〜pause.『発端』〜
仄暗い蒼瞑の輝き…。
その日、ワタシの世界はドス黒い水の匂いで満たされた。
…息が苦しい。
嗚咽とともに吐き出された言葉が、ごぽごぽと意味を為さない泡になる。
悪寒を覚えて顔を上げた。腕をめちゃくちゃに振り回した。
けれど、強い力に押さえつけられた頭を動かすことはできない。再び顔を、ぬるい湯の中に突き入れられる…。
(苦しい…)
息が苦しい。心が苦しい。今、この瞳に映るすべてのものが、苦しくて、苦しくてどうしようもない。
なんで…。
どうしてこんなことになっているのだろう?
ワタシがこれほどまでの仕打ちを受けねばならない理由とは……一体なんだ?
(そうだ…たしか今日は――――朝、学校に行く前に…お母さんと口喧嘩しちゃって…)
朝食の食器の並べ方から始まった、ささいな口論。一方的な罵声を浴びせて、母を残して飛び出すワタシ…。
自分が悪いと分かっていたのに、一度ついた勢いには歯止めが効かなかった…。
苛立ちに任せて、ひどく理不尽な言葉を投げつけてしまった気がする。
(……。)
不味いことをした…そんな自覚が自分にもあって……だけど、素直に謝る気にもなれなくて…。
だから家に帰ることがどうしても出来ず、部活が終わったあともずっと…駅前のファーストフード店の中で時間を潰していたのだ。
仲間との会話に華を咲かせて、作り笑いを浮かべながらも…ワタシの心は晴れなかった。
もたげる不安。
闇が濃くなるにつれ、だんだんと数を減らしていく友人たち…。
午後九時を回ったところで、ワタシの携帯にも、姉からのコールがかかってきた。
――――みんな心配してるから…。
その一言に耐え切れなくなり、ワタシは慌しく席を立つ。
…。
嫌に静かな夜だった。
いつもなら夕食をとっくに食べ終えているような時間。心配する姉に背中を押され、ワタシは玄関に足を踏み入れる。
視線の先に待っていたのは、にやにやと笑い続ける母の姿だった―――――。
―――世界を水音が包み込む。だんだんと思考が鈍ってゆく。涙が出ては、端から湯船に溶けていった。
きっとワタシが悪い子だから…そのせいでお母さんは怒っているのだ。
いつも優しいお母さん。喧嘩するときだって、本当はワタシのことを考えてくれてるんだって…心の奥ではそう知ってたから…。
…だから甘えすぎていたのかもしれない。
いつの間にか。
気付かぬうちに…。
――――ごめんなさい、お母さん。
ごめんなさい。
ワタシだって本当は、お母さんのことが好きだったの。
なのにヒドイことを言ってごめんなさい。
悪い子でごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい…。
「お母さん……ごめんなさい…」
そう紡いだはずの言葉は闇に消えた。
視線を移すと、遠いリビングに倒れ伏す姉と、そのそばで音声を垂れ流す、付けっぱなしのテレビが見える。
お母さんに殴られ、頭から血を流すお姉ちゃん。
ブラウン管から聞こえてくるニュース番組は、ここ数日連鎖的に続いている、大規模な自殺騒動について報道していた。
積み重なる死。無機質な断末。枯渇する生…。
顔を上げ…小さく 許して、とつぶやいた。助けて、と必死に瞳で懇願した。
ぐるぐる、ぐるぐる……世界が回る。
そしてコポコポと響く水の音。
闇の向こうで、お母さんが、笑った―――――――…。
◇
『3.夜音―deep calling voice―』
午後八時―――…
