サングラスをかけて鏡に向かう。 
(だめだ) 
鏡の中にはきつい黒のサングラスをかけた丸顔の女の子がいた。 
(どう見たって怪しいわ) 
生まれて初めてサングラスをかけてみたのだが、どうにもこれが自分にあうとは思えない。鏡の中に映る自分は「みなさん、ここに顔がばれないようにこっそり悪いことをしている中学生が居ますよ!」と大声で叫んでいるようで、普段より却って人目を引きそうだった。 
少し落胆した萌乃香は気を取り直して次のアイテムにうつる。なけなしの貯金をはたいて近所の女の子向けショップで買ってきたアイテムが、机の上に置いてある。 
彼女は浪費家ではない。きちんとお小遣い帖をつけているし、もらったお年玉は銀行にあずけてある。しかし、常識的な大人である両親は彼女に大金を渡すようなことはしなかったし、中学生としては良識的なお小遣いの中から彼女はPHSの料金を自分で払っていた。お年玉を別にするとそれほど手元に残らないのだ。 
キャップをかぶる。目深にすると少し怪しい。ひさしを軽くはねあげ気味にする。少し考えてひさしをぐいと斜め後ろに回す。 
鏡の中には今まで見たことも無いほど活動的に見える自分がいた。彼女はごく普通の中学生程度におしゃれには興味があるつもりだったが、自分はおとなしい女の子だと思っていた。だから、おとなしめのおしゃれが似合うだろうと思っていた。だが、今、鏡に映っている自分はキャップのかぶり方を変えただけでびっくりするほどボーイッシュに見える。 
(けっこういいかも) 
少しどきどきした。しばらく鏡に見入ったあと、はっと当初の目的に気づいてキャップのひさしを元に戻す。後ろ前では顔が丸見えではないか。 
キャップをいったん脱いで後ろにある穴に指を入れる。そのまま後ろ髪をつかんで引っ張り出しながらかぶってみた。横から見る。これはいい感じだ。遠目には絶対自分だとわからないだろう。自分を知っている人ほどわからないに違いない。もうひとつ買っておいた淡い色つきのトンボめがねをかけてみる 
(わあ) 
もう、まったく別人である。それほど違和感も無い。 
(よし、これでいこう) 
 
 
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休みの日を待って電車で出かけた。それほど遠くに行く必要は無かったし、遠くの大きな街だと友達に会ったときに却ってよくないなと思った。本当は小さな街がいいと思ったのだが、それだと駅前の本屋さんも小さそうでやっぱりよくない気がした。結局3つ先の乗換駅にすることにした。ここだと、割と大きな本屋さんがあるはずだ。人が多いのでひょっとして知り合いに見られる可能性もあるが、あとで騒ぎ立てるような口の軽いクラスメイトは逆に本屋には寄らないだろう。 
駅前は車の通りも多かった。歩道橋をわたった先にある大きなビルに本屋さんが入っている。結構大きくてびっくりするがこれなら探している本もあるはずだった。 
萌乃香は本が好きだ。本の虫というわけではない。クラスメイトには本物の読書家が居る。彼女は物静 かで、放課後はいつも図書館に居た。お小遣いも本に使っていると言っていた。 
「図書館に置いてある本って、本屋さんと違うから」 
と、にっこり笑う姿がきれいだと思った。髪の長い女の子で、お嬢さんっぽい。一時期そういう姿にあこがれて髪を伸ばそうかと思ったこともあるが、丸顔では似合わない気がしてやめた。 
本好きの彼女はいつもなら初めての本屋でもそれほど困らずにお目当ての本がどこにあるかわかるのだが、今回の探し物ははじめての分野だけに少し戸惑った。 
だが、目指すコーナーにたどり着いたときにはもっと戸惑った。その女性向け書籍コーナーには店員の手書きでこう書いたポップが貼り付けてあった。 
「セックスとからだ」 
顔が赤くなるのがわかった。 
 
 
 
 
 
