お兄様がいなくなった。
赤い羽を背中に生やして、アポロや皆や、私にさえも刃を向けて――堕天翅たちの元へと飛び去って行った。
私を――たった一人の兄妹である、私を置いて。
「……何、よ」
部屋のベッドの上で膝を抱えて布団をかぶって――まるで漫画みたいな落ち込み方だ、そう自嘲する余裕はなかった――いたところにやってきた、無礼な闖入者。
そいつは私の視線に一瞬だけ怯んだあと、憮然とした表情で握った右手を突き出してきた。
不審そうに目をやると手のひらが開かれる。そこには、こいつには一生縁のなさそうな代物が乗っていた。
パッケージされたカプセル状の薬がいくつか。
何なのこれはと顔を上げると、
「ソフィアが飲んでおけって」
「……ありがと」
ソフィア先生からじゃ受け取らないわけにいかない。多分栄養剤とか、そういうやつだろう。
ショックのあまりパニックを起こした私は鎮静剤か何かを打たれて、今日の午後の記憶が曖昧だった。
気が付いたときにはこの部屋で寝かされていた。医務室はもっと重症の怪我人で一杯だったから――というのは、もっと後で知ったことだったけど。
当然ながら食欲も、物を食べようというその気力すらもなかった。
でも堕天翅たちは明日にでもまた攻撃をしてくるかもしれない。……お兄様も、一緒に。
だから、それに備えて、最低限の栄養は摂取しておけと、そういうことなのだろう。わかってる。私だってエレメント候補生の、それも一軍に所属してるんだから――そんなことぐらい。
受け取った薬を握り締めたまま、感知した視線に顔を上げる。
そういえばこの部屋に入れたのは初めてだった――そいつは、私をじっと見つめて動かなかった。
部屋の灯りは消したままなので、窓からの月明かりでしか判別できないその顔は、怒っているようで、けれど泣きそうにも見えた。薄暗いから見間違えたのかもしれない。きっとそうだ、半ば強引に結論付ける。
けれど突き刺さる視線だけは痛いほどに感じられて、私はそれから逃げるように、ふんと顔を背けた。
「……飲むわよ、ちゃんと」
ベッドサイドの水差しとコップを手に取った。ぷちぷちとカプセルの包装を解いて、まとめて口に放って、コップ一杯分の水と共に一気に飲み込む。
ずだん! 空のコップをサイドテーブルに叩きつけて、これでいいでしょと睨みをきかせて振り返った。
案の定、あいつは変な顔でこちらを見ていた。
ふん、呆れるなり何なりすればいいわ。私だって呆れてるもの。
お兄様があんなことになって、パニックになって、何もできなかった。私があのとき動けてたら、お兄様は堕天翅たちの元に行かずに済んだかもしれないのに。
情けなさすぎて涙が出そう。
今こうして私にできることが、ただ悔しくて泣くことだけ――その事実が、とにかく私を打ちのめしていた。
何もできない私。
置いていかれる私。
『私には、何もできないの……?』
何度か夢に見た、セリアンの言葉が脳裏に響く。
一万二千年も経ってもなお、私は何も出来ないまま、同じ事を繰り返しているのだろうか。
気が付くと私は俯いて、涙が滲まないように唇を噛み締めるので精一杯だった。
(こいつの前でなんか、泣き言は言わないっ……)
用事はもう済んだはずなのに、まだ出て行かない。早く出て行ってよと叫びたかったが、今口を開いたらそのまま泣き喚いてしまいそうだった。
「……っ」
苦肉の策で、私はそのままベッドにあがると頭から布団をかぶった。
あいつから見えなくなったことで少しほっとして、目元にじわりと熱いものが滲む。慌ててそれを擦りながら、震える喉をすーはーと深呼吸することで抑え込んで、告げる。
「私、もう寝るから」
「そっか」
「おやすみ」
「おう」
短いやりとりが終わって、細く静かに息を吐き出す。
あと少し。あと少ししたらあのバカが出て行って私は一人になるから――そしたら、ちょっとだけ泣こう。
悔しいけどでも、自分が何もできなかったのは事実だ。
それは認める。
過ちを認めなければ――先へは進めない。
何より自分は、誇り高きアリシアの血を引く者だ。
人前で泣き喚くなどと、そんな醜態を晒すわけにはいかない。ただでさえ昼間、皆の前で大いに取り乱してしまったのだから。
(……って、何で出て行かないのよ!)
