「すいませんねえ、お客さん。あいにくと一部屋しか空いてませんで」
宿のカウンターで人の良さそうな顔をめいっぱい困窮の表情に変えている主人を前に、マギーは彼を見上げ、ミカエルは無言のまま思案した。
いつものように二部屋を頼んだところ、タイミングが悪かったのか空きは一つしかないという。ただその部屋は他の部屋より広めの角部屋のため、もう一つベッドを持ち込んで二人で泊まることができる。二人部屋よりは狭いので、価格は安め。
マギーとしては安いに越したことはないし、だいたい野宿のときは二人きりで寝泊りするのと何ら変わらないわけで、さほど問題とは思わなかった。
対するミカエルは観点が違ったようで、
「別の宿を探す」
言うなりさっさと出て行こうとするので、マギーは慌てて逞しい腕に縋りついた。
「待ってミカエル! 別にいいじゃない」
肩越しにじろりと睨まれると、負けじとマギーも上目遣いで睨み返した。さらに掴んだ彼の己の腕を絡め、振り解けないようにする。
宿の入り口で睨み合う二人を見かねたのか、主人も口を挟んできた。
「他の宿っても、下手すると空いてませんぜ。明日のこの街は、小さいながらもパレードがあるんですよ。それで観光の人が多いってわけで……うちだって普段なら余裕たっぷりですからねえ」
じゃあ広場で何か組み立ててたのはそのパレードのだったんだ、マギーがうきうきと言うと、おお見ましたかあれはですねと主人が説明を始める。
片腕を柔肌で固定されたまま、何となく蚊帳の外の気分を味わいながら、結局ミカエルは押し切られ、この日の宿が決定した。
「あ、ミカエルおかえり」
ああ、と返事をしたのだがドアの閉まる音と被ってしまった。別に返事などしてもしなくてもいいもので、彼女は話すことが好きな方だから、何かきっかけがあれば口を開く。もちろんそれは、話しかけて欲しくない雰囲気をしっかり判別して行われることだったが。
とにかく、聞こえたのかそうでないのか、彼女は何も気にした様子もなく、部屋の小さなテーブルに分厚い本やら書類やらをいっぱいに広げ、それらとにらめっこしつつノートに書き込んでいた。
ミカエルは濡れた髪を適当にタオルで拭きながら、自分のベッドに腰掛ける。彼女の作業は続く。それでも話し掛けられる。
「お風呂どうだった?」
「別に」
「広い?」
「普通だろ」
そこで、そっかあ、とぼんやりした相槌が返る。視線をやると、マギーは少し難しそうな顔で辞書らしきものをめくっている。
「何やってるんだ、アンタ」
「今日借りた本をね、まとめておこうと思って」
ミカエルは昼間の記憶を探った。確か貸主は、返すのはいつでも良いからと言っていた気がする。
「途中が違う言語で書かれてる部分があるんだけど、ほら、辞書は図書館で借りたでしょ?」
少なくとも二、三日後にはこの街を発つつもりでいた。閉館間際の図書館に飛び込んで、本当は閲覧コーナーで使うべき蔵書を頼み込んで借りたのだ。担当の老司書が目ざとく見つけた「金の博士号」の証がなければ、明日から数日間、あのボロい図書館に通い詰めることになっていたのだろう。
ご苦労なことだな、そう小さく呟くと、好きでやってるんだから平気と返ってきた。
耳聡いだけなのか、集中力の範囲が広いのか――とにかくこの女は妙な所で凄い。今度は心中だけでミカエルは呟く。
ぱたぱたがさがさと音がしたのはそれから半時ほど後で、背を向けてベッドに寝転がっていたミカエルが目をやると、マギーが猫みたいに背伸びをしていた。
「終わったのか?」
「……あ、ごめん、起こしちゃった?」
「いや」
それならいいけど、マギーの顔が少しだけほころんだ。そうして、本と資料の山を音をがたばたと手早く片付けていく。
どうやら自分が寝ていると思った彼女は、音を立てないように片付けようとしていたらしい。
「一区切りついたから、私もお風呂入ってきちゃうね」
一応鍵は持っていくね、と残してマギーは部屋を出て行った。
つまり、先に寝てしまっても構わないと、そういうことなのだろう。
(……別に)
起きていられないほど疲れたわけでもないし(確かに昼食はやたらと疲労を伴うものであったが)、第一、眠っていたとしても彼女が戸口の前にでも戻ってくれば、その気配で目を覚ますことは可能だった。
長いこと神経を緩めた生活をしてこなかったせいで、半径数メートル以内の気配は体が勝手に感じ取り、対応する。してしまう。
だから彼女の行為も気遣いも無用の長物なのだった。
だからむしろそれは、
「……寝るか」
考えかけた内容を遮るように、ミカエルは口にしなくてもいいことを言葉にした。
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