『秀明さん、蜘蛛の糸というお話をご存知ですか?』  
 玄関でスリッパを脱いでいる僕の背中に向かって背後から意味不明な声がかけられてきた。  
「ガニメデ、僕はちょっと急いでるんだ。妙なことを言って邪魔しないでくれ」  
 振り返るまでもない。その声の主はこの屋敷に巣食う電気仕掛けの妖怪、ガニメーデスに他ならない。  
 待ち合わせをしている僕はそんなガニメデに構うことなく適当にあしらうのだけれど、ガニメデの方でもそんな僕の事情を察するつもりもないようで、お構いなしに話を続ける。  
『盗賊のカンダタは死した後、地獄送りとなってしまったのですが、彼が生前に一匹の蜘蛛を助けたことがあるのを知ったお釈迦様は彼に最後のチャンスを与えるのです。それが1本の蜘蛛の糸なのですが』  
「説明はいいよ。言われるまでもなく知ってるから」  
 これでも文系大学に通う身だ。宮沢賢治の代表作ぐらいは基礎知識として記憶している。  
『それならば話は早いというものです。  
 つまりですね、私がナニを言いたいのかというと、天国の扉を開く鍵を持っているのが一人だけだからといって、扉をくぐるのが一人だけである必要はないということです!  
 カンダタは蜘蛛の糸を独占しようとしてしまったがために、幸せな未来を掴み損ねてしまいました。  
 しかし! 彼の不幸はけっして無駄なものではありません! 彼は反面教師となることで我々に道を指し示してくれているのです!  
 幸福は皆で等しく分配するべきなのだと!  
 さあ、秀明さん! カンダタと同じ轍を踏まないためにも、あなたが今とるべき行動がなんなのか、わかるでしょう!』  
 街頭演説をする政治家のようにマニピュレータをぶんぶんと振り回しつつ主張するガニメデを冷めた目で見据えながら、僕は言ってやった。  
「おまえは留守番。何度も言わせないでくれ」  
 一気にスニーカーに両足をつっこむと、僕は足早に玄関を出た。  
『秀明さん! あなたは男性として私のせつない心境に共感するところはないんですか!  
 ああ、博士! なにゆえあなたは私に人型端末を与えてくださらなかったのですか?  
 今、この状況を秀明さんに頼らざるをえず、そしてその最後の希望すら絶たれてしまった私は逆瀬川一族の科す運命を呪う気持ちを隠すことが出来そうにありません!』  
 背後でまだナニヤラやかましくわめき散らしているガニメデの声を聞きつつ、僕は、このスニーカーも大分くたびれてきたなぁ、そろそろ新調したいんだけど我が家の経済事情を考えるとなぁ、と思考を彼方へと飛ばしていた。  
 
 
 今、僕の手には一枚の招待券が握られている。  
 巴たちの通う女子校で開催されている文化祭、その招待券だ。  
 共学校の文化祭であれば基本的には来るもの拒まず、入場者のチェックなんていちいちしないだろうが、やはり女子校というのは部外者に対して警戒を怠るわけにはいかないんだろう。  
 文化祭開催中、学校敷地内に関係者以外の人間が立ち入るためには、この招待券を持っていなければならないらしい。  
 しかも、常に招待券の贈り主と同伴していることが条件という厳しいシステムだ。  
 と言っても、この条件に関しては僕にとってみればそれほど問題というわけでもない。  
 なにしろ僕には一人で女子校内を散策できるような度胸の持ち合わせがないからだ。  
 前にあろえが過労で倒れ、凌央と埜々香の先導付きで校内に入ったときのことが鮮やかに思い出される。  
 あのときの現代に蘇ったドードー鳥でも見るかのような女生徒たちの視線は、随分と時間が経過した今でさえ思い出しただけで僕の心を気まずさ色で染め上げてしまうのに充分な威力があった。  
 凌央と埜々香が一緒だったにもかかわらず、この有様なんだ。  
 これで一人で女子校になんて入ろうものなら、あまりにもの心細さといたたまれなさで逃げ出してしまうかもしれない。同伴者システム、願ったり叶ったりだ。  
 第2の自宅となっている爺さんの屋敷を出発して歩くことしばし。僕の目に文化祭に似つかわしい楽しげな飾りつけをされた女子校の校門が映し出される。  
 そしてその門の脇には今日の僕のエスコート役となる少女の制服姿が遠目にも確認できた。  
「ひーくーん、こっちこっちー」  
 爺さんの屋敷での同居人のひとり、掛川あろえが僕のことを見つけて元気よく両手を振っていた。  
 
「待ってたよー、ひーくん。退屈退屈だったよ」  
「ごめんごめん」  
 『掛川』と捺印された招待券を受付係の生徒に見せつつ、僕は待たせてしまったらしいあろえに謝る。  
 今は10時ちょっと前。ここには10時に来ると伝えてあったわけだから、別に待ち合わせに遅刻してしまったわけじゃないのだけれど、年長者としてこういったところはちゃんとしておかないと。  
 そうは言ってもあろえにしたってこの程度で怒るわけもなく、そのことは僕に向けている満面の笑みを見れば疑う余地もない。  
 要は気心の知れた兄妹同士のじゃれあいのようなものだ。ただ、僕は実の妹の李里相手にこんななごやかな会話をした記憶はないんだけど。  
「あろえはもう何箇所か見てまわったのかい?」  
 そう問いかける僕の質問に、あろえは右腕を思いっきり前に伸ばす仕草や、なにかをつまみ上げるようなジェスチャーを交えながら  
「えっとね、外でやってる出店で遊んだよ。鉄砲撃つのとかー、風船釣るの」  
と、祭りを十二分に堪能していることを熱弁する。  
 射的まであるとはプロ顔負けな出店のレパートリーだな。女子校の文化祭、侮りがたし。  
「巴のクラスの劇は11時かららしいから、まずは他の皆のところに行こうか?」  
「そうしよ。じゃあまずはこっちねー。わたしのクラスの地図。すっごいすっごいんだよ」  
 そう言ってあろえは楽しげな様子で僕の手をひいてきた。  
 ちなみに巴のクラスの出し物が演劇であること、またその開演時刻、さらには巴が主演を務めていることなどを僕に教えてくれたのは琴梨だ。  
 巴自身はこのことをひた隠しにしていて、琴梨が僕にばらしてしまったと知ったあとは延々と「ぜ、絶対に観にきてはなりませんよ!」と顔を真っ赤にしながら訴えていた。  
 巴ならきっと演技もそつ無くこなすだろうし、そんなに恥ずかしがることはないと思うんだけど。  
 まあ、きっとただの照れ隠しだろうし、ここは同じ釜の飯を食べる仲間としてちゃんと観にいってあげるべきだろう。  
 
 
 賑やかな喧騒の中をのんびりとしたペースで歩き、やって来たのは校庭の一角。  
 そこにはあろえのクラスが製作した巨大な傑作が鎮座していた。  
 この街の人間であればひと目みただけでそれがなんであるのかわかるだろう。  
 それは一辺10メートル四方ほどに縮小された、この街のミニチュアだった。  
 さすがに一軒一軒の家屋まで忠実に再現されているわけではないが、それでも駅やスーパー、この学校など主要な建物は形状もそれらしく造ってあり、さらには地面の高低差や勾配なんかもしっかりとしている。  
 巨大な造形物というのはただそれだけで人の心に訴えかけてくるものがあるが、それを生み出したのが中学生だというのだから、各々の団結の証を見せつけられているようで、さらに感慨深い。  
「これはすごいな」  
「でしょー。あたしはね、あそこの家を30個ぐらいと、ひーくんの学校を半分くらいつくったんだよ」  
 誇らしげな顔をしたあろえが指差す先には確かに僕の大学とおぼしきミニチュアが存在していた。  
 発泡スチロールを削って形を作ったんだろうか?それとも紙箱の組み合わせかな?  
 自分と関わりのあるものがこういった形でおもちゃのように再現されるというのは見ていて心が躍るものだ。  
「あとね、あそこあそこ。あたし達のおうち。あたしが色を塗ったんだよ」  
 急勾配な坂のてっぺんに置かれたサイコロのような小さな立方体が爺さんの家らしい。なんとなく煉瓦造りで壁面に蔦が絡まっているような、それっぽい着色がしてある。  
 なるほど、自分が豪邸に住んでいるなどとは思っていなかったが、こうして見ると爺さんの屋敷というのは本当にちっぽけなもんだな。  
実際には屋敷などと呼ぶのもおこがましい、ただただ古くて部屋数が揃ってるのだけが特徴の家だからな。  
 いや、あんまり卑下するのもなんだ。それだけこの街が想像以上に大きいということなんだろう。  
 それにしてもこれだけ大きな物を作ろうと思うのも驚きだが、それを実行に移し、完成にこぎつけるのだから驚嘆としか言いようがない。  
「本当にたいしたもんだな」  
「ねー、おっきいおっきいよね。あたし達の街」  
 まるで神の視点で街を見下ろすかのごとき展示に、あろえはちょっと彼女らしからぬ落ち着いたトーンの声色で呟く。  
 そういえば僕はまだこの街の住人となって半年ほどだけれど、隣のあろえはこの街で長年過ごしてきたわけで、僕とはこのオブジェから受ける印象も違うんだろうな。  
 付け加えるのならば、彼女は日夜この街を守るために危ない目に遭っているのだから、街に対する想いも僕とは比較にならないほどのものだろう。  
 
「うーん、みんなも一緒に見られたらよかったのにねー」  
 家族の団欒をこの上なく愛するあろえの気持ちはわかるが、皆にもそれぞれ別個のスケジュールというものがある。  
 ご覧の通り製作物の展示で済んだあろえは文化祭当日は僕の案内をする余裕もあるわけだが、他の面々はそういうわけにもいかなかったようだ。  
 埜々香と凌央はクラスの出し物の関係で拘束されているようだし、琴梨にいたってはクラブを4つも掛け持っているおかげで今日明日の2日間は大忙しだろう。  
 唯一、午前と午後に30分づつ劇に出演すればいい巴なら時間もとれないことはないんだろうけど、巴は祭りを積極的に楽しむような性格でもないし、なにより僕と一緒に歩き回るのなんて願い下げだろう。  
「仕方ないさ。皆忙しいんだよ。招待券をくれたのもあろえだけだったしね」  
 あろえは学校から招待券を配布されたその日のうちに僕に券を手渡してくれたんだけど、他のメンバーからはなんの話もなかった。とは言え、一枚あれば充分ではあるんだけど。  
 埜々香は『男性を招待』というシチュエーションに精神が耐えられなかったんだろうし、凌央は招待券のシステムを把握しているのかどうか疑わしい。  
 男嫌いの巴が僕に文化祭に来て欲しいわけもなく、僕があろえから券を受け取るのを見ながら困ったような顔をしていたしな。  
 琴梨は脇でその様子を眺めながら「あっはっはっ。駄目だな、ひーくんはっ。こういうときはさりげなく断んないとっ」と、笑っているだけだった。  
 はて、琴梨が僕の来訪を拒む理由はないと思うんだけど、あのときの言動はどういう意味だったんだろう。  
 ついでに言っておくと、ガニメデを女子校内に連れてくるのは僕の倫理観が許さなかった。  
 それは例えるなら金魚を飼っている水槽にアメリカザリガニを放り込むような行為に思われたからだ。常識人として躊躇する気持ちが発生するのは当然のことだろう。  
 あろえの製作途中の苦労話を聞いたり、目立つ建物を指差しつつ、あそこには行ったことがある、あそこはまだ、なんて会話を楽しんでいると、10分ほどの時間はあっという間に過ぎていた。  
「そろそろ他の場所にも行こうか?」  
 延々と地図だけを見ているわけにもいかない。僕はクラスメイトの誰がなにを作ったかをひとつひとつ丁寧に説明するあろえを促すことにした。  
 悪いとは思ったが、流石に30人弱の名前を全部覚えることは出来なかった。  
「うんうん。そうしよそうしよ。次はどこに行こうかなー」  
 
