〜overture.〜  
 
 
―――――――渇いた音が鳴り響く…。  
 
『渇いた』水の音。赤い平面に波紋を生み出すソレは、やがて靄(もや)がかった汚濁となり、その液体の濃度を薄めていく…。  
 
コポコポ、コポコポと…。  
 
まるで自らの内の欠損を埋めるかのように、ソレは眼前に淡い気泡を突きつける。  
誰も居ない部屋。差し込む光。影の向こうに浮かび上がる、ひしゃげた玩具…。  
 
いつの頃からか生じたその心の穴は、止まることを知らず、どこまでもワタシの心を侵し続け…  
その漆黒の闇は、黄金の瞳の中心で、ユラユラと自らの存在を主張する。  
 
鏡。  
 
赤く濡れた鏡面が、ふいにワタシの像を映し出した。  
涙があふれる。悲鳴とともに頭を抱える。『穴』を失ったワタシの瞳が、憐憫と、断罪と、深い恐怖の入り混じった奇妙な視線を向けてくる…。  
まるでこの行為を繰り返す自分を責め立てるかのように…。  
この、狭く暗い部屋の中から自分を逃がすまいとするかのように…。  
 
…それはワタシにとって、『行為』を続けていくための決まりきった…しかし、必要な儀式。  
 
コポコポ、コポコポ…。  
 
一面に広がる闇の中、ワタシはそっと耳をすませる。相変わらず世界には、渇いた音が満ち満ちていた。  
この音は不快だ。早く消してしまわなければ…。早く、早く…。  
 
ワタシは不意に立ち上がる。震える指に力を込める。義務感に駆られ、両手を強く握り締めた。  
そして、漆黒を爆(は)ぜる水の音。積み上げられた人間の屍…。  
 
次の瞬間、彼らの頭部がひしゃげ、弾けた…――――――。  
 
 
 
 
『1.雨音―rainy days―』  
 
 
 
―――――『どうして…?どうして太輔は一緒に行かないの…?太輔も一緒に帰ろうよ…。』  
 
 
まどろみの向こうで、少女がか細くつぶやいた。  
その言葉に、奈美の体は動かなくなる。何も理由なんてないはずなのに…どうしてか足がすくんで動かなくなる。  
 
その言葉に、私の心は―――――…  
 
 
『ここでまた離れたら…もう二度と、会えない気がする…』  
 
初めて聞いた彼女の声。遠目に眺めた彼女の横顔…。それ以上にその手が握る、一輪の花に目を奪われる。  
 
「……。」  
 
凄く綺麗な人だと、そう思った…。  
驚くほど澄んだその瞳は、真摯に少年の双眸を見つめ続け…。その頬を伝う涙は、目の前の少年のためだけにただ存在する…。  
きっと彼女は少年のことが好きなんだと……像を結ばない思考の中、ぼんやりとそれだけを考えた。  
 
『…ほら…これやるから、もう泣くな…』  
 
(――――――――!)  
 
彼の瞳は私を映さない。こちらを見ようとさえしてくれない。  
見つめ合う二人の姿にそう思い知らされて。…嫌というほど、思い知らされて…。  
…どうしてか、私の胸は締め付けられる。  
 
――――――敵わない…。  
 
 
前触れもなく、そんな言葉が頭に浮かんだ。  
私は、この人には敵わない…。かろうじてソレだけを理解して……その事実が堪らなく悔しくて…。  
 
だけど、そんなことは当たり前なのだ。  
私には彼と積み上げてきたものが何もない。彼に与えてあげられたものが何もない。出会ってから今まで、いつも、いつも…心無い言葉で傷つけて……  
だからきっと…  
 
そうきっと……叶はいつかこの人を選ぶ…―――――――  
 
 
―――――タイスケ……  
 
…少女の唇が微笑みの形をつくり、ゆっくりと少年の口元に近づいていく。『夢』はすでに『夢』でなくなっていた。  
闇の中、彼女は小さく目を見開く。いや、と反射的に唇がそう動いていた。  
 
やめて。そんなものは見たくない。見たくない…!  
 
2つの影が重なっていく。奈美は固く目を閉じて、イヤイヤするように首を振った。  
どうして…。あのとき、彼の傍に居たのは貴方だけじゃないのに…。『2年前』、彼に助けられたのは貴方だけじゃないのに…!  
 
胸が苦しい。息がつまって…心が痛くて、どうしようもない。  
何も理由なんてないはずなのに…胸が苦しい…!  
 
