家の中は静かだった。  
ガスにかけたポットがかたかたと小刻みに揺れて、細い口の先から  
白い蒸気をさかんに噴き出している。キッチンには加湿器も暖房も  
なかったから、刺すような冷たさを体中で感じる。  
家の中でもなお白い息を吐き出して、美也はコーヒーを淹れた。  
苦いのは苦手。だから、ミルクを一つ。角砂糖は二つ。  
とろとろに甘いそれを一口すすって、窓の外に目を移した。  
天気予報のとおり、白い雪がちらちら降り始めていた。  
クリスマス。その夜。  
 
七時に待ち合わせと言っていたから、もう合流してモールでも  
歩いているころだろう。  
彼の張り切りようを見て、苦笑したのが記憶に新しい。  
あのすっとろくて、朴念仁で、鈍感な上に優柔不断な兄が、今年は女の子と  
二人でクリスマスデートに出かけるのだという。  
――うそ。信じられないよ。  
――失礼なヤツだな。嘘なんかじゃないぞ。  
それとなくクリスマスの予定を聞いたときの、あの兄の嬉しそうな顔。  
胸の奥がむずむずしてきて、こらえきれなかった。  
――にぃに、デートの仕方わかるの?  
――う……。  
――どうしたら女の子が喜ぶか、知ってるの?  
――うう……。  
あのとき、どうしてあんなことを言ったのか、いまだに自分でもわからない。  
――じゃあ、みゃーがデートの仕方、イチからぜんぶ教えてあげる。  
 
本当は、自分だってデートなんかしたことはない。  
したことがなくても教えられると思ったのは、自分が女の子で、ちいさいときから  
女の子らしい素敵なデートをずっと夢見てきたからだ。  
女心なんてかけらも理解していない彼に、そんな「女の子の夢」を基礎からみっちり  
叩き込むのは楽しかった。デートの練習、なんて言って、久しぶりに二人で出かけたりもした。  
腕を組んだ。  
引っ張りまわした。  
一緒に公園の噴水で水のかけっこをして、一つのクレープを分けて食べた。  
彼の笑った顔が嬉しかった。困った顔が楽しかった。  
あのときは、確かに彼を自分だけのものにできていた。  
「…………」  
デートというのは、お互いがお互いを好きでいて、初めて成り立つものだと  
美也は思っている。片方だけが好きでいても、意味がないと思っている。  
だからきっと、あれはデートではないのだ。  
美也はまだ、一回もデートをしたことがない。  
コーヒーで温まった体で二階に上がった。  
兄の部屋は、白い壁に沿った左手にある自分の部屋の真正面にある。  
そっけないメイプルのドアに、「純一」の札がかけてある。  
その札をじっと見つめる。兄の名前をじっと見つめる。  
 
「じゅんいち」  
胸の中がぎゅっと締め付けられる気がした。  
これまでも、そしてこれからもきっと本人に向かって言えない名前。  
「じゅんいち」  
今、兄と二人でいる女性は、その名前を呼ぶのだろうか。  
自分が呼びたくても呼べないその名前を、何の気なしに口にしているのだろうか。  
無性に悲しくなった。  
ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。  
純一は、いつも美也が部屋に入ることをとがめない。ふつうの兄妹だったら  
嫌がることを、純一は笑って許してくれる。自分だけの秘密の場所の、押入れの  
中にもたまに入れてくれる。蛍光マーカーで塗られた小さなプラネタリウムに、  
どんな星があるのか美也はぜんぶ知っている。  
 
部屋の中は、相変わらずきれいだった。  
いつの間にか買ってきたらしい小さなツリー、カーテンごしに見える雪の影、  
机の上に何冊かのファッション雑誌があって、カレンダーには今日の日付に  
赤いマルがついていた。  
主のいない部屋の中は耳鳴りがしそうなほど静かで、この空間に自分が  
ひとりぼっちでいることを意識させられた。  
ベッドに腰掛けて、そのまま横なりに倒れた。  
毛布はふかふかしていて、純一の体温が残っているような気がする。  
冷たい部屋の中で、体が少しだけ温まる感じがする。  
 