布団の中へ閉じこもってからこっち、ドアが開かれた音もなければ、奴がそこから動いた気配すらもなかった。
だからきっとまだ、あのデリカシーの欠片もない男は、そこに突っ立っているに違いない。
(何なのよ……何だってのよ。どうして私を一人にしておいてくれな――)
思いかけて、その考えをぶつんと遮断した。
自分が一人にされるのは、周りに居る大切な存在から置いていかれるからだ。
でも今は少なくとも、一人ではない。
(……そんな、ありえないわよ。こいつに「気遣い」とか「やさしさ」なんて文字は存在したりしないんだから)
必死で自分に言い聞かせる。
期待はしてはいけないと。叶うはずのない希望に手を伸ばしてはならないと。
その結果――やはり自分は置いていかれて一人きりなのだと、より思い知ることになるだけなのだから。
「シルヴィア」
名前を呼ばれる。いつもの声。いつもの調子で。
けだるそうな、けれど芯の通った声色を、自分は決して嫌いではなかった。
「……何、アポロ」
こちらも名前を呼んでみる。
アポロ。太陽の翼アポロニアスの生まれ変わり――かもしれない、存在。
お兄様こそがアポロニアスなのだと信じて疑わなかった私の前に現れた、不埒な存在。
最初は認められるわけがなかった。野蛮でガサツで人の気持ちなんかひとっつも考えない、最低な奴。
(……でも、ホントは)
少しだけ、優しくて、いい奴――かも、しれない。
アリシアの呪われた血を見てもなお、仲間だと言ってくれた。
落ち込んでいた私をらしくないとからかってくれた。あのとき、自分の方がもっともっと落ち込んでたくせに。
「平気か」
「何が」
「その、いろいろだよ」
何よ色々って。そう言い返してやりたかったけど、声が出なかった。
喉が詰まる。瞼の奥がじわりと熱い。息苦しい。
「……シルヴィア?」
「なによっ」
反射的に何でもないと主張したら――しまったと思うが遅かった――思いっきり声が震えてしまっていた。
もう普通に泣きそうなのがバレバレだった。
……ううん、まだ泣いてない。涙はまだこぼれてないもの。滲んで視界がぼやけてはいるけど。
「泣いてんのか」
「ちがう、わよっ……!」
ただ事実を指摘されただけで、ぐっときた。隠そうとしていた傷口をべろりとめくられた心地。
――やっぱり気付かれてた急いで誤魔化さなくちゃ。
――気付かれたならもう強がらないで潔く負けを認めてしまってもいいんじゃ。
そんな二つの気持ちが、僅かな間せめぎ合う。そして、その勝敗はあっさりついた。
だってあのバカ、私がかぶってた布団を当たり前のように、べろりとめくってきたんだもの。
「なぁっ……?!」
「やっぱ泣いてんじゃん」
何でわざわざそういうこと言うのよあんたなんかに言われなくたってわかってるわよ泣いてるのは私本人なんだから!
そう、威勢良く叫べたのは心の中でだけ。
実際に口から出せたのは、ひくつくような呼吸と、もうどうにも抑え切れなくなった嗚咽のひとかたまり。
私は慌てて両手で顔を覆った。
もう既にこぼれ出してしまった涙を止める気にはなれなかった。
でも、泣き顔だけは見せてやるもんか。
誇り高きアリシアの血に、そんな失態は許されない――耳の奥で、お兄様の声がわんわんと反響する。
そうだ失態だ。
こいつなんかに、めそめそ泣いていることを指摘され、あまつさえその様を見られるなんて!