 
 僕達は次に埜々香のクラスに行くことにした。特別な理由なんてない。  
 あえて言うなら、1年のクラスは中等部校舎の1階にあるから、行くのが楽だったからかな。  
「さて、埜々香のクラスはなにをやってるのかな?」  
 受付でもらったパンフレットを広げても、残念ながらそういった詳しい情報は載っていなかった。  
 この学校は初等部から大学部まで揃ったマンモス校だけにクラスの数も膨大。薄いパンフレットに各クラスの出し物を記載する余裕もないらしく、せいぜい教室の配置がわかる程度だった。  
 実際に行ってみないことには内容を推し量ることも出来ない。  
 しかし、なにをやっているにせよ、はたして埜々香がまともに働くことが出来ているんだろうか?  
 家での埜々香の行動から導き出されるスペックを思い浮かべ、不安な気持ちが湧き上がる。  
 家事能力はゼロだし、皿を持たせれば必ずと言っていいほど転ぶので給仕係も駄目。  
 声を張りあげることも出来ないから客寄せも接客もNGだし、なにか変わった芸を持っているわけでもない。  
 そもそも知り合い以外の人間の前に立つと気を失うほどの小心者だから、文化祭で役に立てるとは到底思えない。  
 邪魔者扱いされてないといいんだけど。  
 そんな懸念を抱いて歩く僕をよそに、あろえは楽しくて仕方が無いといった風情で声をかけてきた。  
「ひーくん、あったよー。あそこがののちゃんの組。『わなげ』って書いてあるね。面白そー」  
 あろえの言う通り、埜々香のクラスの窓という窓には色とりどりの折り紙を駆使して『わなげ』と読める装飾が施してある。  
 ということは、まあおそらく中では輪投げが遊べるんだろう。  
「こんにちはー。わなーげ、やらせーてくーださーい」  
「あろえ、もう少し静かに入ったってバチはあたらないから」  
 無意味に右手を挙げながら埜々香の教室内に突入するあろえと、それに追従する僕。そしてあろえの声に何事かと注意を向ける教室内の人間。  
 その教室内の人間というのは見事なまでに女生徒ばかりで、空間内における唯一の異性となってしまった僕は気恥ずかしさを抑えることが出来なかった。  
 なんの理由もなく視線を泳がせ、なるべく女生徒の顔から目をそらすと同時に、教室の様子なんぞを窺ってみる。  
 さて、そんな怪しげな方法で確認した教室の様子だけれど、中央の広いスペースを学習机を使って正方形に仕切り、その内側にいくつもの景品が置かれているという按排だった。  
 客はそのスペースの外側から机越しに輪を投げるという仕組みのようだ。  
 景品はやはり女子中学生が集めただけあってぬいぐるみなどの可愛らしいものが中心。どう考えても輪をくぐりそうもない大きさのものも混じっているのもお約束だ。  
 机で構成される四辺の脇にこのクラスの生徒が2人づつ係員として立っており、さらには景品スペースにあたる場所には一人の見覚えのある人間の姿があった。  
 埜々香だ。  
 なんだって埜々香がそんなところにいるんだろう?埜々香も景品のひとつに数えられているんだろうか?  
 そう考えていると、丁度いいタイミングで真相がわかる機会が訪れた。  
 お客のひとりが放った輪がその中心に小さなキーホルダーを捉えるのに成功したんだ。  
「埜々香ちゃん、こっち入ったよ」  
「う……はう」  
 一人のクラスメイトの指示を受けて埜々香がぎこちなくも腕を振ると、辺りにはカランカランという賑やかな音が鳴り響く。  
 どうやら誰かが景品を獲得したときに手に持ったハンドベルを鳴らす係を担当しているらしい。  
 なるほど、これなら不器用な埜々香でも大丈夫だろう。クラスメイトも機転を利かせたもんだ。  
「ののちゃんだ。ねえねえ、頑張ってる?」  
「あ……は…がん………す」  
 あろえの質問に半ば目を回しながらなんとか答える埜々香。どうやらこの程度の単純作業であっても本人としては一杯一杯のようだ。  
 いつ気絶してもおかしくないように見えるが、大丈夫なのか?埜々香の担当時間が残り少ないことを祈るのみだ。  
 
 
「あれー、難しいね。全然だめだよー」  
 5投200円という相場からいって安いのか高いのかわからない料金を払って挑戦するあろえだったけれど、残念ながらあえなく全滅の憂き目を見ることとなった。  
 思えば射的や風船釣りをこなしてきたはずなのに、僕と会ったときに手ぶらだった時点でこの結果は見えていた。  
 性格こそしっかりとしているあろえだったが、実は埜々香にも劣らない不器用スキルの持ち主だからな。  
 まあ、本人がさほど気にしているでもなさそうなのが救いか。がっかりする、という精神活動をはじめから所持していない、羨ましい資質を持った子、それがあろえだった。  
 ただ、ここまでことごとく景品を手に入れられないで、はたして本当に楽しいものなんだろうか?  
「ねえねえ、ひーくんもやってよー。あのタイルみたいなのが欲しいんだよー」  
 と、あろえが僕にふってくるんだが、ちょっと遠慮しておく。  
 我が家にとっては百円硬貨2枚といえども大金なんだ。きっともやしが6袋は買えることだろう。  
 そもそもあろえが指さしているアレは一体なんなんだ?  
 プラスチックかはたまたアクリルの板だろうか、それを10枚ほど輪ゴムでまとめて底面積をかせぎ直立させているんだが、用途がまるでわからない。  
 それにあろえのプレイを見ていてわかったんだが、あろえの狙っているそれは位置こそ結構近くだけれど、周囲にそれ以上の高さがある景品が配置されていて、輪の投射軌道に相当気をつかわないといけないようになっている。  
 素人がうかつに手を出すわけにはいかない。  
「僕も自信がないよ。こういうのは諦めどきを見失わないのが大切だぞ」  
「うー、残念残念なんだよ」  
 結局僕らは埜々香の仕事を増やすはめになることもなく、このクラスを後にした。  
 僕らが立ち去る際、あろえよりも埜々香のほうがよっぽど残念そうな顔をしていたのが印象深かった。  
 自分でもまともにできる仕事を獲得したのに腕のふるいようがなかったのが悔しかったんだろうか?  
 案外こういう経験が職業意識の芽生えに繋がり、ニートやフリーターの増加に歯止めをかけるのかもしれない。  
 
 
 僕達は埜々香のクラスを後にしたその足で、階段のある昇降口へと向かった。  
 目指すは凌央のクラスのある3階だ。  
 スキップでも踏みそうな勢いのあろえに手を引かれながら、僕も急ぎ足でなんとかついていく。  
 普段はそこらの野草が気になって遅刻しがちなあろえだけれど、さすがに学校内において目をひく植物があるわけもなく、極めて快調なスピードで移動していく。  
 10代を卒業間近な僕はパワー溢れる女子中学生の移動ペースに合わせるのに一苦労だった。思わず若さの差を感じる瞬間だ。  
 そんなふうに暢気にかまえていたのがいけなかったんだろうか。僕は自分に襲い掛かる不穏な空気を感じ取ることができなかった。  
「隙ありだっ! ひーくん」  
「へ?」  
 突然頭の上から聞き覚えのある声が聞こえ  
「なんだ? 痛い! なんなんだ!?」  
間髪いれずになにか大量の白いものが僕へと降り注いできた!  
 正体不明の物体の猛襲に僕の体は回避のいとますらなく、あえなく全弾被弾、僕は頭をかかえてうずくまるはめになってしまった。  
「うわー、ひーくん、大丈夫? よーし、よーし」  
 僕の至近距離にいたにもかかわらずまったく被害を受けなかったあろえが僕を案じて頭を撫でる。僕をスナイプした人物の実力が窺い知れるな。  
「ありがとう、大丈夫だよ。それに本当はそれほど痛くもないんだ」  
 突然のことに驚いて騒ぎすぎてしまったみたいだけれど、実際には僕の頭にはそれほどのダメージは残っていなかった。  
 女の子に頭を撫でられるという恥ずかしい状況にいつまでも甘んじているわけにもいかず、僕は平気さを必要以上にアピールしながら立ち上がった。  
「それにしても一体なにが降ってきたんだ?」  
 その疑問もすぐに解消されることになる。あろえが落ちてきたもののひとつを拾いあげて、こう言ったからだ。  
「これ、玉入れの玉だよ」  
「玉入れの玉?」  
「そうさっ! 玉入れの玉だよっ! 大正解っ!」  
 僕達以外の第三の声はこれまた僕達の頭上から響いてきた。  
 見上げるとそこには1階と2階を結ぶ階段から半分身を乗り出した琴梨がアリスをからかうチェシャ猫のような笑顔で手を振っていた。  
「あっはっはっ! 駄目だな、ひーくんはっ。男は玄関を出たら常に敵に狙われてるもんだよっ!」  
 また琴梨に駄目出しされてしまった。なんだろう、僕と琴梨と文化祭の組み合わせはヤバイ化学反応を起こすようになっているんだろうか。  
「琴梨が僕の敵だったとは知らなかったな。いきなり不意打ちされる覚えはないと思ったんだけど」  
「ん? そういやあたしはひーくんの味方だった! ごめんよっ!」  
 そう言っていつものごとくケタケタ笑いながら僕達の方へと降りてくる琴梨だ。  
「ところでこれは一体なんの騒ぎなんだ? 今日は文化祭であって、運動会じゃないんだぞ」  
「もっちろん承知のうえさっ! これはあたしたち、雪合戦同好会の発表なのさっ」  
 雪合戦同好会。そういえば琴梨はそんなクラブにも所属していたっけ。初めてその名前を聞いたときには我が耳を疑ったもんだけど。  
 それにしたって…  
「僕の頭に白玉落っことすのがかい?」  
 これが発表だというのなら、メイドさんが配膳中に転んで客にお茶をぶっかけるのも発表ということになってしまう。それはいかがなもんだろう?  
 しかし、琴梨の顔は自信満々に輝いており、自分の行動に一片の疑いも持っていないようだ。  
「そうだよ。こうやって道行く人たちにあたしたちの活動をアピールしてるのさっ。そのうち部活に昇格できるようにねっ」  
 マイナスイメージを植えつける結果にしかならないと思うので、早急に中止すべきだ。  
 琴梨以外の同好会員がもう少し自重と慎み深さを備えていることを心から願う。  
 