人気の途絶えた楠邸の応接間は、重々しい空気に包まれていた。
ソファーで眠る黒衣の少女と、その側に座る叶太輔の様子を窺いながら…
奈美は先刻から、手元に置かれた連絡網の、とある番号を確認し、黒い受話器を握り続けている。
コール13回目…。ようやく応答した電話器から流れてきたのは、相手の不在を伝える無機質な合成メッセージだった。
―――――こちら、……センターです。お客様のお掛けになった電話は現在電波の届かない場所にあるか、
電源が入っていないため、かかりません。こちら、……センターです。お客様のお掛けになった電話は……――――――
「…駄目だ…。何度かけても繋がらない…」
諦めたようにため息をつくと、奈美は受話器を置いて首を振る。のしかかる不安によろめくように…そのまま壁に寄りかかった。
「…あんま無理すんなよ、奈美…。お前もついさっきまでぶっ倒れてたんだから…我慢しないで寝とけって」
太輔が気遣わしげな声とともに立ち上がる。つかつかと奈美の前まで歩み寄り、強引にソファーへと座らせた。
「…心配しすぎだ…叶は…」
不満気だが、同時にどこかくすぐったそうな声。返答に困り、奈美が小さく曖昧な笑みを浮かべる。
ただの少女のように気遣われることが、これほどこそばゆいものだとは知らなかった。
高鳴る動悸を誤魔化すように、彼女はついと目を逸らす。
「?…っ…」
不意に漏れ出る吐息。そのとき背筋を走った違和感に、奈美は思わず顔を歪める。
どうしたというのだろう…?叶に触れられた掌が、少し熱い…。軽い暈惑とともに、視界が少しずつ狭まっていく。
何処かで感じたことのある、この感覚――――。
(なんなんだ…?コレは…)
太輔に気付かれることを恐れながらも、彼女はちらりと自らの身体に視線を移した。
…先刻までのだるさは微塵もない。脈拍も発汗量も今は正常値まで戻っている。
なのに、依然として残る微かな熱……決して消えようとしないこの『違和感』の正体は―――――…
「――――……。」
言い知れぬ悪寒を覚えながらも、奈美はその感覚に、あえて気づかないフリをした。
「――――私は……大丈夫だ。それに今は…そんな悠長なことは言っていられない…」
幸い、太輔がこちらの変調に感づいた様子はない。
沈黙の後、言い聞かせるように一つ頷き、奈美は視線の先の少女を見る。
涙を浮かべて横たわる少女を…。
(―――…美都羽ちゃん…)
『斉藤 美都羽』―――夕刻の彼女との出会いは、奈美にとって、実に数ヶ月ぶりの再会だった。
太輔の記憶喪失の件や心臓を巡る軍との争い……
ここ最近ゴタゴタしていたこともあり、ずっと音信が取れなった…その矢先の邂逅だ。
傷だらけの少女…彼女が纏う血の匂い…。
ぼんやりと雨を見つめながら、自分の懸念が杞憂に終わって良かったと、今は思う。
出会ったとき乱れていた衣服と、その常軌を逸した取り乱しようから、一時は最悪の予想が頭をよぎったが…
血濡れの服を着替えさせた時、奈美の目にした体には、陵辱の痕跡など見当たらなかった。
「あの子……美都羽っていったっけ?奈美のこと、ずいぶん慕ってるんだな…」
「…そう、かな…?」
「そうだよ。気を失ってる間、ずっと呼んでたぜ、お前の名前を…」
「……。」
太輔にそう指摘され、奈美は照れくさそうにうつむいた。
美都羽ちゃんが私の名前を…
自分なんかのどこが良いのかはよく分からないが、彼女の好意は素直に嬉しい。
平時なら、子犬のようにくるくる変化する少女の顔を思い浮かべて、奈美はかすかに目を細めた。
