑んだ。
「お邪魔してます」と純一は咄嗟に言った。
彼女の笑顔は嫌味や不自然さの全くない純粋な笑顔で、学校で詞の見せるそれとは、同じ行動であっても正反対の性質を持っていた。
詞に悪いとは思いつつも、縁の笑みに強く惹かれずにはいられなかった。
「あら、こんにちは。この間詞ちゃんのお見舞いに来てくれた子ね。えっと、名前は……」
「あ、橘純一です」
「橘くんね。あ、そうだ、さっきクッキー焼いたんだけど、良かったら三人で食べましょ」
「あー、えっと……」
純一は言いよどみながら、背後の詞の内心を推し量っていた。
彼女が家族の存在に好意的でないのは、言動の端々から感じていた。
だから両親のいない今日、純一を自宅に招待してくれたのだろう。
それを悪意がないとはいえ、好きではない姉に壊される格好となるのは不本意であるはずだ。
だから純一は内心ひやひやしていた。
しかし当の詞はくるりと振り返って「そうね。そうしましょ」と軽く言うと、躊躇う純一を余所にさっさと居間に入っていってしまった。
あまりにあっさり受け入れた彼女の態度を何となく不思議に感じながら、純一はその後について部屋に入った。
部屋はリビング・ダイニングキッチンになっていた。
入って左手がリビングの造りになっていて、大型のテレビとベージュ色のソファと低いガラスのテーブルがあって、右手には六人掛けほどのダイニングテーブルが置かれていて、その奥がキッチンになっていた。
縁はクッキーの入った皿を手にキッチンを背にするように座った。
詞が縁と対面するように座ったので、純一は詞の隣に腰かけた。
縁は「今、お茶も入れるわね」と言って立った。
皿に綺麗に盛られたクッキーは、たっぷり四人分はあるようだった。
パンダやキリン、チューリップや星形にくり貫かれていて、見ているだけでなんとなく楽しい気分になった。
どれもまだ焼きたてで、つまんだ指に柔らかな熱を感じさせた。
純一は「いただきます」と言って、手に取ったパンダ形のクッキーをしばらく眺めた後、半分だけかじった。
焼きたてのクッキーはしっとりとしていて、噛むとかすかな熱と一緒にふんわりとした甘みが口中に広がった。
市販の冷めたものとは格段の差で、食べ慣れているわけではない純一にもその違いははっきりと分かった。
ゆっくり咀嚼しながら、キッチンで作業をする縁を目で追った。
手元は見えなかったが、彼女は三人分の茶を入れるまでの全ての動作をごく自然にこなしていた。
特に急ぐこともなく、見映えを気にする風もなく、いつものことをいつものようにやっているように見えた。
縁が淹れてくれた紅茶を飲みながら、三人はいろいろな話をした。
というのも縁の話は話題が移りやすく、詞や純一の学校生活について聞いてきたと思ったら、次の瞬間には近所の犬の話をして、その話を語り終えないうちにさっきまで見ていたという昼間のドラマの話をするといった感じで、全くといっていいほど脈絡がなかったのだ。
また話し方それ自体も鷹揚で、話のどこが重要でどこが余談なのか、どこにポイントが置かれているのかも把握しづらかった。
詞の理路整然とした語り方とはだいぶ違っているように感じられた。
けれどそれでいて縁の話し方には、相手を引き込ませる力も確かにあった。
特別おもしろい話をしているわけではないのに、とても魅力的に感じるのだ。
きっとそれは彼女自身の魅力なのだ。
その証拠に話の内容より、彼女の身振りや表情を見ている方が楽しかった。
純一は以前、詞の言った『うさぎとかめの話』を思い出していた。
詞がかめという例えはともかく、縁がうさぎという例えは言い得て妙だと思った。
それも純粋でふわふわとしたおとぎ話の中のうさぎだ。
うさぎは一番にならなくてもいい、走る必要さえない。
負けても最後には必ずおとぎ話的な救いや奇跡や祝福が舞い降りるのだ。
じゃあ、かめはどうなのだろうか。
いくら一生懸命に走っても報われないと知っているかめは、何のために走り続けているのだろうか。
三十分ほど話して、縁が散歩に行くと言ったので、二人も席を立って詞の部屋へ向かった。