「ホントは雪が降ったらよかったんだけどさ、今の時期じゃムリっしょ? 博士の発明品に雪降らしマシーンとかないかなっと思って探したけどなかったしさっ。 まったく残念さっ」  
「えー、それは本当に残念残念なんだよ。 あたしも雪、見たかったんだよー」  
 琴梨とあろえが2人して残念がっているが、正直そんなものがなくて本当によかったと思う。  
 爺さんの発明品にそんなものがあった場合、地球全土を氷河期に陥れるような欠陥品である可能性が高いからな。  
「ところでひーくんもあろえも、これ拾うの手伝ってくんないっかなっ? 早くしないと次のお客が来ちゃうよっ」  
 もしかしてその白玉を回収し終わったら、また誰かの頭上に爆撃を敢行するつもりなのか?  
 それはお客じゃなくて犠牲者の間違いだろ?  
「拾うのは構わないけど、同好会を潰したくなかったらこれは倉庫の奥にでも放りこんどけ」  
 後日学校から「お宅の鴻池さんの事でお話が…」などと呼び出されても困る。  
 爺さんが行方不明中である以上、僕が琴梨の事を親御さんから預かっている保護者ということになるからな。人様の迷惑になりそうな行為は前もって注意しておかないと。  
「しっかたないなっ。ひーくんの頼みなら聞かないわけにはいかないからねっ。じゃあ今年の雪合戦同好会はこれでおしまいっ!」  
 いや、もしかしたら年内に雪が降るかもしれないんだし、そこまできっぱりと活動停止にしなくても……  
 
 
 こうして床に散らばってしまった玉入れの玉を拾い集めるはめになってしまった僕達だったんだけど……  
「琴梨、これで全部かい?」  
「ありゃ、3個たりないよ?」  
 予想以上に骨の折れる作業だった。  
 琴梨は張り切って体育倉庫に保管されていた玉入れの白いほうのやつを全部持ってきたあげく、それを全部僕めがけて振りまいたようで、量のほうもハンパじゃないからだ。  
 って、ちょっと待って。こんな籠一杯の量の玉、数を全部数えたのかい!?  
「そりゃそうさ。学校の備品だからねっ。なくしたら大変さっ」  
 それならやっぱり僕の頭にぶつけたのは失敗だったんじゃないか?  
「うーん。やっぱ赤い玉の方が目立って良かったかなっ?」  
 それじゃあいよいよ雪玉と似ても似つかないから、ますます雪合戦同好会とは無縁の意味不明な行動になってしまうじゃないか。  
 どうも琴梨の思考はときどき目的と手段と必要条件が噛み合ってないことがあり、傍で見聞きしているとそこはかとない不安を想起させられることがままある。  
 琴梨にしてみれば、そのときそのときで言いたいことを言い、やりたいことをやっているだけなんだろうけれど、どうにもハラハラさせられてしまう。  
「琴梨ちゃん。あと3個、見つけたよー」  
「おっ、サンキュー。んじゃ、お礼に1っこあげようっ!」  
 学校の備品だから、なくしたら大変なんじゃなかったのか……  
 
 
「ひーくん、急ご急ご。巴ちゃんの劇に間に合わなくなっちゃうよ」  
 そうだな。なんだか玉拾いだけで10分近く費やしたみたいだし、急いだほうがいいだろう。  
「なんだいっ、慌てちゃって? うちのクラスの劇なら、あと30分は大丈夫だよっ。  
 なんならここで雪合戦しよっか? あたしは1対2でも全然オッケーさっ」  
 いやいやいや、せっかく拾い集めた玉を、またばら撒くようなマネはよしてくれ。  
「巴ちゃんのとこに行く前に、凌央ちゃんのとこを見に行くんだよ。ねー、ひーくん」  
「お、そうなのかいっ! あたしも見てきたけど、あそこはおんもしろいよっ。お勧めだっ!」  
 必要以上にバイタリティに溢れている琴梨は、ここでアンブッシュ作戦を展開しつつも、他の出し物も見て回っているようだ。  
 思えば糸の切れた凧にジェットエンジンを搭載したような琴梨がひとところにじっとしていられるわけもない。  
「琴梨はもう凌央のところを見てたのか。どんな出し物だったんだい?」  
「ひっひっひっ。そりゃ、教えられないよっ。行ってからのお楽しみっ。  
 福袋だって中身がわかってたら買う気も起きないじゃんっ」  
 福袋の中身は大概去年の売れ残りの詰め合わせだからな。それは確かに中身を見せられたらがっかりするかもしれない。  
 でも、ここ最近はあらかじめ何が入っているのか教えてから福袋を販売している店も多いんだけどね。  
 しかし、ここは琴梨の言うことにしたがっておこう。正直、ここで琴梨と押し問答をしているような時間的余裕もないしな。  
「じゃあ、僕達は行くから。琴梨はちゃんとそれを片付けるんだぞ」  
「オッケーオッケー。そんなに何回も言わなくても合点承知さっ。ちょっとは信用しておくれよっ」  
 琴梨には悪いが、信用できる人間には何回も言ったりはしない。  
 うっかり気を抜くと次の瞬間にはあらゆる注意事項を忘却の彼方へと追いやってしまうのがこの娘の性質だというのは、半年あまりの同居生活でいやというほど思い知らされている。  
 僕に出来る対処法といえば、こうやって刺しておく釘の本数を増やしておくぐらいだ。  
 ちなみにガニメデ相手にはそんなことはしやしない。まったく無意味だからだ。  
 あいつは自分の欲望を満たすためなら釘が刺さったままでゴルゴダの丘だって全力疾走するだろう。  
 それならば最初からあいつの行動手段を奪ってやったほうが効率がいい。  
 これもまた、季節が2回も変化してしまうほど同室で寝泊りしてきた末に行き着いた結論だ。  
 
 
 さて、琴梨をその場に残してやって来た3階、凌央のクラスはちょっと異様な雰囲気を醸し出していた。  
 どういうことなのかというと、すべての窓のカーテンが閉め切られているんだ。おかげで中の様子がまったくわからない。  
 文化祭でこういった教室を見かければ、それはまずお化け屋敷で間違いないんだけれど、おかしなことにそういったアトラクションにつきものの悲鳴の類いが一切聴こえない。  
 では、なにが聴こえてくるのかというと  
「キャー」「かわいいー」「こっち!こっち向いてー」  
という、いわゆる黄色い声と呼ばれる数々の女生徒の歓声だったりする。  
 男が中に入るのを躊躇うには充分すぎる諸要素だと言える。  
 つまり、僕がなにを言いたいかというと……ズバリ、逃げたい。  
 僕のような異端者が女生徒で賑わっている密室に侵入するだなんて、とんでもないことだぞ。勘弁してもらいたい。日本上陸前のフランシスコ・ザビエルもこんな気分だったんだろうか。  
 僕は別に女性恐怖症でもなんでもなかったと思うんだけど、その認識は新たにする必要があるのかもしれないな。  
 まあ、そんな自己分析は家に帰ってからゆっくりとするとして、とりあえず今をどうするか、だ。  
 ここはやはり、クラス内の高等部進級を控えた多感な少女達のためにも、そして僕の精神のためにも、あろえにだけ中に入ってもらうのが一番無難だろう。  
 その間、僕は廊下で傘地蔵の路上パフォーマンスでもやっているさ。もちろん僕の担当は傘が足りなくなる最後尾の地蔵役だ。  
 あろえと別行動をとっているところを巡回の教職員に見つからなければいいんだけど。  
「あー、あろえ。悪いけどここには一人で入ってくれないかな。凌央にもよろしく伝えといてくれ」  
「えー、なんでー? 一緒に入ろうよー。ひーくん置いてけぼりはつまんないつまんないんだよー」  
 用を足すのを「花を摘みに行く」と言い換える貴婦人にも似た恥じらいを伴った僕の提案は、あろえにコンマ3秒で却下されてしまった。  
 逃がすまいとしてか、僕の右手を両手でがっちりとホールド。そのまま、けっして重くはない全体重を駆使して、僕を教室に引きずり込もうとする。  
 まるで強引なキャバクラの客引きのようだ。我が家のよいこランキングぶっちぎり1位のあろえにこんなマネをさせてしまい、親御さんには申し訳が立たないな。  
「入ろ入ろ。凌央ちゃんだって、ひーくんが来てくんなきゃ寂しがるよー」  
 凌央はそんな細かい事を気にするような娘じゃないと思うんだけど、それにしてもまいったな。  
 僕だって男であるわけだから女の子にここまで懐かれていい気がしないわけはないんだけれど、今回ばかりは本当に遠慮しておきたい。  
 多数の女子中学生に囲まれて悦に入ることが出来るほど、僕の人生経験は豊富ではないんだ。あと40年は修行が必要だろう。  
「あろえ、あんまり引っ張らないで」  
「ダメなんだよー、おふたり様ご案内ーなんだよ」  
 祭りの空気がそうさせているのか、今日のあろえは珍しく頑固で手強い。  
 琴梨あたりのあしらい方には慣れているんだけど、生憎僕は自分を曲げないあろえなんていうレアな存在に遭遇した経験はなかった。  
 はじめから僕には勝ち目がなかったとしか言えない。  
 
 
 そして、こんなふうに廊下で騒いでいれば、それなりに注目を集めてしまうのはいたしかたなく、僕とあろえはドア脇に席を構える受付の子に目を留められることになってしまった。  
「あれ? あろえちゃんじゃない。どうしたの?」  
 そのうえ声までかけられてしまったじゃないか。どうやら口ぶりからするとあろえのことを知っているみたいだ。  
 おそらくあろえのことだ、凌央の様子を窺いにこのクラスによく顔を出しているんだろう。  
「うー、ひーくんが中に入ってくれないんだよー」  
「ひーくん?」  
 知り合いの下級生が年の離れた男性にしがみつき、さらには10代卒業間近な男性に付けるには不相応なあだ名で呼んでいる。  
 そんなある種異様な光景を前にして、この受付の女の子も目を丸くしている。  
 あろえと琴梨のふたりに数え切れないほどこう呼ばれてきて、僕自身は違和感を喪失するくらいに慣れてきたわけなんだけど、そうか、やっぱり他人が聞くと変なのか。当たり前だけど。  
「ひーくんって…  
 あ! もしかしてこのお兄さんって、例の雪崎さんの気になるアノ人!?」  
 唐突に受付の少女がなにかに気付いたように声をあげているけれど、その気付いた内容はどうにも見当違いなものみたいだ。  
 例の気になるアノ人ってなんだ? 凌央に限ってそんな普通の女の子のような甘酸っぱい想いを募らせる相手がいるはずもないし、ましてやそれが僕であるなんてことは天地神明にかけてもありえないよ。  
「違うんだよ。ひーくんはみんなのお兄さんだから、いくら凌央ちゃんでもひとりじめは駄目駄目なんだよ」  
「ちょっと、あろえ。恥ずかしいからそういうことを人前で言わない! いいから早く中に入っておいで、僕のことは置いてね」  
 どうやらこれ以上あろえにここで喋らせてはいけないようだ。非常事態につき、報道規制と物資輸送制限をおこなわなくては。物資名『逆瀬川秀明』は『持たず、作らず、持ち込ませず』の原則のもと、ここに置いていってくれ。  
「いえいえ、そういうわけにはいきませんよ。お兄さん」  
 ふと、そんな声が聞こえると同時に、僕の左手は暖かくも柔らかい感触に包まれた。見れば、なんということだろう、受付の子が僕の左手を両手で握っているじゃないか。えっと、これは?  
「噂のお兄さんを間近で拝めるせっかくのチャンス、みすみす逃すわけがないじゃないですか。というわけでお客様2名様ご案内ー」  
「ご案内なんだよー」  
 困ったことに、僕の手を引く人間が二人に増えてしまった。君たち、大岡裁きごっこをやりたいのなら、片方は手を引く方向が逆だぞ。  
 そして僕のささやかな抵抗など意にも介さず、二人は僕を教室内に引きずり込んでしまったんだ。  
 