「お願い……やめて……」  
 
視界の隅で、少年が優しく微笑んでいる。決して自分へは振り向かない。振り向こうとさえしない。胸が苦しい―――!  
 
 
「―――――やめて…!恵さん!!」  
 
 
耐え切れずそう叫んだ瞬間、奈美の視界で光が弾けた――――――…  
 
 
「――――美?ちょっと、奈美ってば…!」  
 
「―――――――?」  
 
気がつけば、そこは教室の中。いつも通りの、自分が見慣れた学び舎の風景。  
けだるく……しかし、どこか微妙な緊張を伴うその空気に、奈美の意識は覚醒する。  
視線を上げれば、そこには怪訝そうにこちらを覗き込むクラスメートの顔――――瞬時に状況を理解して、奈美は正面の黒板へと向き直った。  
 
たしか今は、古文の授業の真っ只中だ。耳をすますと担当教師の淡々とした朗読が聞こえてくる。  
その声音に生徒の居眠りを見咎めた気配はなく、奈美はテキストを開きながら、静かに胸を撫で下ろした。  
 
(「…もう…気をつけなよねー…。古文の佐山、しつこいことで有名なんだから。目つけられると後で色々とめんどうだよ?」)  
(「…う、うん…その…すまない…」)  
(「あはは…別にいいけど。それにしても珍しいね。いつもは生真面目すぎるくらいの奈美が、今日に限って居眠りなんてさ…」)  
 
苦笑を見せて、シャープペンの芯で指差してくる友人に、奈美は小さく頭を下げた。  
…机のノートと、黒板の板書内容を見比べる。  
意識を失っている間、授業はずいぶんと先へ進んでしまったらしい。どうにかして遅れを取り戻すべく、奈美は手元のペンを走らせた。  
 
 
「――――――…」  
 
 
…絶え間ない水の音が聞こえてくる。  
 
窓の外を見やればその先には雨。霧がかった灰色の空を、淡く単調な調べが覆い尽くしている。  
もうそろそろ梅雨明けだというのに……この重たげな雲が晴れる気配は全くない。消え入りそうなため息を吐くと、奈美は視線をうつむけた。  
 
(また…同じ……これで何度目だろう…)  
 
…ひどく辛い夢を見て…目を覚ます…。ソレがつらいと分かっているのに、幾度も夢を見続ける…。  
ここ数日、ルーチンワークのように繰り返しているソレが、彼女にとっての<日常>だ。  
沈んでいく意識と、終業を告げるチャイムの音色を聞きながら、奈美は右手で髪を弄んだ。その掌には覚めやらぬ夢の余韻からか、うっすらと汗がにじんでいる。  
 
「本当に…どうしてしまったのかな…私は…」  
 
苦笑を浮かべ、ポツリと一言つぶやいた。  
胸の内にくすぶる、悲しみとも苛立ちともつかないこの感情―――その正体さえ、今の自分は満足に掴むことが出来ていないというのに…。  
 
 
夢の中、彼女は自身の叫びを止められなかった。  
胸を押しつぶすような痛みと寂しさ……何より身体を引き裂くほどの切なさに…。彼女は、目の前の光景を否定した。  
 
(最低だ。本当に…。)  
 
これではまるで、私が叶を―――――――…  
 
 
「………。」  
 
 
何度目か分からない吐息を吐いて、奈美はもう一度窓を見やった。シトシトと……やはり絶え間なく続く水の音。  
降りしきる雨は、まだ止みそうにない…。  
 
   
                                    ◇  
 
 
「……拳法の他流試合?奈美のお父さんが?」  
 
「うん…。年に一度の大切な行事で、知り合いの道場のお宅に、2、3日厄介になるそうなんだ。」  
 
放課後、開放感に溢れた教室はいつもにまして騒がしかった。これから迎える週末の予定を話し合う者、学校帰りの寄り道先へと向かう者…  
なんとなく彼らの姿を眺めつつ、奈美は鞄に教科書の類をしまいこむ。  
普段、仲の良いクラスメイト二人と、ちょうど明日の予定について話し合っていた時のことだ。突然の奈美からの提案に、少女たちは揃って顔を見合わせた。  
   
「2人とも、前にうちに遊びにきたいと言っていただろう?  
 父さんが出かけて、道場の方も休みになるから、ちょうどいい機会なんじゃないかと思って…」  
 
「ちょ…ちょっと奈美…。お父さんが出かけるって…それ、いつからの話よ?」  
 
「?昨日の夜からだけど…」  
 
「知り合いの道場への挨拶も込みってことだろうし…当然、一人で行くわけはないよね?奈美のママさんはどうしてるの?」  
 
「??一緒に出かけてしまったけど…」  
 
「「………。」」  
 
まさに絶句、といった表情で2人はその場に固まってしまう。沈黙すること数秒。  
やがて『ようやく合点がいった』とばかりにため息をつくと、彼女らはからかうように会話を始めて…  
 