詞の部屋は以前見舞いにやって来たときと変わりなくさっぱりとして、化粧品や芳香剤の匂いとは違う彼女自身のいい匂いがした。
詞は部屋に入るとすぐに勉強机から参考書やノートなんかを持ってきて、中央の丸いテーブルに置いた。
「まったく、誰かさんの遅刻とお姉ちゃんの長話のせいで勉強する時間なくなっちゃったじゃない」
「やっぱり勉強するんだ」
「別にあそこでずっとクッキー食べててもいいわよ。」
「一人はさすがに……」
「じゃあ文句言わない。それにこの間言ってたじゃない」
「あ、あれは目標というより願望に近いんだけど」と純一は少し恥ずかしそうに言った。
二人は付き合い出してからよく一緒に勉強するようになった。
以前から詞は放課後図書室へ居残って勉強していたのだが、交際を始めてから彼女は時には半ば強引に純一を図書室まで引っ張っていって一緒に勉強させた。
当初は詞に逆らえず仕方なしに付き従っていた純一も、徐々に苦ではなくなった。
詞と一緒にいるのが楽しくて、勉強することまで楽しく思えた。
また彼女に勉強を教えてもらい、僅かずつでも自身の日々の成長を感じられる生活は彼にとって生まれて初めての経験でとても新鮮だった。
「僕も再来年は絢辻さんと同じ大学に行きたいな」と純一が口にしたとき、詞は一瞬目を丸くしていた。
「ちょっと成績が上がったくらいでずいぶん大きく出たわね。私、国立大学志望だから五教科しっかり勉強してもらわなきゃね」
詞はいつもの少し意地悪で魅力的な笑みを浮かべていた。
「い、いや行けたらいいなって……」
「大丈夫よ。あと一年間、死ぬ気で勉強すればね」
「死ぬ気で……ははは」
いつのまにか週の半分くらいは放課後を図書室で過ごすようになって、家に帰ってからも宿題の他にその日の予習復習など自主的に勉強するようになった。
分からないところはたくさんあったが、それは詞が教えてくれた。
彼女は口では厳しいことを言いながら、何度でも丁寧に教えてくれた。
分からないことが分かるようになる感覚は楽しかったし、彼女と一緒にいると自然と温かい気持ちになった。
しかし同時に、自分は彼女の勉強の邪魔になっているのではないかとも思った。
詞はとても頭が良く、本来なら一人でどんどん先に進めるのだろうし、事実これまではそうしてきたのだろう。
そこに自分が入って、彼女の貴重な時間を浪費させてしまっている
彼女は根の部分ではとても優しくデリケートな人間だから口には出さないけれど、一人で勉強していた方が彼女にとっては良いのではないかと。
純一は詞をこの上なく好きだった。
表向きの優等生の彼女も、自分だけに見せてくれる屈折した彼女もどちらも大好きだった。
だから自分が彼女の歩みの妨げとなってしまっているのではないかと考えると、ずきりと胸が痛んだ。
放課後、誰もいない教室で純一がその気持ちを伝えたとき、詞は本当に優しい表情をしていた。
出会った頃に見せていた表面的な笑みではなく、クリスマスに見せてくれたような柔らかい笑顔で「ありがとう」と言った。
「私ね、ずっと一人だった。学校でも家でも周りにいっぱい人はいたけど、いつも一人だったの」
「勉強だって楽しいなんて思ったこと一度もないわ。ただしっかりやってれば教師もクラスメートも信頼してくれるし、将来もきっと役に立つからって自分に言い聞かせて……」
「でもね」と彼女は続けた。
「でも、あなたがいつも側にいてくれるようになって全てが変わった。周りから見たら分からないくらい小さな変化かもしれないけれど、私にとっては本当に大きな変化だったのよ。
色褪せていた日々に色がついて、その色は毎日違う色で。今は、それがとても楽しいわ。だから……」
詞の言わんとしていることは純一にもしっかりと届いていた。
「だから、もう一人にしないで」
「うん」と彼は頷いた。
強く、力強く、頷いてみせた。
四時になったところで二人は勉強をやめて、詞が持ってきたミカンを食べた。
カーテンの隙間から夕日の残光が射し込んで、カップの底に残っている紅茶にやさしく溶けていた。
部屋のオーディオからはモーツァルトのコンチェルトが流れていた。