 
「みんなー、雪崎さんとこのお兄さんがやってまいりましたよー。歓迎、よっろしく!」  
「こーんにちはー」  
 僕を連行する二人の声を耳にしたクラス内の生徒が一斉に僕達に注目し、次の瞬間には揃って嬌声をあげていた。  
「ウソー! ほんとにこんな人がいたんだー」  
「写メ! 写メ撮んなきゃ!」  
「えー! もっとかっこい人だと思ってたのにー」  
「雪さん、雪さん。そんな隅っこにいないでこっちこっち。愛しのおにいさんだよ」  
 サークルの新人歓迎会2次会に匹敵しそうな喧騒だ。僕はこんなに騒がれるような存在じゃないんだけどな、動物園のパンダじゃあるまいし。  
 これも凌央のミステリアスな無口ぶりのもたらした結果なんだろうか? 僕という家族的存在を突破口として、彼女のよりディープな情報を獲得しようというクラス全員の総意によるものか?  
 こんな恥ずかしい思いをすると分かっていれば、あらかじめ凌央のコミニュケーション能力強化にもっと尽力していたのに。後悔先に立たずだよ、ホント。  
 それにしても僕らを取り囲む女生徒の格好、文化祭だということを差し引いたとしてもこのハッチャケぶりはなんなんだ?  
 この学校の中高の制服は共通でサルビアの花のようなカージナルレッドをメインの配色としたブレザー。しかし彼女達がそれぞれ身に着けている扮装はいずれもそれとは一線を画している。  
 たとえばそれは普通の私服であったり、はたまたこの学校のものではないセーラー服であったり、うわっあれなんてニュースで一度見たメイドってやつじゃないか?  
「えっと……ここは一体……その、なんなのかな?」  
「ハイ! うちでは記念写真撮影会をやってまーす! 各種コスプレ取り揃え、女子中学生とのツーショットを提供する夢のような企画ですよ!」  
「そ……そうなんだ」  
 僕の懐疑の声に答えたのはあろえと一緒に僕をここへ引っ張り込んだ女の子。  
 よくこんなイカガワシイ企画が通ったな。と、いうよりまず担任教師が止めるべきじゃないだろうか。  
「…………」  
 そしてこの部屋の片隅、知らない人が見たら等身大フィギュアと勘違いしてしまうんじゃないかと心配になるほど微動だにしない少女、雪崎凌央はそこに直立していた。  
 相変わらずこちらを見ているのか見ていないのか曖昧な視線を僕らの方へと向けているんだけど、服装は……あれはなんだろう?  
 上半身はここの制服なんだが、スカートが通常のフレアなものではなくタイトなものに変更されており、さらにどういうわけなのか大きめの白衣を羽織っていた。  
「凌央ちゃん、かわいいー」  
「お兄さん、見てください! 当店イチオシ、雪崎さんの勇姿を! コンセプトはクールな女医さんなんです」  
 あー、医者ね。自宅でガニメーデスの整備を担当しているのを知っている僕としてはむしろマッドサイエンティスト志望の天才小学生に見えるんだけど……  
「…………」  
 遠目で自分のことを噂する僕らが珍しく気になるのか、こちらに向かってフラフラと水中遊泳のような足取りで凌央がやって来る。  
「雪崎さんが……自分から動いた!」  
「やっぱり、それだけの相手なの?」  
 そしてなぜか格闘マンガの観客のようなどよめきを交わす周りの生徒たち。そんなにオオゴトかなぁ……?  
「…………」  
「や、やぁ凌央。頑張ってる?」  
 僕らのもとへとやって来た凌央はそんな僕の問いかけに反応したのか、していないのか、僕の頭頂部あたりを凝視し、次いで視線を自分の胸元へくべ、そして  
「いしゃ」  
とつぶやくと、そのまま硬直してしまった。  
 うん……いつもどおりらしい。  
「あははー、凌央ちゃん聴診器つけて、ちょーしんき」  
 あろえはこの女医スタイルの凌央がいたくツボにはまったらしく、白衣のあちこちをクイクイと引っ張ったり、凌央が首から提げている聴診器をいじったりしている。  
 と言っても、あろえは物珍しいものを発見した時は大体こんなカンジなんだけど……  
 
「カメラ準備オッケーでーす」  
 生徒の一人が銀色の輝きも眩しいデジカメを構えているところを見ると、どうやら僕のパートナーは既に凌央で確定しているらしい。  
 注文の多い料理店じゃあるまいし、客に選択の自由がないというのもどうなんだろう? いや、知り合いでもない女の子と記念撮影ができるような度胸の持ち合わせがないのは確かなんだけどさ……  
 まあ、いいや。ここまできたら覚悟を決めて、写真の一枚もとっとと撮って、さっさと退散することとしよう。幸い凌央の方はいつでも撮影の心構えは出来ているようだし。(単に無関心なだけなんだろうけど)  
「…………」  
「雪崎さーん、ただ立ってるだけじゃなくて、なにかサービスしようよ。たとえばお医者さんっぽく服をはだけてみせるとかさ」  
 しかしカメラマンな彼女は二人が並んで立っているだけの絵面が不満なのか、凌央になにかしらのアクションを要求していた。  
 そんな追加要素は必要ないから、平穏無事かつ可及的速やかに撮影を終えてくれないかな。  
 なんて悠長に構えていたのが悪かったのか、次の瞬間に凌央が開始した突飛な行動に僕は反応が出来なかった。  
 すなわち、どういうことなのかと言うと  
「…………」  
なんと凌央はおもむろに自分の着ているシャツのボタンに手をかけ、無言で外しはじめたじゃないか!  
 みるみる露わになっていく彼女の白い肌着……じゃなくて!  
「うわぁっ! 違うって、凌央! 医者がはだけるのは自分の服じゃなくて患者のだって!」  
「凌央ちゃん、女の子が人前でそんなことしちゃダメダメだよ」  
「…………」  
 慌てて僕が制止し、あろえがボタンをはめてやっていく。焦った焦った……  
 つくづくガニメーデスを自宅待機にしておいて良かったと思う。  
 あの、無生物だというのに生物三大欲求のひとつである性欲が旺盛すぎるぬいぐるみもどきがこんなシーンを目撃なんてしようものなら、興奮のあまり分身してラインダンスを踊り出すぐらいのことはしかねない。  
 それはきっと想像を絶する不気味な光景に違いなかった。  
 
 
 その後、佇まいを正した凌央と一緒に平凡なツーショットを撮影。写真一枚撮るのに、なんでこんな大騒ぎが必要なんだか……やれやれだな。  
 デジカメのデータは教室に置かれたノートパソコンに移され、接続されたプリンタにて直ちに印刷された。  
 その写真は何故か二種類あり、ひとつは凌央が自ら服を脱ごうとしているシーンだった、などというジョークには僕は一体どういうつっこみをいれたらいいんだろう?  
 本当にこの年頃の女の子たちの考えていることはよくわからない……  
 
 
「ひーくんも一杯撮ってもらったらよかったのにー」  
「勘弁してくれ……あれ以上あそこに居たら恥ずかしさで体がバターになっちゃうよ」  
「あはは、ひーくんトラだねトラー」  
 手に持つ色とりどり形とりどりな服装の先輩たちとの無数の記念写真を扇のように広げながら、あろえは上機嫌にアハアハと笑っている。まあ、楽しそうでなによりだ。  
 中等部校舎と高等部校舎を繋ぐ渡り廊下を歩くあろえの様子は、まるで足に羽でも生えてるんじゃないかと思うほど浮き足立っている。  
琴梨とはまた違った意味でのハイテンションな移動形態だな。  
「まあともかく、これで巴の様子を覗いたら、丁度お昼時だな。そうしたらどこかで食事にしよう」  
「楽しみだね。出し物はなんだっけかなー? 琴梨ちゃんは『ふっかつのじゅもん』とか言ってたけどー」  
 なんでドラクエ? しかもファミコン版だし。あろえの産まれる前の作品だぞ。  
「違うよ。確かトルストイの『復活』じゃなかったかな」  
「とるすとい? わー、なんだかむずかしそー」  
 トルストイなんて名前が持ち出されては、あろえがそんな反応を示すのも当然だろう。  
 かくいう僕も、文系大学で学ぶ端くれとして一応タイトルだけは聞き覚えがあるけれど、残念ながら内容のほうはさっぱりだった。  
 演劇部の公演だというのならともかく、クラスの出し物の演目としては敷居が高すぎるような……ただ、やたらと高尚ぶった行動を好む巴には似合うかもしれないな。  
 うん、たまにはそんな優雅な演劇鑑賞というのもいいかな。ほら、そんな僕の気分を盛り上げるかのように周囲にはシューベルトがBGMとして鳴り響いているじゃないか。  
「ねえ、ひーくん。バッジが鳴ってるよ」  
「え? あっそうか、ガニメデの呼び出しだったのか」  
 クラッシックのメロディを奏でていたのは僕の襟元にくくり付けられた盾型のバッジだった。ガニメデがなにか言いたいんだろう。  
 
「どうした?」  
『これはこれは秀明さん。あなた様におかれましては現在酒池肉林の夢心地でありましょうが、私のこの声がその雰囲気に水をさす結果となったならば、私としてはこれほど嬉しいことはないと思う所存です』  
 甲高い電子音声でありながら十二分におどろおどろしさがにじみ出ている声色でガニメデが第一声を放った。今世紀始まって以来最低な挨拶文に違いない。  
「おまえはわざわざイヤミを言うためだけに連絡してきたのか?」  
『イヤミのひとつも言いたくなりますよ!  
 秀明さんがワルキューレに選ばれてヴァルハラで酒宴に興じるエインフェリアなら、さしずめ私は道反の大神に行く手を遮られた根の国の住人ではないですか!』  
 神話がごっちゃになってるぞ。どんな対比だよ。  
「ガーくんもこっちに来られたらよかったのにねー」  
『おぉ! そのような暖かいお言葉をくださるのはあろえさんだけです!  
 あろえさん、わかっておいでですか? あなたは今シーモア・クレイ賞を受賞してもおかしくはないほどの素晴らしい発言をなされたのですよ! 存分に胸を張ってください!』  
 あろえの気休めの言葉に感動してか、いつにも増して言うことが電波じみてるなあ。こんなことでコンピュータ研究者のトップに祀り上げられてしまっては、世界中の計算機工学者も苦労のし甲斐がなかろう。  
「おい、用がないならもう切るぞ。公共の場でおもちゃ相手に話しかけるのがイタイ行動だっていうのはおまえにも理解できるだろう?」  
 今更ながら思うんだが、携帯電話の普及した今の世の中において、こんなアクセサリー型の通信機を連絡手段に用いるのに意味はあるんだろうか?  
 ちなみに『切る』とは言ったが、このバッジはこちら側からの操作なんて一切受け付けない仕様となっている。なにせボタンのひとつも付いていないんだから。  
 まあ、どうしても邪魔に感じたらポケットにでもつっこんで無視をきめこんでやるさ。  
 そう考えていた僕だったけれど、次にガニメデが『天気予報の降水確率が40%だから折りたたみ傘を持っていったほうがいい』とでも言うかのような淡々とした口調で告げる内容は無視するわけにはいかなかった。  
『これは失礼を。本題なんですがね、カサンドラシステムがEOS出現を絶賛警告中であります。出現予想時刻は現在から15分後程度が有力だそうですな』  
「それを早く言え! 一大事じゃないか!」  
 本来なら開口一番に伝えられなくてはならない最優先事項をなかなか切り出さなかったスケベ人工知能には呆れるばかりだ。いつかこいつの趣味優先な人格のせいで世界は滅んでしまうんじゃないかと本気で思う。  
『そうは言いますが秀明さん以外の方からは特に不満の声はあがっておりませんし、問題ないのではないでしょうか。  
 あ、心配には及びません。私、世界を代表するスーパーコンピュータでありますから、秀明さんと会話をこなしながら同時に当家の愛すべきお嬢様がたとコミュニケートをとるなど造作もありません。  
 人間の身である聖徳太子にも可能なこの程度の並列作業、私にとっては朝飯前でして。もっとも私は朝飯どころか一切食事をとりませんが』  
 日本に立法という概念をもたらした偉大な賢人を引き合いに出すとはなんておこがましいヤツなんだ。  
 それに、誰も文句を言ってないだって? 巴あたりは絶対二言三言は噛み付いてるだろうに。  
『いや、それがですね、なぜか巴さんだけは音信不通でして。  
 なんと言いますか私の声を届ける対象の男女比が1対4なのと1対5なのとでは、やはり気分も雲泥の差ですな。秀明さん、思い切って性転換手術を受けてみるつもりはありませんか?』  
 ガニメデのくだらない提案は放っておくとして、巴と連絡がとれないだって? 一体どういうわけだ?  
「あ。巴ちゃん、お芝居が始まるから、もう着替えちゃったのかも」  
「なるほど……」  
 巴も、というか我が家を寝床としている人間は全員緊急時の連絡用として僕と同じ通信機を支給されている。  
 常時携行が望ましいと言われてるんで僕以外の皆は学校にいるときは制服に付けているはずだ。着替えてしまったんでは呼び出しに気付けないのも納得がいく。  
「ああ、でも、ということは巴には劇を抜けてもらわなきゃいけないのか……」  
 主役がいなくなってしまったら劇が成立するわけがないし、そうなれば巴のクラスの出し物はおじゃんだ。  
 弱ったな。あのアルファベット3文字表記の化け物も、ちょっとはタイミングに気を遣ってもらいたい……  
 