(…私にもしも妹がいたら…きっとこんな感じなんだろうな…)
微笑む。もっとも美都羽には…正真正銘、血の繋がった姉が一人居るのだが…。
学校の保険医――――『斉藤 瑞穂(みずほ)』。
気さくで人当たりの良い性格と、生徒の相談に親身に乗ってくれるその態度から、非常に人望厚い人物だ。
先ほどから彼女の連絡先に、緊急のコールを掛け続けているのだが、返信が返ってくる気配は全くない。
学校にも取り次ぎを頼んだが、瑞穂はここ数日学園を無断で休んでおり、音信すらまともに取れない状態だという…。
姉と2人きりの、マンション暮らし…。美都羽の家庭事情について、それ以外の情報を奈美は知らない。
完全に八方塞りだった。
「…もしかしたら、瑞穂先生の身に何かあったのかもしれない…。美都羽ちゃんのように、あの能力者につけ狙われていたら…」
「奈美…」
「やはり、私たちがこんなところでじっとしているのは、間違いなんじゃないのか?まだ日が落ちてからそれほど時間は経っていない…
心当たりを探せば…」
「…って、おい。どこに行くつもりだよ…!そんな体で…」
言いながらヨロヨロと立ち上がろうとする奈美を、太輔は無理やり押し留めた。
交差する視線。肩を掴むその腕を振り払うことが出来ず、奈美はソファーに座り込む。
「…っ…」
「…落ち着けってば。歯がゆいのは分かるけど、お前が焦っても仕方ないだろ?それに今は…この子が起きるのを待ってやらなくちゃ……。」
目が覚めたとき誰も傍に居なかったら…きっと寂しがる…
動かない美都羽を見つめ、太輔が言う。
自分の語気がいつの間にか乱れていたことに気づき、奈美は小さく息を飲んだ。
すまない、と弱々しく口にして…彼女は静かに目を閉じる――――…。
「……。」
カチカチと…。
時計の針の音だけが、薄暗い部屋の中を反響していた。気まずい沈黙が夜闇に落ちる…。
ひどく憂鬱な気持ちのまま、奈美は薄雲に包まれる空を見た。
(――――…馬鹿だ、私は…)
叶に苛立ちをぶつけたところで、何の解決にもならないというのに…。
それに、本当は分かっていた。
本来この状況なら、真っ先に外へ飛び出すはずの叶が、あくまでココに留まろうとする理由…。
彼があえて口にしないもう一つの理由は、他ならぬ自分自身にあるということを。
―――――どこに行くつもりだよ…!そんな体で…!――――――
「……。」
(…私が、叶の足枷になっているから…)
再び熱を帯び、震える肩。そのとき感じた、強烈な眩暈と閃光に、奈美は小さく唇を噛む。
「!」
…まただ。
またこの感覚…。『わたし』が『わたし』でなくなってしまうような…それでいて、どこか甘美な蜜を持った危うい陶酔…。
今この体に、いったい何が起こっているというのだろう?まるで水面を揺らす波紋のように、全身に熱が伝播していく…。
「――――!?……ぁ…っ」
刹那。
得体の知れないナニかが、ぞくりと奈美の身体を突き抜けた。吐息を漏らし、彼女はその場に膝をつく。
「!?奈美…!」
「…ぁ…!大…丈夫だ…。大丈夫、だから…」
駆け寄ろうとする太輔の動きを手で制し、奈美はそのまま、彼から逃げるように背を向ける。
熱い…。床に触れる指先が、小刻みに震える肩が、服に擦れる胸が…熱くて、熱くてどうしようもない…。
――――鼻腔をくすぐるのは、雨の公園で感じたあの甘い香り…。
「大丈夫って…んなわけないだろ…!熱あるのか?早く部屋に―――――」
「――――――駄目だ…!!」
