金曜日の夜。夕食の終わった榎木家で春美が新聞を広げていると、
後片付けを済ませた拓也が神妙に切り出す。
「あのね、パパ」
「ん?」
「明日、仕事って…休み?」
「ああ、明日は久しぶりの休みだな。それがどうかしたか?」
春美が新聞から顔を上げると、拓也が妙にそわそわした様子でこちらを見ている。
「う、うん…あのね、明日、僕遊園地行きたいんだけど…」
「明日? 急だな、パパとか?」
遊園地に遊びに行く事を愛に誘われたのは、月曜日だった。
下駄箱に入っていた手紙を読んだ時点で行く事はもう決めていたが、
春美に話すのが恥ずかしくて、結局前日になるまで言い出せなかったのだ。
「…ううん、その…」
妙に口篭もる拓也を、春美は不思議そうに眺めていたが、
不意に何か思い当たるものを見つけた表情になると、新聞で顔を隠す。
「解った、実の面倒は見るから、遊んでくるといい」
「本当? ありがとうパパ!」
(遂に拓也も色気づいてきたのか…)
嬉しそうに部屋を出ていく拓也を見送りながら、
春美は男親として顔の下半分がにやけてくるのを抑える事が出来なかった。
「おはよう、拓也君」
「あ、槍溝さん、おはよう」
拓也は10分前には待ち合わせ場所に着いていたが、
そのちょうど5分後に愛は姿を見せた。
「今日は、逆セクハラしないんだね」
いつもと違い正面から現れた愛に、ふと思った事をそのまま口に出してしまい、慌てて言葉を切る。
「ん〜? 拓也君、遂に目覚めてくれたの?」
「う、ううん。そういう訳じゃないんだけど」
目覚めるという言葉に一瞬拓也の身体が硬直する。
しかし愛はそれに気付く事無く、拓也の腕を取ると切符売り場に引っ張っていく。
「ほら、電車来ちゃうわよ」
拓也は危うくバランスを崩しそうになりながら慌てて愛についていった。
電車の中は比較的混んでいたが、なんとか二人が座る場所は確保できた。
横並びに座ってひと息つくと、電車が揺れて拓也の膝が愛のそれに軽く触れる。
たったそれだけで心臓は早鐘を打ちだし、動揺した拓也は慌てて膝を閉じる。
しかし、閉じたはずなのに、さっきよりも触れる頻度が上がった気がして、
拓也が膝に目線を落とすと、拓也の動作に気が付いた愛が面白がって突っついている所だった。
「槍溝さん…!」
小声でたしなめるように呼びかけても愛は動じる色も見せず、
それどころか今度は手を拓也のそれに押し当ててくる。
電車が揺れる度にひんやりとした、心地よい感触が手に伝わってきて、
拓也はどうしようか迷ったが、少し名残惜しい気持ちを封じ込めて手を自分の膝の上に置く。
すると、さりげない動作で愛がその手を引き戻し、固く握りしめる。
拓也は目だけを動かして愛の表情を伺おうとしたが、
愛は窓越しの景色を眺めていて顔が見えない。
どうしても愛の様子が気になる拓也は、小さな葛藤の末に誘惑に負けて少しだけ首を回すと、
ガラスに反射した愛の目が笑っているのが見える。
全部お見通しよ、と言われている気がして、拓也は顔が熱くなるのを感じる。
握られている手は温かくて気持ち良かったが、
内心は周りの乗客に何か言われないかと気が気でなかった。
「ね、着いたらまず何乗りましょうか」
愛はごく普通を装って話しかけるが、拓也はそっぽを向いたまま答えない。
本当はいくらでも話したい事が浮かんで来ているのだが、
どうしても最初の一言を口に出す事が出来なかった。
そんな自分に激しい自己嫌悪を感じながら、結局、
会話らしい会話も交わさないまま電車は目的地に到着する。
「着いたわよ。降りましょ」
目指す駅に着いた愛が立ちあがると、拓也も無言のまま立ちあがる。
愛の口調がそっけない物に感じられた拓也は不安を感じて何とか話しかけようとするが、
今度は愛の方がそれを拒絶するように足早に歩く。
二人は無言のまま遊園地の入り口まで来てしまったが、
切符売り場が見えてきた時、遂に愛が立ち止まる。
