「さぁ、じゃあもう一本行きましょう。気分を楽にして。気持ちを切り替えればきっといいタイムが出るわ。」 
プールサイドで肩にタオルをかけて休んでいた少女に、肩幅のあるしまった体つきの女性が声をかける。有名ブランドの競泳水着に包んだ体には一片の無駄肉もない。オリンピック・メダリスト。頂点に立ったものだけが持つことのできる余裕の笑み。 
(私はあんな風には笑えない) 
2ヶ月前に特別コーチとしてそのメダリストがやってきたとき、少女は羨望のまなざしでその笑みを見ていた。今はその笑みを見るたびに足元が崩れ去るような喪失感を感じる。 
「かおりちゃんどうしたの?」 
コーチが手をたたきながら微笑む。 
「はいっ」 
(がんばらなきゃ) 
萎えそうになる足を懸命に動かして飛び込み台に上る。みんなが自分に期待している。 
「On your mark!」 
オリンピックのため号令。 
「Get set!」 
オリンピックのための水着。 
「Go!」 
オリンピックのためのプール。まとわりつく水。まるで少女をおぼれさせようとするように。懸命に掻けど掻けど体は前に進まない。ついこの間まであんなに泳ぐのが楽しかったのに。プールに入ればいくらでも泳げると思っていた。練習が楽しくてしかたなかった。なにが悪かったのだろう。手も、足も、思うように動いてくれない。懸命に体を動かし、息継ぎを繰り返す。水中眼鏡の中に涙がこぼれるのを止められない。 
(私…もうだめだよ。助けてよ…味の助君…) 
 
 
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「ねぇ、萌乃香。なにかあったの?変だよ。」 
「え?何?ううん。なんでもないよ。」 
声をかけられた少女は慌てて一緒に歩いている少年に首を振った。中学生らしい、ほんの少し幼児体型を残したかわいらしい少女である。今時の中学生にしては珍しく、ピンと背を伸ばして歩く姿が清清しい。本人は気づいていないが、友達と立ち止まって談笑しているときなど両手で体の前にかばんをさげた姿が同級生の男の子の視線をぐいぐいひきつけている。幼い顔立ちにくりくりとした眼の愛らしいその少女は、ここ二日ほど胸をいためていた。 
「ね、ひょっとして、あれ?」 
「え?あれって??」 
いきなり意味深な言葉で聞かれて萌乃香は声が裏返った。顔が真っ赤になる。年頃の女の子にとって様子が変になるアレとはひとつしかない。月のものだ。白昼堂々天下の往来でこの幼馴染の男の子はいったい何を言い出すのだ。 
童顔の愛らしい少女がパニックに陥っているとも知らず、その筋では天才少年で知られる男の子は声を潜めて少女に話し掛けた。話しにくい内容を、彼なりに勇気を込めて。 
「萌乃香。あのさ、恥ずかしがらなくていいから。お通じの良くなる食べ物作ってあげるよ。」 
一瞬、二人の歩く通りが静寂に包まれた。萌乃香の耳の奥がキーンと鳴り、顔面が炎に包まれたように熱くなる。 
「なによ!あたし便秘なんかじゃないわよっ!」 
顔を真っ赤にして町内に響き渡るほどの声を上げる少女。猛烈な剣幕にぎょっとして思わずあとずさる少年。 
「あ、え、萌乃香、そんな大声で…」 
「あ……、もう、味の助君のバカァ!」 
我に返った少女は赤い顔を一層赤くすると、幼馴染をその場に残して半泣きで走り去った。 
「…お通じじゃなかったのかな。」 
いまいちピントの合わないままの天才料理人、徳川味の助は一人残されてきょとんとしている。 
 