それだけは最後の意地で守り抜いてやると、どうにか残っていたぼろ屑みたいなプライドに、私は必死になって取り縋った。
「おい、シルヴィア」
「っるさいっ……! 出てってよバカ!」
「誰がバカだ! お前なあっ――」
ぶん、と何かが振り上げられる気配。何よ殴るの? 殴ればいいじゃない。むしろそうされた方がスッキリするかもね、私が。
しゃくりあげる合間にぐっと身を硬くする。
痛みに対して人間はとても脆弱な生き物だから、自分を守ろうとする。辛いものから逃げようとする。
お兄様がいなくなった現実から目を背けようとしている私も――人間だって、言っていいんだろうか。
痛みという次元はとうの昔に捨て置いてきたような、人ならざる者――あの堕天翅の血を引く私でも。
どすん。
予想外の音と振動が私を揺さぶった。何、どすんって。
「……?」
恐る恐る、一時的に止まりかけた涙を隠しながら、少しだけ顔を上げ指の間から様子を窺う。
最初に目に飛び込んできたのは、赤毛だった。
びっくりして反射的に体を引いた。それで背中が見えた。未だこちらを向かぬまま、ベッドのふちに座り込んでいる、アポロの。
「な……っなに、してんのよ、あんた」
「座ってんだよ」
「見ればわかるわよそんなこと!」
わけのわからない感情――怒りが一番近いんだろうけど、他にも色々まぜこぜな感じ――を持て余し、拳を強く握ることで抑え込みながら、涙声で叫ぶ。
するとアポロが肩越しにこちらを振り返った。目が合う。見られた。
泣きはらしてものすごいことになってるであろう顔を。
かなりどうしようもなくうろたえている様を。
「ソフィアに言われた」
「は?」
「大切な存在がいなくなったとき、人はどうしてもらいたいか……俺なら、わかるだろうって」
言うと、アポロはすっと視線を逸らした。
――見られたくないんだ。
そう思った。
私と同じで――辛くて苦しんでるときの、その表情を。
「……だから、そこに居るっていうの?」
「わかんねえ」
答えて、アポロは背中を向けた。座り込んだときと同じに、私を見ないようにして。
「わかんねえけど、……このままお前をほっとくのは、違う気がした」
だから居てみてる。そう言って、アポロは黙ってしまった。
何だかこっちがわからない。逆にどこか気が抜けてしまって、気付けば涙はすっかり止まっていた。
「なによ、それ……」
わけのわからないまま――急に笑いがこみあげてきた。場違いだと思いながらも、私はそれを止めようとは思わなかった。感情のタガが外れてしまった感じがする。
「って、何で笑ってんだよお前。さっきまで泣いてたのに」
「知らないわよ、アポロがわけわかんないこと、するからで、しょっ……」
こちらを振り向いた、呆れたような表情のアポロ。
それ見た途端、私の中で何かがゆるゆるとほどけていく。全身の弛緩にも似た奇妙な心地。なんだろうこれ。なんて言うんだっけ、この感覚。
「おい、シルヴィア……?」
知らぬうちに、私の体はずりずりと前進していた。シーツの上を腕の力だけで、這うように――アポロへと近づいていく。
訝しむアポロをかわすようにして、私は半ば強引に、そのさほど広くない背中へごつんと額をぶつけた。
「えっ、なんなんだよ、おい」
「いいから!」
抗議を遮るように強く叫ぶ。喉が痛みを訴えてきて、私はその息苦しさに空気を吸い込んだ。ひゅっ、と奇妙な音がする。
「ちょっとだけ、だから……」
今度はちゃんと実体のあるそれに縋りついてしゃくりあげながら、私はようやく理解した。
この気持ちは――安堵というものなんだと。
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