一時の恐慌が去ってしまえば、残されたのはおそろしいほどの虚無感と、現実に対するいくつかの後悔だった。
 失ったもののことを考えるたびに、肋骨の下、まだ動き続ける心臓が軋む気がする。
 戦場。
 自分の前に飛び出してきた兵士が誰だったのか、とっさにわからなかった。それよりも敵の剣を少しでも遠ざけようとするのに必死だった。臓器を押さえながら歩くなんて経験は二度としたくないが、生き延びたのは彼女のおかげだ。予想外の対象物にひっかかり、届くのがコンマ数秒送れた凶器。
 余計なことをと思ったのは目が覚めた後のことで、それを口にするより早く、幼馴染に殴られた。
「コンラート。これがただの身勝手で、おまえには殴られる理由が無いことも知ってる」
 静かな口調でそれだけ言ってヨザックは強引に笑った。
 唇だけそうしてゆがめると、冷酷な部分ばかりが強調される。本気で怒った時ほど彼はよく笑う。
「ま、八つ当たりですよ。悪かったですね隊長、あんまり腐った面してるから、思わず手が出ちまった」
 なにか言い返そうとしてコンラートは口をつぐむ。
 どんな言葉を口にしたところで到底かなうとは思えない。案じる言葉は、思うものが口にしてこそ力を持つ。そしてその激烈さには誰もかないはしないのだ。かつての自分がそうだったからよくわかる。スザナ・ジュリアを盾にして誰かが安全を得たのなら、それで彼女が死ぬようなことは無かったにせよひどい傷を得たのなら、自分もこんなふうに激しただろう。
 いまでは逃げ場を失って消えるだけの炎を、からだの奥にごくわずか、思い出す。
「ヨザ」
「ん?」
「…殴って気が済むうちはいいが、届かなくなってからじゃ遅いんだ」
 幼馴染は一瞬あわれむようなまなざしをむけて肩をすくめた。
 肋骨の下が、また軋んだ。
 
 
 
 欠けたところの無い魂をながめながらコンラートはぼんやりと考える。容れ物の中に浮かぶ完全な球体はひどく静謐でうつくしい。過不足の無いこの状態を少しでも変えてしまうのなら、この世に溢れるあらゆる記憶は、結局のところ邪魔でしかないのだろう。
 忘れてしまえば傷は癒える。持ち続ける理由を無くせば、いつか。
 この痛みもやがて俺はなくしてしまうのだろうか。
 

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