 
「EOSが出るというのであれば、そちらを優先するのが筋というものでしょう」  
 開演3分前という巴のクラス、その前の廊下で男装の麗人然とした巴に事情を説明したところ、妙にあっさりとした答えが返ってきて僕の方が逆に拍子抜けしてしまった。  
 もっとも僕が『EOS』という単語を持ち出す直前までは  
「あれほどここには来るなと言っておいたはずです! あなたに欠けているのは配慮する心ですか! それとも記憶力!」  
とか  
「どうせわたしは男役です! カチューシャなどというガラではありません! 明日の日の出を拝みたくないのであれば、思う存分笑ったらいいではありませんか!」  
などといった具合に、体中の水分を蒸発しきってしまいそうな剣幕で真っ赤になってまくしたてていたんだけど。  
「えー! 巴ちゃん、せっかくお芝居で主役なのにもったいないよ。わたしたちだけで大丈夫だよー」  
「そうだな。巴のクラスの子たちに迷惑をかけるのも悪いし。巴には劇のほうに集中してもらって、今回は4人で対処してもらったほうが」  
「なにを言っているのやら……それならば始めからここにEOS出現を報告に来なければよかったではありませんか。あの化け物がいると知った上で、わたしが演技になど集中できるとお思いなのですか?」  
 それは確かにその通りだ。  
 EOSに対する最も有効な攻撃手段を持っているのが巴ということもあり、ついついここにやって来てしまったのはうかつだった。都合よく通信機を外していてくれたんだから、内緒にしておけばよかったよ……  
「さ、行きますわよ。どのみち着替えなければならないのですから、この格好のままで結構ですわ」  
 と言いつつ、クラスメイトに事情の説明すらせず教室を後にしようとする巴。  
「ちょっと待ってくれ。せめてなにかもっともらしい言い訳のひとつもクラスの皆に言っておかないとまずいだろ?」  
 そんな巴を慌てて引き止める僕だったけど、彼女の反応は素気無いものだった。  
「主演女優が直前ボイコットしてしまってもやむない理由、そんなものわたしには用意できませんわ。それともあなたには良いアイディアがおありだとでも?  
 言っておきますがわたしは謀り事で親類を亡き者にするような行為は断じて認めませんからね」  
 そんなものを咄嗟に用意出来るなら僕は一流の詐欺師になれるだろう。幸いにも僕には犯罪者の才能はないみたいで、つまりは都合のいい早退理由の持ち合わせはなかった。  
 ただ、才知溢れる人間だけが犯罪を企むのであれば、刑務所の収監人数が飽和状態なのが社会問題になるような現状はないわけで……  
「まだなにか気にしているのですか。まったく、グズグズしている暇はありませんのに呑気なものですわね」  
「だって巴ちゃん、そんなことしたらクラスのみんなに怒られちゃうよー」  
「そのように深刻になるほどのものでもありませんわ。もともと無理矢理あてがわれた役なのですし、1回程度のサボタージュぐらいは覚悟していただきませんと。わたしも2日で4回も気の乗らない演技をしたくはありませんでしたし、丁度良いですわ」  
 ひたすら早口でまくしたてる巴の姿は、それを見ている人間に問答無用の足止め効果を発揮するもんだから困る。  
 その威力はさっきの琴梨の白玉攻撃の遥か上をいっているように思うね。  
 だから僕がこの攻撃にうっかり撃墜されてしまっても、それは僕のミスというわけではないんだよ、うん。  
「わかった。それじゃあ巴とあろえは先にガニメデの所に行っていてくれ。僕もすぐ行くから」  
「……あなた……なにか善からぬことを企んでいないでしょうね?」  
 巴の疑いの眼差し。  
 うん、当然企んでいる。  
「大丈夫。余計な事をするつもりなんてないさ」  
 とはいえ、エイプリルフールに嘘をつくと宣言してからそれを実行するようなマヌケがいるはずもない。僕は平然とすっとぼけた。  
 
 
「ゴメン! 巴は僕が攫っていくんで!」  
 二人が視界から消えたのを確認してから僕は教室に顔を突っ込み、それだけ言った。  
 やっぱり僕には根本的に他人を騙すセンスが足りてないらしい。うまい物言いなんて何も思い浮かばなかったよ。  
 案の定、巴のクラスメイトは唖然とした顔で僕の顔を凝視している。  
 ……逃げよう。  
「それじゃ!」  
 慌ててその場から駆け出した僕の背後では堰を切ったように無数の黄色い声があがっている。ああ……恨まれてるんだろうな……  
 まあ、ものは考えようだ。毎日あの子たちと顔を会わせる巴が悪者になるよりは、この方が幾分マシだと思うことにしよう。  
 そう自分を慰める僕の耳に再びガニメデの声が届く。  
『あー、もしもし秀明さん。聞こえておりますかな?  
 こちら、校門に到着、今すぐにでも乙女の園に突入する準備が整っておりますガニメーデスです。  
 どの学年の更衣室でおちあうのか相談いたしたいのですが』  
 なぜ更衣室が目的地なのは決定事項なんだよ? というか、そこで待ってろよ。すぐにEOS退治に向かわなけりゃならないんだから。  
『そういうわけにもまいりません。なんといっても今回のEOS出現地点はこの学園内なものですから。  
 ああ、やはり天は私を見捨てておりませんでした。これこそがまさに天佑というもの。運命が私にどうあっても女子校に潜入せよと告げておるのですな』  
「ここにEOSが出るだって!」  
 それはマズい。今、ここには事情を知らない一般人がそれこそ山のようにいるんだ。  
 その人たちが危険なのはもとより、巴たちの戦闘の様子を見られるなんてことになれば今後の彼女たちの学園生活に多大な軋轢を生むに違いない。  
「おい、ガニメデ。なんとか人払いが出来ないか? お前のことだから、こんなときのために奥の手のひとつやふたつ、用意してあるんだろ?」  
『おお、普段なんのかんのと言いつつも、実は私の素晴らしさというものをちゃんと認識しておいでですな、秀明さんは。  
 ここはひとつ交換条件といこうではありませんか。  
 秀明さんの要望を聞くかわりにですね、この前提案した件“秀明さんの両手を遠隔操作するための外科手術”を承諾していただくということで…ザッ』  
 突然不自然なタイミングでガニメデの声が途絶えた。なにがあったんだ?  
『……ザッ  
 えー、たった今到着した巴さんに端末が竹刀のフルスイングを受けてしまいまして……  
 巴さんも甘いですな。よもや私が巴さんに殴られるたびにその行為を「人差し指でツンッ」に脳内変換して身悶えていようとは思いもよらないようで』  
「なんと言うか……お前は本当に幸せ者だよな……」  
『お褒めに預かり恐悦至極です。それはともかく先程の秀明さんのご要望、早速処理いたします』  
 
 なんとかガニメデに生徒避難の約束をとりつけ、そしてすぐに校内に鳴り響く激しい警報。  
『只今ガス報知器を作動させ、詳細確認と安全確保という名目で1時間ほど校内を立ち入り禁止とさせていただきました。  
 これで心置きなくEOSとの戦闘に挑めるというものです』  
「よし、でかした。僕の到着までに着替えを済ませておくよう、みんなに伝えておいてくれ」  
『重ね重ね承知いたしました。  
 それにしましてもあなたも奇特なかたですね。合法的に我が家のお嬢さんがたの着替えを観察できる折角の機会をみすみす見過ごしてしまうとは、私にはあなたの精神構造が到底理解出来ません。  
 ……ハッ!  
 もしや秀明さんは男性だと自称していながら、その実、女性なのでは!  
 素晴らしい! 素晴らしいですよ、秀明さん! そう考えると、男性としては魅力に乏しい微妙な童顔も、頼りがいのない華奢な体躯も途端に萌えるものに感じられるのが不思議ですな!  
 今や性別倒錯型ヒロインはツンデレ、ヤンデレと並んで萌えの最先端ジャンル! よくぞそこまで男心というものを心得てくれました!』  
「お前、家に帰ったら凌央にオーバーホールしてもらえ。多分あちこちサビついてるだろうから帰りにクレ556を買ってきておいてやるよ。それともカビキラーの方がいいか?」  
『なにをおっしゃいますか! 私の機能にはなんの不備もありませんよ。  
 秀明さんこそ自宅に戻ったおりには覚悟しておいてくださいよ。私の持つありとあらゆるセンサーを駆使して秀明さんの全身をくまなくねっとりと走査させてもらいますからね!』  
 ガニメデの気色悪い妄言に辟易としながら走る僕のそばを、放送にせかされて避難していく生徒が徐々に増えていく。  
 多少騒がしくはあるものの、とりたてて慌てている様子もない。こういった避難時においてパニックになった人達がドミノ倒しを起こすのが結構馬鹿に出来ない二次災害なだけに、この冷静な行動は僕を安心させてくれる。  
 なにせこの避難自体、僕が指示した偽のガス漏れに端を発しているわけだからな……こんな事でケガ人を出そうものなら悔やんでも悔やみきれない。  
 何事もなく校内が無人になってくれればそれに越したことはない。  
 
 あれ? ちょっと待てよ……  
   
 EOS出現中、校内から無関係な人間を締め出すってことは……  
 
 これってもしかして、わざわざ巴のクラスの出し物を潰す必要もなかったってことなんじゃ……  
 
「うわぁ……恨まれ損だ……」  
 最初から最後まで完璧に自業自得としか言いようのない間抜けな顛末に気付いた僕は思わず膝が崩れそうになる。そりゃあ先走って勝手に悪役を買って出たのは僕だけどさ……  
 ガニメデがなんと言おうと産まれてからずっと男であることに疑う余地のない人間である僕としては、無駄骨を折ったあげく見ず知らずの女子高生たちに人非人と嘲られていると思うだけでヘコむ気持ちを抑えられそうになかった……  
 