「勉強するときはクラシックを聴きながらするといいの」と詞は言っていた。
歌詞があるとどうしても集中出来ないらしい。
純一はミカンを食べながら、さっき解いた英語の問題集の採点をした。
仮定法だとか不定詞だとか、以前は見ただけで頭が痛くなりそうな問題もそれなりに理解して解けるようになっていた。
ふと採点する手を止め、顔を上げると、詞が声もなく涙を流していた。
一瞬、みかんの汁が目に飛んだのかと思った。
彼女自身も驚いているようで、次から次へと流れ落ちる涙を拭おうともしなかった。
光を反射しないほど小さな滴は彼女のきめの細かい美しい肌を濡らして消えた。
純一は狼狽えた。
「どうしたの?」とやっとのことで言葉にした。
「ごめんなさい、何でもないの」
詞もようやく目元を拭ったけれど、涙はなかなか止まることはなかった。
純一は側に寄って、目元を擦る彼女の手をとった。
擦りすぎて目元は赤くなっていた。
狼狽える気持ちが潮の引くように静まって、同時に無性に悲しくなった。
彼は詞の体を抱いて、痛々しく腫れたその目元にそっと唇をつけた。
彼女の肌には確かな温かみが感じられた。
純一が唇を離すと、詞はとじていた目をゆっくりと開いた。
彼女の瞳に自分の顔が映るのを、はっきりと見ることが出来た。
そしてその奥には彼女の一人で生きてきた十七年間の悲しみが、深い泉のように横たわっていた。
けれどそこには仄かな光も同居していた。
その光が初めから彼女の持っていたものなのか、それとも自分が与えた光なのか判断することが出来なかったが、もしそれが自分と接するうちに宿った希望ならとても嬉しいと思った。
純一は抱きしめる力を強めた。
「ん……」
「ごめん、苦しかったかな」
「ううん、」
詞の柔らかな胸のふくらみを感じ、耳元で規則的に繰り返される息遣いを聴いていると自然に体が熱くなった。
どうしようもなく心臓が高鳴って、ペニスは痛いくらいに勃起していた。
「あ、あの、絢辻さん」
「…………」
「えっと……」
「……したいの?」
「……はい」と情けなく言うと、詞はため息を漏らした。
「じゃあ電気消してよ」
純一は慌てて立ち上がって、ドアの脇にある電気のスイッチを切った。
灯りの消えた部屋は薄暗く、彼女の存在まで突然ぼやけてしまったように感じられた。
彼女を失ってしまうような気がして怖くなった。
詞の鼻をかむ音が聞こえた。
すぐに彼女の側に戻って、その体を抱き寄せ、今度は唇にキスをした。
詞は腕の中でじっと目を閉じて、身動きひとつしなかった。
純一が舌を差し入れると、彼女も抵抗せず舌を絡ませた。
詞の手を引いてベッドに横たわらせて、セーターの上から乳房にそっと手のひらを這わせた。
それから乳房の表面を撫でたり、下から持ち上げるようにしたり、軽く揉んだりした。
純一は彼女の乳房がとても好きだった。
格別大きいわけではないが、触れているとまるで自分の手に合わせて作られたかのようにしっくりときた。
その柔らかさや温もりは性欲の高まりだけではなく、安心をも彼に与えた。
だから彼らはいつも前戯にたっぷりと時間をかけた。
しばらく服の上からの感触を楽しんでから、詞のセーターとジーパンと靴下を脱がし、下着を取って裸にした。
暗闇に目が慣れたのか、形のいい乳房や無駄な肉付きのない腹や綺麗な細長のへそや、くびれた腰やその下のしなやかな肢体なんかがぼんやりと浮かび上がった。
こうして裸の詞と抱き合うたびに、もっと明るいところで彼女の体を眺めたいと、いつも思っていた。
灯りの下で見る彼女の体はきっともっと美しいだろうと。
そして何度かそれを提案もしたのだ。
けれど彼女は明るい場所では肌を晒したがらなかった。
誰もいなくなった図書室の隅でペッティングするときも、制服を脱がさずに手を下着の中に潜り込ませて触らなければいけなかった。
無理に脱がそうとするとカンカンに怒ってひっぱたかれた。
理由を聞くと当たり前だというように「恥ずかしいじゃない」と言った。
そうかといって詞が性的に臆病というわけでもなかった。
