『2.血音―the blood puddle―』  
 
 
 
二人で傘を差し、雨の中を歩く。  
何かしゃべるわけでもなく、ただ歩く…。  
 
心地よく流れる水音を聞きながら、奈美はその時、隣を歩く少年の横顔に何の意味もなく見入っていた。  
学校からの帰り道。時刻にして、おそらくは6時くらいのこと。  
 
(…会話が…続かない…)  
 
もくもくと足を動かしつつも、奈美は内心で頭を抱え続ける。  
勢いで彼を連れ出したまでは良かったが、その後のことは何も考えていなかった。  
 
自身の心に正直に……  
とはいえ、その肝心の本心とは、一体どんなものなのだろう?今更はっきりと相手を意識してしまったせいで、何を話せばいいのか分からない。  
黙っていても仕方ないのに、口数と声量に反比例して、緊張だけが高まっていく…。  
 
(このままでは…なんというか、その、非常に良くない…。こんなときに限って、どうして何もしゃべらないんだ、叶は…)  
 
人気のない雑踏を通り過ぎ、住宅街の裏路地に入る。  
何も言わず自分に歩調を合せてくれる少年――――叶太輔は、先刻から無言のまま、街の景観を眺めていた。  
 
…彫像のように、ただ眺めている…。  
 
(…?)  
 
その視線の行く先が気になって、奈美は小さく首を傾けた。  
 
彼らしくない、どこか虚ろな瞳と、その中心に覗く漆黒の穴…。  
奈美はこの表情を知っている。この不可解な表情を浮かべるとき、太輔は決まって、ある人間―――人間『だった』一人の友人のことを思い出しているのだ。  
 
世界の理を超え、力を手にし、最後には殺し合うことしか出来なかった、あの幼馴染のことを…。  
 
ソレは彼だけが理解している親友との絆。自分が踏み込むことは許されない、ぶ厚い壁。  
 
だから、奈美はいつも不安になる。  
 
その虚ろな瞳が、『此処』ではない何処か―――目に見えない遠い場所を映し出しているような…そんな気がして。  
その漆黒の穴が、彼をまた自分の手の届かない、暗い闇の向こうへと連れ去ってしまうのではないか、と。  
 
―――――…。  
 
 
「…叶…?」  
 
「――――…ん、悪ぃ…。少しぼーっとしてた」  
 
 
不意に少年の口元が微笑みの形をつくり、わずかに息を吐き出した。  
 
その時になってようやく、奈美は彼が見つめていたモノを理解する。  
少年の双眸が映し出していたのは、雨の中を走り抜けていく子供たちであり、あるいは二人連れで歩く老夫婦の姿…。緑の木々とそよぐ風…。  
―――何のことはない…それは、とてもありふれた日常の景色だった。  
 
…そんな『ありふれた』ものを、彼は眩しげに見つめていた。  
 
 
(…いつから…)  
 
 
いつから彼は、これほどまでに遠い眼差しで世界を見るようになったのだろう。2年という年月は、一体、彼の何を変えてしまったのか…。  
 
『―――っ!なんでダチと戦わなきゃなんねぇんだよ!あいつと勝又達を一緒にすんな!!』  
そう答えた彼の瞳は強かった。あまりの強さに、暗闇にうずくまる私の心はささくれ立った。  
 
『…もちろんまた来るよ。今度は…友達と一緒に…』  
そう笑った彼の声音は優しかった。迷いのない笑顔は、私の心に重い楔を打ち込んだ。  
 
なのに叶は…あの頃の強さをそのままに、あの頃の優しさをそのままに、けれどドコか決定的な部分を違(たが)えてしまったのだ…。  
親友をその手にかけようと覚悟したその瞬間から…。  
私たちを守ろうと、自らの死を選び取った…そのせいで。  
 
『広瀬は勝又側の能力者だ!お前が追っているものは、かつての幻影にすぎない』  
 
あの時、私があんなことを口にしたりしなければ、今ごろなにかが変わっていたのだろうか。  
彼がこんな…人生を悟りきった老人のような微笑を浮かべることも、時折、別人のように冷たい表情を浮かべることも――――…  
 