肩に触れようとする太輔の腕を、奈美は反射的に払いのけていた。
もつれる脚を奮い立たせて、無理にその場を立ち上がる。顔を上げ、戸惑う太輔の表情を目にした時、彼女はようやく自分が何をしたのか理解した。
「…ぁ…」
耳に痛いほど響く雨の音…。いたたまれなさに、奈美は思わず目を伏せる。
だけど仕方がなかった。今の自分は明らかに異常だ。早鐘を打つ心臓…疼きにも似たこの感覚…。
――――これ以上叶に触れられたら、自分でも何をしてしまうか分からない…。
「…すま…ない…。だけど、本当に何でもないから…。叶の言う通り、私は疲れているのかもしれない…。」
何か言いたげな太輔をその場に残し、彼女はついと踵を返した。胸元を押さえ、ふらつきながら…ヨロヨロと部屋の扉へ向かっていく。
「奈美…」
「少し休めば、体の調子も回復すると思う…。すぐに戻るから…叶、その間だけ美都羽ちゃんのことを…」
「分かってる。そんなこと気にしてないで…今は…その…とにかくゆっくり休めよな。」
「……。すまない、叶…―――――本当に…」
パタン、と…。
ドアノブが回り、力なく扉が閉められる。
…。
奈美の背中を見送りながら、太輔は小さく息を吐き出した。
「―――…何でもないなんて…すぐバレる嘘つくなよな………頑固者…」
つぶやく。
奈美が居なくなり、静まりかえった応接間に、太輔の声だけが反響した。
鬱陶しい雨の音を耳にしながら、なんとなく奈美が去っていったドアを見つめてしまう。
「…。」
まだ残る温もりを確かめるように、太輔は開く掌を握り締めた。
一瞬だけ触れた彼女の肩は、自分が思う以上に細く、今にも壊れてしまいなほど繊細だった…。
普段、ついつい忘れがちになってしまうこと――――彼女が年下で、そして普通の女の子だということを思い出す。
本当に彼女を独りきりにしても良かったのだろうか?
…やはり、無理にでも部屋まで付いて行くべきだった…。
そう一人ごち、太輔が腰を浮かせようとしたその瞬間…不意に、ソファーに横たわる少女が身じろぎをする。
反射的に視線を戻せば、そこには首を傾ける鈍色の影が在った。
「ん…」
眠たげな吐息。開かれる瞼。
操り人形のように緩慢な動作で、ゆっくりと上体が起き上がり…
そして……大きく美しい、まだあどけなさを残す漆黒の瞳―――――。
「…!…」
「おはよう…ございます…」
静寂の中、二つの視線が交錯する。
「―――アナタは、誰?ここは……お姉ちゃんは、ドコですか…?」
言葉に詰まる太輔の姿に怯えながら、少女はたしかに、そんな言葉を口にしたのだった。
◇
「―――――ハァッ……っ……ハァ…ッ」
長い階段を上りきり、二階の自室へと辿り着く。
襖を開き、ベッドの傍まで歩ききったところで、奈美はフラフラとその場に崩れ落ちた。
「なんで…こんな…どうして急に…」
熱く湿った吐息。意思に反して少しずつ潤んでゆく双眸。こうしている間にも全身が火照り、触覚がどんどんと敏感になっていくのが分かる。
汗で濡れる肌に触れれば、ドクドクと心臓が激しい鼓動を繰り返し…
…もう自覚せざるを得なかった。コレは……先刻から止まないこの衝動の正体は―――――…
(嘘……嘘だ…)
自分の中に、これほど浅ましい欲望があったなんて…。羞恥以上に、信じられないという思いが強い。
―――奈美が例の叶クンと、毎晩毎晩……――――
昼間あんなことを言われたから?だから無意識のうちに、淫らな想像を思い浮かべてしまったとでもいうのだろうか?
