千影が見た風景 第2章 その8
心地よい冷たさが頬に振れた。
全身を鞭で打たれ火照った身体に冷たい石床は、ひんやりとして痛みを和らげた。
体制を整えようと奥歯を噛み締めるとガリッと異物を感じた。数秒躊躇して唾を吐き出すと白い欠片が石床に飛び散った。
今更、歯がなくなることに心痛を覚えるとは思いもよらなかった。
奥歯が何本か折れて歯茎が腫れ上がって頬が膨れていることだろう。確認したいが見たところで何かできるわけでもない。何一つすることもできないのだから・・・。
いけない。千影は、何かをあきらめようとしている自分をいさめた。何かを一つでもあきらめたら二度と愛しい人に会えない気がするからだ。
とにかく、自分の顔を確認することをあきらめることをやめた。
丸く短い腕を前に出して、出来損ないの芋虫みたいに張って部屋の出口に向かった。
入口が開いている可能性は極めて低いし、開いていたところで幸せに近づけるわけではない。無駄なことは誰よりも自分自身がわかっている。近づくためじゃなくて、遠ざかるのを拒むために千影は這ってでも前に進んだ。
これは強さよりも、千影の弱さかもしれない。
失うことを許せないのだ。無くなる事が怖いのだ。臆病であるのかもしれない。
「そういう行為が誇りある前進とか思っているのかしらプリンセス」
高圧的かつ威圧的な声。
「例え無駄だとわかっていても、前に進むことは気高いとでも思っているのかしら? いーえ、いーえ。本当に気高く誇り高い精神は、無駄と知りつつも僅かな可能性を信じるものなのよプリンセス」
芝居がかったわざとらしい声。
「あなたは違う。待つのが耐えられなかっただけ。来るかも知れないチャンスという希望を信じられないで恐怖と不安から逃げているだけよね。だって、あなたは信じてないもの。助かるかもしれない・・・・奇跡を」
声の方向を見上げると良くしまった健康的な身体を惜しおしげもなく晒した。紅いエナメルの帯をギチギチに縛りつけて、身体の至る所にはそっけないピアスが散りばめられていた。よく見ればリングには呪印が見られる。断っておくと呪印の装飾具は強大な魔力を押さえ込めるために身につけていることが多い。目の前の女と思われる人外の生き物は高等な悪魔と呼べる種類なのだろう。
高等な悪魔はただ、喋るだけでも洗脳や恐慌、もしくは魅了の効果がある。それでは不便であるから態々自分の力を封じているものを多い。
今の千影は気力も体力も失われている。言葉を耳に入れているだけで抵抗することができなくなってしまいそうだ。
「だとしても・・・あなたにどんな関係があるんだい?」
悪魔の言葉に耳を貸さない。強い意志を込めた言葉。
「関係? 弱者と強者。壊すものと壊されるもの。それだけの関係でしょう」
ミチミチと幾重にも巻きついている紅いラバーベルトがゆっくりと盛り上がり、グロテクスな肉槍がこぼれる。
ちいさな手では両手でもこぼれる肉槍を優しく撫でておさまらせようと鈴口から茎の部分を摩っている。
「あらごめんなさい。我慢しきれなくなちゃった」
「おもしろいよ・・・冗談みたいな現実で私を・・・なぶるきなんだね」
「その通り! そしてあなたがいくら気づこうともあなた自身に現実を変えることはできない」
「・・・・私自身が・・・・死を選べばいい・・・・」
睨みながらはき捨てるように言う。口にするだけでも強い脱力感を感じた。
解説
長らくお待たせしました。様々な諸事情をこえて風景の続きを書く運びになりました。特に掲示板に激励ありがとうございます。
DDDの更新が止まった今、作者的にはやる気が相当うせてしまっているなか、掲示板のカキコは正直とてもうれしいです。
少し路線が変わったかな。