 
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その晩、味の助が幼馴染である萌乃香のことで悩んだかと言うとそんなことは無かった。まだ中学生である彼は母親の洋食屋の唯一の料理人である。味に関してはからっきし頼りにならない母親を助けて、中学生ながら彼はこの店を支えている。では母親がてんでだめかというとそんなことはなく、ついこの間までは常連の半分は母親めあてだったという立派な看板娘(?)ぶりである。親一人子一人、つらい日もあったが最近では料理雑誌で紹介されるほどの人気で、夕刻に調理場に立つとあとは閉店までそれこそ汗をぬぐう暇もないほど忙しいのが彼の日常だ。 
そういうわけで、午後10時に電話が鳴るまで幼馴染のことなどすっぱりとこの天才料理少年の頭から消え去っていた。 
「味の助、萌乃香ちゃんよぉ」 
階下で風呂の準備をしている母親が電話を取らずに呼ぶ。 
「はーい」 
母親が電話を取らずに萌乃香だと呼ぶことに微塵の疑問ももたずに階段を降りてくる味の助。この二人にとって午後10時の電話は「萌乃香に決まっている」話だ。幼馴染の萌乃香は顔つきこそふっくらとしてまだ幼さが残るものの、きちんと躾られたいい子である。本来こんな時間に他人の家に電話をしてはいけないことはわかっている。ところが味の助の店は夜までやっているから早く電話をすると仕事の邪魔なのだ。だから店の片付けと翌日の下ごしらえが終わった頃の10時きっかりに電話をかけてきては手短に話をして電話を切る、ということが週に1,2度ある。 
「萌乃香ったら、大した用事でもないんだから学校で話せばいいのに」 
と、この手の話に関しては女子より開花が遅い男子らしく、味の助は電話の意味がよくわかっていない。それを横目で見ながら味の助の母親はこぼれる微笑みを抑えきれない。萌乃香が電話をかけるようになったのは中学生になってからだった。どこまで気持ちが進んでいるかはわからないが、淡い気持ちが芽生えはじめているのだろう。(躾の厳しいお宅なのに電話をかけて大丈夫かしら)と心配したこともあったが、萌乃香が携帯電話を持っていると聞いて安心した。きっと自室で小さな声で話しているのだ。そう思うといっそう可笑しい。二人ともやさしい子だ。きっと似合いのカップルになる。そう思って、味の助の母親は二人のことを温かい目で見守っている。 
 
 
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受話器を置いたあと、萌乃香は深いため息をついた。今日は話そうと思ったのにそれもできなかった。 
友達のかおりがスランプに陥ったのを聞いたのは2日前のことだ。最近なんとなく声をかけずらかったのだが、知らない間にそんなことになっていたとは。かおりは将来を期待される水泳選手で、次期オリンピックに押す声もある。萌乃香とかおりは仲良しだった。だが、それが最近ギクシャクしている。原因は味の助だ。 
味の助をかおりに紹介したのは萌乃香だった。食欲不振のせいで記録が伸び悩んでいたかおりに何か食欲の出るものを作ってほしいと味の助に頼んだのだ。味の助は運動も勉強もすがすがしいほどだめな少年だが、料理に関しては突出した才能をもっている。その腕前は口うるさい料理評論家をうならせるほどだ。かおりの食欲不振も紆余曲折はあったものの、味の助の料理のおかげですっかり治すことができた。そこまではよかった。問題はその後だ。 
食欲不振が治ったかおりが無事記録を出したあとに味の助にお礼のキスをしたのだ。キスといってもほっぺたにちゅっとやっただけなのだが、こともあろうに大勢が見ている前でやってしまった。 
中学にあがってちょっとだけ味の助を意識するようになっていた萌乃香にとっては晴天の霹靂だった。味の助が水着の美少女にでれでれしているのにも無性に腹が立ったが、キスという既成事実を大勢の前で作られたのがなによりこたえた。自分に隙があったといえばそれまでだ。が、まさかこの勉強も運動もあわれなほど不自由な少年に心引かれる少女がほかにいようとは思っていなかったのだ。いや、正確に言えば、自分が味の助を好きかどうかもかおりのキスを目の当たりにするまでよくわかってなかった。今はわかる。 
(私は味の助君が好き) 
そうでなければこんなに胸が痛むわけがない。味の助をかおりに取られたくない。自分がそう思っていることははっきりとわかる。でもかおりに対する気持ちも今でも変わらない。彼女は大事な友達だ。スランプに落ち込んでいるなら助けてあげたい。では自分に何ができるのだろう。何もできない。自分にできることと言えば、味の助にまたあのときのようにおいしい料理をかおりのために作ってくれるよう頼むことだけだ。 
(そうしたら、どうなるの?) 
また二人は親密になるのだろうか。それは…思い浮かべるだけでとても胸の痛くなる事だった。 
 