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「どんなことでも初めてのときには本で勉強するのよ」 
と、教えてくれたのは小学生のときに大好きだった先生だった。めがねの、お母さんより少し年上に見える先生で、いろんな事を教えてくれた。その先生が、 
「スポーツでもね、本当は本からはじめるのがいいのよ。本には何でも書いてあるのよ」 
と、教えてくれたのがすごく新鮮だったことを覚えている。以来、萌乃香は手芸をはじめるときにも花の種をもらったときにも、夜店で金魚をすくったときにも、サンドイッチを作るときにも一生懸命入門書を図書館で探して勉強したものだった。 
そして、恩師の教えに忠実な彼女は一世一代の危機に際して本屋にやってきた。セックスのテクニックを学ぶために。 
味の助が自分から離れていくときに、何もできずに見送るというのはつらくて耐えられなかった。何かひとつ、思い出を残したい。結局、それはセックスだという結論になった。まだ、誰にも触れさせてない自分の純潔を彼に捧げたかった。それで何もかも満たされるわけではないが、やはりこれが一番いいように思ったし、考えるうちに自分もだんだんそれを望んでいるような気になってきた。 
「やけになっちゃだめよ」 
という味の助の母親の言葉は、多分こういうことをするなと言っていたのだろう。だが、そう思っても気持ちは変わらなかった 
(ごめんなさい、おばさん) 
セックスに関しては萌乃香くらい晩生でもそれなりに知っているものだ。そもそも無知からくる悲劇を避けるために保健体育で女の生理や性交、避妊について基本的なことを教えてくれている。もともと妊娠について教えるのが目的のものだから、セックスのイメージを徹底的に払拭するためにいやになるほど客観的に書かれた「断面図」で、男と女の体の違いは教えられていたし、友達とのひそひそ話で「あれがああなってああする」くらいのことは知っていた。ロストバージンが痛いことも知っている。 
だが、萌乃香はもう一歩先に進もうと思っていた。 
女の子にとって初めてのセックスはつらいものだということくらいは知っている。だが、それはそれとして、彼には気持ちよくなってほしかった。自分が彼にしてあげられることなら何でもしよう。どうすれば彼に喜んでもらえるか。それが知りたかった。それを勉強するために本屋に来た。 
 
 
 
 
 
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本棚の前でちらちらと左右に視線を送る。誰も自分の方を見ていなかった。そもそも本屋でセックスの本を立ち読みしたくらいでじろじろ見られることは無いのだが、初心な彼女はひょっとしたら誰かに怒られるのではないかと心配していた。 
誰も見ていないことを確認して改めて本棚を見てみる。それは少しだけ意外な風景だった。もともと彼女はかなりきわどい眺めを想像していた。どぎつい色の文字で書かれた扇情的で恥ずかしい言葉やとても正視に堪えない写真で飾られた本がずらりと並んでいると思っていたのだ。だが、そこにはどちらかというとやさしい言葉や色合いの本が並んでいる。実のところ男性用の同様のコーナーに行けば彼女のご期待に添えるような本が並んでいるのだが、そういうことろに連れて行っても赤面して何もできないだろう。 
どきどきしながら一冊手にとってみる。めくってみようと思ったが、やはり誰かが見ているようでできない。結局本棚に戻す。何冊かの本の背を比べて一冊選ぶとそれをレジにもっていた。 
ほかの本にはさんで裏返しに置いたが、袋に入れられるときに表にされて恥ずかしかった。何か言われるかと思ってどきどきしたが、何も言われなかった。彼女は知らなかったが、本屋の店員は中学生がプレイボーイを買っていくくらいの光景はいつも見ているのだ。おませさんが一人くらい来たからと言って騒いだりはしない。 
 
 
 
 
 
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部屋に帰ってきてこっそり袋を開けてみる。両親がいきなり部屋に入ってくることは無いのだが、それでもこっそりあけなければならない気がした。どきどきしながら本を取り出す。 
「彼を悦ばせる天使のテクニック」 
と、いうのがその本のタイトルだった。「天使」という言葉のやさしい響きに引かれて決めたのだが、改めて表紙を見てみると、そこには軽く開かれて舌が覗く女性の唇が水彩画風に書いてあった。唇の部分は濡れたように輝いており、否が応でも性的なイメージを送り込んでくる。 
(こんな表紙だったんだ) 
あらためて自分がしようとしていることがどんなことなのか、思い知らされた。 
(味の助君にバージンを…) 
捧げるのだ。 
頭に血が上るのを感じながら本をを開く。そこには不安に包まれて立ちすくんでいる臆病な自分を助けてくれる何かがあるはずだ。 
 
 
 
 
 
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かおりと味の助との間はうまく行っていた。と、いってもデート三昧などはなから望むまでもない。少年には家業があるし、少女には水泳の練習がる。それでも、週に二度ほど昼休みにクラスを抜け出して水泳部の部室の裏でいっしょに弁当を食べることができる。それが何より二人にとって楽しい時間だった。週に何日いっしょに食べるかでずいぶん話し合った。 
「私、毎日こんな風にいっしょに食べたいな」 
「毎日食べようよ」 
そんなことを肩を寄せあって話す。 
「でも、みんなに気づかれちゃう」 
「じゃぁ、一週間に一度にしよう」 
「それじゃ寂しいよ」 
泣きそうな顔で少女に訴えられ、少年まで悲しくなる。 
「うーん、三日に一度」 
「ねぇ、休みの日にかかったらどうするの?」 
一日足りとも無駄に落とすのはいやだと言った風に少女が聞く。 
「うーん、どうしよう。かおりちゃんはどうしたい?」 
困った少年が振ると少女は答える。 
「毎日いっしょに食べたいな」 
こういう他愛も無いやり取りが丸々三日連続昼休みを上げて交わされた。二人とも、そういう会話を楽しんでいた。肩をよせあって、小声で。 
昼休みの終わりが近づくと、決まって少年が 
「じゃぁ、かおりちゃん」 
といって目をそらす。それが合図で立ち上がると、ささやかな逢引の終わりだった。軽くキスをするのがいつもの別れの挨拶になった。 
 