 
 
―――――叶…。あの晩、広瀬をどうするつもりだったんだ?倒すっていっても……  
 
 
―――――殺すつもりだったよ…。  
 
 
 
(………。)  
 
 
 
―――――殺すつもりだったよ…。  
 
 
「……っ…」  
 
気がつけば、奈美はきつく自分の掌を握り締めていた。食い込んだ爪が肌を切り裂き、わずかに血滴をにじませる。  
やはり自分には、落合恵と同じ場所に立つ資格などないのかもしれない。  
それでも彼女は、太輔を『この場』に繋ぎ留めておきたかった。危うげで、今にも溶けて消えてしまいそうな彼の存在をこの世界に…。  
 
そうしなければいけない理由と責任が、自分にはあるから…。  
 
「…奈美、さっきからどうかしたのか?元気ないぜ」  
 
言いながら、太輔がこちらの顔を覗き込んでくる。その瞬間、奈美の心は固まった。  
 
「叶…」  
 
「ん?なんだ?」  
 
「寄り道をしよう」  
 
「…へ?寄り道ってどこへ?」  
 
「それは…まだ決めていない」  
 
「なんじゃそりゃ」  
 
「そうだな…そう…カラオケ、とか…?」  
 
「って、お前今、適当に決めただろソレ!つーか、絶対に行ったことないだろ、カラオケ!」  
 
「と、とにかく!寄り道をしよう」  
 
 
「……。」  
 
必死にそう訴えかけてくる奈美の視線を受け止めて、太輔は弱り顔で頭をかいた。  
首を巡らすと、ちょうど少し先に児童公園の入り口が見えてくる。閑散とした入り口。降りしきる雨が、その静寂に更なる拍車をかけている。  
 
…太輔は小さく息を吐き出した。  
 
「…んじゃ、あの公園で一休みでもするか?一応、雨宿りにもなりそうだし…」  
「…もう少し、賑やかで楽しそうな場所の方がいいんだけれど…」  
「?何か言ったか?」  
「な、なんでもない…!」  
 
雨宿り…ポツリと言葉を反すうする。  
そうして奈美は、怪訝そうな太輔の問いかけに、不承不承ながらうなずいたのだった。  
 
 
                                   ◇  
 
 
〜pause.『行為』〜  
 
 
人は何ゆえ死を恐れるのか?  
その疑問は常にワタシを包み込み、悩ませていた。あるいはその理由を確かめるために、この行為は存在を許されているのかもしれない。  
 
ワタシの中には常に、ある一つのイメージが横たわっている。  
決して客観的とはいえない、ワタシの主観が為している…それが故の『イメージ』。ワタシ自身にしか理解できない『死』の形容…。  
 
こうしていると聴こえてくる。人々の心が欲する渇きの音が…。  
そして、知る。人の本質は眼前の生を拒絶しているのだと。  
 
彼らの渇きを満たすため、ワタシは静かに指を振るった。振るってあげた。  
 
透明な輝き。冷たい感触。赤い液体。  
ヒトが形を失い、やがてバラバラに崩れていく。悲鳴とともに、大気の中へと溶け込んでいく。不恰好な果実のように、首だけが残った。  
雨音はその残滓さえも叩き潰し…。  
 
一面に広がる暗い影。影の色は血のように鮮やかな、美しい赤。  
 
 
「…。」  
 
沈黙がその場を支配する。ひとしきり周囲を見渡して、ワタシはようやく満足した。  
 
静寂こそが平穏。人々が忌み嫌う…しかし、世界の目指すべき到達点。  
 
…ワタシは知っていた。ヒトは光ばかりを見ていると。  
光だけを見て、それを真実だと思い込み、決して自分の内の声には耳を傾けようとしない…。  
 
彼らは死の価値を知るべきだ。この甘美な果実を口にして、心の渇きを満たすべきだ。  
もうすぐ舞台の幕が上がる。決して誰にも邪魔はさせない。  
 
足音が二つ聞こえてきた…。拍手にも似た雨の音。  
 
さぁ――――…カーテンフォールの時間だよ…。  
 
 
                                  
