俺さまの部屋に用事があるときは、基本的にまずノック。
 ただし、彼女の場合は一回。セバスチャンやセレスといった身内は三回。
 一般にノックといえば二回が多いので、内部関係者とその他とが自然と振り分けられる。これで、ドアの方を向かずに誰がやってきたのかが把握できる。
 気付かないほど集中していたり、仮眠していた場合など――中に居るのがわかっていて返事が無い場合は、そのまま入ってOK。そうでない場合は不可。なお、これは先述の特殊なノックをする関係者には適用されない。
 また、彼女がこの屋敷で書類を見るのも、ここを拠点とするのが一番手っ取り早いのが第一の理由。次いで、親善大使を受け持つ自分と同じものを目通しすることが多かったから――ま、こっちは周囲への建前用。

 現体制の全ては、すべて作業能率向上の元に定められていた。
 定めたのはもちろん、部屋の主たる自分と、その利用者たる彼女だ。





*****





 コン、と一回。
 来る予定は聞いていなかったが、今日予定されていた視察が早めに終わりでもしたのだろう。
 ドアを開けて入ってきたその気配が、取り決めが正しく守られていることを告げてくる。
「よう」
 あと数行で読み終わる書類に素早く目を走らせるが間に合わない。声と片手を上げて挨拶する。
「どうだい?」
 交わされる言葉も最低限。
 多くを口にせずとも、むしろ何も言わなくても伝わるものは伝わる。様子を見て把握しにくいところだけを言葉にすれば良い。
 確認を終えた紙切れをテーブルに詰まれた一山に置き、五秒ほど遅れて顔を上げた。
「これがお前の。この下の箱にあるやつは終わり」
「今日も盛況してるね」
 彼女の視線は自分が座っているソファの後方、そしてベッド付近に点在する箱を舐めていった。
「人徳ってやつ?」
「へえ、あたしが知らないうちに言葉の意味が変わってたみたいだね。都会はこれだから怖いよ」
「ひっで」
 あはは、と彼女が笑う。ほんのひととき、能率向上とは無縁のやりとり。
 能率第一を徹底している反面、こんなちっぽけなことがどうしようもなく嬉しくて、貴重だった。
 ――のだが。
(……何だ)
 違和感。
 どこがどう違うとはっきり指摘はできない。何故なら、どこをどう見てもいつも通りの彼女がそこに居るだけで、おかしなことは一つもない。
 だが、例えもっと明確な違いを見出したとしても、「どうした」とは聞かない――否、聞いてはならないのだ。
 聞けば能率が下がる。
 だから、当人が根を上げるまで甘やかさない。これも関係者内で自然と、暗黙のうちに定められたルールだった。
 何とはなしに、新しい書類を手に取った。視線を紙の上へと落とす。
 見慣れた前文を流し読みして特に変更点がないことを確認し、本題の部分を頭に叩き込んでいく。読み進めながら要点だけをかいつまんでざっくりまとめあげ、文書の重要度を判定する。Bマイナス。急ぎじゃないが頭には留めておくべき。
 脳内メモ帳にざっと記して、その書類を置いた。間髪居れずその次を手にして、
「あの、さ」
「んー?」
 彼女が、いつも作業をする定位置――今の自分の隣へ歩み寄りながら、歯切れ悪い発音を響かせた。
「ちょっと……いい、かな」
「何?」
 再び顔を上げる。
 そのまま腰をおろせばすぐに作業が始められる、そんな位置で彼女が突っ立っていた。
「少し、その、お願いが……あるんだけどさ。……いい?」
「どーぞどーぞ。しいなの頼みならいくらでも聞きましょ?」
 手の中の書類を未読の山に戻して、空けた両手を見せながら肩を竦めた。
「……じゃあ」
 一瞬の苦笑のあと、きっとその表情が引き締まる。一拍置いて――どこかドスの効いた声が囁いた。
「一分間だけ目を瞑ってな。その間何があっても動くんじゃないよ」
「一分だけ?」
 大きく頷いてから、いいかい、と聞いてくる目にもう一度肩を竦めた。
「はいよ。……これでい?」
「上出来。動いたらしょうちしないよ」
 閉じた視界と硬直させた全身。まともに機能してるのは聴覚と嗅覚と触覚。あ、味覚も一応。