 
 
 
 
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本を読み始めてからしばらくは、気分が高揚状態にあった。一度に強い刺激を受けすぎたせいか、ふわふわとした気分がしばらく続いた。 
(あんなことするんだ) 
と、ふとした事で思い出すと、もうだめだった。ひどいときには授業中ずっとそのことを考えていることもあった。 
(あんなところまで) 
愛するのかと思い返して呆然とすることもあったし、 
(あんなところで) 
するの?と、思い出すたびに信じられない気持ちになった。もう10年もすればきちんと受け止めることができるようになっていたのだろうが、さすがに晩生の中学生には早すぎた。それでも、あとがきには勇気付けられた。 
「この本は料理の本と同じです。ひとつひつのテクニックはレシピだと思ってください。料理を時と場所とお客様に合わせて作るように、愛し合うためのテクニックも時と場所とパートナーに合わせて選ばなければならないのです。軽い食事を望んでいるお客様にフルコースを無理に出せばおなかを壊してしまうでしょう」 
要するに、一つか二つ覚えればいいのだ。少年にしてもセックスの経験豊富というわけではないだろうから、たぶん入門的なものでいい。それでずいぶん気が楽になった。 
少年のセックスの経験を考えるのはつらかった。それは多分、かおりと何度愛し合ったかということだ。本には 
「あなたに経験が無いときには、何も考えずに相手に身を任すのも一つのテクニックです。男性は初心な女性が好きなのです」 
と、書いていた。そのとおりだろうとも思ったが、それでは何のために本を買ったのかわからない。とにかく、一つ自分のモノにしたのだ。練習だって懸命にした。もう二度と、普通の気持ちでバナナを食べることはできないだろう。後戻りはできない。 
少女は机の中からノートを開くと、「いつ、どこで、どうやって」とシャーペンで書いたページを開いた。そして「どうやって」に大きく×印をつけた。 
 
 
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毎日、一人で下校した。ちょっと前まで味の助と一緒に帰ることも多かったのに、今では彼と帰ることはない。彼が気を使ってくれているのか、はたから見ても避けられているようには見えないだろう。はじめは毎日泣きそうな気持ちで歩いていた。今では、だいぶ平気になった。 
決して彼を忘れられたわけではない。今でも胸が痛む。それでも慣れてしまった。こんな風にいつのまにか彼の無い生活に慣れるのだろうか。 
(おばさんが言っていたのは、そういうことかもしれない) 
時間が解決すると言うことなのだろう。 
一人で歩くというのは、ある意味発見だった。見慣れた道なのに、変わった看板とか、新しい店に気づく。今までは彼とのおしゃべりが楽しくてそんなことに気が付かなかった。考えれば考えるほど、彼を失った自分がバカに見えてくる。 
いったい彼の横に居られなくなったことで、自分の周りにどれだけの変化がおきるのだろうか。いま、改めて見回せば商店街のあちこちが少し浮ついているのがわかる。お祭りが近いのだ。以前ならいつの間にか始まっているのに気が付くようなことだ。彼が居ないだけでこんな事にまで気が付くようになった。そっちの八百屋ではおばさんがキャベツの値段の話をしている。こっちの酒屋ではおじさんが商店街の会合の日取りを相談している。あっちの魚屋では猫とおばさんがにらみ合っている。 
(ああ、味の助君、寂しいよ) 
夏が終わる。まだ暑いと言うのに心の中にはもう秋風が吹いていた。 
 
家に帰るころには少し涼しくなっていた。椅子に座り、机の引出しからノートを取り出した。「いつ」と「どこで」に大きく×印をつけた。 
 
 
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「困ったな」 
と、少年がつぶやいているのは恋の悩みではない。母親だった。まったくどういうつもりなのかまたもや商店街の打ち合わせだと言って店を閉めてしまう羽目になったのだ。もちろん前の日に言われたわけではない。この暑いさなかに前の日に言われて店を閉めるなどということをしたら、食材の一部を廃棄しなければならない。それはさすがになかったが、だからといって問題が解決するわけでもなかった。 
こんなときにかおりの予定があいているならば直ぐにでも会いに行くところだが、あいにく今日は遅くまで練習だと知っている。もし少年が都合を聞けば彼女は即座に練習を縮めて合う時間を作ってくれるだろう。だが、それはいくらなんでもだめだと思った。スランプのほうは徐々にタイムが戻ってきているとはいえ、ベストまではまだ遠いと聞いている。会いたいのは山々だったが無理をしてタイムを崩されるのはファンの一人としても困る。 
考え事をしていたため陽炎でゆれる道の先のほう、店先のあたりに人が立っているのに気づくのが遅れた。 
立っていたのは夏服の少女。 
 
萌乃香だった。 
 

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