「あー…やだやだ。『お父さんもお母さんも家に居ないの…』と来ましたよ、ちょっと」  
 
「や〜〜ん、のろけられちゃった〜〜〜いいなぁ、奈美〜〜」  
 
「???何が?」  
 
「まったまた〜とぼけちゃって!ってことは今は家で二人きりなんでしょ?例のカレと♪」  
 
「例のカレ?…―――――あ!ち、違う!ちゃんとお手伝いさんたちが家にいるから…!二人きりなんて、そんなことは…!」  
 
「あーもーくっそー…!まさか奈美にまで裏切られるなんて…。そりゃ授業中、寝不足にもなるわ…」  
 
「…?どうして叶と二人きりだということと、私が寝不足になることが繋がるんだ?」  
 
怪訝そうに首をかしげる奈美の様子に、二人はニヤニヤと笑みを浮かべるばかりで…  
『あー…そういや奈美はこういう子だった…』とか、『まーそこが奈美のいいところなんだけどね…」などと、そういった不穏当な発言のオンパレード。  
だんだんと奈美の表情が不機嫌な時のそれへと変化していく。  
 
「……。」  
 
「うわわ…怒るなってば!っていうか、正直に意味を説明しても怒られそうだし……どうしたもんか…」  
 
「奈美が例の叶クンと、毎晩毎晩、くんずほぐれつセックスしてるせいで、寝る時間がないんじゃないかって意味よ〜」  
 
「「ぶっ!」」  
 
不意を突かれて、奈美は思わず鞄を取り落とした。もう一方の友人も、完全に目を白黒させている。  
 
「…っていうか、女子高生がサラッと言う台詞じゃねーよ…」  
 
「なに?してないの奈美?セックス」  
 
「しっ……しているわけないだろう!そんな…その…不純なこと…」  
 
ムキになって否定する奈美を、彼女は意地の悪い表情で見返した。  
わざといじけた仕草を見せつけながら、さも傷ついたと言わんばかりに顔を上げ…  
 
「そんな…ひどいよ奈美。あたしが愛しいカレシとしているコトを不純だなんて…泣いちゃいそう…」  
 
「え?あ…あの、そういうことではなくて、せ…か、身体を重ねるということは、それ相応の覚悟と責任が…  
 大体、私と叶はそういう関係ではないし、それに叶は――――――」  
 
しどろもどろに弁解しながら、奈美は一瞬、先ほどの夢の情景を思い出していた。  
 
自分と叶太輔の関係――――それがどんなものなのか、自分が本当は、彼にどのような感情を抱いているのか…。  
何度考えても、答えらしい答えは出てこない。  
仮にその感情が、彼女たちの想像通りのものだったとして、自分に何が出来るというのだろう?何も出来はしない…きっと…。  
 
……熱くなった思考が、急速に冷めていくのを自覚する。  
 
 
「叶は…―――――叶には…多分、好きな人が居るんだ…。私なんかよりずっと叶を理解している……素敵な人が…」  
 
 
だから――――  
 
そう言いかけて、奈美は小さく口をつぐんだ。目を伏せたまま、かすかに曖昧な笑みを浮かべようとする。  
自分では、上手く笑えたつもりだった。  
 
「「……。」」  
 
「?どうかした?二人して黙って…」  
 
返答がないこと不審に思ってか、奈美が恐る恐る顔を上げ……。視線で何かやりとりしている、二人の姿を確認する。  
疑問を口に出そうとしたその瞬間、奈美の頭に軽いゲンコツが見舞われた。  
 
「奈〜美!」  
「!?い、いた…!な…一体、何…」  
 
「『多分』ってなにさ、『多分』って。好きな人が居るって…それ、あの叶って奴に直接、確認したの?」  
「…い、いや、そういうわけでは…ない、けど…」  
 
「奈美は叶クンにちゃんと気持ちを伝えた?その上で、振られたと思ってる?」  
「そ、そういうわけでもないけど…。それに何度も言ってるが、私と叶は別に……」  
 
「「つべこべ言わな〜い!!」」  
 
「……は、はい…」  
 
剣幕と勢いに押し切られる形で、奈美は思わず押し黙る。  
微苦笑とともに肩をすくめて、少女の片側――――ショートヘアーに細身の少女が優しくその肩へと手を置いた。  
 
「生真面目でまっすぐな奈美が、そういうこと考えすぎちゃうのはよく分かるけど…それでも、さ…。  
 少しぐらい心に正直になって行動したって、バチはあたらないと思うよ、きっと…」  
 