 かさり。一歩踏み出すのに、書類でもひっかけたか。
 ふわり。彼女の香りが強い。シャワーを浴びるようなことはなかったのだろう。
 きしり。ソファが軽く沈む――

「……」
 彼女の腕と胸(のちょっと上。ちっ)に、自分の頭部が包まれた。
 ゆるくかかってくる体重は心地よく、彼女の温度を伝えてくる。
 とくとくと聞こえるのは彼女の心音だろうか。わずかな衣擦れの音は彼女の腕に力が入ったからだろうか。温もりが熱に変わりだしたと思うのは気のせいだろうか。
 そうして三十秒まで我慢して、能率の向上を計算し――柔らかな体を包むように己の両腕を交差させた。
「……って、こら。動くなって言ったじゃないか」
「あっれ、いつの間に動いてたのかな俺さま。悪い悪い、もー動かないから」
「動いていいから戻しな」
「あとちょっとじゃん、めんどい」
「……ばぁか」
 拗ねたような悪態のあとは、軽く力がこめられた以外はぴくりとも動かず。
 きっかり三十秒後、彼女はぱっとこちらの頭部を開放した。
「こら。終わったんだから離せ」
「まだいいだろー?」
「良くない。もう終わり。書類があたしを待って、……るん、――だっ!」
 彼女がそこから脱出すべくもがきだす。
 ここで大人しく従うほど自分は聞き分けのいい人間だとは思わない。
 それに、何より――そうすることを恐れなくなったばかりなのだ、最近。ようやく。今更。
 というわけで容赦なく、腕へ力を込め幅を狭め、脱出の難易度をはね上げてやった。
「こらゼロス! 離しなってのが聞こえないのかい!」
「足りねーだろそんなんじゃ」
 わざと声色をそれっぽく作って、絶妙のタイミングで言ってやった。息を呑んだ彼女が動きを止める。
 が、すぐに失策だったとばかり呆けた表情を険しく戻す。さり気なく視線を逸らしながら、ぼそりと呟いた。
「……足りてるよ」
「いーや足りない」
「あたしが足りてるって判断してるんだから足りてるんだよ。……ほら離しなアホゼロス!」
「お前なあ、……足りないんじゃ能率も上がんねーだろが」
「……っ」
 それでようやく、不本意とばかりに顔を俯かせて、彼女は大人しくなった。
 今度はこちらがきちんと抱きしめる。
 鼻腔に広がる彼女の香りに自然、顔の筋肉が緩んだ。
「……あんたが満足してどーすんのさ」
「俺さまたちは運命共同体だろ? 俺さまの満足はしいなの満足。しいなの満足は俺さまの満足。な?」
「何が『運命共同体』だか……」
 呆れたように復唱すると彼女は苦笑いを浮かべ、すとんと力を抜いた。
 強張った体がやわらかさを取り戻して、さらに高まる抱き心地のよさに目を閉じる。

 何があったかは知らない。
 調べる気になればいくらでもわかるけど、それもやらない。
 彼女が言いたくなったら聞いてやるだけ。
 けれど彼女は言わないだろう。
 だいたい弱音を吐けるような身分ではないし、何より彼女の性格がそれを許さないだろうから。





「……ゼロス、そろそろ」
 どれくらい経ったのか。
 自分の体温と彼女のそれが同化してしばらく、乖離を申し出てきたのは彼女の方だった。
 こちらの胸に手を置いて隙間を造り、腕を緩めろと訴えてくる。
「あー。しいな。悪い」
「何が」
「ちょっと抑えるの難しいかも」
「は? 抑えるって何、が……」
 反芻しようとした言葉は途中でぷつりと途切れ、――どうやら理解してもらえたらしい。
 密着していて見えないだろうに、視線を下方に向けたその顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。
「ちょっ……ど、どうにかしな! ていうかいいから離せアホゼロス!」
「そー言われても。こういう状態で離せとか言う方が無茶ってゆーか、離せないから困ってるってゆーか」
「っこ、根性で何とかしたらどうだい!」
「いやこれは根性とかそういう次元と違うし」
「何でもいいから、は、はは離しっ……!」
「できないから言ってるんだって。ほら何て言うか、自然災害みたいなもん?」
「全然違うっ!」
 じたじたと彼女は体をよじったり引き剥がそうとしたり叫んだりと忙しい。というか、そうあからさまに嫌がるような素振りははっきり言って傷つくのだけれども。
 ふと思いついて、別なことを口にする。
「ま、お前の言うことにも一理あるか。自然災害は過ぎ去るのを待つしかねえけど、こっちは」
 一瞬、腕の力を緩める。彼女がその隙を見逃すはずもなく、体で腕の檻を弾き飛ばそうとした――その時を狙い、先ほどまでぶんぶん振り回されていた右手首を掴み取ることに成功する。
 即座に緩めた力を戻して逃走を阻止すると、掴んだその手を半ば強引に誘導してやる。
「……っ!」
「収めることもできるってわけだ」
 直接的すぎただろうか。動きが固まってしまった彼女は、多分思考も止まっているのだろう。
 しかしこれも効率重視。いつまで経っても慣れというものを知らない彼女には、隠語や遠回しな言い方をしていては時間がいくらあっても足りないのだ。
 畳み掛けるように――今度は彼女の思考が止まらない程度の柔らかな言い回しで、続ける。
「このまんま放置されると俺さまはしばらく使い物になんないし。手早く済ませた方がすぐお仕事戻れるしパワーも倍増みたいな?」
 どうよ?と。にっこり笑顔で、唖然と、けれど引きつらせている顔を覗き込む。
 彼女の周りだけ空気も時間も固まったような状態がしばらく続く。
 やがて止めっぱなしにしていた呼吸が苦しそうに再開された。
 顔を背けて、真っ赤になった耳を見せながら。
「……一回、だけだよ。っそ、それ以上は絶対不可!」
 最後をまくしたてた彼女に、俺さまはこの上ない笑顔で告げた。
「りょーかい」

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