「いってらっしゃいませ」  
「いってきます」  
葵に見送られて大学に向かう薫の後ろ姿はどこか嬉しそうだった。  
葵との再会でいつの間にか忘れていた人の温かさに触れたせいなのかもしれない。  
通学の途中、薫の目に映る風景は、今までとは違って見えた。  
「いってきますか……最後に言ったのっていつだろう」  
薫は嬉しさの余り、つい走って駅に向かった。  
「いってらっしゃいませ……薫さま」  
嬉しかったのは葵も同じだ。  
薫の後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、葵は大きく息を吸い込んで手を小さく握る。  
「よし、薫さまが帰っていらっしゃる前に……」  
きゅっとたすきをかけ、可愛らしく気合を入れてから部屋の掃除を始めた。  
薫の部屋は一見きれいに見えるのだが、細かいところまでは手が回っていない。  
隅々まで丁寧に掃除をして、その後は洗濯なのだが……  
「もう、薫さまったらこんなに溜め込んで……」  
予想外に多かった洗濯物を抱えて近くのコインランドリーに運び、洗濯機はゴウンゴウンと音を立てて回る。  
後は終わるまで待っていればいいのだが、ふと目に止まった物があった。  
「あら」  
誰かが忘れていったのか、読みかけの雑誌が置かれていた。  
興味を惹かれた葵はペラっと一枚、また一枚とページを捲っていく。  
最初の内は「へえ」とか「そうなんだ」とか言っていたのが、あるページに到達するとピタリと手が止まった。  
それどころか耳まで真っ赤にして凝視してしまうページだった。  
(……か、薫さまもこうすれば喜んでくださる!?)  
世間一般から隔絶された超が付くほどのお嬢様である葵は、雑誌に書いてあるのを本当だと間に受けてしまう。  
さらに厳しい花嫁修行を受けてきたせいで「薫さまが喜んでくださるのなら」と雑誌に書いてある内容全てを覚えようと、洗濯が終わってしまったのも気づかず熟読していた。  
そして帰った後も―――  
「……いけない! もう薫さまを迎えに行く時間だ」  
買い物を済ませ、晩御飯の準備も済ませた葵は急いで駅に向かった。  
シーンと静かになった部屋の隅に持ってきた雑誌がきれいに置かれている。  
読破してしまったらしい……  
 
 
「お風呂も沸いていますから」  
楽しい晩御飯も終わり、薫は薦められるままにお風呂に入った。  
ちょうど良い熱さの湯船に肩まで浸かって葵のことを考える。  
「まさに至れり尽せりだよな……あんないい娘がおれの……」  
思わず顔が緩んでいく。  
ここまでされると次はまさかと想像してしまうのも無理はなく、頭の中にはすでに「お背中、お流しいたします」と頬を染めた葵の姿を思い浮かべていた。  
しかもバスタオル一枚しか巻かれておらず、紬でわからなかった身体のラインも……  
「あははは、な〜んてね。 いくら葵ちゃんでもそれはないか」  
薫は笑って自分のバカな考えを否定しているが、男だったら想像してしまうのも仕方ないだろう。  
「薫様、湯加減はどうですか?」  
「あ……ああ、ちょうどいいよ葵ちゃん」  
曇りガラスで見えなかったが、薫は緩んだ顔を直した。  
想像の中とはいえ、葵にそんなことをさせてしまった自分を反省して気を落ちつかせようとした時、事態は動いた。  
「あの……薫さま、お背中……お流しいたしますので……」  
「え……?」  
まさかそんな―――薫は自分の耳を疑った。  
しかし葵は「失礼します」とドアを開けて入ってくる。  
「わあああ! ちょっと入っちゃダメだって葵ちゃん!」  
慌てて制止させようとしても時すでに遅く、目の前には自分が想像していた通りのバスタオル一枚の葵が立っていた。  
想像と違っていたのは、身体のラインが自分が考えていたのよりもすごかったところだろう。  
あまりのすごさに薫は言葉を失ってつい見惚れてしまった。  
「あ、あの……お背中を流しいたしますので、椅子に座ってください……」  
「は、は、はいぃぃぃ!」  
薫はパニックに陥り、大事なところを隠すのも忘れて椅子に座った。  
その大事なところを見てしまった葵も恥ずかしかった。  
(か、薫さまの……が、あ、あ、あ、あんなになって……)  
雑誌に書いてあった通りなのだが、初めて見た男性器は衝撃的で、平静さを保とうとして頭を振る。  
幾分落ち着きを取り戻して背中を流そうとした時、葵の目に信じ難い物が飛び込んできた。  
「……薫さ」  
背中についた無数の傷跡だった。  
 