軽く目を細めながら、なお顔を下に向けたままの拓也に詰問する。
「ね、拓也君…怒ってる?」
「う、ううん…そんな事ないよ」
「じゃ、どうしてさっきから口聞いてくれないのかしら?」
「それは、その…」
照れている、とは今更口に出来ず、拓也は答えに詰まる。
(大体、手は握ってるんだから、怒ってる訳ないのに、気付いてくれたっていいじゃない)
そんな自分勝手な事を考えながら、理解を求めるように愛の顔を見る。
それに気付かないふりをしながら、愛は素早く考えをまとめる。
拓也が怒っているわけではない事は判ったが、このまま無言で遊んでも面白いはずがなく、
原因を拓也が話してくれない以上どうすることも出来ない。
それが愛の出した結論だった。
拓也の、やや拗ねたような顔を見ないようにしながら握っていた手をふり解く。
「あ…」
「ごめんね、私、今日は帰るわ」
自分が何か大切な物を失い始めている事を拓也は悟ったが、
身体は意思に反して縛りつけられたように固まってしまって動けない。
愛はなお最後に拓也が何か言ってくれるのではないかと期待して、
わざとわずかに動きを鈍らせたが、固まったままの拓也に失望の色を瞳に浮かべると、
振り向いて今来たばかりの駅の方へ戻っていく。
一人残された拓也は、呆然と立ちつくす。
引きとめようと愛の背中に向かって中途半端に上げた腕が、拓也の心境を象徴しているようだった。
その日の夜、拓也が気が付いた時、目の前には食べ終わった食器があった。
家にどうやって帰ってきたかも覚えていないほど拓也は混乱していた。
明らかにいつもと様子の違う拓也に春美や実が声をかけても、
生返事をするだけでますます心配させる。
(やっぱり…謝らないといけないよね)
そんな事は昼に愛と別れた時から判っていたのだが、
それでも、決心するまでには今までかかってしまったのだ。
覚悟を決めて受話器を自分の部屋に持ち込むと、正座して受話器を持つ。
2回途中まで番号を押して切った後、3回目でようやく最後まで押す。
(出てくれなければ、それでもいいかな…)
やや気弱な気持ちでコール音を聞いていた拓也だったが、
受話器を取る音が聞こえて、軽く身構える。
「もしもし?」
「あ、あのっ、榎木と言いますけど、槍溝さん…」
「榎木君?」
おそらく近くに家族がいるのだろう、愛の声は妙に小さく、事務的だった。
しかしそれを怒っているからだと勘違いした拓也は再び気弱になってしまう。
「うん…」
「ちょっと待っててくれる? 部屋に電話持ってくから」
愛は電話口を手で塞ぐと、親に部屋で話す事を告げ、受話器を持って急いで移動する。
扉を閉めてベッドに潜りこんで、ようやく愛は拓也に話しかける。
「もしもし? どうしたの? 家に電話してくれるなんて、初めてじゃない?」
「う、うん…あ、あのね」
時間をおいて再び聞こえてきた愛の声はそれほど怒っているようには聞こえず、
拓也はほっとしたが、いざ謝ろうとすると、それ以上言葉が続かない。
拓也が言いたい事をほぼ予想していた愛は辛抱強く待っていたが、
一向に話そうとしない受話器の向こうの声にしびれをきらして水を向ける。
「今日の事?」
「う、うん…。あの、…ごめんね」
「ううん、別にいいんだけど…どうしたの? 何かあったの?」
「その…恥ずかしかったんだ」
「……」
「あのね、電車に乗って手を繋いだ時あったでしょ。
あの時から、どうしてかわからないけど急に恥ずかしくなっちゃって、
槍溝さんが話しかけてくれた時も、何か言わなくちゃって思ってたんだけど、
どうしても声が出なくって、本当にごめんね、あの……槍溝さん………怒ってる?」
顔が見えない事に後押しされて一気に自分の胸の内を吐き出した拓也は、
途中から愛が無言なのに気付いて慌てる。
しかし、愛が黙った理由は拓也の想像したのとは程遠く、
はじめは呆れて、次いで嬉しかったからだった。
(裸まで見てるのに、なんで今更照れたりするのかしら…?)
