「、…おい、」 「聞こえてる」 仰向けになって両手を広げたまま、はぼそりと答えた。古い梯子がぎしぎし音を立てて、ヨザックの声が近くなった。避けるもののない屋根の上で冬の風はひどくつめたい。 「まァたお腹出して寝てこの子は」 「ん?」 呆れたような声に彼女は視線だけをさげる。 もちろん厳重に毛布を重ねて、露出しているのはせいぜい手足と首から上ぐらいのものだが。 「なんで大人しく部屋で寝てらんないのかねェこのお嬢ちゃんは。こんなクソ寒い夜だってのに」 「いいよ、あんたは戻ってて」 ひらひらと手を振ってみせると、隠しもしない溜息のあとで、ヨザックが屋根にあがってくる気配がした。ひたひたと、重みを持ったものが歩く音はするけれど、普段のような靴の硬さとはまったく異なるものだ。首をめぐらせると、靴を片手に持っていた。 「寒いんじゃなかったの?」 「寒い夜は、ほら、大人のたしなみってやつを」 笑ってヨザックが背のうから取り出したのは酒瓶だった。続いて出てくるコップ、あたたかい水筒、また別の酒。どうみても2人分には多すぎる量に思わずも笑い出した。 「呆れた!何だそれ、誰に振られたの?ああ違う、何人に逃げられたの?」 「んー逃げられてよかったかもなー。酔うと死ぬほど寒い冗談ボロボロ言うしィー」 「なるほど」 軽口に該当者の顔を思い浮かべ彼女は苦笑とも呆れともつかない声を出す。 「入りなよ。あんたが風邪引いて仕事おしつけられちゃたまんない」 渡された毛布の一枚を肩に掛けながらヨザックが肩をすくめた。 「ほーそりゃ言うねェ、この国随一の敏腕諜報員にむかって」 「おかげでいろいろ経験させていただきましたから、先輩」 渡されたコップに酒と湯を適当に注いで口をつけると、予想よりだいぶ強かったそれにはむせた。 「ちょッこれ…何持ってきたの!?物凄くきついんだけど!」 「ラムのとっておき。77.5度。どうせ割るなら薄くないのがいいでしょん」 持参した本人はそ知らぬ顔でコップをあおった。さりげなく別の瓶を押してよこす。 「無理ならこっちにしとけよ。そんな強くねー林檎酒だから」 「お言葉に甘えます」 既に肌の下から立上るような熱の気配に息を吐いてはまた空を見上げる。 ほんの少し動いたかもしれない。 どのみち広すぎて把握できない、まるで無秩序に投げ散らしたような光の点。 隣でヨザックがみじろぐ気配がする。 「豪勢だな」 「何が」 「任務中じゃこうはいかねえなと思って。贅沢だろ?わざわざ野営の真似みてーなことまでしてさ、星を見ながら呑んで、酔ったら寝る場所も時間もある。寝首かかれる心配もしなくていい」 「ああ…そうだね」 ヨザックにしろにしろ、度数の高い酒はほぼ常に携帯しているといっていい。寒い地方なら凍えないため、暑い地方では消毒と緊急時の水分補給、あるいは何かの燃料にもなる。どれも平穏には程遠い状況での使用方法だ。しばらく前のように戦時下にあったころ、あるいは今でも単独で潜入工作の任につくとき、この液体は薬のように貴重だ。こんなふうにただ何となく口にしていられるというのは、とても、贅沢なことだった。 瞬くと、眼窩の奥がぼんやりと熱い。 天頂星に手をかざしては目を細める。 「ヨザックさ、北の方に行ったことある?」 「どんくらい」 「シマロンの…最北端のあたり。とにかく寒くて、うっかり金属製のものなんて身につけた日には凍傷で皮膚がボロボロっていうところ。こう、風が吹くじゃない?そうすると雪が飛ぶの、吹雪なんてもんじゃなくてね」 そこで言葉を切って彼女はまたコップに口をつける。 「寒すぎて再結氷することがないせいかな。本当に粉をひっくりかえしたみたいで、目の前にいた人が見えないんだ。白い闇になる。暗くはないんだよ。むしろ明るい。迷わないようにって一緒に歩く人と縄で体を繋ぐんだけど、一度、それがちぎれてしまったことがあって」 「…向こうさんは?」 「下りたって話は聞かなかった。生きていればいいけれど…もしあそこで死んだら誰も見つけられないんだろうなって思ったんだ。埋もれなくたってすぐ見失うくらいだ。誰も引き上げてはくれないだろう。そうなったらずっと闇の中だ」 白い、むしろそれはまばゆい。 一点の影もないから光と闇の区別がない。 何も見えなかった。何も聞こえなかった。不思議と寒くはなかった。立っているのか座っているのかわからなかった。彼岸と此岸の境を生きながら見ることが叶うならそれはきっとあの場所に似ているだろう。 「どういう偶然だったのかわからないけど、気がついたら雪の上にいた。星があんまり眩しいから驚いてしばらく立ち上がれなかった」 それから正しい暗闇を思い出してようやく涙が出た。おそろしいと思った。誰かがいなくなったことよりも、あの桁外れの静謐がおそろしくて仕方なかった。一晩かけて山道を探し、さらに半日で下山したが、その間白い闇を見ることはなかった。二度目があったらたぶん今度こそ雪の中に眠っていただろう。 あんな目に遭うのはもうごめんだけどと言い置いてはヨザックを振り仰ぐ。 「その時の星を見せたいって時々思う。今もすこし」 微笑んではいたが彼女はとても切実な目をしていた。 ヨザックは奇妙な様子で笑って、無理だろ、と呟く。 「同じ目に遭わなきゃ見れないだろ。死地なんて、人の数だけあるんだし」 「まぼろしじゃないよ」 「そうだとしてもだ。オレには見えねえよ、絶対に。おまえとオレのみるものはたぶん違ってるから」 まるでやさしい動作でヨザックは立ち上がった。 冷たい風が一瞬だけ毛布の下にすべりこんで、隣にあったはずの体温を消し去った。 「だからこうやって聞くことに意味があるんじゃねぇの」 「なに、もう寝るの?」 「おにーさん風邪ひくほど馬鹿じゃないからー」 酒瓶をひとつだけ残してまとめると、屋根の際でヨザックがかがみこむ。そうして見下ろしていたかと思うと、ひょいとあっけなく飛び降りる。 とうとう姿さえ見えなくなった相手をさがすでもなく、は、またひとりで毛布の前をかきあわせた。 そうだ、見ているものは違う。今この瞬間でさえも。 今度は彼の見たうつくしいものの話が聞きたいと思う。自分が見ることの叶わない景色を、教えてくれればいい。 天頂のまわりを、青白い光は三ミリほど動いたようだった。 |