                                   ◇  
 
 
 
「…ほい。奈美、コーラとか大丈夫か?好みがよく分かんなかったから、適当に買ってきたんだけど…」  
 
10分後。公園には、雨の中を小走りする少年と、ソワソワと彼の帰りを待つ少女の姿がある。  
屋根つきのベンチに滑り込みながら、太輔は小脇に抱えたジュースの缶を差し出した。  
飲み物を買い、自販機から戻るまでの間、奈美には座っているように言付けて置いたのだが、案の定、聞く耳を持ちはしなかったらしい。  
雨のなか立たれていたのでは、こちらが気を利かせた意味が全くない。  
 
「うん。すまない、叶…――――?…どうかした?」  
 
「いや…相も変わらず頑固者だなぁと思って…。二人とも濡れちまったら、なんのために俺が出て行ったか分かんないじゃん…」  
 
「な…!だ、だから私も一緒に行くと言ったろう…!それを、お前が勝手に…」  
 
「あー…ハイハイ。もういいから早く座ろうぜ。せっかくベンチがあるわけだしさ」  
 
苦笑とともに、太輔は買ってきた缶に口をつける。そうして二人で腰を下ろしながら、しばらくは何をするでもなく、ただただ雨を見つめていた。  
 
「…。」  
 
…間がもたない。  
そもそも、自分から誰かを誘って、こうしてドコかに寄り道するなど、奈美には初めての経験だった。  
傍に居るのが叶太輔だということを差し引いても、妙に落ち着かない気分になるのは仕方ないことだ。  
自分の心音が肩越しに相手に伝わらないか…それを気にするだけで、今の彼女には精一杯だった。  
 
「…あの……」  
 
「―――それで…今日はどうした?」  
 
「え?」  
 
「何かあるんだろ?突然、俺を帰りに誘うなんてさ…。悩みがあるんなら相談に乗るけど…」  
 
言いよどみながら、太輔が振り向く。まるで射抜くように真っ直ぐに、こちらの瞳を見つめてくる。  
その視線になんとなくだが気恥ずかしさを感じ、奈美は反射的に顔をうつむけた。  
 
「別に…。コレといって何かを悩んでいるわけではない、けど…」  
 
「またまたー…?あ…!ひょっとして、誰か気になるヤツでも出来たとか?そっか〜奈美もお年頃だもんなぁ〜」  
 
「な!?ち、違う…!!そんなわけないだろう!」  
 
ある意味で完全に図星を付かれ、奈美はビクリと肩を振るわせた。  
どうしてコイツは……こう、変な所で鋭いのだろう?  
実は、肝心な部分は何一つとして理解していないのに、それでも平然とこちらの心をかき乱してくる。  
 
もしかしてワザとやっているのか…。そう小さくつぶやいた後、彼女は憮然とした表情でそっぽを向いた。  
 
「なんだよ、隠すことねーだろ…。いいから俺に相談してみろって」  
 
「断る!そもそも気になる男なんて居ない!」  
 
「えー嘘だー…。  
 …?待てよ…奈美は女子高……気になる男はいない――――!?ひょっとして百合か!道ならぬ恋ってやつか!」  
 
「〜っ!だからどうしてそうなる!?いい加減にしないと殴るぞ、叶!」  
 
「―――ぐほぁっ!!って、殴ってから言うなよ!折れた!今、なんか折れた!!」  
 
いつまでも止まない雨の中…。人気のない公園に、ギャーギャーと言い争う2人の声だけが響いている。  
だからそれは当然の成り行きだったのか…。殺気をまとい、奈美が太輔へと詰め寄ろうとしたその瞬間、紺碧の空の向こうで強烈な光が瞬いた。  
 