『おや、随分と落ち込んでおいでですね。真面目ぶって愛らしき蝶のごときお嬢様がたの羽化の様子を観察するチャンスを逃したことを今になって後悔しておいでなのですか?』  
 僕が校門に到着した時、ガニメデはあいもかわらず絶好調のようだった。  
 こいつがここで今まで何をして何をされていたのかは、全身泥だらけなうえにところどころ着ぐるみの糸がほつれているのを見ればあらかた想像がつくのであえて聞いたりはしない。  
 うちの子たちにちゃんとした痴漢撃退能力が備わっていることだけは確かなようで安心する。  
 それで、その5人はといえば、1人の欠員もなくDマニューバ搭載コスチュームへの着替えも完了しており、今すぐにでも戦闘が開始できる状態だ。  
「それで? EOSは今どうなってる? もう出現したのか?」  
『それが、たった今校庭でEOS発生を感知したのですがね……うーん』  
 ん? EOS迎撃に関する会話では普段の不真面目さがなりを潜め、僕の質問にも打てば響くように簡潔に答えるガニメデが、今回はなんだか様子がおかしい。  
「はっきりとしないやつだなぁ……なにかおかしなことでもあるのか?」  
 不審に思い、そう訊ねてみたけれど、ガニメデははっきりとした回答を返してはこなかった。  
『……まあ、行ってみればわかるでしょう。あ、秀明さん。私の端末を抱えていってはもらえませんかね。ナニブン不可避な物理的衝撃を受けすぎた為にマニピュレータの基部が損傷しておりまして』  
 こいつは身体を壊してまでセクハラ行為に及んでいたのか。ここまで自分の欲望に忠実なのはある意味大したもんだと思わないでもないが、僕はまったく尊敬する気になれない。誰か代わりに感嘆の声をあげてやってくれ。  
 わざわざ胸のあたりまで持ち上げるのも面倒なので、不気味に伸びるガニメデの腕のうちの1本を無造作に掴んでそのまま引きずっていくことにする。  
『おう! これはなんという地面への連続接吻の刑! いくらこの大地が常に女学生に踏みしめられている赤絨毯のごとき高貴なものとは言え、これはツラすぎます!』  
 
 訪れたときの賑やかさとは正反対に無人と化した出店の脇を通りながらグラウンドへと急ぐ僕達。  
 校門と校庭はそれほど離れてもいないので、すぐにその姿を確認することができた。  
 しかしおかしいな。全員の目に映るグラウンドはEOSが出現しているにしてはおかしなほど先程同様の落ち着いた様子に見える。  
「このリンゴ飴、このまんまじゃ乾いて食べらんなくなっちゃうね! もったいないからもらっちゃおっか!」  
 いやもとい、琴梨の目だけは自分の隣に突き刺してあるリンゴ飴に向いていた。凌央がさりげなく後ろから襟をつまんでいるので本当の盗難にはいたっていないけど。  
「ふざけている場合ではありません! 知り合いに犯罪者をもつなどという恥辱にまみれるつもりはありませんから、もし実行にうつすのでしたら金輪際あなたとは口をききませんからね!」  
 そうなりたくないのならむしろ凌央に協力してやってくれよ、巴。幼馴染だろ?  
 巴に声をかけられた琴梨は一心不乱にリンゴ飴へと向けていた視線をぐりんと反対方向、巴のほうへと回した。襟を掴んだ凌央も一緒になってくるくると振り回されている。  
 人ひとりぶんのウエイトがくっついていながら動きに衰えが見えない琴梨にしても、自分の体重を片手で支える凌央にしてもたいしたパワーだ。10分の1でいいから埜々香に分けてやればいいのに。  
「な、なんですの、その目は?」  
 頬をパワークレーンで上から吊り上げられているのかと思うほどにんまりとした表情を向けられてたじろぐ巴に、琴梨は  
「ひひひっ、おーこわいこわいっ。ひーくんに晴れ姿を見せらんなくなっちゃったからご機嫌斜めだねぇ」  
と、喜色満面に言ってのけた。台本が3ページほど落丁していたかのような脈絡のない台詞だ。  
「あなた! いいかげん的外れな勘違いを改めないのであれば、その口縫い付けますわよ!」  
「巴、裁縫できないじゃん」  
 顔を真っ赤に染めて怒りを露わにする巴に余裕で対処する琴梨。ところで口を縫い付けるのは裁縫とはまた別の技能だと思うんだけど。  
「あろえにやらせたらよいことです! あろえ、今のうちにこの憎たらしい大口の採寸をしておきなさい! あろえ!」  
 ここでなんとか自力でやってみると言いださないあたりが実に巴らしい。  
 さて、そのあろえはといえば、二人の口喧嘩には目もくれず、その大きな瞳を見開いてグラウンドを凝視していた。  
「……ひーくん、なんにもいないよ。どうしたんだろーねー」  
「え? 本当かい?」  
 あろえの言葉を受けてあらためてグラウンドに注目する。すると確かに、いつもの巨大なぬいぐるみのごとき怪物の姿は校庭のどこにもなかった。  
 すでにどこかへ移動したのか? でもさすがにそこまでの時間はなかったと思うんだけど……  
 
「ガニメデ。まさかお前、女子校に潜入したくてEOSの出現をでっちあげたんじゃないだろうな?」  
 僕の疑いのまなざしを受けた自称高性能コンピュータ端末は、まるでいつも猫型ロボットに頼りきりなのに珍しく自力でテストで100点とったが誰にも信じてもらえない小学生のように怒り出した。  
『失礼な! 何度も口をすっぱくして申しておりますが、私は世界の平和を守るために博士がその英知の限りを尽くして生み出した至高の人工知能ですよ!  
 そのような虚言を用いて己の欲望を満たすようなマネをする道理などありません!』  
 いつもなら細長い腕をこれでもかとばかりにぶんぶんと振り回して自己主張しているのだろうが、今はマニピュレータの付け根が壊れているもんだから僕の手の先にぶらんとぶら下がったままで叫んでいる。  
 その姿は間抜け以外のなにものでもなかった。  
『私の報告が間違っていたのではなく、EOSのほうが勝手に反応を消失させたのです!  
 それを、なんですか! 真っ先に私を疑うとは心外極まりなしですよ!  
 秀明さんがいかな異端審問をおこなおうとも、それでも地球は回っているんです!』  
 唐突に軟禁生活を強いられた天文学者を気取りだすな。それにおまえはガリレオというより狼少年だろう。  
「反応が消えたですって? EOSが自然消滅したとでも言うのですか?」  
 琴梨にしがみつきながらもきちんと僕らの声に耳を傾けていたらしい巴がガニメデに聞き返す。ちなみに凌央は既に振り落とされていた。  
『そういう可能性も否定できません。EOSも不自然な存在であることに違いはありませんし、不安定な状態で現出したのちに消滅することもあるかもしれません』  
「もしくはカサンドラの誤作動とか」  
 僕もとりあえずもうひとつの可能性を追加しておいた。  
 ガニメデのような欠陥品スレスレのしろものを作り上げた爺さんのことだ、カサンドラだけは完璧に仕上げている、なんてことの方がありえない気がするし……  
 などと、僕やガニメデがカサンドラの感知した不審な反応について議論を交わしていたところ  
「ひっ……」  
「ひーくん、大変! あれ!」  
埜々香とあろえが同時に短い悲鳴を発し、それに驚いた僕は慌ててそちらへと振り返った。  
 そして、そこに今まで一度も見たことがないものを目撃してしまい、僕は思わず言葉を失った。  
 
 笑顔以外の表情を捨て去ったのではないかと思うほど常に笑っているあろえが、隣で怯えている埜々香以上に悲痛な顔をしているだなんて……  
 
「どうしたのさっ? ビール瓶飲み込んだ蛇でも出てきたのかいっ?」  
琴梨の的外れな心配を耳にしながら、僕はあろえが見たであろう存在を確認するためにその視線の先へと首を回した。方向としては丁度あろえのクラスの展示があるあたりになるはずだ。  
 見ればなるほど、まさしく例の地図の中心あたりにEOSが放つ見慣れたピンクの光が小さく灯っているのが見てとれた。  
 あいにくここからではその姿を確認することはできなかったけれど、おそらく小型EOSが中に入り込んでしまったといったところだろう。  
 あろえが気が気でないのも無理からぬ話だ。自分達が苦労を重ねて作ったものを壊されでもしたら、たまったもんじゃないだろうからな。  
 でも幸いなことに展示物そのものにはまだ被害がでていないようだし、今のうちに手早く退治してあろえの不安を取り払ってしまおう。  
「みんな、Dマニューバを起動して。ちゃっちゃと片付けちゃおう」  
 と、皆に指示を出すが、それに水をさすヤツがいた。ガニメーデスだ。  
『ちょっと待ってください。そこにEOSがいるのですか?』  
 いるのですか?、もなにも目の前でピカピカ光ってるじゃないか、と言いかけて、こいつのでっかいカメラが地面しか映していないことに気が付いた。  
 面倒だが持ち上げてEOSの方へと顔を向けてやる。  
「ほら見ろ。あれだよ。そもそもあれだけはっきり出現していれば、直接目視しなくてもカサンドラからの報告でわかるんじゃないのか」  
 僕がガニメデの相手をしてやっている間に、他のみんなはその注意を完全にEOSへと移していた。巴と琴梨からなる直接攻撃担当メンバーにいたっては移動を開始しようとしていたくらいだ。  
 
 しかし、ガニメデが次に発した予想外の言葉はけっして無視できるものではなかった。  
『やはりおかしいです。次元エネルギーこそ感知されていますが、EOS本体の反応がありません』  
「なにを言っているのです。では、あれはいったいなんだと言うのですか!」  
 振り向きつつの巴の当然の疑問にも、ガニメデの返答ははっきりとしないものだった。  
『EOSのなんらかの働きによるものであろうことは確かですが、詳細は不明です。少なくとも本体でないことは間違いありません。  
 ちなみに先程秀明さんがカサンドラ不調の可能性を示唆した際に念のためシステムチェックをおこないましたが、問題は検出されませんでした。  
 私にもなにがどうなっているのかわかりません』  
 本体がいない? ということは、僕等はいきなり攻撃目標を失ってしまったということなのか?  
 たしかガニメデはEOSの発生そのものは感知したと言っていた。そして今、本体の有無はともかく不審な次元エネルギーがそこに存在している。  
 自然消滅、などと簡単に楽観視するわけにはいかないだろう。  
 でも、それならいったいどうすればいいのか? それがまるでわからず、僕は行動指針を決めあぐねていた。  
 そんなときだ。誰ひとり予想もしていなかったことが起こってしまったんだ。  
「え!」  
 突如目の前の次元エネルギーがなんの前触れもなく真上へと急上昇、飛び去ってしまったじゃないか!  
 突然のことで僕達の誰も対処することができなかった。いや、対処と言ったって、何をどうしたらいいものやら、まったくわからなかったんだけど……  
「あっはっはっ! ノーコンだね、あいつっ! あたしらはここなのにさっ!」  
 琴梨だけは暢気に笑っているが、はたしてこれはただ攻撃を外したという単純なことなんだろうか?  
 こんなことでは到底不吉な予感を拭い去ることは出来なかった。  
 そして実際それは杞憂でもなんでもないことがガニメデからの報告によって判明することになる。  
『秀明さん。たった今、町の中心部の川原にさきほどの次元エネルギーが着弾したのを確認しました』  
「なんだって!? なんでそんなところに?」  
『琴梨さんのおっしゃったように、我々に対する攻撃を外してしまったのかもしれません』  
「僕達に対する挑発なのかもな。それで、具体的な被害はなにかあったのか?」  
『そちらの方はご安心を。人的、物的被害ともにありません。川原という場所が功を奏しましたな』  
 それはよかった。でも、安心はまったくできないらしい。  
 なぜなら緊張で頬の引きつる僕の目の前で、再び地図の一部が光を放ち始めているんだから……  
「ひーくん……つぎは大丈夫なのかな……」  
 あろえの不安げな問いかけにも、僕にはろくな返答が出来ない。  
 5人を無視して他所に攻撃を仕掛けるEOSなんて今までいなかっただけに、どう対応すべきなのか、相手がこの先どんな手をうってくるのか、まるでわからないんだ。  
 せめてあいつがどこを標的としているのかだけでもわかればこちらもリアクションに困らないんだがな。  
 さっきの攻撃の着弾点が町の中心あたり、そうだな、目の前の地図に当てはめてみると丁度さっき光っていた部分……  
 
 瞬間、理解した。  
 EOSなのかどうかもはっきりとしない謎の敵は、地図上のポイントに対応した町の各所に長距離砲撃をおこなっている!  
 