デート、失敗しちゃえばいいのに。  
思いっきりふられて、帰ってきちゃえばいいのに。  
顔では兄の成功を祈るふりをして、本音はこれだ。自分のわがままな気持ちに  
美也は苦笑した。  
想像できる。あの女の子に免疫がない兄のことだから、きっとしゃべることは  
しどろもどろで、やること全部裏目に出て、一緒の女の子に呆れられて、  
慌てているんだろう。ひしゃげた針金みたいにうつむいて帰ってきて、私にデートは  
どうだったと聞かれて、言葉を濁してこのベッドに倒れこみ、どこが悪かったのか  
自問自答するのだ。そうに決まっている。  
それが自分の儚い望みであることに、美也は気づいていた。みっともないと思う。  
でも、万が一、もしかしたら。本当に帰ってくるのではないかと思って、  
ベッドから窓の外を見てしまう。  
もし帰ってきて泣きそうな顔をしていたら、思いっきり慰めてやろう。  
ぎゅって抱きしめてやって、泣いてもいいんだよなんて言って、この胸の中で  
泣かせてやろう。  
「にぃに……」  
美也は思う。  
どうして、私たちはきょうだいなんだろう。  
本当にちいさかったころは、毎日「にぃにのおよめさんになる」なんて言っていた。  
その言葉を思い出すたび、美也の胸に針が刺さったような痛みが走るのだ。  
みゃーが、誰よりもにぃにのこと知ってるのに。  
誰よりも、にぃにのこと好きなのに。  
 
純一のことを考える。笑ったり怒ったり、ころころと顔を変える純一は、誰よりも  
美也のことを心配してくれて、誰よりも美也の幸せを願ってくれている。  
――困ったらいつでも言うんだぞ。力になれるかわからないけど、がんばるから。  
――うん。ありがとう、にぃに。  
でも、にぃには、  
 
「ん……」  
枕に顔をうずめると、悲しい気持ち、寂しい気持ちが少しだけやわらいだ。  
兄のにおい。それは、血を分けた人間だからわかるにおいだ。  
「にぃにぃ……」  
体が熱くなっていくのを感じる。我慢できなくなって、毛布の中にもぐりこむ。  
暖かい。ずっと昔、泣き止まない自分を抱きしめてくれたときのような優しい熱を感じる。  
やわらかい枕は、服ごしの純一の胸だ。頬をこすりつけて、においを確かめる。  
――あまえんぼだな、美也は。  
「んー。みゃー、あまえんぼ……」  
ふわふわと体が浮かび上がるような、小さい幸せを感じる。  
枕をぎゅっと抱きしめた。純一の首筋に、ほっぺたに、つたないキスをする。  
「あ……」  
おなかのあたりが切なくなってきて、手を伸ばした。  
ジーンズの中は、汗ではないぬらぬらした液体でべたべたに濡れていた。  
下着に手を差し入れた。  
自分で自分を慰めることは、たまにする。  
思い浮かべるのは、いつも優しい自分の兄の顔だった。  
その兄の色濃いにおいのするところにいるからか、いつもより敏感に  
なっている気がする。まだ顔を出さない小さな突起を指で挟むと、  
背中に電流が走った感覚がした。  
 
「ぅ……ぅ!」  
――ご、ごめん、美也。強すぎた?  
「ううん……にぃになら、いいの。強くしていいの……」  
これは、純一の指だ。  
そう思ってだらだらと涎を垂らす秘所を指でかきまぜる。  
「あ、う、にぃにぃ……気持ちいいよぅ……」  
感じたことのない強烈な快感。気持ちよすぎて、今にも意識がなくなって  
しまいそうで、怖くなる。もう一方の手で、思い切り枕を抱きしめた。  
純一のにおいを確かめた。  
――大丈夫。僕がいるから。  
「うん……、好き……にぃに、好きぃ……っ」  
指の動きが自然に激しくなり、手のひらもシャツの袖も、ぐしょぐしょに濡れている。  
やわらかい枕のはじっこを口に含んで、前歯でかみ締めた。  
体の奥から湧く欲望が、はじけた。  
「にぃに……っ!」  
ひときわ強い快感の波が押し寄せて、美也は一瞬意識を失った。  
体が意識とは関係なく、大きく跳ねた。  
信じられない感覚だった。体がふわっと軽くなって、全身の感覚がなくなった。  
目の前が真っ白になって、息をするのも忘れて……。  
ちりちりした感覚が頭の中を駆け巡って、少しずつ現実に戻ってくる。  
体中が汗でびっしょりで、ひどく疲れた感覚がする。  
 
「あ……う……」  
気持ちよかった。  
気持ちよかったのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。  
どうしてこんなに満たされないんだろう。  
「に、ぃに……にぃにぃ……」  
また枕を抱きしめた。自分でも気づかないうちに、泣いていた。  
ぼろぼろと落ちる涙が、止まらなかった。  
耳鳴りがするほど静かな部屋に、美也の押し殺した泣き声が響いていた。  
 
時間は午後九時をまわっていた。  
街の大きなツリーは、あたりを歩く恋人たちを祝福するように燦然ときらめいている。  
雪が降っている。ちらちらと降っている。  
すべてを覆い隠そうとする、誰かの涙のような雪が降り続いている。  
 
 
終  
 

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