「―――――きゃっ…!」  
 
「?な、なんだ…!」  
 
響く鳴動。突然の閃光に足を滑らせ、濡れたアスファルトに奈美の体がグラリと揺らぐ。  
 
――――…。  
それはまさに最悪と言っていいタイミングだった。  
見上げるような姿勢のせいで、全身のバランスが大きく崩れる。受け身は…おそらく間に合わない。  
 
(…しまった…!)  
一瞬感じる浮遊感。地面に叩きつけられることを覚悟して、奈美が目を閉じたその刹那―――…  
 
不意に体全体が、無雑作に突き出された、『何か』によって抱き止められる。  
呆然としたまま、彼女の右頬を厚い胸板に押し付けられ…  
 
 
「――――…。」  
 
 
コレは、一体なんだろう?  
温かで、思っていたよりもずっとたくましかった、その『何か』―――――…。  
目を向ければすぐ傍には、心配そうに自分の顔を覗きこむ、少年の瞳が在る…。  
 
「…か…のう?」  
 
…先刻の光が、空を貫く遠雷によるものだと………そう彼女が気づいたのは、しばらく後のことだった。  
 
 
「―――ぁ…」  
 
 
力強い腕に抱きすくめられ、身動きが取れない。触れ合う肌に鼓動が高鳴り、意識もせず漏れ出る、白い吐息…。  
 
コレはなに?  
この感覚に身を任せたら、一体、自分はどうなってしまうのか…。  
 
怖い…。  
だけど知りたい。  
 
じゃあ、どうしよう……どうすればいい?  
 
雨に濡れ、冷えきった身体がかすかに震える…。心の何処かが、彼の『温度』を求めていた。  
 
 
「―――――奈美…?」  
 
 
互いに抱き合ったまま、視線が重なる。瞬きもせず、彼がこちらを見つめている。  
もっと触れたい…。もっと、もっと…。もう、自分が何をしようとしているのかも、よく分からない…。  
 
「――――叶…」  
 
目を瞑り、少しずつ距離を縮めていく。心臓が、うるさいぐらい早鐘を打つ…。二人の唇が触れ合う寸前、頭上の空に再び閃光が瞬いた。  
 
 
「―――――?」  
 
 
 
不意に…  
 
 
明滅する光と、叩きつけるような雨音が鳴り響く。  
水と静寂に包まれた世界が崩れてゆく…。  
 
周囲の温度が急激に数℃下がったような錯覚に陥り、2人は小さく顔を上げた。  
 
 
 
 
―――…す…けて…。  
 
 
闇の向こうで何かが蠢く…。  
ひどく弱々しく…。ひどく干満に…。『何か』がこちらに近づいてくる…。  
 
三度目の明滅とともに、一つの影が浮かび上がった。  
 
「…。」  
 
稲妻が映し出したものは、少女。  
緩いウェーブのかかったブルネットの長髪と、黒のロングスカート身にまとう、美しい少女。袖から覗く血色が抜けるように白い…。  
おそらく自分たちより少し下、10代前半の年頃だろう。…何より目を引いたのはその服装だった。  
 
 
「…っ」  
 
自分のすぐ傍で、奈美が微かに息を飲むのが分かる。  
 
…異様。魂が抜け落ちたかのような表情を浮かべ、傘もささずに少女は歩く。片脚しかないブーツを引きずり、ヨロヨロとただ歩き続ける。  
乱れた髪――――ところどころ赤い染みがこびり付いた彼女のブレザーは、雨に濡れ、無惨にも執拗に切り裂かれていた。  
 
 
「?…美都羽ちゃん――――!?」  
 
 
太輔が口を開くより先に、奈美が悲痛な叫びを漏らす。反射的に振り向いた時には、すでに彼女は雨の向こうへと飛び出していた。  
 
「―――――奈美…おねえちゃん…?」  
 
「やっぱり…。美都羽ちゃん、一体、どうして…!」  
 
バシャバシャと水溜りを踏み鳴らし、その傍に駆け寄る。壊れそうな肩を抱きしめると、少女はようやく声を漏らした。  
つぶらな瞳にうっすらとだが、意思の光が宿る。  
 
「こわ…い…よ。こわい人が…くるの…」  
 
「『怖い人』?」  
 
「ワタシを追いかけてくるの…。やだよ……もう…閉じ込められるのは…い…や…」  
 
「――――美都羽ちゃん?美都羽ちゃん!!」  
 
ひとしきりそう呟いた後、少女はゆっくりと瞼を閉じた。まるで糸の切れたマリオネットのように、その場にぺしゃりと崩れ落ちる。  
…奈美は途方に暮れたまま、ただただ彼女を抱き続けていた。  
 