「ごめん、見てて気持ちのいい物じゃないよね」  
葵の異変に気づいて薫は自分が悪いわけでもないのに謝る。  
「俺が花菱を出たのは、元々俺が花菱の人間じゃないからなんだ……」  
もはや誰にも語ることはないと思っていた自分の全てを葵には話すことにした。  
落ちついていたせいで、逆に薫の過去が重さを増していく。  
「…………というわけ」  
「薫さま……」  
温かい家庭で育ってきた葵にとって、薫の過去はいささか辛過ぎたようだ。  
それでも昔と変わらぬ優しさを持っていた薫のためにもと葵は決心する。  
「あ……葵ちゃん?」  
「……薫さまの傷は葵が時間をかけて癒します」  
背中の温もりを確かめるように葵は顔を寄せ、傷跡にそっと唇を付けると、柔らかい感触が薫の記憶に刻まれた傷の痛みを消していく。  
「うん、ありがとう……葵ちゃん」  
ピチャンと湯船を打った水滴の音が静かな時間を作り出し、それっきり何もしゃべらなかったが、二人の間には確かな絆ができた。  
薫は心地好い温かさを背中に感じたまま、深く息をつく。  
そして今まで何をしてきたのか気づくと慌てて葵に話しかけた。  
「そ、そう言えば背中、流してくれるんだよね」  
薫は元気な声で聞いてみたけど、返事は返ってこなかった。  
それどころか背中に置かれた手が薫の前に伸びてくる。  
「ちょ……ちょっと葵ちゃん、何してるの!」  
「動かないでください……」  
「で、で、でもこんなこと!」  
「私だって殿方の悦ばせ方を知っています!」  
らしからぬ大きな声で薫の制止を振り切った。  
「わ、私にはこんなことしかできません。 ですが薫さまが喜んでくださるのなら―――」  
白くしなやかな手が硬くなった薫自身を包み込み、ぎこちない刺激を加える。  
まだ覚えたての愛し方だったが、童貞の薫には十分過ぎる快感だった。  
「あ、葵ちゃんッ!」  
「気持ち良いですか、薫さま……」  
葵は両手で薫自身を刺激しながら背中に乳房を押し付ける。  
全て雑誌に書かれていた指示通りだった。  
 
しゅっしゅっしゅっ……  
(葵ちゃん……そ、そんなにしなくても!)  
葵の熱心な愛撫に薫は我慢するだけで精一杯だった。  
先端からは先走りがすでに出てしまい、葵の指に絡みつく。  
葵は粘りつく液体に雑誌で得た知識を思い出した。  
(もしかしてこれが薫さまの?)  
指で確かめると確かに雑誌に書かれていたような感触だった。  
全ては勘違いだったのだが葵自身実物を見たこともなく、位置関係からも精液なのか確かめられないのでは仕方がない。  
「……どうしたの葵ちゃん?」  
寸前のところで止まってしまった刺激に薫は物足りなさを感じてしまった。  
「か、薫さま……葵の手は、気持ち良かったですか?」  
(ん? 気持ち良か……った?)  
違和感を覚えて下を向くと、葵の指に自分の出した先走りが付いているのに気づいた。  
勘違いに気づいて少々気が引けたのだが、寸止めされた方としてはこのまま終わって欲しくないのが本音だった。  
「こ、これはね、えーと……射精したわけじゃないんだ」  
「え……違うんですか薫さま!? ではこれは一体……」  
「うん。 これはカウパー腺液って言って―――」  
説明するの方も恥ずかしかったが「間違った知識は直してあげないと」と自分を正当化する。  
一通り説明し終わる頃には薫も精神的に疲労してしまった。  
「私ったらなんて勘違いを……すぐに続きを!」  
葵にしてみれば薫に恥をかかせたも同然なので、急いで手を動かし始める。  
「あああ、葵ちゃん、慌てないで!」  
「ご、ごめんなさい!」  
優しかった手も慌てていたので強くしごいてしまったようだ。  
大口を叩いておきながら失敗続きで、葵はしゅんと肩を落とした。  
「は、初めてなんだからさ、そんなに落ち込まなくても……」  
しかも慰めの言葉も届かず、すっかり意気消沈してしまった。  
薫としてもこんな葵を見たくはなく、自分にも責任があるので何かいい手はないかと考える。  
しかし薫に妙案が浮かぶ前に葵が思い詰めた声を出した。  
「薫さま、ここからだとわからないので、前に回ってもよろしいでしょうか……」  
 