最初のとき以外は抵抗なくフェラチオもしてくれたし、調子がいいと積極的に責めてきて、妖艶な微笑を浮かべながら純一を先に射精させてしまうことも少なくなかった。
そんな彼女がいまだに裸身を晒すのを躊躇っている。
純一にとって女心は何億光年も彼方にある星くらい、遥か遠く不可思議なものだったのだ。
「寒くない?」
生まれたままの姿になった少女を見下ろしたまま言った。
「大丈夫だけど……橘くんも脱ぎなさいよ。一人で裸になってるのってなんか間抜けじゃない」
そう言った彼女のハリのある声が薄闇に溶けて、いくぶん艶っぽく響いた。
純一はまた慌てて服を脱いでいった。
部屋はしっかりと暖房がきいていて暖かかった。
パンツを脱いだところでペニスを強く握られて、純一は喘いだ。
ベッドに横になっていた詞が、いつのまにか体を起こして純一のペニスに手を伸ばしていた。
「絢辻さん、ちょっと」
「何?嫌なの?」
詞の声はすっかりいつもの調子を取り戻していた。
「そ、そうじゃないけど」
「そうよねー。こんなに大きくしてるんだもん。本当バカみたい、フフッ」
仰向けになった純一は詞にペニスや皐丸を弄ばれて、当然の気恥ずかしさを感じていた。
セックスのときに毎度部屋を暗くするのは、もしかしたらより大胆になるためなのかもしれないと思った。
それにしてもこうして自分ばかり恥ずかしい思いをさせられるのは苦々しくもあるが、詞には逆らえないので大人しく、彼女のしたいようにさせていた。
純一はペニスに不思議な感触を感じて驚いた。
というのも、それが彼女の手のさらさらした感触ではなかったからだ。
もっとどろりとして生暖かいものにペニス全体を包まれたような感じだった。
少し考えて唾だと気付いた。
詞はたっぷりの唾をペニスに垂らして、性器全体にまぶした。
そうしてから手のひらでペニスを柔らかく包みこみ、上下にしごき始めた。
濡れたそれはしごかれるたびに、くちゅくちゅといういやらしい音を響かせた。
唾がかわいて滑りが悪くなると、彼女はまた唾液を垂らした。
彼女の手の柔らかさと、室内に響く音と、好きな女の子が自分の性器に唾を垂らしているという行為と。
その全てが扇情的で、純一の興奮を強く導いた。
「それ以上すると……もう出ちゃうから」と純一が限界の声をあげても、快感はやむ気配すらない。
小さく喘ぎながら、彼はぼうっとした頭で「しまった」と考えた。
詞がペッティングをするときは、彼が果ててしまうまでやめないのがほとんどだった。
特に純一が快感のあまり制止させると、手を止めるどころか逆にさらに激しくするのが常だった。
部屋には水音と共に純一のせわしい息遣いもこだました。
「あ、ここがきゅうってなった。もうすぐ出ちゃうんでしょ。女の子に唾かけられて射精しちゃうなんて、本当変態ね」
詞は左手で睾丸を触りながら、甘く上気した声で言った。
純一は快感で体が大きく震えた。
膀胱のあたりに興奮の全て集まって痛いくらいだった。
「絢辻さん!」
射精を教えようとしたが、頭が真っ白になって名前を叫ぶことしか出来なかった。
射精する直前、詞はペニスを口に含んだが、純一はそれに気付く余裕などなかった。
ただ荒い息をして、全てを吐き出した。
射精が終わっても快感の波はなかなか引かず、純一は脱力したまま、その度に体を震わせた。
ようやく落ち着いて目を開けると詞が顔を覗き込んでいた。
小さな子供が悪戯考えているときの笑みだった。
純一が何か喋ろうとすると、彼女はその唇にやさしく口づけした。
何の疑問も持たず受け入れていると、彼女の口から何かを流し込まれたのが分かった。
それは唾よりもどろりとしていて青臭く、嫌な感触を残しながら口内に入ってきた。
「自分の精液はどう?おいしい?」
その言葉を聞いた瞬間、純一は思わずえずきそうになった。
咄嗟にティッシュを取ろうと薄闇に手を伸ばしたが、その手はあっさり詞に払いのけられてしまった。
「だーめ。今日はしっかり反省してもらうんだから。」
純一にはわけが分からなかったが、口内のたくさんの精液のために聞き返すことも出来なかった。
呼吸するたびに強い青臭さが鼻をつき、またそれが自分の精液だと考えると気持ちが悪くて仕方なかった。