「埜々香!」  
「ひっ……」  
 敵の意図をそう判断した僕は真っ先に埜々香に声をかける。  
 余裕のなさからちょっとキツイ調子になってしまい、おびえさせてしまったが、致し方ない。ともかく用件を手早く説明する。  
「頼む。《すきゅら》たちをあのエネルギーの真上に誘導してくれないか。今度のやつはまともに撃たせるわけにはいかないんだ」  
 そうなのだ。僕の推理が正しければ、次の攻撃の目標は今現在光っている場所ということになる。  
 あろえのクラスが製作した地図は今、画用紙でアーチを作った通路のような場所、この町の商店街アーケードを模した部分を光らせている。  
 冗談じゃない! そんな場所に次弾を撃ち込まれでもしたら怪我人が出ることは必至だ。  
 蒼い燐光を纏わせながら僕の顔をびくびくと覗いていた埜々香だったが、やがて  
「あ……う、がん……ます」  
と言ってから、リコーダー《へかて》を口に付けた。  
 そして埜々香が“さくらさくら”を奏ではじめるのと同時に、埜々香の3匹のしもべが実体化していく。  
「有難う。頑張ってくれよ」  
 僕は埜々香の気を散らさないように小声で礼を言うと、他のみんなにもそれぞれ指示を出す。  
「みんな、聞いてくれ。今回の敵は僕達じゃなく無防備な町を攻撃するつもりらしいんだ。  
 そんなマネを指をくわえて見ているわけにはいかない。なんとしても全弾撃ち落とすんだ。  
 埜々香の精霊犬をメインに据えて迎撃、巴と琴梨も手が届く範囲で手伝ってくれ。  
 あろえと凌央は待機だ。敵の本体がどんなタイプなのか不明な以上、臨機応変な対処ができる二人のエネルギーは温存しておきたいからな」  
「それで? その肝心の本体とやらはどこにいるんですの?」  
 巴が答えずらいことを躊躇せずに聞いてくる。  
 気持ちは痛いほどわかる。僕の指示は、見つかってもいない敵をどうにか片付けるまではずっと戦い続けていてくれ、などというあまりにも残酷なものなんだから……  
「ごめん。そちらは必ずなんとかする。だから今は……」  
 ボンッ、という大きな音に驚いて言葉を切ってしまった。  
 それは、僕の言い訳に割り込むかたちで3匹の精霊犬の真下から一直線に衝突した2発目の次元エネルギーが小さな爆発と共に消滅した音だった。  
 まるで運動会の朝に鳴り響く花火のようなその音は一気に僕等の血の気を引かせる。  
「ひ……」  
 埜々香のおびえる気配。  
 それもそうだろう。いつもEOSとの直接戦闘を繰り広げている彼女たちには、僕なんかよりもよほど今の攻撃の恐ろしさが実感できたはずだ。  
 EOSの次元エネルギーと彼女たちのDマニューバが制御するエネルギーは触れれば対消滅するわけで、本来なら爆発なんて起こるわけがない。  
 にもかかわらずそれが発生したということは、つまり敵の攻撃が消滅しきれないほどの高威力であることを示している。  
 怪我人が出るのは必至、だなんてとんだ見込み違いだ。これは当たり所によっては死人すら出かねない!  
「頼む!  
 つらいのは重々わかっているけど頑張ってくれ! あんなものを町に撃ち込ませるわけにはいかないんだ」  
 
 厳しい戦いになるだろうことを誰もが予感し、みな一様に緊張を高める。  
 
 そしてそんな中、あろえの表情がどこか悲壮な決意のようなものを匂わせていたことに、先行きの暗い戦闘を想って暗澹たる気持ちでいた僕は気付くことが出来ないでいた……  
 
 
 それからの20分あまりは本当につらく厳しいものだった。  
 3分おきぐらいの間隔で放たれる次元エネルギーは、最初に川原に着弾したものも含めて今までで8発にもおよんだ。  
 それを巴と琴梨が1発ずつ、残りの5発を埜々香が迎撃、なんとかここまでは喰い止めていた。  
 しかし限界は近いと見ていい。  
 なんと言っても埜々香の消耗が激しい。もともと体力に乏しい子だし、なにより負担が集中しすぎた。  
 それでも自分の限界以上の頑張りを見せる埜々香には頭があがらない気持ちで一杯だ。  
 しかし敵にはそのけなげな姿に心打たれるものもないらしく無慈悲な砲撃を繰り返している。憎たらしいことこの上ない。  
 カサンドラは今だにEOS本体を捉えられないでいる。再度おこなわせたシステムチェックでも問題はなかったし、ガニメデとのリンクそのものにも疑いの目を向けてみたが結果はシロ。  
 具体的な対応策が浮かばないまま、時間だけが過ぎていく……  
 このままではいずれ疲労が溜まってみんなが倒れてしまうだろう。なんとかしなければとは思うんだけれど、気があせるばかりでろくなアイディアが思いつきやしない。  
 
「ひーくん」  
 埜々香が必死に息を整えるのを眺めながら、なにか妙案はないものかと考えをめぐらしていると、ふいにあろえが声をかけてきた。不思議とさっきまでとは違い明るい声だ。  
「あのね、あたし思ったんだけどね、地図を壊しちゃったらどうにかなっちゃうんじゃないかな」  
 そしてその明るい声で、ありえないことを口にした……  
『なるほど。カサンドラが反応を感知しないとはいえ、状況から見てあの地図がEOSの一部であるのは明白ですからな。  
 あれを破壊すれば内部の《核》を露出させることが出来るかもしれませんし、そこまでうまくいかずともMPMS機能に齟齬をきたす可能性はあります』  
 ガニメデが気軽に同意している。おい、あのミニチュアがどれだけ大切なものなのかも知らないくせに、そんなことを言うんじゃない。  
 腹立たしさのあまり、意味をなさなくなった長い腕を固結びにしてやりたい衝動にかられてしまった。  
「駄目だ」  
 無論そんな作戦を許可できるはずがない。  
『駄目といわれましても他になにも手はありませんし。  
 みなさんのDマニューバのエネルギーとて無限ではありませんよ。立ち入り規制もいつまでも保ちませんしね。  
 それとも秀明さんにはなにか代替案がおありなのですか?』  
 それを言われるとツライところなんだが、だからといってあろえたちの労作を犠牲にしていいわけがない。  
 僕がいかんともしがたい二律背反に頭を悩ませていると、あろえが再び口を開いた。  
「ひーくん、大丈夫大丈夫だよ。みんなには後であたしが謝るから。ののちゃんもクタクタだし、早くしないとダメだよ」  
 そう言ってくれているあろえの表情は  
 
 これ以上ないくらい、優しい笑顔だった……  
 
「あろえ、絶対に他の手段を思いついてみせる。だから早まった考えはよしてくれ」  
 きっと聖母というのはこんな顔で笑うんだろうな、などと思いつつ、それでも僕は絶対にそれに甘えまいと決心した。  
「でも……」  
 以前の僕なら喜んでこの提案を呑んだことだろう。でも残念ながら今の僕はいろいろと知ってしまっている。  
 あろえが他人を気遣う笑顔の奥に自分のストレスをひた隠しにしてしまう、あまりにも優し過ぎる子だということも知ってしまっているんだ。  
 僕等の不甲斐なさがたたってストレスを溜めすぎて倒れてしまったこともある。もう二度とそんな目にあわせるべきじゃない。  
「ひーくん、無理してない?」  
 一番無理をしているはずのあろえにこんなことを言われていたんでは不甲斐無さすぎだろう。年長者が聞いて呆れるというものだ。  
「大丈夫だからさ」  
 そう笑いかけながら、頭にぽんと手を置いてやる。少しぎこちなかったかもしれないが、これが僕の精一杯だ。  
 さて、言ったからには本当になんとかしろよ、逆瀬川秀明!  
 こんな年端もいかない女の子が自分の気持ちを押し殺して世界平和に尽くそうとしているんだ。頭脳労働担当のおまえがまともな作戦を閃かせられないでどうする!  
 目の前で地図上に9発目のエネルギー弾が淡く光り始めるのを見据えながら、僕は気持ちだけでも叱咤する。  
 埜々香がリコーダーの演奏を再開するのが聴こえるが、やはり体力の限界なのだろう、まともな旋律にならず、精霊犬も明滅を繰り返すばかりでまともに動かないでいた。  
 あろえだけじゃない。埜々香を筆頭に、みんなみんな無理して大変な戦闘を耐え忍んでいる。  
 どうにかするんだ、この絶望的な状況を、一刻も早く!  
 まずは今まさに発射体勢に移行しようとしている9発目の次元エネルギーの処理からだ。位置的には地図の外からでも巴の竹刀が届きそうな距離に見える。  
 これなら埜々香の精霊犬を持ち出すまでもないだろう。  
「わたしがやりますわ。埜々香、あなたはいったん休憩なさい」  
 僕がなにか言うまでもなく、巴が同じ判断をくだして行動してくれた。ありがたい。  
「う……はい」  
 埜々香がリコーダーから口を離し、稚拙な“もりのくまさん”の演奏も途絶える。  
 
 …………待てよ……“もりのくまさん”?  
 