「これが薫さまの……」  
先程はチラッとしか見れなかったが、今は男性器をじっと見詰めていた。  
初めて見たのなら怖いと思うのも仕方がないはずだ。  
だが好きな人の物ならばと考えれば逆に可愛いとさえ思えてくる。  
実際そう思えて再び男性器に触れると、薫は切なそうな声を上げた。  
「大丈夫ですか薫さま!」  
また失敗したのかと不安げな顔を向けた。  
「違う、違うんだ。 葵ちゃんの手が気持ち良くてつい……」  
「そ、そうですか……」  
我慢している声と顔を見て葵はホッとした。  
そして汚名返上とばかりに手を動かし始める。  
今は薫の反応を見ながらできるので、葵には幾分余裕ができた。  
(薫さまが私の手で気持ち良くなってくださる……)  
葵にはそれが嬉しくて、さらに手の動きに熱を帯びさせる。  
「葵ちゃんッ、ごめん!」  
唐突に叫んだ薫の声で終わりはやってきた。  
驚く暇もなく男性器から精液が飛び散り、葵の顔に降り注ぐ。  
自分の身に何が起きたのか理解するには時間が必要だった。  
「か、薫さま……」  
「ごめん葵ちゃん! 今拭くからちょっと待ってて……ホントにごめんね!」  
気持ち良かったのだが葵に酷い目に合わせてしまい、射精した快感など吹き飛んでしまった。  
タオルで精液を拭きながら薫は何度も何度も謝る。  
その手に葵の手が重なり、向けられた葵の目が辛くて顔を逸らしてしまう。  
「……薫さま、葵の手は気持ち良かったんですか?」  
「う、うん……気持ち良くてつい葵ちゃんに……ごめん!」  
「いいんです薫さま。 薫さまが気持ち良くなってくださるだけで葵は嬉しいんです」  
「葵ちゃん……」  
二人はそのまま見詰め合い、手を絡め合う。  
相手を思いやる心はお互いに強く、今度は薫は葵を気持ち良くさせようとして手を伸ばす。  
「あン……薫さま」  
「今度は俺が葵ちゃんを気持ち良くさせて上げるね」  
 
望まれたのなら断れるはずがなく、葵は身を委ねた。  
触れられる度に小さな声で反応し、何度も何度も薫とキスをする。  
唇を重ねるだけの甘酸っぱいキスに葵は虜になってしまった。  
そして夢中で薫を求める葵のバスタオルに手がかけられる。  
「ダ、ダメです薫さま……」  
「葵ちゃんの全てが見たいんだ」  
「……は、はい」  
薫が見たいと言った以上、従わなければならない。  
最後の抵抗も消えて身体に巻かれたバスタオルが落ち、葵は生まれたままの姿になった。  
「あんまり見ないでください……薫さま」  
「綺麗だよ葵ちゃん」  
「そんな……」  
好きな人に誉められて嬉しくないはずがなく、葵の目尻に涙が溜まる。  
「ど、どうしたの葵ちゃん?」  
「嬉しかったんです……薫さまに綺麗だって言われて……私、嬉しくてつい」  
控え目な性格の葵はいつも自分を過小評価する癖があった。  
今までも薫の言葉に一喜一憂していたであろう。  
もっと自信を持って欲しくて、薫はおでこをくっつけて葵に諭す。  
「葵ちゃんは綺麗だよ。 料理だって上手だし、本当に良く気がつくし。 葵ちゃんみたいな可愛い娘をお嫁さんにもらえる俺はすごく幸せだよ」  
「薫さま……」  
「だかさ、もっと自信を持って。 葵ちゃんにはずっと笑顔でいて欲しいんだ」  
「か……薫さまぁ!」  
葵は顔をくしゃくしゃにして泣いてしまった。  
泣き虫なところは小さな頃から治っていなかったけど、嬉しい涙だったから薫はギュっと抱きしめてあげた。  
「ほら、泣かないで葵ちゃん」  
「は、はい。 私ったら薫さまを困らせてばかりで……」  
気がつけば鼻先がぶつかるくらい二人は間近に迫っていた。  
甘えるように葵は目が閉じて、キスをねだる。  
(ほんとキスが好きなんだね葵ちゃん)  
ねだられるままに薫は桜色をした唇にキスした。  
 