それとも―――…
「ん…ぁ……ん、ふ…ぅっ…」
白いシーツの上で、姿勢を崩す。制服のスカートからしなやかに零れる脚は、しとどに汗で濡れ、滑っていた。
部屋に響く衣擦れの音。自然にネクタイがほどけ、ブラウスのボタンが外されてゆく。次第にはだけられる服の下からは、純白の布地に負けないほどの白い肌が露になり…
(あの時…)
夕刻、叶に抱きしめられた感触を思い起こす。
もしもあの時、能力者に追われる美都羽と出会わなければ…
あの時、意識を支配する『衝動』に、この身のすべてを任せてしまっていたならば…
自分と叶は、今頃どうなっていたのだろう…。
叶は自分に何を望み、自分の身体をどうするつもりだったのだろう…。もしも口付け以上の行為を求められていたら…私は――――
「……だめ…体……切な…」
パチンという音がして、ブラジャーのホックが弾け飛んだ。雪色の、形の良い胸が闇に震える。
その先端は、いつの間にか固くしこり尖っていた。大きく染みを作り、秘所に張り付く薄い布地。奈美はぼんやりとした瞳でそれを見つめる。
(たしか…前に見た本には……こうするって…)
以前、友人が面白半分で学校に持ってきた『ファッション雑誌』
その実、中身は性に関する知識や体験談をひたすら綴ったものにすぎず、好奇心に惹かれ覗き見たことを激しく後悔した覚えがある。
奈美が無理矢理読まされた内容の中には、運悪く「自慰」に関する記述も含まれていた。
到底、興味など持てるはずもなく、あの場では煩悩など簡単に切って捨てることが出来たというのに…
(こんな…こんなことって…)
自身の行為が信じられず、奈美はイヤイヤするように首を振った。
閉じられた瞳から涙がこぼれる。否定しても、否定しても…とめどなく溢れて出る愛液が、少女の理性を狂わせてゆく。
「…わたし…どうして…」
もう自分の情動を抑えきれない…。
薄っすらと残る記憶をなぞるように、奈美の指先が、熱くうずき続ける秘所へと伸びた―――――…
―――――――…。
「えーと…腹、減ってないか?なんなら何か作るけど…」
応接間は相変わらず、冷たい静寂に満たされている。腫れ物にでも触れるかのような太輔の問いに、少女は黙って首を振った。
再びの沈黙。だよな…と言い添えるようにつぶやいて、太輔は所在無げな様子で頬をかく。
テーブルを挟み、向かい側のソファーに座る少女……彼女が目を覚ましたのは喜ばしいことだが、これはあまり居心地が良いとは言えない状況だ。
奈美が出て行ってからすでに十数分が経過しているというのに、美都羽には口をきこうとする素振りが全くない。
こちらと目を合わせることすら恐れるように、細い腕できつくクッションを抱きしめている。
太輔は仕方なく、一人取り出してきたクッキーをつまんだ。
…奈美の話によれば、この少女は13歳―――中学二年生で、勇太や葵より少し上の年頃だという。
生来の引っ込み思案な性格に加え、二次性徴を迎えた多感な時期…美都羽の寡黙さは一重に彼女自身の性質に因るところが大きいらしく、
面識のある奈美に対しても、決して自分からは口を開こうとしないそうだ。
(つまり…コレがこの子の『普通』ってわけか……)
同年代の勇太あたりなら、もう少し上手く立ち回ることが出来るのかもしれないが…
何にしろ、自分だけが特別嫌われているわけではないのだろう。そう結論付け、太輔は先ほどから簡単に挫けてしまいそうな心を、どうにかこうにか保っていた。
「………。」
「…そ、それにしても、嫌な雨だよなぁ…。こうも毎日毎日降り続いてると…こっちの気持ちが滅入ってくるよ…」
…我ながら苦しい切り出しだと思う。いくら共通の話題が無いとはいえ、これでは面白みも発展性もあったものではない。
口にしてから冷や汗を流す太輔を見つめ、美都羽は小首を傾ける。
意外にも少女の琴線に触れる何かがあったらしく、目を覚まして初めて、彼女の横顔に表情らしい表情が浮かんだ。
「…雨は…嫌い?」
窓の外を見つめ、ポツリとつぶやく。中庭の岩肌をつたう水の音(ね)が、夜の帳を浸していく。
「別に嫌いってほどでもないけど…。でも天気は良いに越したことないかな……部屋に閉じこもってばっかじゃあ、つまらないだろ?」
「…。そう…」
幾分、安堵したかのような太輔の声に、美都羽は悲しげにうつむいた。