拓也がしな子の身体を自分からこっそり触って、
いささか順番が逆ながら異性に目覚めつつあった事を知らない愛は当然の疑問を抱いたが、
とにかく、自分に対して照れる、という事は少なからず気がある訳で、
それに気付いた所で嬉しさが込み上げてきた、という訳だった。
「怒ってないわよ、大丈夫」
「良かった…」
心底ほっとしたようなため息を漏らす拓也に、愛はちょっとした悪戯心が芽生える。
それは今日のデートが台無しになってしまった事と無関係ではなかっただろう。
「今、電話は大丈夫なの?」
「え? うん、今部屋で話してるから大丈夫だよ」
「そう。ね、ところで今、私、どんな格好してると思う?」
「え?」
突然違う話題を振られて拓也はとっさについていけない。
それでも、機嫌を損ねないように何か言わなければと思って、適当に思いついた事を言う。
「昼間着てた服…じゃないの?」
「ぶぶー」
受話器の向こうで楽しそうにしている顔が容易に想像できるほど、愛の声は弾んでいる。
その様子にちょっとだけ元気を取り戻した拓也だったが、
愛の次の一言で再びパニックに陥ってしまう。
「今ね、ちょうどお風呂から出た所だったの」
(!? っ、て事は…)
思わず愛の格好を想像してしまい、拓也はぶんぶんと首を振る。
そんな拓也を更に刺激すべく、愛は続ける。
「あら。バスタオルが落ちちゃった」
思わず生唾を飲みこむ音が聞こえてきて、愛は拓也が作戦に乗った事を確信する。
「ゆ、湯冷めするといけないし、服…着た方がいいと思うよ」
「そうね…でも、拓也君と裸で話してるって思うと…すごく…興奮するのよ」
裸、という言葉を強調するように囁く。
愛の期待通りその言葉は拓也の脳裏に響き渡って、下半身に血を集めはじめる。
「で、でも…風邪引いちゃう、よ…」
喉の辺りが干上がるのを感じながら、拓也はかろうじて声を絞り出す。
「そうね。せっかく拓也君が心配してくれたんだし、服着るわね。
ちょっとそのまま待っててくれる?」
「う、うん」
ほっとしたような残念なような気持ちになって、拓也は心持ち受話器から顔を離す。
腰の辺りがむずむずしてきて、そっと右手で押さえると、
その刺激が引き金になって、すぐにペニスはズボンの中で膨らみ始める。
「拓也君は今何してるの?」
突然愛の声がして、拓也はもう少しで受話器を落っことしそうになる。
「!! べっ、別に、何にもしてないよ」
「ふーん…ね、私ね、いつもお風呂出たらしてる事があるんだけど、なんだか解る?」
「えっ…と、その…」
考えては見たものの、いつも実の身体を拭いてやる事に気がいっていて、
自分の身体など適当に拭くだけの拓也には想像もつかない。
「胸のマッサージ」
拓也が答えに詰まったその一瞬、絶妙なタイミングで愛は爆弾を投げ込む。
「むね、って……」
「もう…おっぱいの事よ」
さも恥ずかしい言葉を無理やり言わされてしまった、といった口調を作って愛は答える。
「身体が温まって血行が良くなってる時にすると効果が高いんですって」
「そ、そうなんだ…」
愛の言っている事が本当か嘘か拓也に解るはずもなく、ただあいまいに同意する。
「そうなのよ。本当は、男の人に揉んでもらうと更に効果があるらしんだけど」
愛はある事ない事適当に言いはじめるが、
それも拓也はその手の事に疎いに違いない、と計算しての事だった。
空いている右手を服の中に忍び込ませながら、舌で唇を舐めて軽く湿らせる。
「身体が冷える前に…ちょっと…するわね」
するって何を、と拓也が問う前にかすかな声が受話器から漏れはじめる。
「んっ………ぁ……」