「んちゅ……ん、ん……薫さま、薫さま……」  
キスに夢中になっている姿はどこか子どものようで、薫にしか見せない本当の姿なのかもしれない。  
しかし押し付けられた乳房の柔らかさが"女性"であることを薫に意識させるには十分だった。  
「きゃッ! 薫さま、何を……」  
「言ったでしょ、葵ちゃんを気持ち良くさせてあげるって」  
薫の手はふっくらとした乳房の上に置かれ、何か言いたそうな葵を手の動き一つで甘い声に換えさせる。  
「あっ! はぁぁぁ……薫さま、そんなっ」  
「気持ち良いの葵ちゃん。 もしそうならもっと葵ちゃんの声が聞きたいな」  
「ダ、ダメです! そんなはしたないこと……」  
その時の表情がとても可愛らしく、薫は手を止めなかった。  
我慢しようとしても気持ち良くて噤んだ口が開いてしまい、はしたないとわかっていても声が出てしまう。  
「あああぁ、ああ……」  
「はしたないんじゃなかったのかな? 声が出てるよ」  
「か、薫さまのいじわる! こんなことをされたら葵は……葵は……!」  
目を潤ませて抗議する葵の声は、キュッと胸が締めつけられるくらいとても切なく聞こえた。  
「……ごめん、葵ちゃん。 葵ちゃんが可愛くてつい調子に乗っちゃったんだ」  
「も、もう知りません! いじわるな薫さまなんて嫌いです」  
「あああ、ごめん! 謝るから許して!」  
必死に謝ってはみたものの、葵はプイっと顔を背けたままで、今度は薫が困ってしまう。  
けど首に回した葵の手は決して離れようとはせず、まるでここが自分の居場所だと言わんばかりに薫の手の中にいた。  
大慌ての薫に「そろそろ許してあげようかな」と葵はほくそ笑む。  
「ほんとにごめん。 葵ちゃん、なんでもするから機嫌直してよ」  
「クス……大丈夫です薫さま。 葵は決して薫さまを嫌いになんてなりません」  
「え!?」  
きょとんとした顔で見ると、葵はクスクス笑っていた。  
「ああ! 葵ちゃん、騙したなあ!」  
「ごめんなさい薫さま。 葵もつい薫さまを困らせたくて」  
ペロっと舌を出して悪戯っぽく笑う。  
そんな顔をされては薫も怒れず、困ったまま笑うしかなかった。  
「これでおあいこですね」  
「はぁ……葵ちゃんには敵わないよ」  
 
「くしゅん!」  
葵は可愛らしいくしゃみをして身体を震わせた。  
いくらお風呂場でも裸のままじゃれ合っていては寒いらしい。  
「大丈夫葵ちゃん? カゼ引くといけないから湯船に入りなよ」  
「で、でも薫さまは……」  
「いいからいいから。 俺は先に上がるね」  
「あの……」  
薫は何の為に風呂に入ったのかわからないまま出ることとなった。  
ポツンと取り残された葵はバツの悪い顔をしてため息をつく。  
「はぁ……私ったら失敗ばかりして……」  
本当なら背中を流すはずだったのにと、失敗続きの自分を責め、薫がさっきまで入っていた湯船に肩まで浸かり、ひざを抱えた。  
考えるのは薫のことばかりで、先程の情事を思い出すと寒さなど吹き飛ぶくらい葵の顔が赤くなる。  
が、それは薫も同じだった。  
着替え終わった薫は正座をして昂ぶった気持ちを鎮めようとする。  
しかし葵の手と柔らかい身体の感触を思い出してしまい、煩悩を振り払おうとして頭をブンブン振った。  
それでも考えるのは結局葵のことばかりであり、そしてこれからのことだった。  
「葵ちゃんとあそこまでやったんだから……」  
けどそれは葵も同じだった。  
「薫さまとあんなことまでしたんだから……」  
二人は天井を見つめて同じことを口にする。  
「「最後までするんだろうな……」」  
穏やかな時間が静かに流れ、やがてくるであろう大切なひとときを二人は思い浮かべる。  
ザバァ……  
十分な時を置いて、湯船から上がる水の音が薫の耳に届いた。  
緊張するのも無理はなく、心臓が張り裂けそうなくらいドキドキしていた。  
キシ……  
床が軋む音がして、薫の背中に見える曇りガラスに葵の影がさす。  
「か、薫さま……電気を消してもらえますか……」  
「う……うん」  
パチンと音を立てて部屋の明かりは消えた。  
 
