「はぁーいお疲れ様ー。今日はもういいよあがっちゃって。なかなか面白いデータが取れたしねえ、これは今夜中に解析しちゃわないと♪」
 シミュレート終了後、一人は軽快なステップと腕の振りで奇妙なダンスを踊りつつブースの奥へ消えていった。
「そういうわけだからスザクくん、今日はもう休んで。たぶんみんな徹夜になると思うから。それに、明日も学校でしょう?」
 もう一人は諦観気味の、けれど決して嫌がってはいない笑みを浮かべながら、更衣室の方へとスザクの背中を押した。
「はあ……では、お言葉に甘えて」
 そんな仕事熱心な上司達に見送られ、スザクは一人宿舎へと戻ってきていた。
 シャワーを浴びて汗を流し、ミネラルウォーターを喉へと流し込む。冷たい水分を補充して思考がクリアになるのを感じつつ、何気なく時計を見た。
 普段ならまだ特派の任務――こう遅い時間帯だと、メンテナンスやシミュレートが大半だが――が終わるか終わらないかといったところだ。
(折角だし、早く休もうかな)
 そうしてスザクは、まず明日の準備を済ませることにした。
 髪を適当に拭いていたタオルを頭に乗せたまま、机に張ってある時間割を眺め、鞄に必要な教科書やノートを詰めていく。
「あれ、教科書……あ、そうか。置きっぱなしなんだっけ」
 彼の律儀な性格上、教科書を教室に置いていくことはあまりやりたくないのだが、急な任務が入ったりするとそうもいかない。取るものもとりあえず現場へ向かうこともしばしばあった。後からメールで「何ページの練習問題を解いておけと宿題が出た」と知らされても、結局何もできないことも多い。
「これで生徒会の風紀委員なんだから、……本当、申し訳ないな」
 苦笑を浮かべると、スザクは詰め終わった鞄の中身と時間割をもう一度確かめた。
「……あれ」
 教科書とノートは各教科ごとに一揃いずつあるはずだった。なのに、鞄の中に入っているものを何度見ても、ノートが一冊だけ足りない。
 ノートだけを取り出して何の教科かを確認してみる。
「歴史、倫理、物理……数学がない」
 数学は今日の授業にもあったはずで、昼過ぎには任務で早退はしたものの、教科書類の荷物は全て持ち帰ってきたはずだ。
(そう、それで時間がなくて制服のままユフィの所へ行って……あ)
 もしかしたらあのときだろうか、とスザクは思い当たった。
 公務を終えて執務室に戻ったユフィが、例によって突然言い出したのだ。
「スザクは今どんな勉強をしているの? もしよければ、教科書とか見せてもらってもいいかしら」
 構いません、と二つ返事でOKして、スザクは鞄から教科書とノートを取り出して彼女に渡した。
 だが途中でスケジュールの変更連絡が入り、予定の調整だ何だと慌ただしくなった。やがてその話は騎士が口添えできる範囲を超えてしまい、また特派に戻る時間が迫っていたため、スザクは挨拶もそこそこに退出してきた。
 半ば追い出されるような形で出てきたせいもあり、忘れ物を確認する暇もなかったのだ。
(まあ、ノートならいいか。明日は適当なやつに書いておいて、後で写せばいいんだし)
 他に忘れ物がないことを確認して、スザクは鞄を閉じた。
 軽く伸びをしてから、さっそく寝ようかとベッドを振り返る。そのとき、スザクの耳は微かな音を聞いた。
「……猫?」
 それは、「にゃー」という、どう聞いても猫の鳴き声だった。
 だが猫にしてはなんというか、発音がはっきりしすぎているような気がした。ついでに、どこかで聞いたような聞かないような、そんな響き。
 とにかくそれは窓の外から聞こえてきていた。それもたぶん、この部屋の窓のすぐ近くで。
(ここに猫が迷い込むなんて、珍しいけど……)
 鍵を解除し、防弾ではないものの、一応強化ガラスでできている窓をガラリと開ける。
 室内の灯りが届く範囲を見下ろし、