何度か聞いた事のある声。その声を聞く時は、いつも二人とも裸になっていて、そして…
拓也の頭の中に、愛の裸がフルカラーで浮かび上がる。
視覚と聴覚を一致させようと、受話器に耳を押しつけるようにして拓也は愛の声を求める。
「いつも……拓也君が触ってくれる時みたいに、
手のひらで押しつけるようにしながら触るとね……だんだん…気持ち良く、なって…くるの」
「ね、拓也君は…私の胸、好き?」
「え、あ、う…うん」
他に答えようも無く、拓也は小さく頷く。
「そう…嬉しい……ん、ん……」
愛は少しずつ手の動きを大きくしながら、
少し演技っぽい口調を作って電話の向こうの拓也に声を聞かせる。
普段はどちらかというと拓也が感じるさまを見るのが好きで、
自分の感じている声はあまり聞かせたくなかったのだが、
電話でするというシチュエーションが興奮させるのか、
やがて、本気で気持ち良くなりはじめた愛はどんどん大胆になっていく。
「ね、拓也君…も…一人で、した事って…あるのかしら?」
「ひ、一人でって…」
「おちんちんを、擦ったり」
本人を目の前にしては決して言わないような猥語が、すらすらと口をついて出る。
「そ、そんな事…した事…ないよ」
異性を意識する前にセックスを覚えてしまい、
しかも未だちゃんとした知識は持っていなかったので、それは本当の事だった。
「今は? 今は…拓也君の…おちんちん、硬くなってない?」
おちんちん、という言葉を口にする度、
愛は身体が興奮に震え、下腹部が熱くなっていくのを感じる。
胸に置かれていた手を、拓也に触られていると想像しながら身体の中心へ動かす。
「あ、あの…僕…」
言葉を詰まらせる拓也に、愛は自分の質問が的を射ている事を確信したが、
それを拓也本人の口から言わせたくなって語を重ねる。
「ね、拓也君も…ズボン脱いで、手で…触ってみて……私も、触る、から……」
自分がひどくいけない事をしているような気がしたが、
甘くかすれた愛の声は思考を麻痺させるように全身を犯してくる。
自分の手つきをもどかしく感じながら、ズボンのボタンを外す。
軽く腰を浮かせて、ズボンは片足から抜き取ったが、
パンツは硬くなってしまっている物の為に引っかかって片手では脱ぐ事ができない。
迷った拓也は受話器を床の上に置くと、急いでパンツをずりおろして下半身を露出させる。
階下の春美達に気付かれないか、ちらりとドアに目をやるが、
もう引き返すには深入りしすぎていた。
と、受話器から愛の声がしているのに気が付いて、慌てて拾う。
「もしもし? 拓也君、どうしたの?」
「あの……パンツ…脱いでた…」
何も正直に言わなくてもよい物を、元来の性格なのか、
それとも愛に対する条件反射が躾られてしまったのか、拓也は包み隠さず告げてしまう。
「そう…。…ね、おちんちん…触ってみて」
指示に従って、自分の身体の一部なのになんとなく目をそむけてしまいながら、
手探りで自分のペニスに触れる。
自分の身体とは思えないほど熱く、脈打っているのが伝わってきて驚いたが、
指が触れた事による快感の萌芽もまた恐ろしいほどだった。
「どんな、感じ…?」
拓也が自分のペニスに触れている所を思い描きながら、
そっと、おへそから更に下へと手を滑らせる。
まだ触れてもいないのに、割れ目からは蜜が溢れ出していて、指に熱さを伝えてくる。
「硬くて…僕の身体じゃないみたい。それに…熱いよ…」
普段トイレに行く時でもほとんど意識しないで持つそこは、
今烈しい程反りかえって自己を主張している。
拓也はわずかに恐怖を感じながらも、
それを上回る好奇心と快感に囚われて手を離そうとしない。