何か言いたげな…しかしそれを押し殺そうとする弱々しい口調。抑揚の失われたトーンを伴い、少女がぼんやりと天井を見上げる。
「でも、私は好きなんです…雨。雨はこの世に潤いを…ある種の救いをもたらしてくれる…」
「…ある種の、救い…?」
「樹々や花は、天の恵み無しで生きることなど出来ない。空から降り注ぐ雫は、乾いた大地や、熱を孕む流砂に、癒しを運ぶ…」
そして人には―――――――…
紡ぎながら少女は微笑む。とても静かに…ただ危うげに…。
不思議そうに見つめてくる太輔の視線を受け止めて、彼女は広がる空を仰ぎ見た…。
この瞳に映るもの…その半分は全て偽り。私は、いま在る世界に満足できない…。
だからこその生…。それ故の渇き…。
そう…
「―――――――枯渇しているんですよ…。この世界は…―――――――――」
「あぅっ!……はぁ…っ…は…ぁ……い、いや……っ!」
暗い部屋に、少女の荒い息づかいが響いていた。
くちゅくちゅ、という水音を伴い、白い裸身が未知の快感に打ち震える。
強すぎる刺激に止まらない汗…。幾度も背中をのけ反らせ、それでも指先は、下着をなぞることをやめてくれない。
愛液にまみれた秘所からは、布地の上からはっきりと分かるほどに先端の突起が立ち上がり…
それを執拗にシーツに押し付け、奈美は自分から獣のように喘ぎ続けた。
「どうして……どうして…!…からだが…言うことを……聞いてくれない…!」
微かにに残った理性の欠片が、これ以上の行為に抑制をかける。
部屋の奥、鏡に映る自身の姿を視界に捉え、少女の頬が羞恥に染まった。
恥ずかしげもなく股を開き、両の手で秘部を押えつける…―――まるで排泄をむずがる幼女のようだ、と奈美は思う。
「うっ!……ふぅ…っ…駄目だ…こんな……叶を…汚すようなこと…」
長い髪を振り乱し、唇を噛む。びくん、ぴくっと無駄な肉のついていない身体が、痙攣のように弾けて揺れる。
奈美自身にはっきりとした自覚はあるわけではないが、これは丁度、騎乗位に良く似た格好だ。
無意識のうちに、太輔にまたがる自分を想像し、淫核を激しく擦りつける。
性的につたない知識しか持たない奈美にとって、それはより大きな快感を得るための、本能が導く行動だった。
(…そういえば…)
男性は女性よりも頻繁に、こうやって自らの性欲を処理する機会を設けていると…そんな話を以前に耳にしたことがある。
出所は例によってクラスの友人だが、これに限っては世間一般の男…ほぼ全てに当てはまる傾向らしい。
『奈美は隙多そうだから気をつけなよー…男なんてねー…すべからく狼みたいなもんなんだから…』
キョトンとする自分を前に、彼女は興奮気味に力説した。
曰く、男なんて大人しい顔をしていても、頭では何考えてるか分からない。
例え自分にとって身近な女子であろうと、機会があれば、平気で自慰の『オカズ』にする。
…少なくとも、友人の恋人はそういった類の人種らしい。
それが良いことなのか悪いことなのかはイマイチよく分からないが…その傾向が、本当に世の男性大多数に共通したものだというのなら…
もしかしたら、叶も――――――…
(…!…私、何を考えて…)
瞬間、熱く溶けきった粘膜が、更なる液体を分泌する。ぐっしょりと濡れた下着に触れると、細い指先が糸を引いた。
『もしかしたら叶も、こんな風に頭の中で私を汚して……それで自らを慰めているのかもしれない…』
…そんな、とりとめも無い思考が脳裏をよぎり、奈美の背筋が強く震えた。一度はよみがえった瞳の光が、少しずつその輝きを失っていく。
躊躇うようにゆっくりと…引き締まった腰が、上下の運動を再開する。
「……んっ、あ―――――…あ、はぁ………」
はあっ、はっ、はっ、と呼吸を乱して奈美は何度も首を振った。普段、凛とした表情を作る瞳は、これ以上ないほどに掠れ、潤み…
半開きになった口元からは溢れた唾液が伝い落ちていく。
(気持ちいい……きもち、いいよ………こんなに気持ちいいことがこの世にあったなんて……)
ぽろぽろと…
奈美の目じりから涙がこぼれる。
下着を脱ぎ去り、クリトリスの包皮を両手で剥き上げ、直接、シーツで擦り上げる。
あまりの刺激に上肢が仰け反り、形の良い乳房が天井に向かって激しく揺れた。
「―――――っ!あ…っ!?ああぁっ!ふぁっ!はあぁっ!…駄目っ!駄目ぇ…っ!!」
ビクン!ビクン!!