――――錆びついた鉄のブランコが、風に吹かれて揺れている…。  
座り込み、動こうとしない奈美に向かって、太輔は静かに傘を差し伸べた。  
 
「…知ってる子、なのか?」  
 
「……。」  
 
「奈美…?」  
 
「……斉藤、美都羽(みつは)…。学校の……保険医の先生の妹さんなんだ…。  
 よく玄関前まで先生を迎えに来ていて…。たまに、教室に遊びに来ることもあった…」  
 
振り向く奈美の表情から見て取れる動揺は色濃い…。  
とっさに声がかけられず、太輔は、彼女が抱える件の少女へ目を移す。  
 
 
「…たす…けて…」  
 
悪夢でも見ているのか、どこか怯えた様子で眠る少女…。  
身元は分かったものの、やはりこの状況で一人、公園を歩いているなど尋常ではない。  
何より意識を失う寸前、彼女が言い残した言葉が、いつまでも太輔の頭の中で尾を引いていた。  
 
(『追いかけてくる』…?それに、この子の服に付いてる血の跡は……)  
 
――――辺りに『死』の気配が充満する…。  
染み付いた血痕が少女自身のものであるかは定かでないが、悪意ある追跡者がすぐそばまで迫っていることは、どうやら間違いないようだ。  
 
「奈美―――――…」  
 
混乱する奈美の気持ちは理解できるが、これ以上公園に留まっているのはおそらく危険だ。  
その子を連れて、早くココから離れよう――――そう太輔が告げようとしたその時のこと。  
 
――――!?  
 
前触れもなく、四方の空間を強大な殺気が突き抜ける。鋭く凶暴な…獣を思わせるソレは、剥き出しの殺意…。  
瞬間、太輔と奈美を挟む大気がたわみ、流動性を持つナニかが、2人に向かって殺到する―――――!  
 
「っ!?叶…っ!」  
「分かってる…!」  
 
目配せして、彼らは同時に地を蹴った。衝撃。ついさっきまで佇んでいた足場が、ボコリ、という音を立て崩れ去る。  
軌道上にある鉄のブランコが、タイムラグの後、弾け飛んだ。美都羽を腕に抱えながら、奈美はその破壊力に戦慄する…。  
 
(こんな、馬鹿な…。まさか《能力者》がこの近くに…?だけど、一体どうして――――!?)  
 
逡巡する間もなく、正体不明の能力が奈美に対して襲いかかる。雨に視界を遮られ、反撃が出来ない。  
バックステップで一撃をかわすと、上から下へ叩きつけられる『ナニか』の飛沫が、風圧とともに頬をかすめた。  
 
(コレは…)  
 
その力の正体に気づき、奈美が天空を見上げた瞬間、頭上の空間に一帯の『雨』が巻き上げられる。  
無数の雫が結集し、ソレはやがて巨大な塊へと変貌を遂げ…  
 
(これは、水…―――――水を自在に操る能力…!)  
 
膨大な水流が鞭のようにしなる。ヒュゴ、という奇妙な鳴き声を上げ、『鞭』が奈美の居た位置を薙ぎ払う。  
美都羽を利き腕で支えたまま…しかし彼女は、再び逃げることはしなかった。  
 
「…何の目的でこの子を狙う…。これ以上は絶対に許さない…!」  
 
奈美の蒼い瞳に、漆黒の穴が浮かび上がる。そう、逃げる必要などない…。相手が人外の力を奮うというなら、自分もそれに応えるだけだ。  
 
「――――っ!」  
指先から発散される極低温の冷気が、瞬時に氷の爪を形成する。地を穿つ爪が、水流を防ぐ氷柱の群れを創り出し…  
殺傷をもたらす二つの意思が、互いの威力を相殺した。  
 
(…コレを防いでも、すぐに第2波がくる…。早く能力者本人を見つけなければ…)  
 
美都羽を連れて走り回る以上、どうしても自分の機動力には制限が生じる。この場は叶に頼るしか…  
しかし、叶にも余裕があるとは言えない状況だろう。  
 
(――――叶…)  
 