「橘くん、いつも見境なしに出しちゃうじゃない。さっきだって私が口で受け止めなかったら部屋に撒き散らしてたわよ。
しかもそれ口に出されるとすっごく不味いし臭いし、嫌な後味は残るし大変なの。だからお仕置き」
あまりに一方的な話だが、今の状況では反論することも出来なかった。
純一は苦しくなって、精液を手に吐き出してしまおうかと考えた。
手のひらに自分の精液を載せるのは嫌だが、口に残しておくよりはずいぶんましだ。
しかしそんな考えを見透かしたように詞は続けて言った。
「もし口の中のやつを勝手に出したら、もう一生エッチなことはしないから。それだけじゃないわ。一緒に勉強もしないし、遊びにも行かない。それでもいいなら吐き出していいわよ」
薄暗闇の中の彼女は意地悪く笑っていた。
そう言われて吐き出せるわけもなく、純一は困った表情をして、なるべく口中を動かさないようにしながら鳥肌のたつ気持ち悪さにひたすら耐えていた。
そんな姿を詞は嬉しそうに眺めていた。
「反省した?」
数分して、詞はやさしい声で尋ねた。
純一は安心した顔つきになって首を縦に振った。
「そう、良かった。じゃあ口の中のやつ全部飲めるわよね」と詞は言った。
「だって今まで私にそうさせてきたでしょ?反省してるなら同じこと出来るはずよ。それとも反省したっていうのは嘘?」
だんだんと強くなっていく彼女の口調に気圧されて、純一は困惑した。
冗談を言っている目ではなかった。
飲み込まなければ本当にもう一緒にいられなくなるような気がした。
彼は覚悟を決めて口内の異物を必死に飲み込んだ。
精液はなかなか喉の奥へといかずに絡みついた。
ナメクジを飲んだらこんな感じだろうと純一はなんとなく思った。
一度では全て飲めず、もう一度唾と一緒に飲み込もうとしたとき思わずむせてしまった。
手で口を押さえたため、精液が手のひらにべったりと付着した。
「ご、ごめん、ちゃんと舐めとるから」
純一が自分の手のひらを恐々見つめていると、詞は彼の手をとって、そこに付着した精液を舌で舐め取った。
それから彼女は純一に口づけをして、歯茎や歯に舌を這わせ口内に残った精液も舐め取った。
全てを掬い取ってしまうと、彼女は口に含んだ精液を愛しそうに飲み込んだ。
「本当は好きよ、橘くんの精液。ううん、あなたのものならなんでも好き」
彼女はうっとりとした表情で言った。
「だから好きなときに好きなだけ出してね」
純一はまたペニスが固くなっていくのを感じた。
詞もそれに気付いて微笑んだ。
彼女を寝かせワギナに触れると、それは暖かく湿っていた。
彼女は純一のペニスをしごいたり、口内に精液を含ませながら興奮していたのだ。
「もう入れていいかな。入れたくてどうにかなっちゃいそうなんだ」
詞は答える代わりに、純一の首にそっと腕を回した。
詞がシャワーを浴びている間に純一は帰る準備をした。
服を着て、勉強道具をバックに押し込んだ。
すっかり準備を終えると、どっと疲労感が出たのでベッドに身を横たえて、オーディオから流れる名前も知らないクラシックを聴くともなしに聴いていた。
「すっごい匂い。他の人が入ったら何をしてたかバレちゃうわね」
戻ってきた詞は眉を顰めて、困ったように笑って窓を開けた。
昼に会ったときと同じセーターを着て、同じジーパンを履いていた。
下着は汚れていたので替えたのだろう。
ずっと部屋にいた純一は気付かなかったが、注意深く嗅ぐと確かに二人の濃い体液の匂いがした。
「そろそろ帰るよ」と純一は言った。
もう六時を過ぎていた。
「そう、途中まで送っていくわ。」
「もう暗いし、いいよ」
「また迷子になられると困るんだけど」
詞はシックなコートを羽織って、靴下を履いて、マフラーを巻いた。
純一はすでに準備を終えていたので、その姿をぼんやりと眺めていた。
と、車のエンジン音が聞こえ、その音が家のすぐ前でやんだ。
詞は窓から下を覗き込んで、サッと表情を固くした。
「お父さん帰ってきたみたい」
固い表情のまま、しかしさして取り乱しもせず言った。
他国での災害を伝えるニュースキャスターのような、情報との距離を保った口振りだった。
