「失礼致します。先ほどの書類をお持ちいたし…閣下?」
 扉を開いた先には机に伏して目を閉じる姿がある。
 ひとだ。そこで眠っているのは獅子ではなく、剣豪でもなかった。どこにでもいるありふれたひとだった。傾けた首と力の抜けた肩、しずかな横顔。少し疲れたような。
「…失礼、を」
 どうせ聞こえるはずもないのだが、叩き込まれた「軍属としての礼」が反射的に唇を突いて出た。たっぷりとかすれて震えた声に舌打ちをしたい気分では足音を殺して机に向かう。そこで眠る人を起こさないように、細心の注意で紙の束をそっと乗せる。
「ぅん…」
 かすかに、コンラートがみじろいだ。
 引きかけた腕が髪を撫でる。
 偶然だった。
 コンラートがほんのすこしだけ覚醒したことまで含めて、それらはまったくの偶然だ。
「閣下、手を」
 開放を求める声は動揺しすぎてほとんど音にならなかった。
 眠っていてほんとうによかった、とリンは思う。
 こんな馬鹿みたいにうろたえた様子なんて見られたくもない。
 だがしかし、この状況の原因は、コンラートが眠っていることにある。ひらたくいうなら寝ぼけている、という、あまりありがたくない状況だ。手首の少し上をつかむてのひら。おそらく平熱より少し高いのであろう体温に、ヨザックみたい、と体の奥のほうで誰か呟いた。
 無意識に息を呑んで、それから、は忌々しげに眉を寄せる。
 あれからもう十年以上の時間が過ぎた。
 十年前のたった一晩。限りなくあった夜のうちのたった一度。誰も知らないことは関係者が口をつぐめばなかったことになる。ヨザックは何事も無かったように振舞うからあれはもう幻でもかまわないのだろう。
 それでも、まだ?
「起きてください。コンラート閣下。お風邪を召されますよ」
 肩に手をかけ、軽くゆさぶる。
 目覚める間際にコンラートの唇がなにか呟いたような気がするけれど、それはあくまで気のせいだ。
 何も聞こえなかったし、腕を掴む力が痛いほどだったのも偶然だし、動揺する要素は何ひとつ無い。
「…?」
「おはようございます。閣下がそんなに書類仕事を待ち焦がれていたなんて、思いもよらなくて」
 厭味と冗談のちょうど中間地点を装って言うと、コンラートはようやく自分の右手の行方に気付いたらしく、ばつがわるそうに苦笑した。離れる瞬間に冷える。惜しんでいる自分を嫌悪しながらは変わらない態度を貫く。
「ご希望があればもっと持ってきますけれど?」
「いや、遠慮しておくよ。折角有能な人材が目の前にいるってのに、頼らない手はないから」
 さらりと何気なく言って、コンラートは、今度こそ確信犯の笑顔を見せた。
 どこかが疼くように痛んだけれど、素直に外に出すほど彼女も幼くはない。
「褒めても何も出ませんよ」
「そうか?」
「何が出るというんですか。それでは戻らせていただきます」
「ああ、ひきとめて悪かったな。ヨザックによろしく」
 ごく自然な流れで会話に出された名前に、は次に出すべき言葉に詰まる。
「…ええ、会うことがあれば」
 
 
 触れた場所から頭の、体の奥を透かすことはできるのだろうかと、思う。
 馬鹿な空想だと瞬時に打ち消しつつドアを閉めた途端にしゃがみこんで泣きたくなった。
 もしも、そんなふうに暴かれてしまうくらいなら、この体なんて朽ちてしまえばいい。
 

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