 
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(今日もダメだった) 
とぼとぼと歩きながら今日の練習を思い出す。何一つ思うようにいかなかった。飛び込みも、ターンも、ばた足も、息継ぎも、水を手で掻くことすら思い描いたようにいかなかった。 
(私、どうしちゃったんだろう) 
スランプが始まってもう二週間がたつ。コーチはよくあることだから、と気にしないよう助言してくれたが、まだ中学生のかおりはこれを気にせずにいるにはあまりにも若すぎた。そもそもスランプの経験すらなかったのだ。本当に出口があるのか、もしこのままだめになってしまったらどうしよう。そう思うだけで胸が痛くなった。 
気が付くと、いつのまにか雨が降っている。あわててかばんの中の折り畳み傘を取り出そうとして可笑しくなった。 
(私馬鹿みたい。いつもプールでぬれっぱなしのくせに) 
笑いながら、涙がまたあふれてきた。 
(誰か助けて…) 
誰か、と心の中でつぶやきながら、思い浮かべるのは一人の少年。かつて、食事がのどをとおらなくなったときに夢のようなスパゲッティを食べさせてくれた徳川味の助だ。友達の萌乃香が紹介してくれたのだが、はじめは普通に話せていたのにいつのまにか、少しずつ味の助のことを考える時間が増えた。いまでは彼のことを考えると胸が小さく痛むことすらある。 
(味の助君…) 
そうだ、と思いついた。味の助君の店にいってみよう。そして何か食べさせてもらうのだ。何でもいい。彼の作ったものなら。そうすればきっと元気がでる。スランプなんか吹き飛ばせる。そう考えると、急に気持ちが軽くなった。ぎりぎりと眠れないほどのしかかってくるスランプを、きっと彼の作る料理が吹き飛ばしてくれる。それは嵐の中の灯台のように少女の心の中に灯ったあかりだった。びしょぬれで店に入ってはまずいということに考えが及ばないほど、彼女はその小さなアイデアに浮かれた。 
 
 
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彼の店なら知っている。以前萌乃香に連れて行ってもらったことがある。最初のころは仲良く二人で行っていたのに、最近は萌乃香にいっしょに行こうと誘ってもなかなかうんといってくれなくなった。理由はわかっている。萌乃香はきっと彼のことが好きなのだ。 
(だから、私が彼の店にいくのがいやなんだ) 
それも彼女の心を痛めた。萌乃香は大好きな友達だ。その友達と男の子の奪い合いなんてしたくない。だから自分の気持ちにうそをついても店に寄らないようにしていた。でも、もう限界だ。もう何にすがったらいいかわからないのだ。きっと萌乃香だって許してくれる 
(たしかこのあたり…あっ) 
店の前で思わず小さな声をあげてしまった。シャッターが下りている。シャッターの前には小さな札が。 
店休日。 
なんてついてないんだろう。いつもこうだ。きっともう何もかもうまくいかないのだ。そう思うとまた涙があふれてきた。小さな店の前で雨に打たれながら一人で立ち尽くした。声をださずに泣いた。 
「あれ?かおりちゃんなの?わっ、どうしたのびしょぬれじゃない!」 
はっと振り向く。そこにはたった今まで想い焦がれていた男の子がいた。 
「味の助君…私、私…」 
さっきからずっと泣いているのに、また涙があふれてきた。抱きついて、泣いた。 
 