「にゃー!」
 予想よりも随分と大きめの猫を発見したスザクは、一瞬思考を停止させたのち、努力して音量を落として叫んだ。
「――な、何してるんですか、こんなとこで! というか、何でこんなとこにいるんです!」
「にゃー」
 長い髪を帽子に隠して、大きな瞳を隠しきれていない度の入っていない色つきの眼鏡をかけて――見る人が見たらすぐ分かってしまう程度の変装をしたその「猫」は、窓のすぐ下にしゃがみこんだまま、一冊のノートを差し出してきた。表紙には、スザクの字で「数学」と書かれている。
「……まさか、それを届けに?」
「にゃにゃー」
 スザクがノートを受け取ると、猫はすっと立ち上がり、部屋の灯りから逃れるように壁際に寄ってから、ようやく人語を話し始めた。
「だって、明日の授業で必要だったら困るでしょう?」
「いや、そうかもしれませんけど、だからって!」
「大丈夫。ベッドには私の代わりにクッションが休んでるから」
「そういう問題じゃないでしょう! ここに来る途中に何かあったらどうするつもりですか!」
「発信器と防犯ブザーを身に着けてるわ。もちろん今は、発信器のスイッチは入れてないけれど」
 ここに来ているのがバレちゃうもの、などと続けられ、どこからどう説教すればいいのかわからなくなったスザクは、がくりと窓枠に突っ伏した。
「スザク? 調子でも悪いの? なら早く休んだ方が」
「……いえ、大丈夫です。ただ、少し頭痛がするぐらいで」
「まあ、風邪かしら。最近朝晩が冷え込んできたものね。ひきはじめが肝心っていうわ、ちゃんと休まないと――」
 心配そうにスザクの肩へ伸ばされた手は、宙でぱしんと掴まれた。
 一つ大きなため息をついてから、渋面を笑顔に戻そうと必死になりつつ、スザクはきょとんとした彼女の顔を覗き込んだ。
「ノートを届けてくれたことには、お礼を言います。本当にありがとう、ユフィ。助かりました」
「どういたしまして」
 屈託のない笑顔でそう返されて、スザクは続けるべき言葉に詰まった。
 とりあえず釘ぐらいは刺しておこうと思ったのだが――どうにも気が削がれてしまった。それに今はそんなことに時間を割いている場合でもないし、後回しにするべきか、と考え直す。
「とにかく、早く戻りましょう。色々と大事な時です、何かあったりしたら」
「スザク」
 遮るように名を呼んだその人の表情が、とても真面目なものであることに気付き、スザクは反射的に口を噤んだ。
 スザクはその性格と立場上、はい、と律儀に答えざるを得ない。
「私、わざわざノートを届けに来たの」
 二人きりのときは「わたし」と発音するところを、彼女は公用の場で使う「わたくし」と発音した。つられてスザクも緊張感を高めながら、畏まって礼をする。
「本当にありがとうございました。何とお礼を申し上げれば――」
「ではお礼をしてくださいますか、スザク」
「はい、それはもちろん」
 やはり反射的に答えたスザクに、
「私、スザクのお部屋を見てみたいの。お礼代わりに招待してもらえるかしら?」
 彼の主は満面の笑みで我が侭を告げてきた。但しまだ、発音は「わたくし」のままで。
「……あの。今、ですか」
「そうです。今すぐにです」
 ユフィは軽く建物へ視線を巡らせる。
「ここは特派の宿舎……で、いいのですよね? どこも明かりが点いてないようだけれど、皆さん眠るのが早いのかしら」
「いえ。今日は皆向こうで徹夜のようで」
 特派専用ブースの方を指差すと、ユフィはそれは大変ですねと頷いてくれた。
「……今こそが最大の好機だと思いませんか?」
 悪魔の囁きと呼ぶには些か可愛らしすぎるそれに、スザクは白旗を揚げる以外の道を見つけられなかった。

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