 もりのくまさん、というフレーズが僕の脳内のシナプスにいい感じの刺激を与えたのか、敵の正体に対する仮定が閃く。  
 そして連鎖的にこの敵を倒すための作戦が頭の中で組みあがっていく。僕の脳みそも案外捨てたもんじゃないな、土壇場でちゃんと働いてくれたよ。  
「わかった!」  
 僕は自分の思いつきについつい大声を出してしまい  
「! なんですの、突拍子もなく! 驚くではありませんか!」  
巴がそれに抗議する。けれど、悪いが謝っている暇はない。  
「凌央、出番だ」  
 僕の呼びかけに今まで待機の指示を忠実に守って直立不動でいた凌央が目線をこちらへと向ける。  
「『一生懸命』でも『一念発起』でもなんでもいい。とにかく、張り切って行動する、みたいな意味の四字熟語を」  
 僕は地図上に留まり輝度を増しつつある光点に指を突きつけて言った。  
「あの次元エネルギーにぶつけてくれ!」  
 僕の発言を耳にした、ほぼ全員が目を丸くした。  
 
「あ、あなたはなにを言い出すんですの! そんなことをしたらどうなるか、わかっているんですの!」  
 巴が怒るのも無理はないんだが、僕もわかっているからこそ凌央にこの指示を出しているんだ。  
 僕と巴の両方を一度ずつ見比べた凌央は、おもむろに筆を構え、空中に『一気呵成』の文字を見事に書き上げた。  
「お待ちなさい、凌央! それを使ってはなりません!」  
 巴の制止もなんのその、その4文字は光の矢となって次元エネルギーに向かって突進していく。  
 さあ、暢気に構えている場合じゃないぞ。ここからが勝負の分かれ目なんだ。  
 僕は巴に新たな指示を出すために両手をメガホンのように口元にあてて叫んだ。  
「巴ー! 必殺技を使ってもいいから、次の攻撃をなんとか撃ち落してくれー!  
 多分反動が凄いと思うから、琴梨は巴のフォローを頼むー!」  
「あいよー! まかされちゃったよっ!」  
「なにを勝手な事を言っているのですか! ちゃんと説明なさい!」  
 口から泡を飛ばさんばかりの剣幕で怒鳴る巴に悪いと思いつつ、僕は自分が出すべき最後の指示を、不安げに佇むあろえに伝えた。  
「あろえ、よく我慢してくれたね。もうすぐ終わるから。  
 最後の仕上げのために、とびっきり強力な武器を描いてくれないか」  
 凌央の《でうかりおん》の影響をその身に受けて、爆発的にその光を増大させる次元エネルギーに照らされながら、あろえは静かに僕の声を聞いていた。  
 そう、僕の思惑が外れていなければ、これですべて解決するはずだ。  
 僕の顔を見つめていたあろえは、2度瞳をまたたかせ、そして力強く頷いた。  
「……うん。頑張る!」  
 地面に《あぐらいあ》を置き、早速鉛筆を走らせる。その動きは気のせいかいつもよりも迷いのないペン運びに見えた。  
 さて、巴たちのほうではいよいよ次元エネルギーが発射されようとしていた。  
 巴はそれの発射直後を狙って正面から正眼で斬り付ける。  
「ネフリュ−ドフ流秘剣ナイアガラ大滝落としっ!」  
 裂帛の気合と共に放たれる巴の必殺技は見事に飛翔直後の弾を捉える。  
 大量のエネルギーを伴った巴の必殺技は砲撃そのものをキャンセルさせることには成功した。ただし、間近で余波をくらった巴は無事ではなく  
「きゃあああああああっ!」  
その身体が風に吹かれたタンポポの綿毛のように宙を舞う。  
「巴!」  
 無力ゆえにむなしく叫ぶ僕、でも心配は無用だった。  
 待ち構えていた琴梨がスケボーで空中に躍り上がり巴をキャッチ、そのまま見事なアクロバットを披露しながら無事に着地する。  
「巴、太っておいてよかったねっ。あんまり高く飛ばなくて済んだんだからさっ」  
「わたしは太ってなどいません!」  
 元気そうでなによりだ、ホッとしたよ。琴梨にしっかりとフォローを頼んでおいてよかった。  
 そして、いよいよここから反撃開始だ!  
「ガニメデ! EOSの反応は!」  
『反応と言われましても……  
 !? ありました! EOSの反応! このグラウンド全体!  
 これはどうなっているんです?』  
 目論見が見事に当たった。戸惑うガニメデに構わず僕は続けた。  
「詮索は後にしろ! それより《核》の位置は!」  
『ハイ。《核》はグラウンド中央の土中、表面から50cmほど下方に埋まっております。まさかこのような場所に潜んでいようとは思いませんでした』  
 それだけわかれば充分だった。僕はあろえへと目を向ける。  
「あろえ、行けるかな?」  
「うん! まかせてまかせてだよ!」  
 元気のいい返事が返ってくる。  
 いつもの数倍の速さで絵を描きあげたあろえは、すでに大きなドリルをその手に抱えていた。  
 蒼い光を撒き散らしながら高速回転する凶悪な掘削工具がとても頼もしい。  
「ガニメデ、あろえを《核》の真上まで正確に誘導してやってくれ」  
『了解いたしました。あろえさん、そのまま真っ直ぐ30mほど進んでください』  
 早速《核》に向かって走り出すあろえに背中から声をかけてやる。  
「人の努力の結晶を悪用するようなやつだ。遠慮なく懲らしめてやれ」  
「うん!」  
 
 そして、これまでの苦戦が嘘のように、あまりにもあっけなくあろえのドリルはEOSの《核》を貫き砕いた。  
 
 
 グラウンドがほのかなピンクの光に包まれてEOS消滅時特有の反応を示しているのを全員で眺めながら、僕は種明かしをしてやっていた。  
「あのEOSはつまり、冬眠中の熊みたいなものだったんだよ」  
「くまさん?」  
 小首をかしげて、あろえ。  
 そう、冬眠中の熊だ。  
 うろ覚えなんだが、冬眠中の熊は体温を下げて代謝活動を低下させてエネルギー消費を抑え、刺激があったときだけ目を覚ますらしい。  
 それと同様にあのEOSは通常の状態ではカサンドラに感知されない程度まで自身の放射エネルギーを抑えていたに違いない。  
 もちろんその状態ではなにも出来ないだろうから、カサンドラですら感知できないほど短時間のみ活動レベルを引き上げて、その瞬間に攻撃をしていたんだろう。  
 僕はそれを逆手にとって、やつの活動を凌央の能力で強制的に活発にしてやったわけだ。  
『なんと戦術的思考に優れたEOSなのですか。今後このようなケースがないことを祈るばかりですな』  
 ガニメデの嘆きももっともだ。  
 しかもあのEOSは、アクションを起こす場所を地図上に限定して僕等の目をグラウンドから遠ざける、なんていう小細工までしていた。  
 本当に恐ろしいやつだった。  
「ひーくん、ありがとうね」  
 あろえが嬉しそうにお礼を言ってくるのがくすぐったくてかなわない。  
 頑張ったのはあくまで5人で、僕とガニメデはほとんどなにもやっちゃいないんだから。  
「ちがうよー。ひーくんのおかげなんだよ。ひーくんがこわしちゃだめって言ってくれたからうまくいったんだよー」  
 そう言ってからあろえは地図の前へと走っていった。  
「みんな見てみてー。これねー、あたしたちのクラスでつくったんだよー」  
 本当に嬉しそうな声で、自分達のクラスの発表を誇らしげに紹介している。  
 そういえば、図らずも「家のみんなと一緒にこの展示を見たい」というあろえの希望が叶ったかたちになるわけか。  
「あらためて見てみると、なかなか大層なものですわね」  
「おっ、あれって博士んちだよねっ。おおっ、おもしろっ!」  
「……う……ごい」  
「…………」  
 みんな、思い思いに感想を述べている。その光景は仲のいい姉妹のようでとても微笑ましかった。あろえがこうしてみたかったという気持ちもわかるな。  
 さて、多分あろえの言う「みんな」には僕とガニメデのやつも含まれてるんだろうから、あそこに仲間入りするべきだろう。  
「ガニメデ、僕たちも行こうか」  
『私としてはあのようなオブジェより、戦闘の緊張感から解き放たれてガードの薄くなった皆さんの危なげな下半身をしっかりとメモリーに焼付けたいのですが……  
 ってちょっと、秀明さん! 無言で私を引きずっていかないでください! 私に自由を! 自分の望む場所に留まる権利を与えてください!』  
 
 こうして今回のやっかいなEOSの迎撃騒動は幕を閉じた。  
 
 
 その後のことにもちょっとだけ触れておこうか。  
 
 嘘の避難勧告から開放された学校はあっという間に元の喧騒を取り戻した。  
 結局巴のクラスの午前の公演はポシャってしまったものの、午後の部は無事に執り行われた。  
 あんなことをしてしまった手前、僕は見にいくわけにはいかないと思ったんだけど  
「ダメー。巴ちゃんだけ仲間はずれは可哀そーなんだよ。みんなのとこに遊びに行かなきゃダメなんだよ」  
と言われながら強引に連れてこられるはめに。  
 幸運なことに立ち入り禁止になることもなく、ちゃんと客席に座ることはできたものの  
「佐々さんって意外と……」  
「だよね……でも、大胆……」  
などと囁きながらどの子も僕を見てクスクス笑うのでいたたまれない気持ちで30分を過ごすはめになってしまった。  
 そんな衆人環視の中で観劇した巴の演技だけれど、やはり予想通り堂のいった見事なもので、おおいに関心させられた。  
 ただ顔だけはやたらと赤く、巴といえども主役というのは恥ずかしいものなんだろうなとの感想を抱く僕だった。  
 
 爺さんの家に帰りついた時、ガニメデがもの凄い落胆ぶりで  
『信じていたことが裏切られるのがこんなにつらいとは……  
 これからは秀明さんとの同室生活も華やかなものになると思っていたのに……思っていたのに……  
 この世には神も仏もないのですか……?』  
と、ブツブツと嘆いていた。  
 あの妄想、本気だったのか……  
 
 
 そうそう、これを伝えるのを忘れていた。  
 巴のクラスの劇が終了した後、僕とあろえはもう一度埜々香のクラスへと遊びに行ったんだ。  
 目的は例のよくわからない景品を入手すること。  
 あろえには今回気苦労をかけてしまったし、これぐらいの希望は叶えてやってもいいんじゃないかなと思ったのさ。  
 時間が経過したからか、あろえの欲しがっていた景品の周囲もある程度片付いていた。おかげで難易度も落ちて、どうにか200円で獲得に成功。  
「さすがひーくん。すごいすごいねー」  
「……おめ……う……」  
 嬉しそうに拍手するあろえと鐘を鳴らす埜々香を見ていると、もやしなんかにこの200円を使わないで良かったと思わされる。  
 ところでこの景品、結局のところなんなのかと言えば……  
 
 
「出来たー」  
 それは今、あろえの手によって爺さんの書斎のドアに糊付けされていた。  
 表面にはあろえ直筆の『ひーくんとガーくんのとこ』というマジックの文字が躍っていた。つまりこれは  
「そうか。ネームプレートだったのか」  
 ようやく理解できた。  
「そうだよー。これでここはひーくんとガーくんのお部屋なんだよ」  
 あろえが目を輝かせて真新しいネームプレートを見つめながら、弾んだ声で宣言する。  
「ずっと欲しかったんだー。  
 これでひーくんたちもみんなとお揃いだね」  
 あろえにそう言われるまでは気にもしていなかったけれど、確かに僕が寝泊りしている爺さんの書斎のドアには、他のみんなの個室のようなネームプレートは付いていなかった。  
「ひーくんたちはここで寝てね、それでね、ここからお出かけしても、絶対にここに帰ってくるんだよー」  
 あろえがそう言うと、なんだか必ずそうしなければいけないと言っているようにさえ思える。でも、まったく嫌な気分がしないから不思議なものだ。  
 視線の先にあるプレートがやたら綺麗に見えるのは、はて、これは新品だからってだけでは説明がつかないような……  
 爺さんの家、爺さんの書斎が、今正式に僕の家、僕の部屋になったような気がした。  
「そうか。僕は絶対ここに帰ってくるのか」  
「うん。それで、みんなと一緒にお話したり、ご飯を食べたり、笑ったりするんだよ。だってね、家族だもん」  
 家族。  
 たった3文字の単純な単語にすぎないけれど、今ここにあるそれはもっともっと重く、おごそかで、そして限りなく大切なもの、そんな風に感じられた。  
 あろえを見る。  
 その顔に浮かんだ笑顔は、地図を壊す提案をした時とは比べ物にならないほど純真で心地よい表情だった。  
 このえがおは守り抜かなきゃいけないな。家族の一員として。  
 あろえの笑顔につられて僕自身も笑いながら、あらためてそう心に刻み込む。  
 
 そう、大事な大事な家族だもんな……  
 
 

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