「や、やっぱり挨拶とかした方がいいかな」
対照的に純一は緊張しきっていた。
「そんなのいいわよ。お父さんが部屋に行ったら出られるから、それまでここにいて。」
「でも……」
「見つかったら、きっと何か言われるわよ」
詞は自分の父親を厳しい人だと言っていた。
脅しでも冗談でもなく、本当に叱責を受けることになるかもしれない。
しかしそう言われて、純一はむしろ腹が据わった。
「大丈夫、怒られるのは慣れてるから」
自分でも驚くほど、はっきりした言い方になった。
「そう、あなたがそれでいいなら私はもう何も言わない」
純一と詞が外に出ると、彼女の父は丁度車から降りたところだった。
仕事帰りらしく、黒のスーツとパンツに白無地のワイシャツに紺色のネクタイを着けていた。
ワイシャツの襟元はしわ一つなかったし、ネクタイは計算してわざとわずかに左右非対称にしているようにすら感じされた
どこをとっても無駄なところがなく、見ているだけで息が詰まりそうな格好だった。
「こんばんは」と純一が声をかけたが、彼はジロッと視線をこちら向けただけだった。
射竦められて、体が強張った。
「あ、あの僕、橘純一っていいます。詞さんとお付き合いさせてもらってて……」
相手は変わらず厳しい表情を保ったまま黙していた。
ここに来るまでに考えていた挨拶はすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。
忘れて初めて、どうせ何を言っても嫌味を言われるなら、わざわざおべっかを使うこともないなと気分が楽になった。
男の厳格な表情が、詞のそれと似た印象を持っていたからかもしれない。
「付き合い始めて一月くらいで、まだまだお互いに知らないこともあります。詞さんは僕なんかよりずっと頭は良いし、みんなに慕われてるし、性格はちょっときついところもあるけど……
けど、でもやっぱり僕は彼女をとても好きで、ずっと大切にしていきたいって思います。
僕は彼女みたいに優秀でも強くもありません。もしかしたら釣り合ってないのかもしれませんけど、気持ちだけは誰にも負けていないと思います。」
純一の話を聞いているうちに、男は苦々しく眉根を寄せた。
そういえば以前、詞は父親をエリート意識の強い人間だと評していた。
「生徒会長をやっていて、成績はいつも学年トップクラスです」くらいのはったりをかけておけば良かったかな、と思った。
それにしても高圧的な目付きをしている。
男はいちいち言うのも面倒だといったような感じで軽く嘆息した。
純一はもう言いたいこと、言うべきことは言ったつもりなので、文句は甘んじて受けてやろうと構えていた。
そんな彼の手を掴んで詞が一目散に走り出したのは、男が何か言おうと口を開きかけたのとほとんど同時だった。
純一は突然引っ張られて転びそうになった。
彼女はそんなことを気にも留めず駆け出した。
驚いた。
「どうしたの?」と声をかけようとしたが、懸命に走る彼女の背中は、そんな質問など最初から撥ね付けてしまいそうなくらい力強く見えた。
だから純一も手を引かれながら無言で走った。
ふと思い出して背後を窺うと、厳格で気詰まりな男はもう闇に紛れて見えなくなっていた。
通りに車は少なく、思い切り駆けることが出来た。
空はすっかり晴れていて、大小様々の星がまたたいていた。
彼女は止まらない。
二人の靴がコンクリートを踏む乾いた音と息遣いだけが、やけに誇張されて寒空に響いた。
等間隔に置かれた水銀灯の白い光の中を走り抜け、闇の中を走り抜ける。
住宅街を抜けて河原に出る頃になると、二人とも息が切れてきた。
心臓は強く脈動し、膝もじんわりと熱を持つ。
冬の冷気も届かないくらいに体は火照っていた。
彼女は止まらない。
それどころか走り出したときより軽やかに地を蹴っている。
彼女はどこまで走るんだろう、と純一は考えた。
今のような暗く冷たい道を、どこまで走り続けるのだろうか。
どこまででもいい。
僕はこうやって手を引かれながら、ずっとその背中を見つめていこう。
そう心を決めて、純一は握る手を強めた。