――あの雪の日に。
自分が否定されたことを否定することはできなかった。
何故ならその人は、その忌み言葉を最後に二度と動かなくなってしまったから。
どうしたら必要としてくれるのか、自分にできることなら何でもするから――そんな言い訳も打開案も一つとして許されず、ただとにかく一方的に、ゼロス・ワイルダーはこの世界における存在権を剥奪された。
そのときからずっと、世界は否定に満ちていた。
第一、存在を許されぬ世界から肯定を感じる方が難しいだろう。
だから世界はいつだって居心地が悪かったし、その世界を存続させるために生かされている自分がとても滑稽に思えた。
こんな世界いっそなくなってしまえばいいのに。
世界の否定を思ったことは一度や二度ではなかった。
やがて先代の神子が亡くなり、当代の「再生の神子」と正式に容認されたそのとき、初めて実感することができた。
――ゼロス・ワイルダーという存在はやはり、あのときに死んでしまっていたのだと。
*****
「ほんっと何であんたみたいなのが神子なんだろうね」
「さー?」
彼女の怒り心頭状態は既に三十分以上も続いており、ついには「世の中何か間違ってるよ」などと極端かつ俺さまにかなり失礼な台詞まで飛び出した。
ここは聞き流してやるのがオトナの対応ってやつだろう。そして、後でからかうネタに使うのも狡賢いオトナのやり方というものである。よって、心のメモ帳にそっと記しておくことにする。
「だいたい、ちょっと肩抱いたくらいでそんな怒るこたーないでしょ」
「……ちょっと、肩を、抱いたくらい?」
単語ごとに区切りを入れながらゆらりと近寄ってきた彼女は、言い終えた瞬間物凄い勢いでこちらの襟首を引っ掴んだ。そのまま締め上げるように己の顔へと引き寄せていき、触れ合うまで残り五センチといったあたりでとうとう彼女は激昂した。
「肩どころかお尻触ってきたのはどこのどいつだい!」
「なぬ! あの中にそんな羨ましい奴がいたとは! いやあ気付かなかったなあ俺さま」
「あんた以外に誰がいるって言うんだ、よっ!!」
ごがん。
頭を強打すると目から星が飛び出す、というのは本当だったのか。
ちかちかする視界に今だ拳を強く握りぶるぶると震わせている彼女が映った。やがて放り投げるように手が離される。どさり、情けなく地面に尻をついた。
「……ったく。天下の神子様がほとほと呆れるよ」
「そりゃどーも」
「褒めてないっ!!」
打てばこの上なく響くその反応こそが、こういう対応を生み出しているのだ。そのことに、下手をすると一生気付きそうにない彼女は、ひどく温かくて眩しくて、そして遠かった。
「ハニーたちは喜んでくれるんだけどなあ」
「ああそうかい。でもお生憎様、あたしはあんたのハニーじゃあないんでね」
「……ま、そりゃそうだ」
事実なので素直に認める。すると彼女は少しだけ驚いたような顔をしてみせたが、こちらと目が合うとすぐに眉を吊り上げ眉間に皺を寄せた。先ほどそのハニー達に絡まれたのを思い出したのか、何が神子様ゼロス様だよとぶつぶつ言っている。
「悪いけど、あたしはあんたに様付けする価値を感じないね。ただのゼロスで十分だよ」
瞬間、眩暈がした。
すぐにおさまったが、今度はぱちぱちとまばたきを繰り返す羽目になった。まばたきしたところで、聞こえた内容の真偽などわかるはずもないというのに。
その間、どうやら自分は相当呆けた顔をしていたらしい。彼女は訝しむように聞いてきた。
「どうしたんだい? そんな顔して。まさか、これぐらいでそんなショックを受けるタマじゃないだろ?」
「あ、ああ……もちろんだともスイートハニー?」
「誰がスイートハニーだっ!」
さすがに本日二回目ともなると読めてくるもので、ぶん、と空気を切る音をさせる腕をギリギリでかわすことができた。
(ていうか、本気で手加減ねぇのなこいつ)
それだけ本気で接してくれている――というのは、多分に都合が良すぎる解釈だろう。
動揺は隠したつもりだった。だいたいこの鈍感な少女には、教皇や国王といった「再生の神子」を必要とする者を相手にする際の、一分の隙も許されぬ神経質なそれは必要ない。
少しふざけてやればそれで、十分に騙されてくれるのだから。単純明快でわかりやすく、つまるところ扱いやすい。
そんなのがテセアラを裏で動かしているとも噂される、ミズホの里の住民でいいのだろうか――って、それは余計なお世話か。俺さまも人の事を言えた義理じゃあない。
だから、二撃目をかわされた後何故か黙り込んでしまった彼女が、
「……別に、あんたがそう呼んで欲しいんなら呼んだっていいけどさ」
申し訳なさそうにぼそぼそ言い出したということは。
彼女の冗談交じりの指摘がこの上なく的を得ていたということか、それとも。
そんな彼女にもわかるくらい、俺さまの内情が、表情や態度に出てしまっていたということか。
――って、どちらにしても意味は同じだ。
「そんなに、神子様って呼んだ方がいいのかい?」
何の反応もせずぽかんと見つめ返しているのを、よほどの重症だとでも思ったのだろう。彼女の口調はまるで子供を慰めるようなものになっている。
まあ確かに、この考えは子供じみているとは思う。
けれどそれは、自分にとって久方ぶりの、自ら信じたいと思える――真実であったから。
「……いいや。今更変えられても妙な感じするし、これまでとおんなじで頼むわ」
「そう……かい? なら、そうするけど」
――ゼロス。
そう確かに、死んでいなくなったはずの自分の名前を呼んで、彼女は笑ったのだった。
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