 
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その日、店休日にしたのは偶然だった。味の助の家は小さな洋食屋だ。定休日を作ることができるほどの余裕はない。商店街のイベントのための話し合いとかで母親が引っ張り出されて店を閉めざるを得なかったのだ。 
(商店会の会長さんもひどいよ。話し合いなら午前中にやっちゃえばいいのに。) 
味の助は不満だったが、商店街には魚屋のように早朝から忙しい店もある。定食屋は昼忙しいし、不況で夜遅くまで開けている店もある。厨房と中学校しか知らない彼には思いの及ばない事情だってあるのだ。 
(それにしたって母さんも母さんだよ。今度は断ってもらわなきゃ。) 
これは彼が正しい。いくら頼まれたら断れないといっても、母一人子一人でやっている店だ。一人抜けたら開けられるわけがないではないか。母親はそういって膨れる味の助に 
「あのね、いつもお世話になっているんだから」 
と笑いながら言って聞かせる。しかしこればっかりは何とかしないとそのうち店がつぶれてしまいかねない。 
中学生にしては夢のない問題にぶつぶつ言いながら歩いていた味の助は、すぐ近くにくるまで人が店の前に立っているのに気づかなかった。 
(あ、いけない。お客さん来てたんだ、謝らなきゃ。あれ?) 
それは知っている人だった。平山かおり。萌乃香の友達。日本水泳界のホープ。そのものすごい泳ぎっぷりは彼も見たことがある。運動音痴の彼には人魚とかそういうのを通り越して目の前で泳いでるかおりがイルカか何かじゃないかと思えたくらいだ。ついでながら、間近で見た彼女の競泳水着姿は年頃の男の子には刺激が強すぎた。思い出して悶々とする夜も多い。萌乃香が知ったらぐーで殴るかもしれない。 
「あれ?かおりちゃんじゃない?わっ、どうしたのびしょぬれじゃない!」 
驚いたように振り向いた彼女は目を真っ赤に腫らしていた。 
「味の助君…私、私…」 
いきなり抱きつかれた。頭に血が上った。 
 
 
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生まれて初めて女の子に抱きつかれておまけに泣かれた味の助はパニックになったが、なんとか彼女をなだめて家に入れた。抱きついてきた彼女はびっくりするほど冷たかった。 
「とにかく、シャワー浴びて温まってよ!風邪引いちゃうよっ」 
脱衣所でかおりを待たせて家中どたどたと走り回る。とにかくバスタオルと着替えが必要だろう。 
(下着がない) 
さーっと頭の血が引いて、そのあともう一度血が上った。 
母親の下着をもっていくわけにもいかない。いわんや自分のものなど。とにかくバスタオルに自分のTシャツと学校のジャージの上下を用意して脱衣所に駆け戻る。少女はうなだれて立ちすくんだままだ。びしょびしょに濡れた夏服がぴったりと肌に張り付き、下着をあらわに見せている。どぎまぎしながら話し掛けた。 
「あの、かおりちゃん。これ、着替えもってきたからさ。濡れた服は脱水機にかけて紐にかけときなよ。お湯は栓をひねればいいから、早く浴びてあったまってね」 
早口で言ってその場を立ち去ろうとしたが、立ちすくむ少女の姿に引き止められた。 
「あの、かおりちゃん」 
「うん。」 
弱々しい泣きそうな声。 
「えっと、何があったのか知らないけど。体冷やしちゃダメだよ。」 
「うん。」 
「僕、暖かいもの作るから、シャワー浴びてきてね。キッチンは散らかってるから浴び終わったら二階の僕の部屋で待ってて。」 
「うん。」 
「…」 
困ったな、とその場を立ち去るときにかおりが声をかけた。 
「味の助君」 
「何?」 
「ありがとね」 
弱々しかったが、その日かおりが見せた最初の笑顔だった。 
 