淡い月明かりを頼りにして、二人は部屋の真ん中で抱き合った。  
最初は身体を固くしていた葵も、好きな人の腕に包まれて、ふっと力が抜けていく。  
「葵ちゃん……」  
「薫さま……」  
18年間の思いの丈が込み上げてきたのだろうか、口付けを交わす際、薄暗くてわかり辛かったが、薫にははっきりと葵の目が潤んでいるのが見えた。  
「んッ……」  
唇が触れ合い、どちらともなく小さく声を上げる。  
先程までの唇を重ねるだけのキスと違って舌を滑り込ませると、葵もそれに応えようにぎこちなく舌を絡ませた。  
厭らしい水音と熱い吐息が葵の身体を敏感にさせ、薫の僅かな動きにも反応してしまう。  
不意に薫に名前を呼ばれ、それだけで伝わったのか葵は小さく頷いた。  
しゅるっと腰紐が解かれ、全てをさらけ出した葵の裸身は月明かりに照らされ、余りの美しさに薫はしばし言葉を失った。  
「か、薫さまも早く……私だけ裸なのは恥ずかしいです」  
「そ、そうだね。 ごめん!」  
薫は急いで着ている物を脱ぎ始めた。  
(おかしいな……さっきも葵ちゃんの裸を見たはずなのに)  
そう思ったのは気のせいでもなく、好きな人に全てを捧げようとする葵の決意がそう見せたのかもしれない。  
葵を布団に寝かせ、体重をかけないように手をついて上に覆い被さると、いきなり不安げな顔が飛び込んできた。  
いざ"初めて"を捧げる時がきて怖くなったのも不思議ではない。  
だから安心できる物が欲しくて顔に出てしまった。  
「痛かったら言ってね葵ちゃん。 できるだけ優しくするから」  
「は、はい、薫さま……お願いします」  
優しい薫の顔に心を解されて、不安げな顔が消えていく。  
それでも完全に消えはしなかったが、薫に捧げるのならばどんな痛みにも耐えられる。  
薫の首に手を回して葵は真っ直ぐな目で愛しい人を見た。  
「大好きです……薫さま」  
「うん……俺も葵ちゃんが大好きだよ」  
どこにでもあるありふれた言葉かもしれないが、二人にとってこれ以上大切な言葉はなかった。  
二人は互いに気持ちを確かめ合い、これからも幾度となく同じ言葉を繰り返すであろう。  
「んむ……」  
葵の手に引き寄せられるようにして唇を重ね、薫は心に誓う。  
人の温かさを思い出させてくれたこのひとの為にも幸せな時間を送らせてあげようと。  
 
「……!!」  
声にこそ出さなかったが、葵は眉をひそめて破瓜の苦痛に耐え抜いた。  
最後まで薫を迎え入れ、一筋の涙が頬を伝い落ちる。  
それが痛みからなのか嬉しかったからなのかは、薫にはまだわからなかった。  
「大丈夫、葵ちゃん」  
「はい……大丈夫です薫さま。 薫さまが優しくしてくださったから……それが嬉しくて、つい」  
強く抱きしめていた手を緩めて葵は泣きながら笑顔で応えた。  
「やっと一つになれたんですよね、私たち……」  
ずっと想い続けてきた願いが叶っても確かめずにはいられず、痛みよりも薫の言葉で聞きたかった。  
「うん……感じるでしょ。 葵ちゃんの中に俺がいるよ」  
「はい。 葵の中に薫さまを感じます……」  
自分の中に薫の温かさを感じて、葵は幸せな気持ちになった。  
満ち足りた顔を見せる葵に薫は今までにない愛おしさを感じ、この幸せな時間が少しでも長く続いてくれればと心から願い、二人はしばらくの間抱き合っていた。  
そして痛みが和らいできた葵は遠慮がちに言う。  
「か、薫さま……動いてもいいですよ」  
「でも……まだ痛いんじゃないの?」  
「私は大丈夫です。 それに薫さまには気持ち良くなって欲しいから……」  
最後の方は恥ずかしくて頬を染めながら言っていた。  
葵の気持ちを考えればその願いを断れず、薫は腹を決める。  
「わかった。 じゃあ動くから痛かったら言ってね」  
「はい、薫さま」  
"初めて"を捧げてくれた人の全てを忘れないためにも薫は心に焼き付ける。  
初めて出会ったのは、まだ幼かった子どもの頃。  
泣き虫だったけど笑顔の似合う小さな女の子だった。  
それからずっと自分だけを想い続けてくれて、人を好きになる素晴らしさを思い出させてくれた。  
「薫さま……か、薫さまぁ!」  
自分の下で名前を呼ぶ声は甘く切なく、こんなにも小さな身体なのに、寒くて空っぽだった心を満たしていく。  
葵に出会えたことが薫にとって一番の幸せだった。  
「あ、葵ちゃん!」  
「薫さま!」  
二人の幸せなひとときを、淡く光る月だけが見守っていた。  
―――おわり  
 

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