視線を走らせると、太輔は体捌きだけでなんとか水弾をかわしていた。  
その回避動作は見事と言えたが、どこか能力を使うことを躊躇しているようにも見える。  
 
(このままでは…)  
 
唾を飲み込み、奈美は小刻みな跳躍を繰り返す。  
内心の焦りを嘲笑うかのように、敵の攻撃はなおも苛烈さを増し続け…。止まない雨音。再び水が巻き上がり、それに呼応して低い笑い声があたりに響いた。  
 
『ふふっ…弱い…弱いのね…』  
 
「誰だ…。一体、どこから…」  
 
暗い淀みを伴う女の声。唇を噛むこちらの神経を逆撫でるように、《能力者》は笑いを止めようとしない。  
 
『ワタシには分かる…。貴方たちはとても渇いている……だから教えてあげるの、死の価値を…』  
「訳の分からないことを…!」  
 
氷の爪を振り上げる。  
 
そのとき奈美は、耳元でかすかに女の嘲笑を聞いた気がした。  
そして次の瞬間、起こる変化…。奈美が見つめるその先で、先ほど作り出した氷柱の形状が歪んでいく。  
バラバラに砕け、槍のように変形した塊が、次々と奈美にその切っ先を向け…  
 
「な…っ!?」  
 
『言ったでしょう?弱い、と……貴方たちでは、ワタシには勝てない…』  
 
ほとばしる悪意に押し切られ、上空から氷槍の雨が降り注ぐ。  
 
…能力の制御が奪われた…?  
水と氷…。その力の『方向性』が同質であるが故に、自分の操る氷爪も、敵の能力の制御下に置かれたということか…。  
 
《能力者にとって、強さは心の傷の深さに比例する…。》  
冗談ではない。だとしたらコイツは……コイツの心は、どれだけ人間として壊れているというのだ…。  
 
『うふふ…アハハハハハハハ!!さようなら、氷使いのお姉さん…!』  
 
「――――っ!」  
 
避け切れない…。  
そう気づいた時にはもう遅かった。氷槍によって逃げ場を奪われ、周囲を水に取り囲まれる。  
高まる殺気に、せめて美都羽だけでも守ろうと、彼女を抱く腕に力をこめて…  
 
 
 
――――死を覚悟する奈美のすぐそばを、強力な熱風が吹き抜けたのはその時だった…。  
 
 
 
「え…?」  
 
『――――――ナ…ニ…!?』  
 
 
「奈美、下がれ!!」  
 
 
庇うように自分の前へと飛び出す人影。その双眸に映る、暗く、恐ろしいまでに深い混沌の穴…。  
突き出された腕が生み出す、桁違いの熱量が、一瞬にして全ての水流を蒸発させる。  
 
球状に現出した高熱のドームの中心…その場所に一人の少年がたたずんでいた。雨も、氷も…何もかもを溶かし、灼き尽くす『死滅』の能力(ちから)…。  
 
「叶―――…」  
 
「ケガは…してないみたいだな。悪ぃ…こんな時なのに、迷っちまった…」  
 
気遣うように奈美の姿を一瞥し、太輔は周囲の気配へと目を配る。その様子に気圧されたのか、響き渡る声にも動揺が走った。  
 
『貴様……そのチカラは、一体…』  
 
「お前はしゃべりすぎなんだよ…!奈美、フォロー頼む…!」  
 
 
「――――!…あ、あぁ…!」  
 
 
次の瞬間、太輔の掌を基点にして、幾重もの熱波がほとばしる。全方位に逃げ場なく開放された炎の海が、公園全体を包み込み…  
耐え切れず茂みから飛び出した『影』の存在を、奈美の瞳は見逃さなかった。  
 
「其処だ!」  
 
素早く足元の礫(つぶて)を拾い、最小限の動作で投げつける。美都羽を預け、敵が怯むわずかな隙を突き、彼女は易々と相手の間合いへ侵入した。  
 
「ハァ…ッ!」  
連撃。牽制の掌底から、その動作は流れるように捻りへと変わり、『影』の急所に鋭い回し蹴りを叩き込む。  
苦悶の声を上げ、ついに能力者がヒザをついた…。  
 