「拓也君、握って…みて…」
愛に言われるままに、拓也は包み込むように屹立を握ると、
それは未だ完全に掌の中に隠れてしまう大きさだったが、
与えられた役割を果たそうと手の中で脈打ちながら、更なる刺激が加えられるのを待つ。
「ね、どう…? 気持ちいい…?」
「……う、うん…」
「…あのね、擦ると…気持ち良くなるって、本に…書いて、あったの…」
割れ目の周りを指でなぞりながら愛は指示を続ける。
拓也は愛に言われた通り、ぎこちない手つきで掌を上下させはじめる。
初めこそ慣れない動きで変な方向に力をかけてしまって痛い事もあったが、
次第にスムーズにしごきはじめる。
少しずつ、自らの力で高めていく性感に、拓也はごくわずかに呼吸を荒げる。
(こんな…の……ダメ、だよ…止め、ないと……)
なお心に残る理性がそう考えてみても、腕の動きを止める程の命令を出す事はできず、
やがてそれも淡雪のように消えてなくなり、拓也は初めての自慰に没頭する。
受話器の向こうから荒い呼吸が漏れてくると、
愛の指もそれに応じるように激しさを増す。
それまでぴったりと割れ目に押し当てて軽くさすって、
指腹全体でやんわりと刺激するに留めていたのを、
自分の指を拓也の物に見立てて浅く指を入れてみる。
(拓也…君…)
ぞくぞくするような痺れが広がっていき、すぐに我慢できなくなって、
より深くへと指を差し込むようになる。
愛は今まで、一人で慰めた事はあっても、それほど本格的にした事はなかった。
それはやはり嫌悪感と恐怖心のせいだったのだが、
今は、完全に中指全てを自分の中に挿入してしまっていても、
それが拓也の物だと思うと、怖くはなかった。
それどころか、更なる悦楽を引き出そうと積極的に指を動かす。
「んっ…拓也君……拓也君、好き…」
想いを口にしてしまっている事にも気付かず、愛は拓也の名前を連呼する。
何度目か奥深くまで指を突き入れた時、急速に頭の中が白く弾け、そして何もなくなる。
愛が絶頂を迎えたのとほとんど同時に拓也も達しようとしていた。
身体の中から何かがせりあがってきて、出口を求めて一点に集まってくる。
「…………!」
吐き出す為の最後の引き金は、愛の声だった。
情欲をそそる喘ぎ声に混じって突然自分の名前を呼ばれ、
驚いた所に更に「好き」と言われた事で一気に爆ぜる。
声にならない叫び声を出しながら、白濁した液を勢いよく、何度かに分けて宙に放つ。
強烈な開放感が拓也を襲い、それに続いて快感が身体を支配する。
腰が自分の物でなくなったように感じながら、
拓也は受話器を力一杯握り締めていた。
「…もしもし」
呼吸が整っていないまま、愛が拓也を呼ぶ。
「…な、なに」
拓也の返事が詰まったのは、見られていないとはいえ射精の直後で、
しかも最後の愛の言葉が急に脳裏に甦って恥ずかしくなったからだ。
しかし呼びかけた愛も、何故かそれ以上続けようとはせず、
二人とも相手が何か話しかけてくるのを待ったが、微妙な沈黙が二人を包む。
といって自分から電話を切る気もしないまま、更に時が流れようとした時、
突然拓也の耳に別の声が飛びこんでくる。
「拓也? まだ電話してるのか?」
邪魔をしないように気を利かせて実と風呂に入っていた春美だったが、
風呂からあがってもまだ拓也が電話をしているのに驚いて、
さすがに階下から呼びかけてきたのだ。
「う、うん! 今終わった!」
拓也はとっさに春美に嘘をつきながら、愛に急いで事情を説明してほとんど一方的に切ってしまう。
切られた電話の向こう側では、
愛が受話器の先にいる無粋な誰かを睨みつけるような表情をしていた。