 
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冷たく濡れた服と下着を脱ぐと、言われたとおり洗濯機に入れて脱水ボタンを押す。風呂場に入ってシャワーの栓をひねるとやがてお湯が出てきた。 
(あたたかい) 
何日かぶりに気持ちが楽になった。降り注ぐお湯が冷え切った体を少しずつ暖めてくれる。頭からかぶると気持ちが良かった。ようやく人心地も取り戻すことができた。お礼をいわなければ。お湯を止め、脱衣所からバスタオルを取る。やわらかい清潔なタオルだ。体を拭いてさっぱりするとようやく周りの様子を見る余裕も出てきた。 
きれいな風呂場だった。脱衣所もきちんとしている。母親がきれい好きなんだろう。二人暮しだと聞いていたが幸せな家庭なのだろうと感じた。 
ちょっと躊躇して裸の上からTシャツを着、重ねて味の助のジャージの上下を着る。なんだかスースーして落ち着かないが、自分の立場を考えれば文句などいえるはずが無い。。 
彼はダイニングキッチンに居た。 
「味の助君」 
「あ、かおりちゃん。温まった?」 
味の助が振り向く。 
「うん、ありがとう」 
「ごめんね、ちらかってて。部屋で待っててくれる?」 
本当に申し訳なさそうに味の助が言う。ダイニングキッチンは店の仕込みにもつかっているのか、所狭しと料理道具や調味料が並んでいる。しかし汚いという風でもない。 
 
 
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小さいがこの部屋もきちんと片付いていた。 
「ごめんね、そんなものしかなくて」 
すまなそうに言う彼をさえぎって、 
「ううん、ありがとう」 
と礼をいう。 
「二階の僕の部屋で待っててよ。暖かいもの出すからさ」 
「うん」 
味の助に促されてキッチンを出る。先ほどからいい香りが漂っている。 
(ホワイトシチューね) 
自然と笑みがもれた。味の助の料理と考えるだけで気持ちが明るくなる。階段を上って二階に行くと、すぐ彼の部屋がわかった。そっとドアを開けて中を恐る恐る覗き込む。男の子の部屋に入るなんて初めてだ。 
中は案外きちんとしているのでほっとした。味の助というやさしい男の子の考えれば部屋がきちんとしていてそうな気もするが、さりとて男の子と言う生き物はどうもわからないものだ。料理一徹部屋のことなどお構い無しかもしれないではないか。 
(よかった) 
意味もなく安心しながら中に入った。勉強机がひとつ。ベッドがひとつ。本棚がひとつ。それだけの部屋だ。安心すると今度は急に居心地の悪さを感じる。主のいない部屋をじろじろと見るのはばつが悪いし、勝手にいすに腰掛けるのもどうかとおもう。所在なげにたっていると足音がして扉がノックされた。こういうとき、なんと返事をすればいいのだろう。 
「はい」 
結局普通に返事をした。 
「かおりちゃんおまたせ。あれ?座ってればいいのに。遠慮しないで座ってよ」 
見慣れたやさしい笑顔でそういわれると思わず微笑みがこぼれた。彼のそばにいればいつだって笑っていられる気がする。それはともかく椅子はひとつしかない。当然のようにそこに座るのは気が引ける。だからといってベッドに腰掛けるのもどうかと思う。迷っていると 
「椅子はぎーぎーうるさいから、ベッドのほうがいいかな」 
と、照れくさそうに言われた。自分で決めずに済んでほっとした。ベッドカバーも清潔な手触りだ。 
(素敵なお母さんなんだろうな) 
「さ、あたたまるからさ」 
シチュー皿を想像していたのだが、意外なことに彼が持ってきたのはマグカップだった。 
「うん、ありがとう」 
スープ仕立てらしい。確かにこの方が飲みやすい。こまやかな気遣いがしみる。味の助は机の椅子に座ってこちらを見ている。 
「おいしい」 
本当においしかった。熱すぎないスープを口に含むと舌を包み込むようにおいしさがひろがる。一口のんだだけで喜びがあふれてきた。体が温まる。 
胸がいっぱいになった。 
 

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