奈美の白い身体が、壊れた玩具のように痙攣を続ける。
汗で光る肌を執拗によじらせ、紅潮する胸を乱暴に掴み、尖るその先端をしごき上げる。
「あぐっ!ひぅっ…うあぁ!あっ!あっ!あっ!あっ!わたし……おかしい…!このままじゃ、おかしく、なる…」
虚ろな瞳で、息も絶え絶えに少女がつぶやく。
それでも彼女は、腰の動きを止めようとはしなかった。剥き出しの淫核を爪で掻き、潰すほどの勢いで乱れたベッドに押しつける。
ルーチンワークのようにその動作が繰り返されるたび、くぐもった喘ぎが暗闇の中を木霊した。
数度目のグラインド…。
突然、奈美の全身がびくびくと大きく震え、新たな愛液がせきを切って溢れ出す。
美しい瞳が限界まで見開かれ、黒い長髪が振り乱され……突き出された舌が嬌声を生んだ。
「…か…のう…」
朦朧とする意識の向こうに幻影を見る。
雨音が奈美の正気を狂わせていく…。彼女の望みは…快感に囚われ、歪な幻(まぼろし)を作り出した。
「叶、もっと…もっとして…。欲しいの…。ずっと寂しかったの…!叶……わたしの身体…滅茶苦茶にしていいから…だから…だから、お願い、私を見て…!
恵さんじゃなくて、私を…。私のこと、見て…!」
長く高い悲鳴を上げて、奈美の全身が硬直する。
真っ白に染まる意識。魂を貫くかのような快感。涙声とともに絶頂を向かえ、奈美がシーツに崩れ落ちる。
一瞬、視界一面が閃光に包まれ、尾を引いて現れたのは、暗く澱んだ部屋の陰…。
激しい絶頂の余韻からか、肩の震えが収まってくれない。
正気を取り戻した少女の耳が、雨音と、自らの息づかいを捉え始める。
ぐっしょりと重い、全身の汗…。
急速に冷えていく身体を抱きしめながら、奈美は静かにすすり泣きを始めた…。
――――痛いほどの静寂が心を引き裂く。
悲しかった。
…寂しかった。
それは今だけに限った話ではない。
ずっと…。
そう、あの湖で叶太輔と別れて以来、自分はずっと……自らの本心を偽って生きてきたのだ。
祈望も、願望も…欲望も、その全てを…。
仕方ないことだと諦めて、大したことはないと誤魔化して…
『彼女』が無事でよかったと、笑った顔で嘘をついて…
…けれど、蓋を開ければ結局のところ、こんなものだ…。今しがた自分は、快楽に負け、自らの本心を口にした。
『彼女』を案じるフリをして、心の何処かで恐れていたのだ…いつか訪れる『彼女』との再会を…。
…醜い嫉妬に駆られていた…。隠れて必死に足掻いていた…。
叶を『彼女』に渡したくないと―――――…
「…最低だ…」
乱れたベッドに横たわり、奈美は消え入りそうにつぶやいた。
頬を伝う涙は、止まることを知らず…冷め切った熱の名残りに彼女は小さく身震いする。
「最低だ……本当に」
シーツを汚す、愛液の染みから目を背け……少女はやがて瞼を閉じる―――――――――…
再び目を開けたとき、叶にどんな顔して会えばいいのだろう…。
そんな不安を嘲笑うかのように…
渇いた世界に、雫は落ちる…。