World which remains

オリジナリティの残響

 人形のイメージがあったせい、だろうか。目を閉じている女が口を開くさまを、どうしても現実として考えられないのだ。静かな部屋にはデッサン用の炭がキャンバスをすべる音だけ響いている。さらさら。枯れ木をなでるように、さらさら、さらさら。
 浮竹さんの絵は乾いている。悪い意味ではない。無味乾燥、ではなくて、たとえば暖炉のまわりのあたたかさだとか、日に干した布団のにおいとか、そういう乾いた清潔さがあるのだ。
 …あのひとの絵は。
 それは、初めて抱いた疑問だった。
 鮮やか過ぎるほどの筆致と色彩で描かれた花、夕暮れの街で音を飲み込んでしまう空白と線。多様すぎるところはあるにせよ、それでも、ああ志波海燕の作品だと確信するための材料はあったはずだ。それの正体は何だったのだろう?
「少し、休憩にしようか」
 急速に意識が現実に引き戻る。
 はっとすると同時に浮竹が苦笑した。
「疲れているなら素直に言えよ。急ぐつもりは無いんだから」
「…すいません」
「いや、責めてるんじゃなくてだな…ああ、ちゃんは?同じ姿勢で疲れただろう」
 女は少し困ったような笑顔を浮かべて、いいえ、と首を振った。
「大丈夫です。私は寝ているだけですし…それより檜佐木さんのほうが、背中、痛くなりませんか」
 机の上に女が仰向けになって、俺はそれを覗き込むように座っている。
「慣れてますから」
 なるべく無愛想にならないように言ったつもりだったが、短すぎて会話はそれきり途絶えてしまった。壁掛けの時計を覗き込んで、浮竹さんが取り直すように言う。
「ううん、お茶の時間にはすこし遅れたが…。コーヒーと紅茶と緑茶、どれがいい?」
「俺いれますよ」
「いやいや。この間、茶を出そうとしたら、どこに茶碗があるかわからなくてなあ。たまには自分でやっておかないと、どんどん忘れちまう」
 キリマンジャロって紅茶だよなと不安なことを口走りながら準備室に入って行く後姿を、溜息と共に見送って、俺は何度目かの沈黙をどうしようかともてあます。
 志波さんが結婚しているという話は聞いたことがあったし、例の写真のモデルが相手なのだということも本人から聞いた。それ以上の情報がないのは、単に、あのひとが仕事に家庭をもちこまないタイプだったからなのだろう。
 それがどうして今更…。
「檜佐木さんは、絵のモデルが専門なんですか?」
 黒い目がこちらを見ていた。
「これだけじゃ食っていけないんで。サービス業と兼業です」
 職種だけの曖昧な返答をどうとるかと思ったが、意外にもあっさりと「そうなんですか」と頷かれた。食い下がるという雰囲気でもなく納得したような気配に、言ったこっちがどうしていいかわからなくなった。
「お忙しいでしょう」
「どっちも不定期ですから。ええと…志波、さん?」
 女は苦笑ともつかない顔をした。
「混同するでしょう。志波はもう戸籍だけの名前ですから、で構いませんよ」
「じゃあさん。疲れませんか、寝てるだけって言っても動けないのはきついでしょう」
 そうですねえ、と首を傾げて、
「ただ『いる』だけでいいからって言われましたけれど、難しいですね、観察されるって」
「観察?」
「あ…ごめんなさい」
「謝るとこでもないと思いますけど…観察って?」
「海燕が…言ってたんです。観察して理解した結果を直感で吐き出すのが絵だ、って」
 ああそうか。
「え、檜佐木さん?」
 いきなり笑い出した俺の扱いに困ったのだろう、さんが瞬く。
「なんでもないです。なんか、意外な正解があったなって、それだけ」
 絵のオリジナリティ。
 理解した結果としてそれは在り、直感は自分の意思だ。何のことはない、存在自体がオリジナリティの照明じゃないか。共通要素は観察と結果、結ぶイコールとして志波海燕がいたということ。
 浮竹さんの絵が乾いているのは、浮竹さんの中で理解される世界がそういうものであるからだ。ふと、志波さんが自分の妻をどう観察してたのだろうかと、興味がわいた。
 あの写真を撮ったのが志波さん本人なら、「それ以上」のために同じ被写体を描こうとしても不思議ではない。まして相手は日々生活を共にするような相手だ。一番モデルにしやすい、はず。
 切り出し方に少し迷って、なるべく重くならないように、言ってみる。
「志波さんの絵、全部残ってるんですか」
「全部…とは言い切れませんが、私が知っているものと、知らないものが少し。…もし檜佐木さんがよろしければ、何点か、お返しさせていただいませんか」
「は?お返しって、俺、別に何も」
 予想をはずれた会話の軌道に、動揺して思わず口調が素に戻った。さんはあまり気に留めた様子もなく、苦笑するように首を傾げた。
「ごめんなさい。ご迷惑でした?」
さんが相続したんじゃないですか?」
「でも、私が持っていても仕方ありません。住んでいるところには入りきらないし、使わないアトリエを物置にしておくのもちょっと、もったいないでしょう」
「いや、…失礼な言い方ですけど、志波さんの絵は売れますよ。管理しきれないから処分するってつもりなら、俺なんかによこすより、浮竹さんに口利いてもらったほうが…」
「全部、名義だけの話です」
 突然、さんはきっぱりと言い切った。
「法的には遺産として相続しましたが、あれは、わたしのものにはできません」
「できないって、」
「最後には売り払うというのも手段かもしれませんけれど、モデルになった方がいらっしゃるなら、できるだけその方にお任せしたいんです。…私には…生々しすぎるから…」
 ためらいがちに、一番最後に付け加えられた部分が、おそらく本音なのだろう。
 同情だけで頷きかけて、すんでのところで踏みとどまる。
 俺だって他人のことをどうこう言えた立場じゃない。ただ    それがあるからさんも「売却は最後の手段」にしたのだろうが    自分の形を、まったく知らない他人の視線がなぞるのかと思うと、奇妙に背が震えた。今更なことだったが、しかし、これまでは志波さんの存在が現実から適当に目を逸らさせてくれていたのだ。
「すいません、ちょっと、部屋のほうがゴタゴタしてるんで。…二週間、待ってもらえませんか」
 期限を切ったのに意味はなかったけれど、さんはほっとしたように頷いた。
 たくさんの絵と同居し続けるのは辛いだろう。
 まるで脳から断片的に取り出したように世界が並べ立てられて、それを見ていた人の気配が可視化される。志波さんはもう、いないのに。
 
 その目線でみた世界だけが絶対的に残っている。

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