「……。」  
 
「自分の気持ちがよく分からないっていうんなら…なおのこと叶クンと一緒に居なきゃ。  
 確かめたいんでしょ?その『気持ち』を…」  
 
黒髪にロングヘアーのクラスメイトが、ニコリと相打つように笑いかけてくる。  
 
ほら…。  
そう言って彼女が指差すのは窓の向こう…。雨の中、傘をさしてたたずむ少年の姿。  
よく見知るその人影を瞳に捉えて、奈美の心臓が跳ね上がった。  
 
 
「あ―――――…」  
 
「今日傘持ってくるの忘れたんでしょ?届けるついでに迎えに来てくれたんじゃないのー?」  
「あんまり校門で待たせるのも可哀想じゃない?行ってあげなよ」  
 
「で、でも…」  
 
「自分の心に正直に……ね?」  
 
「―――――……ぁ……う、うん。わかった…!」  
 
戸惑いながらも強く頷き、奈美は階段に向かって駆け出した。慌しく去っていくその後ろ姿を見つめながら、少女はポリポリと頬をかいて…  
 
「はぁー…奈美にもついに春が来たかぁ…遅咲きの初恋ってやつかな?こりゃ…」  
「雛の巣立ちを見守る親鳥の気分だね」  
「…くそう…。ねー今日どっかで遊ばない?ウサ晴らしの意味もこめてパーッとさー」  
「ううん…あたしパス。今日はカレシとマック行く」  
 
「そういえばコイツにも彼氏いたんだよコンチクショー!!!」  
 
 
―――――――…。  
 
 
雨。  
 
雨が降り続いていた。  
空を覆う灰色の雲の下、傘を差す少年の待つ場所へと少女は走る。  
 
靴底が踏む水溜まりの音と、少しずつ近づく息づかい。彼女に向かって振り向きながら、少年は柔らかな笑みを見せる。  
 
「あれ…?奈美、もう学校はいいのか?」  
 
「ぁ…ああ…叶は、その、どうして……」  
 
「予報見たら天気がヤバそうだったからさ。またこの前みたいなことになったら悪いとは思ったんだけど…一応、傘だけな」  
 
この前…。おそらくは、下級生たちの誤解で起こった暴動騒ぎのことを指しているのだろう。  
気まずげに頭をかくその姿に、奈美はどうしてか安堵を覚える。不思議だった。彼と言葉を交わすだけで、何故こんな温かな気持ちになれるのだろう?  
 
「…。」  
 
大丈夫。現実の叶はこうして自分を見てくれる。自分に対して振り向いてくれる。  
だから…きっと恐がることなんて何もない…。  
 
「――――自分の心に……正直に……」  
 
「…奈美?」  
 
余ほど暴動を恐れているのか、そそくさとその場を去ろうとする少年の服を、奈美は無意識の内に掴み、おし留めていた。  
カッと頬が熱くなるような感覚。顔を赤くして目を伏せる少女の姿を、少年は不思議そうに見つめている。  
 
…沈黙が破られたのは次の瞬間。  
 
「叶…私は今日、誰とも帰る約束をしていないんだ…。だから、叶さえよければ…一緒に家まで帰らないか…?」  
 
「?ん…そりゃ別に構わないけど…どうしたんだ?そんな急に改まって…」  
 
「っ!な、何でもない!行こう…!」  
 
「…って、おいおい!奈美?」  
 
俯いたまま、グイグイと裾を引いてくる少女に向かって、少年は何度かその名前を呼びかける。  
これほどまでに強引な彼女を見るのは、一体何時以来のことだろう?初めは怒っているのではないかと思ったが…それも違う。  
どうやら彼女の機嫌はすこぶる良いらしい。  
 
(…よく分かんねーけど…悪いことじゃないよな…)  
 
やがて諦めたようにため息を吐くと、少年はいつの間にかそんな風に考え直していた。  
理由はどうあれ、近頃、塞ぎがちな彼女が元気を取り戻すのは良いことだ…。やはり奈美には活動的な姿がよく似合う。  
 
…。  
チラリ、と少女の表情を覗き込む。分かりにくいが、その口元にはかすかな微笑みが浮かんでいる。  
   
 
 
少年が久しぶりに見る、彼女の笑顔だった。  
 

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