「ぐっ…ぅ…」  
 
「トドメだ…!お前にはしばらく眠ってもらう!」  
 
黒いコートを頭から被っているせいで素顔までは見えない…。だが、声から判断した通り、女であることに間違いはないようだ。  
服ごしに分かるなだらかな曲線は、明らかに男には出せないもの…。  
 
女性を打ち据えることに微かな抵抗を覚えながらも、奈美は手刀を振りかざす。  
 
「――――ナルホド…。どうやら甘く見すぎてたようね……あの坊やと、そして貴方を…」  
 
「!?」  
 
『影』が嗤う。コートの奥から覗く、不気味な黄金の双眸。  
ソレらを薄く細めると、彼女は奈美の手刀を受け止めた。そのままゆっくりと顔を近づけ、品定めするようにこちらを視線で嘗め回してくる。  
 
(コイツ…。今、何を…)  
 
先程の一撃、自分は何一つとして油断などしていなかったハズだ…。  
にもかかわらず防がれた。能力者とはいえ、素人同然の動きしか出来ないこの女に…。  
 
言葉を失う奈美の鼻腔を、不意に奇妙な香りが通り過ぎる。薔薇のように甘く澱んだ…その匂いだけで気が遠くなるような…そんな香りが。  
虚脱感とともに全身から力が抜けていき…奈美はその場に座り込んだ。  
 
「近くで見ると、なかなか可愛いのね…。決めたわ…次の獲物は貴方にしましょう…」  
 
「ふ…ぅ…っ…それは…どういう…」  
 
発汗がひどい…。体の芯が火照って、まるで言うことを聞いてくれない。  
成す術もなく『影』の背中を見送りながら、奈美は、遠くに響く太輔の呼びかけを聞いた気がした。  
 
「私が迎えにくるそれまでの間、せいぜい自分の中の欲望に苦しむといい…。  
 いくら武術を嗜もうと、貴方は所詮、一人の女……本心を押し隠したところで、肉体(からだ)に嘘は吐けないのだから…」  
 
「ふざ…けるな…。…私は…」  
 
 
 
「それじゃあ次に会えるのを楽しみにしてるわ。今度こそ本当にサヨウナラ…。氷使いのお嬢ちゃん……」  
 
 
 
その言葉を最後に…  
 
ユラユラと景色が揺れていく。  
 
公園から一望できる、夜の街並み。陽の残照を受けて、空は血の色に染まっていた。  
夕暮れ、死の気配、怯える少女―――今日一日の出来事が、フラッシュバックのように頭の中を駆け巡る。  
 
ぼんやりとした視界の向こうで誰かが言った。何の感慨も抱かせない声音で、『私の本心』と…。  
今日その言葉を耳にするのは、一体、何度目になるだろう?自分がそれを理解する日など、本当にやって来るのだろうか?  
 
分からない…。  
今はただ、眠気しか感じない。  
 
 
奈美は思う。  
すべては雨が運んできた幻惑なのではないかと…。この不安も、この恐怖も、この痛みも…。  
すべては現実にありもしない、空想なのではないだろうかと。  
 
 
きっと――――。  
 
 
(ふふっ…それも誤魔化しか…。  
 悟…悟は私に守られる自分が嫌だって言っていたけど…本当はその逆……。私なんかに、貴方を守る資格はなかった…)  
 
 
そう…今の自分は弱い。真実から目を背け、暗闇で震えることしか出来ないくらい…臆病で、ちっぽけで、どうしようもない…。  
 
 
(叶…私は―――――…)  
 
 
…その先を言葉にする前に、奈美の思考は薄れ、途絶えてゆく。まるで全てを飲み込むように、闇が意識を塗り潰す。  
後に残ったのは、公園を覆う雨の音…。  
 
サワサワ、サワサワと…。  
無情に、無機質に…ただただ雨は降り続ける―――――…。  
 
―――…。  
 
鈍色に広がる雲の下、世界は黒に包まれた。  
 
 
 

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