+深い海 記憶の果て+
かつかつかつ
目を開けると、真っ暗だった。
どうやら自分は寝ていたようで、手を動かすとひやりとした床の感触が這ってきた。
ゆっくりと起き上がる。
軽い眩暈がして、なにかお香のようなもののにおいがすることに気が付いた。
あまり、好きではないにおい。
うっすらと香るそれは、少なからず自分に不快感をもたらした。
と――その香りが、お香ではないことに気が付いた。
お香よりも強いにおい。
鼻腔をつんと突いてくる。
かつかつかつ
耳をそばだてる。何かが動いている音が、かすかに聞こえた。
なんだ?
かつかつ、
かつん
それきり、音はぱったりと聞こえなくなった。
代わりに聞こえるのはすすり泣きのようなもの。
こんな暗闇の中で聞く泣き声はあまりにも恐怖だ。
『…誰だ?』
呟きは暗闇に吸い込まれ、すぐに消えてしまう。
と、自分が心細さを感じていることに気付いた。
仕方ないだろう、ここはこんなにも真っ暗で自分以外だれもいないんだから。
言い訳だ、只の。
『誰?』
聞こえた声に、心臓がどくんと脈打った。
『誰だ、そこにいるのは?』
『…お前こそ、誰だ』
自分以外にも誰かがいることに安心したのか、それまで喉に張り付いていた舌が妙に軽快にまわり始める。
『俺は、自分が誰かなんて知らない』
的を得ていないその言葉に、一瞬疑問符が浮かぶ。
それが姿の見えない相手からの言葉だと気付き、ひゅっと喉が音を立てた。
『俺は、ただ、これの使い方が知りたいだけだ』
『だからお前に聞こうとしただけだ』
『名前を聞かれる筋合いなんて、俺にはないんだ』
自分の答えなんて待っていないんじゃないかと思わすその喋りに、
思わず、勝手に話す自動の安っぽい人形を思い出した。
確かあれは、電池がなくなれば二度と話すことはないはずだ。
いや、そんなことはどうだっていい。
こいつはだれだ?
自分と同じ、人間なのか?
不意に浮かんだ疑問を打ち消そうとして頭を振る。
自分はどうかしているんだ。
きっとそうだ、ここで寝ていたのは頭を打ったせいなんだ。
そうだ、きっと、いや、絶対にそうだ。
『これはどう使うんだ』
さっきよりも近くなったその声に肩がびくりと震える。
おそるおそる顔を上げると、声の主の顔を間近で見ることができた。
なんてきれい――
なんてきれいな人形だ、と思った。
雪を思わす、陰影を浮かべる真っ白な肌。
感情の色なんてまるで見えない真っ黒な瞳。
瞳と同じ真っ黒な、きっと触れたら流れ落ちてしまうのだろう、美しい髪。
そして恐らく、弧を描くことなど一生ないのだろう、形のいい唇。
その少年の全てのパーツが、彼とかちりと噛み合っているように思えた。
こんなきれいなジグソーパズルがあればすぐに買ってしまうだろう。
きっと値段は自分などには手も届かないぐらい法外なものだろうけれど。
『これは、どう使うんだ』
りんと響く声音に意識が呼び戻される。
そうだ、これは夢じゃない。
現実に横たわる、眩暈がしそうなくらいに美しいビジョン。
別に夢でもいいのに、充分なのにと思う。
『これ、は…』
見つめる先には、美しい絵が描かれた大きめの画用紙。
それと、種類の少ないクレヨン。
『これの使い方がいまいち分からない』
そう言って指差すのは色鮮やかなクレヨンの箱。
使い方が分からない?
何を馬鹿なことを――こんなにも美しい絵を描いているというのに。
そう口に出そうとしてやめる。
『…分からないのか』
呟いた相手―目の前の少年(恐らく10歳前後だろう)が、悲しそうな顔をしていた。
その表情を見て、しまったと思い小さく舌打ちする。
この少年は自分を頼りにしていたのだ。
きっとこの暗闇の中には彼以外にだれも住んでいないのだろう。
そこに現れた自分を、彼が頼りにしないはずがないのだ。
可哀相なことをした、と、もう一度舌打ちする。
『…さっき、泣いていたのは君?』
沈黙が重苦しく感じられて、ふと思いついた言葉を適当に口に乗せる。
が、少年は俯いたまま黙りこくり、なにも言わない。
仕方なく、そこらじゅうに転がっているクレヨンを拾い集めることにした。
赤、青、緑。
ひとつひとつ拾い上げながら、ちらと画用紙に視線を送る。
少年の才能に、思わず溜め息が漏れる。
自分とは全く違う人生を送っているな―と思い、
ここにはそんなものはなさそうだ、と思い思わず自嘲気味な笑みを浮かべてしまった。
くっくっと、低い笑い声が暗闇に響く。
『それ、お父様がくれたんだ』
声がして、顔を上げる。
少年の顔がすぐ近くで見えて、心臓に悪い美しさだなどと馬鹿げたことを思う。
『お父様は俺にたくさんのことを教えた。』
ピアノ、バイオリン、楽器だけでなく勉強も運動も、
幼い子供には必要のないことを。
『俺は、世界を知った。』
自然入ってくる様々な情報。いいことも、悪いことも、たくさんたくさん知った。
『俺は、それでもなにも感じない。』
吐き捨てるように、けれど声は美しく。
その、なにも感じることのない心を開くことは決してない。
広がる闇は果てしなく、むしろ、果てなどあるのだろうか。
寂しそうな悲しそうな少年の瞳に浮かぶのは一滴の涙。
なにか言わなければと思ったが、声が喉につかえて上手く言葉にならない。
代わりに漏れるのは嗚咽。
『充、なぜ泣くんだ』
何か言わなければ
何か言わなければ。
が、肩が小刻みに震えるだけで言葉にならない。
そばにあった白紙の画用紙に、涙の痕がてんてんと残った。
『ボス…ボス』
名前を呼ぶ。愛しむように、ゆっくり、ゆっくり。
それから腕を伸ばして、小さな体を抱きしめた。
感じる体温は、異様なまでに低かった。
『ボス…』
力を込めて強く抱きしめる。それだけで折れてしまいそうなくらい細い身体。
やり場のない感情。
怒り、悲しみ、苛立ち、そして彼への、愛しいと思う気持ち。
全てが絡み合い、複雑な螺旋階段を描く。
出口も、入り口さえも見つからない。
そんなところにいたの
早く出ておいで
腕を引いてあげる
歩く力も無いのなら背中におぶってあげる
だから
『ボス、行こう』
『充…?』
螺旋階段は入ったらオシマイなんだ
出口なんてきっと、無い。
桐山の腕をぐいと引く。
ぐらついたのだろう、床に響くのは靴の擦れるかつんという音。
ふと、目を遠くに向ける。
かつかつかつ
また聞こえる音。
あれは入り口だ。そして出口でもある。
記憶という名の美しい海に溺れるは愛しい君
果てのない海はこわい
きっと沈んでしまうだろう君にはしがみつく力がないから。
流されるなら、それもまたいいんじゃないか。
君はそんなふうに呟いて波の向こうに消えるでしょう。
小さな少年は絵を描きつづける
了