たとえば遠くであなたが死んでもわたしにはそれがわかるの。
 芝居がかって彼女がいつか口にした、ありえないと知っていた言葉。
 
 
「明けても暮れても任務…あーあ、今年は二ヶ月くらい国にいられればいいのに」
 
 背後の、自称眞魔国随一の敏腕諜報員に向かって、別名花形諜報員は不満げに呟く。首を振る拍子に髪がほどけて、流れ落ちるそれをヨザックは手指の間にもてあそんだ。
 が何か言うより早く肩越しに抱くと、無防備に引き寄せられた背中が、胸のあたりにやわらかな熱を伝える。この温度。丸みのあるかたち。やすらぎという言葉を実体化してみたらこんなふうかもしれない。最近はずいぶん詩人になったもんだと笑ってみる。
 
「なに」
「なーんでも」
「…なくないでしょ」
「あらら、いつのまに聡くなっちゃったのかしらねェこの子は」
「からかわないで」
「なんて今更なこと仰るんでしょ」
 
 くっくっと喉を鳴らしたら、は器用に腕を抜け出して、軽く睨んだ。
 なだめるようにもう一度髪をすくと、無意識にかわずかに目を細める。猫みたいだ、と腹の底で呟く。そういえば随分前に「ウサギみたい」との一言を頂戴したが、あの評価だけはどうしても納得がいかない。どこがウサギだ。たぶん自分が感じたことも、口にすればそんなふうに思われるんだろう。だから言わない。
 
「帰ってこれるだけありがたいじゃねえの」
 
 かわりに唇にのせる台詞は自身の耳にそらぞらしく聞こえた。
 嘘は、言っていない。
 これも、本心だ。
 訳もなく動揺したのを知ってか否か、が薄く笑った。
 
「でも例えば遠くであなたが死んでも、わたしにはわかるの」
「そりゃあまた」
 
 視線をかわして、はっきり笑う。
 そんなことができるなら、今までいったい何人を看取れただろう。
   
 
 
 
 たとえば遠くであなたが死んでもわたしにはそれがわかるの。
 芝居がかって彼女が口にした、ありえないと知っている言葉。
 だから彼はこの瞬間に、せめて近くで死のうと決める。
 自分の消滅を知らなかったと彼女が悲しまないように。
 
 
 
 
                      ごめんな、
 
 
 
 
 いつかのようにシャワーを浴びる。めをあけたまま。肌をさらしたまま。なにもかも開け放ったままで。あのとき扉一枚隔ててそばにいた人の溜息。どれだけ望んでも今ここにないもの。不在の意味を肌で知ろうとする。まだ与えられた意味を噛み砕けない。
 生温い水で肌の表面だけが冷えていく。
 
 Repeat。
 
 可能な限り遠い国の言葉で呟いてみる。見たこともない異世界。それでもそこに行った人も、やってきた人も確かに存在するのだから、少なくとも天国よりは近い。どこの言葉で何を口にしたら届くだろう。もう遅い。そんなことはわかりきっているから、あえて目をそむける。
 擦り切れるくらい考えても出口が無いのは、もうそれが終わってしまった過去だからだ。
 新しいスタートを切れなくなってはじめて後悔している。チャンスがあるうちは振り返ることさえ禁じていたのに、どうしてこんなにかなしいのだろう。
 彼がこの体のどこを好きになったのかはわからない。そういえば聞きもしなかったし、彼は問われなければ言いもしない。胸の上にてのひらをおく。かつて触れた手の熱を思い出そうとする。
 ひとの体は放っておいても勝手に代謝を繰り替えして新しくなっていく。
 彼が触れた肌はもうきっと流れた。
 ならば、どうして、この記憶はあの日々は、流れてしまわないのだろう。
 水よりいくらか熱を帯びた雫がいくつも頬を滑ってシャワーを止めることができない。
 
 
 
 たとえば遠くであなたが死んでもわたしにはそれがわかるの。
 芝居がかっていつか口にした、ありえないと知っていた言葉。
 明日が誰にでもあるとどこかで高をくくっていた、甘い甘い言葉、過去。
 虫の知らせなんてものは案の定わからなかった。
  
 
 
 拭ってくれる手が無いから、ほんとうはもう目覚めたくなんてないのに。  
 

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